2014年12月29日月曜日

官僚に対する民主的統制 4

 財務官僚は黒子に徹し権力を行使する。このエトスは明治以来変わらない。財務省についの内部からの情報発信は殆んどない。
 ときおり匿名条件の対談で本音が語られる程度である。(1996年7月飛鳥新社テリー伊藤著『お笑い大蔵省極秘情報』など)

 その点、元財務官の榊原英資氏の財務省寄りの財務省論は貴重な資料である。
 彼は長年(34年間)の財務省勤務で自ら「親財務省」のバイアスがあると認め財務省論を展開している。
 彼の財務官僚を中心とする公務員論についての骨子はおおよそつぎの4つに分類される。

1 日本の公務員は諸外国と比し少数精鋭である。
2 エリートは必要であり、これなくして国の発展はない。
3 立法・行政・司法の三権のうち実質上テクノクラートである官僚が立法と行政を担っており三権分立は名ばかりとなっている。
4 天下りは必要であり、民の子会社出向と同じく、これなくして人事はまわらない。

順次敷衍しよう

1 日本の公務員は極端に少ないと言う。
 「日本の公務員は人口1000人あたりで先進国最少の42.2人です。アメリカは73.9人、フランスは95.8人ですから、他の先進国のほぼ半分です。しかも、国家公務員の数はさらに少なく、イギリス、フランスの四分の一前後なのです。(中略)
下図はOECD諸国の財政と公務員数の規模を図示したものです。
 日本は財政規模も小さいのですが、公務員数ではOECD諸国中、最も少なくなっています。財政規模が日本より小さい、スイス・韓国・メキシコなども公務員数の規模では日本より大きいのです。」(PHP研究所 榊原英資著『公務員が日本を救う』)


2 榊原氏はエリートである官僚達、特に財務官僚が政治家を補佐し誘導しなければ、日本の政治・行政はおかしくなってしまうという。
 「国家にとってエリートは必要です。そしてエリートであることを隠す必要はありません。常に努力をし、自らの知識と能力を磨き続けることは、エリートの条件です。(中略)
 今の日本はそうしたエリートを必要としています。そしてその条件を備えているグループの最たるものは官僚、特に財務官僚たちでしょう。
 ヨーロッパ、特にフランスでは日本のキャリア官僚にあたる官僚たちは日本以上にエリートとして扱われています。筆者は日本の財務官僚達もフランスのようにエリートとしての誇りを持ち、エリートとしての責任を果たすべきだと思っています。」(新潮新書 榊原英資著『財務省』)

3 一年に成立する法律のうち8~9割は政府提出のもの、つまり各官庁の官僚たちがつくったもの。国会は立法府であり、立法は国会議員に付託されているが実情は官僚に簒奪され、こと立法に関し政治家はロビイストにすぎないという。

 「三権分立とはいうまでもなく、立法・行政・司法がそれぞれ独立しながら、その機能を果たし、全体として国を支えて行くシステムです。しかし、前述したように、立法と行政については事実上、国家公務員たちがその双方を担っているというのが日本の実際のシステムです。(中略)
 それでは、立法府の国会議員は何をしているかということになります。じつは、国会議員の役割は、立法そのものよりも、立法に注文つけることなのです。
 国家公務員たちと違って、彼らは選挙区を持ち、選挙民の意向を踏まえていますし、また、業界団体との結びつきもより強いケースが少なくありません。
 そうしたネットワークを背景に、政務調査会や部会で、役人が中心となって作成する法律にさまざまな注文をつけるのです。」
(朝日新聞出版 榊原英資著『なぜ日本の政治はここまで堕落したのか』)

4 終身雇用、年功序列を原則とする日本の雇用システムのもとでは、天下りや再就職は必要なメカニズムであり、これを根絶することなど不可能であると榊原氏は言う。

 「民間の場合は『天下り』などといって非難されることがないのに、どうして官庁の場合だけ、『天下り根絶』などと批判されるのか私には理解できません。(中略)
 独立行政法人や公益法人には、今でも多くの官僚が再就職しています。
 しかし、例外はあるにせよ、それは民間大企業の再就職と同様で、それなりに意味があり、当該法人にとってもプラスになる場合がほとんどです。
 官庁だけは再就職はだめだといったら、役人は60歳、65歳まで役所に残るしかありません。そんな極端なことをいう政治家もいないではありませんが、それでは組織が機能しなくなることは明白です。
 関連会社への再就職がスムーズにいってこそ、人事がうまく回っていくのです。」(前掲『公務員が日本を救う』)

 そして榊原氏は中小企業を次のように切り捨てている。
 「子会社や関連会社を持たない中小企業から見れば腹立たしいことかも知れませんが、だからこそ大学生は卒業時に大企業や官庁を目指すわけですし、いい大学に入ろうとするわけです。」
(前掲『財務省』)

 官僚出身で、これほど率直に自説を述べる人は少ない。貴重な存在である。早速彼の説について検証しよう。
 

2014年12月22日月曜日

官僚に対する民主的統制 3

 絶大な権力をもつ財務省はなにを目指すのか。
トップエリートの義務として粉骨砕身し国民のために働くのだろうか、日本国の財政を真に憂いこれを再建するために働くのだろうか。
 安倍首相も言ったではないか「財務省は善意で財政再建のための消費税増税を推し進めている」と。
 われわれも安倍首相と同じくそう考えたい。が、過去2回の消費税増税はそのような希望的観測を無惨に打ち砕いた。増税のたびに財政再建はむしろ遠ざかった。
 この期に及んでも財務省の増税による財政再建を信じるとすれば、その人はよほどおめでたい人であろう。
 ”権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する”とイギリスの歴史家ジョン・アクトンは言った。
 歳入権、予算編成権、官僚の人事権を手にした財務省は絶対的に腐敗する。歴史に照らしても明らかだ。
 再び高橋洋一氏が解説する官僚が目指すものとは何かをみてみよう。
 「官僚は、本音を言えば、うまくコントロールできない市場も嫌いだが、民主主義も嫌いだ。もちろん、対外的には『市場原理を生かしつつ』とか言いながら市場原理を決して否定しない。
 また、表で民主主義を否定するようなバカもいない。
 ところが、酒でも入ると、『市場なんかデタラメだ、金利が自由に動くとろくなことがない』などと喚く。また、『民主主義じゃあ、減税ばかりの大衆迎合になってダメだ。とくに国会議員なんかに任せておくと、カネをせびりばかりで財政再建なんて絶対にできない』と、威勢のいい輩も出てくる。」(高橋洋一著祥伝社黄金文庫『官愚の国』)
 市場金利の克服には毎月の発行価格を変化させる。これにより3ヶ月程度は一定の金利に収めることができる。民主主義については、建前上如何ともし難いので、国会議員を手玉にとる。これにより民主主義を克服する。
 資本主義社会の市場を自由に操り、民主主義社会の代議制の議員を手玉にとれば、あとはやりたい放題となる。
 腐敗した権力が目指すものは古今を問わず東西を問わず常に同じ途を辿る。国家のことより自らの利権を最優先する。
 特に税については、財務省の意図はいつも明確だ。
200年の経済学の歴史から、国家の基幹である税は、経済情勢によってデフレ不況期には減税、インフレ好況期には増税と相場が決まっている。こんなことにはおかまいなしに財務省はすきあらば増税を企む。増税により国家全体の税収が減ることが明らかであっても増税を推し進める。
 増税によって財務省が得る利権とは何か。それは例外措置である。典型的なものに消費税増税時の軽減税率適用がある。広く税全般に適用される租税特別措置法も財務省の利権に結びついている。
 軽減税率や租税特別措置法の適用は財務省にとって利権拡大のチャンスである。裁量の余地が大きければ大きいほど利権は拡大する。これら法の適用により当該業界に睨みをきかしたり、天下り先を確保できるからである。
 なぜ財務省の官僚は国家全体の税収が減るにも拘らず増税を目論むのか。財務省内には不文律があると高橋洋一氏は言う。どんな理由であれ増税すれば勝ち”減税すれば”負け”
長期金利を一定のレベルに押さえることができれば”勝ち”、ブレが大きくなれば”負け”である。
この不文律には、国民への配慮などない。
 大蔵一家と言われるように、この不文律は省内の規範である。この規範を破ればその後の出世は覚束ない。このため財務省の官僚は財務省の規範に忠実に行動する。
 このため財務省の考えを改めさせればよいなどという人がいるが、そんな説得が通用する世界ではない。
 腐敗官僚の大先輩である中国の人がそれを聞いたら鼻先で笑うこと受け合いだ。
 財務省について、これを擁護する人もいる。次に財務省寄りの財務省論を検証してみよう。

2014年12月15日月曜日

官僚に対する民主的統制 2

 われわれの財務省についての知識は断片的である。新聞や雑誌で官庁のなかの官庁といわれてもピンとこない。
 財務省に28年間在籍し内情に詳しい高橋洋一氏が解説する財務省の”権力”の源泉とその”権力”が向かって行く”ベクトル”は想像を絶するものがある。戦前の陸軍にも例えられる。
 まず財務省の”権力”の源泉から。
 権力の源泉はおおまかに次の3つに分類される。
1 警察権
 財務省には警察力がある。財務省の外局である国税庁を傘下にもっている。徴税の権力を利用し警察力を発揮することができる。
 「国税庁のほうも脱税を摘発するのが仕事だから、相手が政治家であろうが何であろうが虎視眈々と狙っている。
 たとえば政治家がテレビに出演して、公務員制度改革を批判したとしよう。
 すると誰かの差し金か、即座に国税局(形式上は国税庁の地方支分部局。しかし財務省にとっての地方出先機関のような位置づけ)が『先生、ちょっと調べたいことが・・・・・』とやってくる。
 一種の脅しだ。こんなことは日常茶飯事である。
 もちろん無闇に税務調査などできないから、一応、役所(国税庁、国税局)のほうにも言い分がある。
 それは『脱税を疑わせる情報提供(タレコミ)があったので、調べなければならない決まりなのです。』だ。
 間違っても『先生がテレビに出て批判的発言をしたから』とは言わない。『テレビに出て稼いでいるでしょう』とも言わない。
 役所には必ず”しかるべき言い訳”が用意されている。
 タレコミなり調査のきっかけのことを、国税用語で『端緒』と言う。とはいえ、情報提供者は明らかにされないし、確たる情報提供がなくてもかまわない。検証のしようがないからである。
 そのため『端緒』は税務調査官の心証に大きく左右される。『週刊誌を読んでいたら、この人に脱税の疑いを感じた』でも立派な『端緒』になってしまうのだ。」(高橋洋一著祥伝社黄金文庫『官愚の国』)
 権力が恣意的に使われても政治家を含め国民はそれを防ぐことができない。恣意的な権力行使は法治国家にはあり得べからざることである。

2 予算編成権
 日本の国家予算は政府予算案が国会に上程・決議される仕組みになっている。ところが財務省は政府予算案以前に事実上予算編成権を手にしている。
 「日本の国家予算は事実上、財務省が先に決めていってしまう。財政制度審議会(大蔵省時代にあった5つの審議会を統合したもの)の提出する『建議』を盾に、8月頭ごろには概算要求基準(シーリング)を発表する。
 これがそのまま閣議決定されて、その後は財務省の”手順”どおりに進むのだ。
 通常8月末ごろに各省庁から予算要求額(概算要求)が出されるが、先にシーリングが決まっているのだから、手足を縛られたようなものである。(中略)
 財務省原案が政府予算案として閣議決定される前に『復活折衝』がある。各省庁(概算要求)と財務省(原案)との間で行われる修正交渉だ。交渉内容の難易度・複雑度にしたがって、事務折衝(各省庁の総務課長級と財務省主計局の主査級)、大臣折衝(各省庁の大臣級と主計局長級)、政治折衝(与党幹部と財務大臣)とレベルアップするのが通例となっている。
 財務省原案発表後、およそ5日間かけて展開される。ところが、この復活折衝も、あらかじめ財務省の”手順”に組み込まれているのだ。年末になっていきなり折衝が始まるわけではない。11月の中ごろになると、主計局の官僚は、担当省庁の人間と『握る』(私は9月に握ったこともある)。
 『握る』とは、要するに復活折衝のシナリオを提示して、相手(担当省庁)の合意を引き出すことだ。」(前掲書)
 警察権がムチとすれば予算編成権はアメである。

3 官僚の人事権
 国家公務員全体の人事管理は、人事院とか各省庁の人事部ではなく財務省が押さえていると高橋洋一氏はいう。
 「もちろん、各省庁にはそれぞれ人事セクションがあり、省内の人事を担当する。個々の人事異動は各省庁に一任されている。また、人事院は建前上『国家公務員法に基づき、人事行政に関する公正の確保及び国家公務員の利益の保護等に関する事務をつかさどる中立・第三者機関として、設けられた』(人事院HPより)独立組織だ。
 国家公務員の人事を国家全体の仕組みとして管理するには、3つの部門が必要になる。このことがよく理解されていない。
 先にその3つを書いてしまうと、こうなる。

① 財務省主計局給与共済課(旧大蔵省主計局給与課):給与の額を管理
② 人事院給与局給与第二課:各省の人事を管理
③ 総務省人事・恩給課:全体の国家公務員数を管理

 要するに『お金』(給与)と『人』(人員、定員)を管理しなければ、国家公務員の人事は成り立たないということだ。
 ①、②、③は、機構上は別個の組織である。
 ところが、①の職員が財務官僚であるのは当然のこととして、②にも③にも同じく財務省の官僚が出向し、実務を取り仕切っているという事実を知る人は少ない。
 私が『国家公務員全体の人事管理は財務省が押さえている』とする理由はここにある。」(前掲書)
 官僚の給料と人員配置は、すべて財務省が握っている。
 このため財務省には大蔵省時代からの隠語があると高橋洋一氏はいう。

「われら富士山、他は並びの山」

 隠語であるから露骨に使われることはないが、財務省では伝統的に使われているという。この言葉に「官庁のなかの官庁」の自負が読み取れる。
 このように財務省が絶大な権力を手中にしていることが分かったがその権力は何処を目指しているのだろうか。

2014年12月8日月曜日

官僚に対する民主的統制 1

 先月30日フジテレビ報道2001の党首討論で安倍首相は衆議院を解散した理由を説明した。
 その内容は日本において実質上権力を掌握しているのが誰であるか、その一端を垣間見た思いがする。
 この会見で安倍首相は財務省によって消費税増税という外堀を埋められてしまったためこの流れを変えるためには衆議院を解散する他手段がなかったと告白している。
 税は民主主義の根幹である。消費税は国民すべてに関係する。
 民主主義社会においてはいうまでもなく国民が主権者である。消費税増税については、主権者である国民が国民の代理人である政治家にその可否を委任している。
 ところがその判断を実質財務省が行っていたことが白日のもとに晒された。
 近年財務省は経済情勢の如何を問わず、どの政権に対しても財政再建には増税が不可欠であると説明してきた。
 安倍首相は、増税しても全体の税収が減れば元も子もないとの信念で、この旨機会があるごとに発言している。
 ところがこの会見では、「財務省は財政再建しようという善意で消費税増税を目指している」と言って財務省に対する怒りの言葉を呑んだ。
 最高権力者である筈の安倍首相が財務省に対する不満を差し控えたのだ。
 見方によっては財務省によるしっぺ返しを心配したとも言える。行政府の長と官僚の立場を考えれば異常という他ない。
 5年前民主党は官僚主導から政治主導を掲げ政権交代を実現した。
 いずれも財務大臣を経験して政権の座についた管元首相と野田前首相は、公約にない消費税増税を言い出し、ミイラ取りがミイラになってしまった。
 衆議院を解散せざるを得なかったとはいえ安倍首相は既定路線の消費税増税を延期した。驚くべきことに安倍首相は財務省に逆らった最初の首相であるとさえ言われた。
 自民、民主を問わずどの政権にも財務省の影は色濃くついてまわっている。
 官僚、それも官僚の中の官僚といわれる財務省についてわれわれはあまりにも知らないことが多い。
 次稿以降、財務省寄りに財務省を論じる人とアンチ財務省の立場から財務省を論じる人のそれぞれの見方を検証し、官僚に対する民主的統制のあり方について考えてみたい。
 未だ真の市民革命を経ていない日本社会に於いて、官僚に対する民主的統制が果たして可能なのか否か、その可能性を探りたい。

2014年12月1日月曜日

小学校の英語必修化

 英会話が上手な日本人には滅多にお目にかかれない。中学・高校あるいは大学まで6~10年間も英語を学んでいる筈なのにまともに英語で話しができない。
 国際会議などで通訳を介さないと意思疎通できない心もとない日本代表の姿をテレビニュースなどで見かけることがある。
 かかることを心配してか、文部科学省は、今や実質国際語となった英語によるコミュニケーション能力向上を目指すべく立ち上がった。
 先月20日中央教育審議会の総会が開かれ、下村博文文部科学相は小・中・高校の学習指導要領の改定について諮問した。
 諮問内容の一つに小学校高学年からの英語教科化の議論が進められ、東京五輪が開催される平成32年度からの新指導要領の実施を見据え、早ければ平成28年度に答申されることになった。
 注目すべきは、小学校3年生からの英語活動開始と5年生からの英語教科化である。
 その目的はグローバル化に対応した人材育成が急務となったためという。
 下村文科相が特記として見直しを諮問している内容の一部は下記の通り

 「グローバル化する社会の中で,言語や文化が異なる人々と主体的に協働していくことができるよう,外国語で躊躇(ちゅうちょ)せず意見を述べ他者と交流していくために必要な力や,我が国の伝統文化に関する深い理解,他文化への理解等をどのように育んでいくべきか。
 特に,国際共通語である英語の能力について,文部科学省が設置した「英語教育の在り方に関する有識者会議」の報告書においてまとめられた提言も踏まえつつ,例えば以下のような点についてどのように考えるべきか。
 ・小学校から高等学校までを通じて達成を目指すべき教育目標を,「英語を使って何ができるようになるか」という観点から,四技能に係る一貫した具体的な指標の形式で示すこと
 ・小学校では,中学年から外国語活動を開始し音声に慣れ親しませるとともに,高学年では,学習の系統性を持たせる観点から教科として行い,身近で簡単なことについて互いの考えや気持ちを伝え合う能力を養うこと
 ・中学校では,授業は英語で行うことを基本とし,身近な話題について互いの考えや気持ちを伝え合う能力を高めること
 ・高等学校では,幅広い話題について発表・討論・交渉などを行う能力を高めること」
(初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について『諮問』26文科初第852号平成26年11月20日中央教育審議会)

 明らかに英語による日本人のコミュニケーション能力不足を意識した諮問内容となっている。

 思考の基礎は母国語による。
 このことは日本に限らずどの国においてもそうであろう。
 未だ母国語である日本語の習熟過程にある小学生段階から外国語である英語を学ばせるには無理がある。
 基礎ができていないものにいきなり高度な応用編を学ばせるようなものだ。
 思考の基礎を阻害するだけでなく、外国語学習の発展をも阻害する。なぜなら外国語学習といえども母国語という土台あっての学習であるからである。
 なぜ文科省は短兵急にこのような諮問をなげかけたのだろうか。
 一にも二にもコミュニケーションを重視するあまり大事なものを見失っていないだろうか。
 小・中学校段階からかかるコミュニケーション重視の教育に偏重したら肝心の高校でめざす「発表・討論・交渉などをおこなう能力を高めること」に資することにはならない。
 なぜなら英語教育の基礎である日本語に裏打ちされた読み・書きを無視し、文法・構文を等閑に付しているからである。
 まさかコマーシャルにあるように”英語のシャワーを浴びるだけで英語が話せるようになる”や旅行英会話や立ち話を流暢に話せることが英語教育の目的と考えているわけではあるまい。

 日本人で語学の達人といわれ英語を母国語とする人よりも英語がうまいといわれた人たちがいた。
 岡倉天心、新渡戸稲造、南方熊楠などがその英語の達人いわれた人たちである。
 これらの人に共通する語学習得方法がある。それは名文の素読、暗誦である。南方熊楠はさらに筆写にこだわったといわれている。また英語を学び始めた時期はけして早くからではない。せいぜい現在と同じく中学生からである。
 彼らは英語の名文を反復暗誦し英語の基礎を体得した。昔の日本人が漢語を素読したように英語を素読したのである。
 あたかもプロ野球の選手が繰り返しノックを受け体で守備を体得するのに似ているといったらいいか。
 彼らは、この方法により日本語と構成がまるで異なる英語の基礎を習得しその後ネイティブ以上に英語の達人になった。
 文科省はそのような方法はまどろっかしいと思っているのか否か定かでないが、小学生にいきなり会話能力を身に付けさせたいらしい。
 読めない、書けないけど、話はできるようにする。
 残念ながらこの方法は前述したように小学生にとって最も大切な母国語である日本語学習を阻害するだけでなく、基礎を抜かしいきなり応用を学習させるようなもので英語能力の発展をも阻害する。
 いうなれば小学生に対し”角を矯めて牛を殺す” ことになりかねない。
 小学生に対しては、なにより母国語である日本語の学習を優先させるべきである。この意味において小学校の英語必修化は時機尚早といえる。

2014年11月24日月曜日

民主主義と選挙公約

 民主主義社会における選挙の公約とはなにか。
 選挙公約は、選挙の時の当選するための一つの手段であり、選ぶ人も選ばれる人も軽くそうように考えているとしたら民主主義社会といってもそれは名ばかりのものでしかない。
 選ばれて当選した人は、当選後選挙公約に違反してもそれが重大な約束違反とは考えない。
まして状況が変化すれば公約に違反してもそれを当然のことと考える。選んだ人もそれに同調し理解を示す。
 これに近いことが日本社会ではあたりまえになっている。

 旧社会党は党是として消費税に絶対反対であった。ところが自社さ政権で
村山富市社会党党首が政権の座につくとそれまでの党是、選挙公約をかなぐり捨て1994年11月に消費税を3%から4%へ引き上げた。
 民主党の鳩山由紀夫党首は2008年9月総選挙で消費税率は向こう4年間は上げないと公約し政権交代を実現して首相になった。
 が、その後、2010年6月民主党管直人内閣は参議院選で消費税10%を掲げ選挙に惨敗した。
 2012年6月民主党野田佳彦内閣は自民党と公明党を巻き込んで消費税を2014年に8%、15年に10%に引き上げる法案を成立させた。
 ことほどさように選挙時の公約は軽く扱われている。選挙民もそのことに寛容である。
 議会制民主主義では代議員を目指す人は公約を掲げ、国民は自分の意見を反映してくれる代議員に投票しそこに送り込む。

 これは代議員と選挙民との契約行為といえる。この契約行為の遵守こそ民主主義のイロハであり出発点である。これなくして真の民主主義社会は成り立たない。

 日本人の契約の概念について小室直樹博士は言う。

 「日本の学校教育では絶対に教えてくれませんが、近代デモクラシーの大前提は『契約を守る』ということです。
 この前提がなければ、いかに立派な議事堂を作っても、あるいは文面上、堂々たる憲法を制定しても、それは底が抜けたザルのようなもの。デモクラシーの形式だけを整えても、そこには肝心のデモクラシー精神は生きていけないことになります。
 社会契約の精神がなければ、国家は暴走し放題に暴走する。公約が守られなければ、国会はただの数合わせの場になる。(中略)

 『契約とは、言葉によって記された約束である』ということが示す象徴が、企業が取り交わす契約書です。
 欧米の契約書には虫眼鏡で拡大してみないかぎり、読めないような小さな字で、ぎっしりさまざまな条項が書き記されています。考え得るあらゆるケースを想定し、『この場合には、こうする』 『このときには、こう対応する』と列挙されている。契約書とは言葉の塊です。
 ところが、日本人の場合、いちいち約束事を言葉にするのをひじょうに嫌がる。本当に信頼しあっていたら、言葉にして約束するのはかえって失礼だという感覚があります。
その最たる例が、次のような言葉です。


 『俺の目を見ろ、何にも言うな』
 『黙って俺について来い』
 『悪いようにはしない』


 男なら一生に一度くらい、こんなことを言ってみたいもんですなあ。前からそう思っていたが、やっぱり君は一生、国際人になれませんな。

 こんな言葉で欧米人に向かって言ってごらんなさい。
 『こいつは、頭がおかしいのではないか』と思われること、請け合いです。(小室直樹著集英社「日本人のための憲法原論」)

 ”日本はアジアに冠たる民主主義国家である” などと、自慢げに言う人もいるが、内実をみればお寒いかぎりだ。
 11月18日衆議院を解散するに当たって安倍首相は記者会見で、

 「公約に書いていないことを行うべきでない」と言った。
 この言葉を言った御本人を含め与野党の政治家が理解し実行することを期待したい。”君子は食言せず”という。

2014年11月17日月曜日

対米一辺倒

 北京で開催されたAPECでの日中首脳会談に先立つ写真撮影で、習近平国家主席の仏頂面が話題になった。
 メディアの解説によると、「反日世論の反発をおそれた政治的演技」という。
 そうと思わせるような習主席のぎこちない所作であった。

 「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」

 この徒然草の一節にある”真似”のところに、習近平主席の仏頂面というか不機嫌の”真似”を置き換えることができる。


 APEC関連ではつぎのニュースもながされた。
 「『初めて会ったときは他人でも、2回目からは友人になる』。
 安倍晋三首相は10日、北京で行った中国の習近平国家主席との初めての首脳会談後、アジア太平洋経済協力会議(APEC)ビジネス諮問委員会の会合で再び習主席と会話を交わした際、そう話しかけられたという。
 首相が11日のフジテレビ番組(10日収録)で明らかにした。」(2014.11.11産経ニュース)

 中国社会は「幇」に代表されるように特に人間関係が重要視される。
 このことは中国でビジネスに携わっている人がしばしば述懐している。
 はじめて会った人は他人かもしれないが、外交でそんなルールが通用する筈もない。
 たとえ政治的演技であろうと「仏頂面」されたら理由の如何を問わずされたほうは不愉快である。
 少なくとも習主席が韓国の朴大統領との初対面で「仏頂面」をしたという報道はない。

 一方米中首脳会談では、中国のアメリカに対する厚遇ぶりが際立った。
 中国は、日本を無視するかのような発言をした。

 「今回のアメリカの訪中は新しい形の大国関係を築くうえで重要な契機となる。」 
 「軍事交流を深め協力し、中国とアメリカの新しい形の軍事関係を発展させることで合意した。」 
 「太平洋は中米を入れるに充分な広さがある。」等々。
 これら中国側の発言はある程度想定されるとしても、アメリカ側の中国への姿勢がこれまで以上に、より中国重視に傾いた印象をうける。
 ケリー国務長官にいたっては、「我々のアジア重視政策の鍵となる要素が米中関係の強化にあることは疑いない」とまで言い切っている。
 米民主党は伝統的に中国寄り政策をとってきたが、オバマ政権になってその傾向は顕著である。
 オバマ大統領は、本年4月の訪日時に、
 「尖閣は安保適用の範囲内」であるとリップサービスしたが、
 今回訪中時には、
 「米中両国が効果的に協力できれば、世界全体の利益になる」 
 「米中関係を新たなレベルに高めたい」と、これまたリップサービスしている。
 共産党独裁国家がアジアのリーダーとなることを容認するとも受け取られかねないような発言だ。
 たとえ独裁国家であっても米国の国債や商品を買ってくれさえすればそれでよいという意図が透けて見える。

 国家の基本である国防を他国に依存するにも限度がある。
 はからずもAPECでの日中および米中首脳会談でそのことが窺い知れた。
 戦後70年、日本は、外交も経済も安全保障もアメリカとさえうまく連携すればそれでよかった。
 今回のAPECでアメリカは自国の利益に汲々とし世界のリーダとしての役割りに翳りがみえてきた。
 また他国へ干渉する余裕をなくしつつあるアメリカ自身が日本の全面的な米国依存を望んでいるとは限らない。
 それらのことにはおかまいなく、従来どおり、日本はアメリカへの対米一辺倒路線を踏襲するのだろうか。

 あからさまに日本を無視する中国、およびこれに明確に異を唱えないアメリカを見るにつけ、従来の対米一辺倒路線に疑念を禁じえない。

2014年11月10日月曜日

比叡山の怨霊

 先週、高野山と並ぶ日本仏教の聖地 比叡山を訪れた。
 この山の開祖 伝教大師最澄はこの地で修行し日本仏教の一大改革者となった。

 仏教は釈迦が教えた「戒」を守ることが根本である。
唐の高僧・鑑真は、5度に亘る失敗の後決死の覚悟で渡来し、日本に戒律を伝えた。
 戒律こそ仏教の真髄だからである。
 ところが最澄は鑑真が伝えた戒律をことごとく骨抜きにした。
 最澄自身、唐で大乗戒小乗戒を学んだが帰国後戒律が厳しい小乗戒を排し大乗戒の布教に絞った。
 仏教の総本山である比叡山延暦寺が仏教の真髄である戒律をなくした。
 総本山が戒律をなくせば後はこれに従う他ない。かくて日本の仏教は世界的にも稀有な戒律なき宗教となった。
 なぜ最澄は戒律をなくしたか。その理由は彼自身が考えた「円戒の思想」によって明らかになっている。
 円戒の思想とはすべてのものは円(まどか)で悟りに至る備えができているので戒律を厳しく守るまでもない。
 すべての人には内面的な「仏性」が備わっていて煩悩や迷いを抱いたままでも悟りを開くことができるという「天台本覚論」という思想により裏打ちされた。
 すべての人に「仏性」が備わっているゆえ煩悩や迷いを乗り越えられない僧侶はじめすべての衆生も念仏を唱えさえすれば救済されるという。
 修行する必要もなければ戒律を守る必要もない。
 ただ念仏を唱えさえすればいい。
 こんなことを聞いたら、イスラム教徒やキリスト教徒はびっくり仰天するだろう。
 否それにもまして、他国の仏教徒が一番驚くだろう、そして憤慨して言うだろう 「そんなものは仏教ではない」 と。
 厳しい修行をし迷いを断ってはじめて悟りを拓くことができる。仏教本来の教えである。
 この根本教義を根底から覆したのが日本仏教の総本山である比叡山延暦寺に他ならない。

 最澄の教えに
「一隅を照らす」、「自利とは利他をいう」がある。
 宗教家の教えというより道徳家の説教と見間違う。
 最澄が日本人に与えた影響はとてつもなく大きい。それは日本人の宗教観および東日本震災時の日本人の行動様式などに顕著に現れている。

 延暦寺のお坊さんに「伝教大師最澄はなぜ戒律を廃止されたのですか」と問うたところ、
 「広く布教するためです。戒律によれば、たとえばお金に触ることさえできませんから」との回答を得た。

 奈良仏教から離脱し戒律を排し、孤独の決断をした最澄、信長に抗して戦い死んでいった荒法師たち。
 叡山には今も怨霊が漂っている。

2014年11月3日月曜日

消費税再増税

 「他人の役に立とうとする日本人が増えている」 という調査結果が10月30日文科省所管の統計数理研究所から発表された。
 自分のことだけに気をくばっている 42% を3ポイント上回る45%であった。
 日本人の半数近くは他人の役に立ちたいと感じている。おそらく国際的にも稀であろうこの結果は日本人の国民性を表わしている。
 個人の場合はこのような結果であるが、集団の場合はどうであろうか。
 集団の統計なるものにお目にかかったことはないが、仮にあれば、集団の内と外を峻別する日本社会にあっては、個人とは異なることが予想される。
 集団内の組織の論理が外の論理より優先されるからである。
消費税増税にかかわる財務省の行動はその好例である。

 以前本稿でとりあげた財務省出身の野田自民党税制調査会長の発言を再び検証してみよう。


 「そもそも名目3%実質2%成長は、消費税増税の前提条件ではない。
 増税した分、そっくりそのまま歳出にまわすので、デフレにはならない。
 毎年1%増税など、机上の空論で経済活動の現場が混乱する。デフレ脱却とはいうけれど、要は、賃金が上がりさえすればいいこと。
 消費税増税すれば、企業にとって、賃金を上げるまたとないチャンスだ。われわれは、そのための手をすでに打っている。
 賃金を上げた企業には1割減税する。
消費税が3%上がれば、物価も3%上がる、従って賃金も当然3%上げなければならない。また、そのようにわれわれも指導する。」(2013/9/3 ニュース番組での内閣官房参与 本田悦朗氏との討論)

 野田氏は
消費税が3%上がれば、物価も3%上がる、従って賃金も当然3%上げなければならない。また、そのようにわれわれも指導する。」
と大見得を切ったがその結果賃金はどうなったか。
 26年4月からの対前年度比実質賃金指数は3%増どころか次のような惨憺たる結果となっている。

  26年1月 - 0.9 %
     2月 - 1.7 %
     3月 - 1.3 %
     4月 - 3.3 %
     5月 - 3.5 %
     6月 - 3.4 %
     7月 - 2.8 %
     8月 - 3.1 % 
(厚生労働省実質賃金指数確報値:事業所規模30人以上のきまって支給する給与)

 この指数などどこふく風、彼は、消費税再増税は実施すべしと次のように発言している。


 「自民党の野田毅税制調査会長は1日のBS11番組で、来年10月に予定される消費税率の10%への引き上げについて、『上げなかった場合のリスクは(上げた場合よりも)10倍以上大きい』と述べ、予定通り引き上げるべきだとの認識を示した。
 再引き上げの慎重論に対しては、『引き上げても経済成長に悪影響を及ぼさないような手立てを講じながらやっていくのが良識的な姿だ』と語った。」(2014.10.1 産経ニュース)


 大蔵省出身者らしい野田氏の発言である。

 「大蔵省は他官庁と比べて“大蔵一家”と呼ばれるように、その団結力には盤石の強さを発揮する。
 中でも大蔵省の中枢である主計局は、より強い連帯意識で結ばれた局であり、その団結力の秘密は、キャリアの主計官僚の多くが将来の幹部候補生ということもあるが、その彼らを支えるノンキャリア組の再就職先(天下り先)を、それこそ『死ぬまで』面倒を見てやるという“一家の掟”があるからだ。」(専修大学ホームページ大蔵省の支配構造から)

 財務省は、旧大蔵省時代からの団結の強さもさることながら省益を優先する伝統も受け継いでいて、その精神は現在も脈々と生きている。
 消費税増税は、たとえトータルで税収減になったとしても財務省の権限拡大に寄与し省益に適う。
 省益とあらば、増税実現を目指して組織的に活動する。
 有識者会議のメンバーの選定、御用学者の活用、マスコミ対策等々、現役OBともに総力をあげて増税推進に努力する。
 安倍首相は5%から8%への増税を決断する前に「増税しても全体の税収が減れば意味がない」というまともな発言をした。そして今回の再増税論にも同趣旨の発言をしている。
 実質賃金指数のみならず各種GDP統計は当初の26年7月からの急回復の見込みを裏切る結果となっている。
 もし、このデフレ下の日本で再び消費税が増税されれば、日本の将来に暗雲が漂う。
 そればかりか、かかることが繰り返されれば、日本は最悪の場合、アルゼンチンと同じく先進国から脱落しかねない。
 そうならないためにも、どこかで事態を正しく受け止め目覚めなければならないが、消費税再増税の阻止はその試金石の一つとなろう。

2014年10月27日月曜日

衰退するアメリカ 12

 『覇権国』アメリカの現在と未来について様々な角度から検討し考えをめぐらせてきた。
 この過程を通じある一つの共通点がおぼろげながら浮かび上がってくる。
 それは、アメリカをここまで強力な国家にしてきた原因のひとつであり、かつ未来にわたって衰退する原因ともなりうるものである。
 それは『グローバリズム』というモンスターである。このモンスターは今なお衰えをみせていないどころか全世界を席巻し尽くさんばかりの勢いである。

 アメリカ建国の父 初代大統領ジョージ・ワシントンは国是ともいうべき非同盟主義こそアメリカの国益であると宣言した。
 そしてこの国是は紆余曲折あるも長いこと守られてきた。
 しかし、この非同盟不干渉主義は第一次世界大戦からすこしずつ怪しくなってきた。決定的になったのは『太平の眠りを覚ます蒸気船』ならぬ『非同盟の眠りを覚ます真珠湾奇襲』であった。
 これを機にアメリカはそれまでの非同盟不干渉主義をかなぐり棄て、国際社会への介入を強めていった。
 この介入を通じやがてアメリカは覇権国家へと目覚め世界の警察官の役目を担うようになった。
 半世紀以上に亘り介入主義は止まることを知らず、ついに国連決議なしにイラク爆撃にふみきった。
 アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンは、冷戦終結後世界は平和が訪れたかに見えるが、文明と文明の境にはフォルトラインがあり、争いが起き易い。
 覇権国といえども、否、覇権国であるがゆえにその権力の行使は抑制的であるべきであると警告した。
 学説の正否はともかく、彼の懸念は現実となり、特にイスラム社会との摩擦は抜き差しならぬ事態にまで立ち至っている。

 アメリカを超大国に押し上げたグローバリゼーションの主役は一部の国際企業家である。
 国際企業家こそアメリカを経済的にも軍事的にも唯一の超大国に押し上げた原動力であった。
 世界中の優秀な頭脳が機会を求めアメリカに移入した。アメリカ社会は、移民も自由に研究ができ起業もできる。
 国際企業家の豊富な資金力がこれを後押しした。それにアメリカではグローバリズムが信奉されてきたことも大きく影響した。
 かくて富がアメリカに吸い寄せられるシステムができあがった。 
 アメリカは歴史上どの国も達したことがない経済的繁栄を謳歌した。
 このグローバリゼーションには欠点があったが繁栄するアメリカ社会で長いこと問題にされることはなかった。
 だが、2008年の金融危機を機にそれは徐々に表面に現れてきた。ウオール街へのデモはその現れの一つである。
 その欠点とは何か。
 富が一部に集中し、国民の間に格差が生まれることである。
 現在のアメリカでの格差はどれほどのものか。

 「米連邦制度理事会(FRB)のイエレン議長は、米国で富と所得の不平等が19世紀以来で最も持続したペースで高まっていることを『非常に』懸念していると述べた。
 イエレン議長は17日、経済的不平等に関するボストン連銀の会議で講演。議長はFRBがまとめた2013年の消費者金融調査(SCF)を引用し、米世帯のうち資産規模で下半数の保有資産が全体に占める割合が1%にとどまった一方、富裕層上位5%の保有資産は全体の63%だったと述べた。」(2014年10月17日ブルームバーグニュース)

 全米資産の1%を国民の半数が分かち合っている。驚くべき数値である。
 米国のGDPの7割は消費である。消費は分厚い中間層によって支えられてはじめて安定的となる。
 このアメリカの資産保有分布をみる限りとても安定的とはいえない。
 アメリカのGDP成長に危険信号が灯ればすべてが危うくなる。 政治・経済はもちろん軍事とて例外ではありえない。ファリード・ザカリアが指摘した政治の停滞はグローバリゼーションによる結果といえる。
 なお問題なのは、TPP推進などをみる限り、このグローバリゼーションの流れはまだ勢いを失っていないことである。
 アメリカ覇権の翳りの原因は他にもあるがこのグローバリゼーションは主要な原因の一つであることは間違いない。

 アメリカが超大国の座から降りたら替わりに就く国はあるのだろうか。超大国は出現せず、ブロックごとのリーダ国の出現というのが大方の見方である。
 近い将来15~20年後見すえたとき超大国として中国とかインドの可能性を挙げる人もいる。
 この二つの新興大国のいずれも超大国・覇権国として君臨する姿は想像できない。
 中国は、共産党独裁政権、歪な経済成長、高齢化、インドはカーストのくびき(ファリード・ザカリアは文化の制約は克服可能と言っているが)、これらの制約による。
 ありうる近未来の姿としてはアメリカがトップ集団の1位(the first among equals)であり続ける姿が一番イメージし易い。
 幾多の弱点あるにも拘らずアメリカにはシェールガス革命、移民、不介入主義への回帰など再びアメリカを成長への軌道にのせる要素がある。

 最近200年間世界の覇権はイギリスとアメリカ、いわばアングロサクソン国家により壟断されてきた。
 特にアメリカはかってないほどの経済的繁栄と軍事力を築いた。その遺産は一朝一夕で雲散霧消する類のものではない。
 核開発、宇宙開発、産業などはロシア、中国、日本などに接近され一時的に凌駕されたこともあったが、軍事力、通信、金融などは一度たりとも首位を譲ったことがない。
 軍事用に開発されたインターネットは世界の姿を変え、今なおアメリカが主導権を握っている。
 基軸通貨米ドルは国際社会が不安定化すればするほど買われる。
 今米ドルに替わる基軸通貨を探すにもその候補となるものがない。
 ユーロは財政と一体となっていないため綻びが生じている。人民元は基軸通貨たるには中国経済の構造があまりにも歪だ。これらの通貨が基軸通貨の候補の資格ありとすれば世界最大の債権国である日本の円も資格ありといえる。
 基軸通貨の移行は、英ポンドから米ドルへの移行をみるかぎり覇権国の権限の一番最後になされる。
 世界のブロック毎に基軸通貨が誕生する日がきたとしても米ドルは相当の期間世界の基軸通貨であり続けるだろう。

 米国国家情報会議は、レポートで経済的不安要素として、非効率で高額な医療保険、中等教育の水準低下、所得格差などを挙げるが、ここ200年間で米国が築いてきた遺産に比べれば国力に与える影響度は少ない。
 このレポートは公表されること自体が政治的メッセージを意味しており、それ以上のものを求めるべきではない。

 以上のことを踏まえ『覇権国の行方』を予測してみよう。

 我々の視野に入る確かな未来、これから20~30年先を見通せばアメリカの覇権を脅かす存在は考え難い。
 仮にアメリカが目に見えて衰退するとすれば、グローバル化が果てしなく進み、アメリカ国民の格差が拡大し社会不安を招き、治安が悪化し優秀な移民が途絶える時であろう。だがその可能性は少ない。
 グローバル化の弊害が表面化すればこれを復元する力がアメリカにはまだ残っている。
 アメリカは多少の社会不安にはびくともしない社会構造となっている。
 アメリカ国民の4割近くがキリスト教ファンダメンタリストであり、これらの人々の秩序だった行動様式は誰しも認めるところであり社会学でいう『アノミー』とは無縁の人たちであるからである。

 長期的にはどうか。
 50~100年先などの長期の予測にどれほどの意味があるのか。予測しても責任ある予測と言えるのか。
 ケインズはかって言った。
   『長期的には我々は皆死んでいる』  彼が意図した意味とは異なるがこれは長期予測をする人に対するメーセージでもある。

2014年10月20日月曜日

衰退するアメリカ 11

 米国国家情報会議はアメリカ大統領の諮問機関であり、4年に一度大統領選に合わせて、任期の前に大統領のために報告書を提出する。
 その内容は世界情勢の分析および中・長期的予測である
 最新のものは、2012年12月『グローバル・トレンド2030』というタイトルで公表された。

 その”まえがき”にはこう記されている

 「2030年までに、中国やインドを含むアジアが世界をリードする最強地域となるのは確実でしょう。
 1500年以前は、アジアの帝国が世界の覇権を握っていました。それから500年を経たいま、アジアは再び世界をリードする存在になります。
 といっても、単純に過去に戻るわけではありません。世界は全く別の方向に変化していくことになります。」
(米国国家情報会議編谷町真珠訳講談社『2030世界はこう変わる』)

 この報告書で、世界銀行の試算をもとに、世界経済に占める中国とインドの役割について特別に言及している。
 因みに日本については急速な高齢化と人口の減少で『最も不安な国』として挙げている。
 中国は、2025年までの世界の経済成長の約3分の1を中国一国だけで担い、その貢献度はどの国よりも大きい。
 インドは15~20年後、日本やドイツを追い抜き、中国、米国に次ぐ経済大国に成長している。
 2025年、中国とインドの経済力を合わせると、その世界経済への貢献度は米国とユーロ経済圏を合わせた規模の約2倍にあたる見通しである。
 さらに米国について言及し、米国は新興国の台頭により『覇権国』から『トップ集団の1位』になると注目すべき予測を明記している。


 「米国の経済的な衰退は、世界経済に占める比重が減り始めた1960年代から始まっていますが、2000年代に入り中国経済が急速に発展したことで、その傾向がさらに顕著になりました。
 とはいえ、『革新力』では、常に世界をリードしてきました。米国の人口は世界人口の5パーセントにすぎませんが、2008年度に登録された世界レベルの特許の28パーセントを米国が占めています。
 世界的にトップランクといわれる大学の4割が米国の大学です。こういした”ソフトパワー”に加え、米国経済には今後の成長を下支えする好条件がいくつかあります。
 例えば、前述した安価な国産シェール系燃料の登場や活発な移民流入、ほかの先進国よりも若い労働人口などが挙げられます。
 米国経済は、早ければ2020年代にも中国に抜かれるとの予測があります。
 ですが、こうした米国が持つ好条件を考慮すると、2030年になっても米国は『トップ集団の1位』には留まるのではないかと考えられます。
 経済力、軍事力、ソフトパワーなどの条件を総合すると、米国を追い抜くのは容易ではないからです。
 ただ、複数の新興勢力の台頭により、1945年以降続いてきた米国を中心とする世界秩序ー『パックス・アメリカーナ』体制ーが急速に威力を失っていくのは間違いありません。」
 (前掲書)

 また同報告書では米国の抱える経済的な不安要素を3つ挙げている。

  第1に、非効率で高額な医療保険
  第2に中等教育の水準低下
  第3に所得格差

 これらの問題点は以前から問題であったが、2008年の金融危機でさらに表面化したという。

 米国の衰退は経済だけではなく軍事面にも及ぶ。

 「今後、米国は経済力だけでなく、軍事力も低下します。
 経済が弱まるなかで、現水準の軍事費を維持すべきかどうかは、今後、大きな争点となるでしょう。
 ちなみに、すでに軍事費の縮小は始まっています。冷戦当時、米国はGDPの平均7パーセントを軍事費に割り振っていましたが、ここ10年間はイラクやアフガニスタンでの軍事活動を含めてもGDPの5パーセント以下にとどまっています。
 米国の軍事費縮小だけでなく、同盟国の軍事力低下も米国の影響力低下に拍車をかけます。
 第二次世界大戦以降、米国の”力”はG7参加国が一体となって活動することによって補強されてきました。
 しかし、こうした西側同盟国の経済は弱体化し、新興国に追い抜かれてしまいます。
 2030年の世界でも、米国は世界で最も強い軍事力を維持するでしょう。
 しかし、こうした同盟国の弱体化を受けて、他の『勢力』との差が小さくなることは間違いありません。」(前掲書)

 このように米国は経済的にも軍事的にも衰退の道をたどるが、2030年の時点では世界のトップであることに変わりないという。
 同報告書は最後に、このような条件で未来の姿のシナリオをえがいている。

 「4つの『メガトレンド』と6つの『ゲーム・チェンジャー』の組み合わせ方によって、2030年の世界の姿は無限大に想像することができます。
 ここでは、そのなかから4つのシナリオを選び、紹介していきたいと思います。4つのシナリオは、あくまでサンプルです。
 現実の国際社会は、この4つのシナリオのどれか一つに沿って変化するというよりも、この4つのシナリオを複雑に絡めたような動きをしていくことになるでしょう。
 4つのシナリオは以下の通りです。

   シナリオ① 『欧米没落』型
   シナリオ② 『米中強調』型
   シナリオ③ 『格差支配』型
   シナリオ④ 『非政府主導』型    」 (前掲書)       

 この報告書はアメリカが自国および世界の行く末をどのように見ているかの公式見解である。
 未来の予測は権威ある機関だからといってそれに比例して確度が高まるものでもない。
 重要なことはこの報告書が世界の情勢をどう認識しているかである。学術的なものではないため予測の当否が問題ではない。
 アメリカが自国と世界をどのように認識しているか、そのこと自体が重要である。
 アメリカの認識そのものが世界に影響を及ぼすからである。
 未来は予測し難い。それ故この報告書でも複雑に絡まるシナリオを想定している。
 この報告書はアメリカの行く末を指し示したものではなく、それを考える契機となるべきものである。
 然らば『覇権国の行方』や如何に。

2014年10月13日月曜日

衰退するアメリカ 10

 次にファリード・ザカリアの著作について
 ファリード・ザカリアのアメリカについての分析と予測は、アメリカの政治中枢のジャーナリストならではものがある。
 彼の分析は『4割と1%』というキーワードで説明すれば理解が容易となる。
 4割とは、アメリカの総人口に占めるキリスト教ファンダメンタリストの割合であり、1%とは同じくアメリカの総人口に占めるアメリカの実質的な政治的・経済的支配者の割合である。この1%は主に多国籍企業家を中心とした人々である。

 アメリカの現時点でのマジョリティであるアメリカ生まれの白人層の出生率はヨーロッパ並みに低い。
 ザカリアは明言していないが、これら白人層は先に述べたように大半がファンダメンタリストでありアメリカのイノベーションとは縁遠い層である。
 事実彼は、
 『アメリカが移民を受け入れていなければ、過去四半世紀のGDP成長率はヨーロッパと同水準になっていただろう。
 イノベーションにおける優位性は移民の産物と言っても過言ではない。
 アメリカの大学で教育を受けた移民を国内で引きとめられれば、イノベーションはアメリカで起こる。彼らを母国へ帰してしまえば、イノベーションは彼らとともに海を渡るだろうと』
 と言っている。
 移民はアメリカの秘密兵器だという彼の説は事実に裏づけられている。

 ザカリアがアメリカの弱点として挙げているのは政治の機能不全である。
 彼はいう
 『過去30年間で特殊権益、ロビー活動、利益誘導予算はいずれも増大した。
 アメリカの政治プロセスは以前と比較して格段に党利党略の度合いが強まり、格段に目標達成の効率が低下している。
 反対反対と小賢しく立ちまわる政治家は、激しい党利党略を助長するだけでなく、党派を超えた尊い呼びかけを聞き逃す可能性が高い。』 と。
 多国籍企業家を中心とする約1%のアメリカの支配層とはいかなる人たちだろう。
 それらの人々が所属しているのが外交問題評議会、ビルダーバーグ会議、日米欧三極委員会などであり、特に外交問題評議会を、歴史家アーサー・シュレジンジャーはアメリカの支配階級の中枢部のための隠れ蓑組織と評した。アメリカ政治の奥の院と言われる所以である。
 TPPを実質上推進しているのはこの1%の企業家である。TPPに先行して締結されたカナダ、メキシコ、韓国などとのアメリカ主導による貿易協定であるFTAは、自国や相手国の国益よりも多国籍企業の利益を優先したものといえる。
 資本主義先進国アメリカではすべてのものが取引対象になる。 民間の対象は言うにおよばず公共のものもその対象になる。
典型的なものに刑務所の運営がある。刑務所が民営化された結果、受刑率が増えるという当然の帰結を招いた。
 さらに献金を通じて政治でさえ例外ではない。政治が取引対象になるということは何を意味するか。
 先に述べた1%の多国籍企業家が献金を通じて政治を自らの支配下におくことも可能となる。
 ザカリアが言うアメリカ政治の機能不全の淵源はここに発している。
 多国籍企業家による政治支配の結果、アメリカ社会に公共性の概念が薄れ、このことが今日のアメリカ政治の機能不全を招いたと言える。
 ザカリアの指摘に異論はない。


 アメリカの一極支配は終わりつつあるが、かわりに台頭する新興大国として、ザカリアは中国とインドを挙げ分析している。

 中国について、アメリカの対処は心許ないという。
 中国の活気あふれる市場経済と圧倒的な人口を相手に、冷戦時代とは異なった相手のやり方にアメリカの準備は殆んど整っていないという。
 過剰な中国脅威論と言えなくもない。
 国力とは総合力であり、一部だけ抜きん出ていてもそれは全体をあらわさない。
 インドのタージ・マハル、中国明代の鄭和大船団、北京の紫禁城を例に挙げ、
 『巨大社会の活力と資源が、少数の国家事業に集中すれば、成功に至る確率は高くなる。
 しかし、このような成功は、社会全体の成功にはつながらない。 ソビエト連邦は1970年代、宇宙計画の成功を誇りとしていたが、国の技術力全般でみると、世界の工業国の中で最も遅れていたのだ。』
 とザカリア自身が言っている。
 現下の中国の成長は1970年代のソビエト連邦ほどではないにしてもバランスを伴っているとはいい難い。

 ザカリアが母国インドに向ける眼差しは期待を込めた優しさに満ちている。
 貧困と劣悪なインフラに満ちたインドの現状にも拘らず、インドは19世紀末のアメリカ合衆国に似ている。
 『インドには成長を続ける巨大経済、魅力的な民主政治、刺激に満ちた世俗主義と寛容精神のモデル、西洋と東洋にかんする鋭い知識、アメリカとの特別な関係という長所を利用する手がまだのこっている。』
 現状の比較でも
 『世界有数の貧困国インドと、世界一の富裕国アメリカには、ひとつの共通点がある。社会が国家よりも幅をきかせているという点だ。』
 と彼は言っている。

 かってゴールドマン・サックスのジム・オニール会長は中国よりもインドの方がより高成長を見せるかもしれないと言った。
 潜在的なインドの能力を考慮すれば妥当な予測であり、ザカリアのインドに対する期待も過剰とまでは言えない。

 エマニュエル・トッドとファリード・ザカリアは、視点は異なるもののアメリカの一極支配は終わりつつあると言う点では一致している。
 ところでアメリカ自身は自国の行く末をどのように予測しているのだろうか。
 最後に、これを見て、『覇権国の行方』を考えてみたい。

2014年10月6日月曜日

衰退するアメリカ 9

 前2稿のアメリカへの理解を前提として、エマニュエル・トッドとファリード・ザカリアの著作をもとにアメリカの行く末を考えてみたい。
 まずエマニュエル・トッドの著作から
 エマニュエル・トッドは真の帝国に値する組織には常に2つの特徴があり、その資質を備えているという。そしてアメリカにはこれらが著しく欠けているという。

 その1つは、全世界から搾取するための軍事的・経済的強制力である。
 彼によればアメリカの軍事力は海空の制圧力には疑いの余地はないが地上戦については第2次大戦の欧州戦線でのアメリカ軍の戦いぶりを引き合いにだし帝国にふさわしい能力を備えていないという。
 アメリカに限らず世界帝国は常にその版図を可能なかぎり拡げてきた。
 アメリカも建国以来、版図を西へ西へと拡げていった。
 初期はアメリカ大陸の東部から西部へ、さらに太平洋の島々をわたり東アジア、南アジアを経てその手は中東にまでおよびついにイラクまで到達した。
 昔日の版図の定義には当て嵌まらないが実質上の版図拡大であった。
 エマニュエル・トッドはこれら帝国空間を維持するためには圧倒的な地上軍が不可欠だがアメリカにはその能力がないという。
 だが戦争の形態は時代とともに変化する。往年の敵味方分かれての決戦形式の戦争は今やどこにも見ることはできない。
 ベトナム戦争以降、戦争の形態は一変した。
 無人機・ミサイルによる応酬戦、ゲリラ戦、テロ戦、サイバー戦、情報戦などが主流となった。
 かかる時代に強力な地上戦能力を持ちえたとしてもそれだけで帝国空間を維持することなどできない。
 地上軍の弱点を指摘しアメリカの帝国としての鼎を問うのは的を得ているとは言い難い。

 アメリカの経済的強制力のもとは基軸通貨ドルを利用したシステムである。
 エマニュエル・トッドはアメリカが赤字をだしても物を買ってくれれば世界が喜ぶシステムであるという。アメリカはドル札の輪転機をまわすのみ。
 蟻がキリギリスに食べ物を受け取ってくれと頼んでいるようなものだ。
 アメリカの生産は空洞化し金融によって支えられている。このようなシステムはアメリカを支える国々の指導層の同意なしには継続しない。そしてその日が終わる日は近いと言っている。
 1992年レーガン政権の財政委員会のメンバーであったH・フィギー・Jrが『BANKRUPTCY 1995』を上梓した。
 日本でクレスト社竹村健一訳で『かくてドルは紙クズとなる』というタイトルで出版された。
 この本でフィギーはアメリカは3年後に破産すると言ってのけた。余程自信があったのだろう。
 彼が予言して20有余年、ドルは基軸通貨として不動のままだ。
 この手の予測は星の数ほどある。何もドルにかぎらず、日本国債にしても然り。
 仮に基軸通貨ドルがその地位を明け渡すにしてもかなりの移行期間を要すだろう。
 現にポンドからドルへの移行には20世紀初頭から1944年のブレトン・ウッズ体制まで30~40年を要した。
 エマニュエル・トッドがいう2050年までと言う予測は辛すぎると見るのが妥当だろう。まして次の基軸通貨となる候補の影さえ見えない現状においてはなおさらそうである。

 エマニュエル・トッドが帝国としての資質に挙げる2つ目は普遍主義である。
 普遍主義とは人間と諸民族を平等主義的に扱う能力であり、それは征服者、被征服者を問わない。
 アメリカは1950年から1955年ごろまでは普遍主義も絶頂で謙虚で寛大であったという。
 ところが2000年以降弱体化し非生産的になったアメリカは謙虚でも寛大でもなくなったという。
 エマニュエル・トッドが指摘したアメリカの不寛容はイラク戦争以降アメリカの行動に顕著に現れている。
 ソヴィエトとの冷戦時代と比較してもそうである。
 その根底はエマニュエル・トッドが指摘する経済的・軍事的弱体化にあることに違いないが、ことイスラム社会に対してはそれに加え宗教的な対立も見逃せない。
 イスラム社会の根深いアメリカ不信の根底にはキリスト教徒に対する不信があり、聖戦意識を掻き立て敵意は止まることを知らないかのようだ。
 プロテスタントを主体とする宗教国家アメリカにローマ帝国と同様の普遍主義を求めることには無理がある。
 人口論と家族論を武器に鋭く文明を予測する人類学者エマニュエル・トッドが論じた2050年までというアメリカ衰退論はいくつかの疑問はあるにしても貴重な警世の書であることに変わりはない。

2014年9月29日月曜日

衰退するアメリカ 8

 人工的に造られた国家であるアメリカは、自然発生的に造られた国家とくらべ何のしがらみもない。社会の仕組みがすべてゼロから造られたから。
 近代社会は、人が目的、意思をもって行動する。行動の結果には当然責任が伴う。
 よい結果にはよい責任が悪い結果には悪い責任が、それぞれ報酬とか罰のかたちであたえられる。
 ところがこのあたりまえと思えることが前近代社会にはなかった。

 「『大名、公卿、さむらいなどとて、馬に乗りたり、大小を挿したり形は立派に見えても、そのはらのなかはあき樽のやうにがら空にて・・・ぽかりぽかりと日を送るものは大そう世間におほし。
 なんとこんな人をみて貴き人だの身分の重き人だのいふはずはあるまじ。
 ただこの人たちは先祖代々から持ち伝えたお金やお米があるゆえ、あのやうに立派にしているばかりにて、その正味はいやしき人なり』
 ---これは福沢諭吉が維新のころ幼児のために書き与えた『日々のおしへ』の一節であります。
 ここには、家柄や資産などの『である』価値から『する』価値へという、価値基準の歴史的な変革の意味が、このような素朴な表現のはしにもあざやかに浮彫りにされております。
 近代日本のダイナミックな『躍進』の背景には、たしかにこうした『する』価値への転換が作用していたことはうたがいないことです。
 けれども同時に、日本の近代の『宿命的』な混乱は、一方で『する』価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強じんに『である』価値が根をはり、そのうえ、『する』原理をたてまえとする組織が、しばしば『である』社会のモラルによってセメント化されて来たところに発しているわけなのです。」
(丸山真男著岩波新書『日本の思想』)

 前近代社会では先祖から受け継いだものでほぼその人の価値が決まった。
 今でこそ、先祖代々の地位とか遺産だけに頼る人をそれだけでは尊敬しなくなった。だがこれが完全に払拭されたかというとかならずしもそうとはいえない。
 先進国の中でも日本に限らずヨーロッパでもこれら社会の『しがらみ』はいまなお社会に根をはっているからだ。
 ところが人造国家アメリカはこれらの『しがらみ』は一切ない。『しがらみ』フリーだ。
 社会は人間の力によって動かし難いなどという考えは最初からなかった。
 前近代社会が産みの苦しみを味わい、ルソーやロックによって唱えられた社会契約説がアメリカではこともなげに実現された。
 自由に移民によって造られた国に王権神授説などの考えが入り込む余地などなかった。
 アメリカには、丸山教授がいう『である』社会が最初からなかったので『する』社会を考えさえすればよかった。
 そこでは社会は人間が作ったものであるから人間によって変えることができるという『作為の契機』が機能する。
 作為の契機が機能しない社会とはどんな社会か。上述の福沢諭吉が指摘した維新前の日本社会であり、その残滓は現代日本にも散見される。
 典型的なものとして日本人の憲法への接し方がある。
 大日本帝国憲法は不磨の大典として一度も改正されることはなかった。
 そしてGHQの強い影響のもと戦後急ごしらえの日本国憲法もまた発布から70年にもなろうというのに一度も改正されることなく現在に至っている。
 アメリカの憲法改正6回、フランスの27回、ドイツの58回などとくらべても際立っている。
 社会の実情にそぐわないものは、すべて融通無碍な解釈や慣習によってやり過ごしてきた。
 日本社会の前近代的な一面である。
 作為の契機がフル機能するアメリカ社会は、契約を重視する。アメリカ社会の厳格な契約概念が高度な資本主義の発達を可能にした。
 小室直樹博士は契約社会アメリカの秩序形成力について述べている。

 「近代資本主義社会では、金銀財宝ではなく、信用こそが一般的な交換手段、また流通手段となり、それが軸となって全経済がフルスピードで回転する。
 しかも、この信用を個人が創造しうるところに、現代資本主義が躍進しうる秘訣がある。
 だから、この信用が熱信的なまでに規範化されていなければ、トランスミッションが腐った自動車のように、たちまち分解四散していまうだろう。
 この信用の熱信的な規範化が市民社会の根本規範となっているところに、アメリカ社会の秩序形成力の根幹が存する。(中略)
 アメリカの犯罪産業は、どれほど巨大であろうとも、正規の産業と関係ない。
 善良な市民と犯罪者は峻別され、犯罪者はどれほど富みかつ有力であっても、善良な市民の仲間入りを許されることはない。  夜の大統領カポネは、絶対に昼の大統領にはなれない。
 社会の根本規範に秩序形成力があり、犯罪者のルールをよせつけないからである。
 このような社会には、いかに犯罪者や落伍者や反体制派の人間が多くても、”急性アノミー”発生の余地はない。
 アノミーの制御因子は社会構造の中核にすえられ、その作動によって、社会的、経済的矛盾から発生するアノミーはついにコントロールされてしまう。
 この制御因子としてもっとも有力なものの一つが、先に述べたファンダメンタリストだ。
 アメリカのファンダメンタリストの秩序形成力には日本人の想像を絶するものがある。
 このような予定調和的構成をもっていればこそ現在のアメリカは、多くの矛盾の噴出と、指導者の無能によって、満身創痍の姿も無残に、苦悩にのたうちまわっていながら、底しれぬ力を秘めていることができるのである。」
(小室直樹著光文社『アメリカの逆襲』)

 ファンダメンタリストはアメリカ社会に深く根を張っている。覇権国アメリカの命運をも左右する存在と言っても過言ではない。

2014年9月22日月曜日

衰退するアメリカ 7

 ここまで欧米で反響を呼んだエマニュエル・トッドとファリード・ザカリアの著作をもとに彼らの考えを検分したが、論評するにあたり、その前提としてアメリカという国の理解は不可欠である。
 われわれがアメリカについて思い描いていることについて改めて考えてみたい。
 近代の日本人にとってアメリカほど身近に感じる外国はない。そのためアメリカについてはかなり理解していると思いがちだが、それはほんの表面的なものにすぎないことがわかる。
 特に宗教について、日本人にとって理解することは殆んど絶望的である。
 キリスト教ファンダメンタリズムを日本人に教え理解させるのは猿に日本語を教えるより難しいだろう。
 キリスト教ファンダメンタリストは聖書に書いてあることを一言隻句そのまま信じる。聖書に書いてある数々の奇跡も当然そのまま信じる。
 アメリカCBSの世論調査で聖書の言葉を一言一句そのまま信じますかという問いに、実に43%の人が信じると答えている(CBS News Poll. April 6-9, 2006. N=899 adults nationwide.)。
 各種世論調査でバラツキはあるものの、4割近くのファンダメンタリストがいることは間違いなさそうだ。
 これは先進国のなかでは例外的で、開発途上国に近い。
 ファンダメンタリズムの一つで有名なクリスチャン・サイエンスの主張を見てみよう。教祖はメリー・ベーカー・エディ。どのような人物か?

 「一人の女性、なんといったらよいか、美しくもないし、人の心をひきつけるところももっていない、完全無欠ともいえないし、賢いともいいきれない、それに中途はんぱな教育しかない、孤独で、無名で、親から受けついだ地位なぞなに一つもっていないし、金もない、友人もない、つきあいもない人物。
 彼女はどんなグループにも宗派にもすがらない。
 彼女がにぎっているのは筆一本で、しかもそのせいぜい中位な頭脳につめこまれているのは、ひとつの考え、たったひとつっきりの思想である。
 最初からあらゆるものが彼女の行手をはばんでいる。
 学問、宗教、学校、大学、そしてそれ以上に、ありふれた理性、『常識』、また彼女の故郷アメリカなどが彼女の障碍であり、しかもアメリカという国は、万国のなかで最も即物的で、最も感覚が冷えきっていて、最も非神秘的な国であり、こうした抽象的な理論にとってはどこの国にもましてありがたくない土地であるように思われる。
 これらすべての障碍に対抗する彼女の武器は、自分の信仰によせる強靭で、頑固で、鈍いといってもさしつかえないような強情な信念だけであり、偏執的な憑かれ方で、うそのようなことをまことにしてしまわずにはおかないのだ。
 その成果は条理に反している。しかし、現実に対抗する妄想にこそ、つねに不思議なものの最もあきらかな兆しを見ることができる。」
(シュテファン・ツヴァイク著中山誠訳『ツヴァイク全集 精神による治療 メリー・ベーカー・エディ』)

 ひとつの考え、たったひとつっきりの思想とはなにか、その思想とは


 「つぎの公式に最もよく要約されている、『神の一元性と悪の非実在』。
 すなわち実在するのは神だけである、そして神は善であるから、悪はまったく存在しない。
 したがって苦痛とか病気の状態とかはまったくありえない。
 それが存在するように見えるのは感覚があやまり伝えているにすぎず、人類の『誤信』である。
 『神は唯一の生命でありこの生命は真理であり愛であって、この神聖な真理はあやまった考えをすべてとりのぞき病人をなおす』 
 したがって病気、老衰、肉体上の欠陥が人間をなやますことができるのは、人間が病気の状態や老衰という愚かな妄想を盲信しているあいだであり、そうしたものが存在するという精神的な観念を人間が作りあげているあいだにかぎる。
 しかし実は(これがサイエンスの偉大な認識である)『神が人間を病気にしたことは一度もなかった。』 病気はしたがって人間の妄想である。」(前掲書)

 一言でいえば、この世には神の意思しかない。死をふくめ病気、老衰などすべて人間の妄想にすぎない、ということになる。

 「最も強い人はつねにただ一つの考えしかもたない人である。  力や行動や意志や知性や精神の集中力の点で自分のうちにたくわえてきたものを、すべて彼はひたすらこの一つの方向に注ぎこみ、そうすることで世界も歯がたたないほどの勢いをもつようになるからだ。」(前掲書)

 例えは悪いが、この点においてのみ、『ユダヤ人憎悪』というただ一つの考えを持ち続けたナチスドイツのヒットラーを想起させる。

 クリスチャンサイエンスは一つの例であるが、これを含め類似のファンダメンタリストが国の4割近くも占めるアメリカをどう理解したらよいのだろう。
 科学先進国アメリカで、神の教えに反するゆえ信条から科学に異を唱える人が4割近くも占めるお国柄である。
 ファリード・ザカリアがアメリカのイノベーションは移民によって支えられているという指摘には説得力がある。

 最も即物的で非神秘的な国と思われているアメリカで、先進世界のどの国よりもファンダメンタリストが隆盛を極め全人口の約4割を占めるとは驚きの極みだ。
 アメリカの最大の特徴であろう。
さらにアメリカを特徴づけるもう一つのものがある。
 近代においてゼロから造られた国家アメリカならではの特性であり、これもアメリカの理解には欠かせない。



2014年9月15日月曜日

衰退するアメリカ 6

 中国では革命の都度王朝が変わるも社会体制は変わらないという易姓革命を繰り返してきた。
 毛沢東による共産党革命も基本的に同じで毛沢東による易姓革命と言える。
 毛沢東は下放政策や文化大革命によって歴代の王朝と同じく中国を疲弊させた。毛沢東悪しき模倣者ポルポトは同じく下放政策によってカンボジアをズタズタにした。
 ただ中国はカンボジアと違って破滅寸前で踏みとどまった。
 1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で鄧小平は改革開放路線に大きく舵を切り、これ以降中国は一意専心、経済発展に驀進した。
 この時、事実上中国は目覚めた。
 その後の中国の驚異的な発展は有史以来どの大国もなしえなかった成長を遂げたことはいうまでもない。
 歴史上、世界の覇権国が新興国から挑戦を受けたとき、両者の関係はぎくしゃくするとファリード・ザカリアは言う。
 だが中国の場合従来の挑戦国とは違うとも言う。中国には孫子の兵法 ”勝敗は戦う前に決している” という戦法がある。

 「従来型の軍事的政治的進出に対処するすべを、アメリカは心得ている。
 ソ連の脅威もナチスの台頭も、本質的にはこのタイプだった。
 アメリカは従来型の進出を押しとどめるための概念的枠組みと実用的ツールー武器、援助、同盟ーをもっている。
 もしも中国が傍若無人にふるまって近隣諸国を激怒させ、世界に脅威をばらまいたなら、ワシントン政府は効果的な政策をパッケージにして実行し、自然な均衡化のプロセスを誘発させるだろう。
 そして、この流れを利用して日本、インド、オーストラリア、ベトナムなど周辺各国を結束させ、中国の台頭を難なく封じ込めてしまうはずだ。
 しかし、中国が非対称戦略を貫いたとしたら、どうなるだろか? 世界各国との経済関係を徐々に深め、節度ある穏やかな行動をとり、じっくりと勢力圏を拡大しながら、世界における重要性と友好と影響力の増大だけを追求するとしたら?
 アメリカの忍耐力と耐久力をすり減らすために、ワシントン政府をアジアの隅へ隅へとゆっくり押しやる戦略をとってきたら?
 傲慢ないじめっ子のアメリカになりかわるべく、代替者としての立場を密かに固めていくとしたら?
 このようなシナリオが現実となったとき、果たしてアメリカはどう対処するのだろうか?」
(ファリード・ザカリア著楡井浩一訳徳間書店『アメリカ後の世界』)

 このような難題についてアメリカには経験もなく準備もほとんどできていないとザカリアは言う。

 中国の台頭が肌で感じられ、その派手な経済的、軍事的プレゼンスに比し、インドのそれは控えめに見える。
 だが、BRICsの生みの親ゴールドマンサックスのジム・オニール会長は言う。

 「ここ10年間、中国の方が高い成長率を達成するとばかり考えていました。今回の出張で『インドの方が高成長を見せるかもしれない』と初めて考えるようになりました。(中略)
 インドは人口統計学的に見て非常に恵まれた状態にあり、新たな小規模な街の都会化が進む高成長期に突入しつつあります。 インフラの水準が不十分であり中国に著しく劣る状態にありますが変化が見られていることが重要だと考えています。」
(2010年11月6日 Viewpoints FROM THE OFFICE OF THE CHAIRMAN-Goldman Sachs )

 インドを一度でも訪れた人は首をかしげるだろう。粗末なインフラと悲惨な貧困、それに根深いカースト制度。
 だが、フリード・ザカリアは、楽観的に見ている。
 脆弱なインフラと貧困については、これらを克服するにインドには大英帝国の遺産である英語に裏打ちされた人的資源とそれを生かした社会の活力がある。
 カースト制については、成長は必ずしも文化によって制約されるものではない、なによりインドにはたぐいまれなる真の民主主義がある。
 インドを特徴づける力強い社会と弱い政府。そして次のように言いきっている。

 「現在のインドに似ているのは、19世紀末のアメリカ合衆国だ。 世界政治におけるアメリカの台頭を大きく遅らせたのは、国内の制約要因だった。
 1890年当時、アメリカはイギリスから世界一の経済大国の地位を奪取していたものの、外交と軍事の面ではまだまだ二流国にすぎなかった。
 軍事力はブルガリアに次ぐ第14位。産業力はイタリアの13倍だが、海軍力はイタリアの8分の1。
 アメリカは国際会議にほとんど参加せず、アメリカの外交官は国際問題においてケチな役回りばかりを演じていた。
 ワシントンDCは小さな地方都市で、アメリカ連邦政府は限定された権力しかもたず、一般的に大統領の地位は要職とみなされていなかった。」(前掲書)

 目の前の現実に心を奪われると、それが何時までも続くと錯覚しがちだが、将来の変化予測は現実世界に囚われることのない想像力にかかっている。
 あたりまえすぎて忘れがちなことだ。

2014年9月8日月曜日

衰退するアメリカ 5

 ファリード・ザカリアは、文明の発達について西洋と非西洋の歴史的経緯について対比している。

 「西暦1000年以降の数百年間、ほぼすべての指標は東洋が西洋の先を行っていたことを示している。
 西洋が中世の闇に沈んでいたころ、中東はギリシャとローマの知識を受け継ぎ、発展させ、数学や物理学や医学や人間学や心理学など多彩な分野で画期的な業績をのこした。(中略)
 最盛期のインドは、科学の鬼才、芸術の天才、建築の俊才を輩出した。
 16世紀初頭のクリシュナ=デーヴァラーヤ王の時代、インド南部の街は、数多くの外国人訪問客から、ローマに匹敵する世界有数の都市であると評価された。
 この数世紀前の中国は、世界一の富と世界一の先端技術をもっていたと考えられる。当時の中国人が使いこなしていた火薬や活版印刷や鎧には、西洋よりも数百年進んだ技術が使われていた。
 この時期は、アフリカの平均所得もヨーロッパを上回っていた。 潮目が変わったのは15世紀だった。そして、16世紀にはもうヨーロッパが世界の先頭に立っていた。」
(ファリード・ザカリア著楡井浩一訳徳間書店『アメリカ後の世界』)

 16世紀以降ルネッサンスに沸く西洋と攻守交替し非西洋諸国は深い眠りについたかの如く科学・技術・産業で足踏みした。
 なぜ文明の進展が逆転したか。
 この疑問は長いこと議論されたが明確な答えは未だにない。   が、私有財産権・良質な統治機関・力強い市民社会はヨーロッパやアメリカの成長に必要不可欠な要素であったとファリード・ザカリアは言う。
 これらの要素を欠けば成長がおぼつかないということになる。そして非西洋社会にはこれらの要素に欠けていたと述べている。

 「対照的に、ロシア皇帝は理論上、国のすべてを所有していた。また清帝国の宮廷をとり仕切っていたのは、商業への侮蔑を隠そうともしない高級官吏たちだ。
 非西洋世界のほとんどの地域では、市民社会はまだまだ弱々しく、政府から自立することなど夢のまた夢だった。
 インドの地方に住む事業家は、気まぐれな王宮の顔色をいつもうかがっていた。
 中国の裕福な商人は、宮廷の歓心を買うべく、事業そっちのけで儒教の古典の習得に励んだ。
 ムガル帝国とオスマン帝国は武人と貴族によって支配されており、(中東には商人の長い伝統があったものの)交易は魅力と重要性に欠けるとみなされていた。
 ヒンドゥー教のカースト制度は商人を低い地位においていたため、インドではこの傾向がさらに強かった。」(前掲書)

 アジアにおける商業主義が数世紀にわたり停滞した原因は、このような国家の構造にありと言う。

 「かってのアジア諸国の大多数は、強権的、中央集権的、略奪的な国家だった。この種の国家は人々に重税を果たす一方、人々に多くを還元しない。
 15世紀から19世紀までのあいだアジアを統治していたのは、おしなべて典型的な東洋の専制君主だった。」(前掲書)

 このようにファリード・ザカリアは、脆弱な市民社会、専制的な統治機関、商業主義への侮蔑等々が非西洋世界を数世紀にわたり休眠させたのではないかと言う。
 では非西洋世界の専制君主などによる中央集権国家がなぜヨーロッパでは見られなかったのか。
 その理由を彼は次のように分析している。

 「王の権力とも対抗しうる史上初の大組織、すなわちキリスト教教会の存在が、ひとつの理由として挙げられる。
 独立した拠点を地方にかまえながら、中央では絶対王政の監視役を務めた地主エリート層の存在も、ひとつの理由として挙げられる(西洋世界初の”権利宣言”であるマグナカルタは、実態的には諸侯の特権を定めた憲章であり、貴族たちが国王に迫って成立させたものだった)。
 そしてヨーロッパの地理的条件も、ひとつの理由として挙げられる。これを究極の理由と呼ぶ向きもあるだろう。
 ヨーロッパは広い川、高い山、深い谷で分断されている。この地形は天然の境界線を数多く生み出し、さまざまな規模の政治共同体を成立させた。
 すなわち都市国家、公国、共和国、国民国家、帝国などだ。
 1500年のヨーロッパには、500以上の国と公国と都市国家が存在していた。
 ここで見られる多様性が意味するのは、理念、人、芸術、金、武器をめぐる絶え間ない競争だ。
 ある場所で不当な扱いを受けたり、軽んじられたりした者は、ほかの場所へ逃れて富や地位を得ることができた。
 そして成功した国家は模倣され、失敗した国家は潰えた。
 ながいあいだ競争にもまれたヨーロッパは、富の蓄積と戦争の遂行という分野で、高度の技能をもつこととなった。
 対照的に、アジアは見わたすかぎりの平地ーロシアの大草原や中国の大平原ーで構成されており、軍隊はほとんど障害なしに、域内をすばやく移動することができる。
 領土を守ってくれる自然の要害がないため、中国人は万里の長城を建設するしかなかった。
 この地理条件は、中央集権化された巨大帝国の維持に貢献し、数世紀にわたる権力掌握を可能にした。」(前掲書)

 このように、なぜ非西洋は長きにわたり休眠し、西洋は休眠しなかったのか、ファリード・ザカリアはこれらを分析し、非西洋が休眠から目覚め台頭する意味およびその可能性について、二つの新興大国である中国とインドについて特筆している。
 大きな歴史の流れをみるに大洋と大陸を浮かび上がらせその他は捨象、そんな彼の意図を検証してみよう。

2014年9月1日月曜日

衰退するアメリカ 4

 アメリカの超党派の非営利組織 『外交問題評議会』 はアメリカ政治の奥の院とも言われる。
 その組織の機関紙 『フォーリン・アフェアーズ』 の編集長に弱冠27歳で抜擢されたインド出身のジャーナリスト ファリード・ザカリアが2008年に上梓したThe Post-Amerikan Worldがアメリカ社会に反響を呼んだ。
 彼はその著書で世界は今、近年3度目のパラダイムシフト期を迎えつつあると言う。
 1度目は15世紀に始まり18世紀に劇的に加速した科学・技術・産業などの近代化を成し遂げた西洋の台頭。
 2度目は19世紀末からのローマ帝国以来 最強となったアメリカの台頭。
 3度目は現在進行中でアメリカ以外のその他の国の台頭である。
 彼は現在進行中の3度目のパラダイムシフトはアメリカの凋落ではなくアメリカ以外のその他の国の台頭である。
 アメリカの絶対的強さの終焉であり、その意味でアメリカの時代が終わりを告げたといっている。
 アメリカに絶対的な力がなくなったとはいえ相対的にはなお当分世界首位の座は揺るがない。
 アメリカは、経済的・軍事的・技術的になお他を圧倒しているがその背景には教育・移民政策などがある。
 特に移民はアメリカの秘密兵器である。

 「すべての人種と民族と宗教信者が対立することなく、ともに暮らしともに働く国家を着々と築きあげている。(中略)
アメリカ生まれの白人層の出生率は、ヨーロッパ並に低い。アメリカが移民を受け入れていなければ、過去四半世紀のGDP成長率はヨーロッパと同水準になっていただろう。
 イノベーションにおけるアメリカの優位性は、移民の産物と言っても過言ではない。
 国内で勤務する科学研究者の50パーセントは、外国人学生もしくは移民であり、2006年には科学博士と工学博士の40パーセント、コンピューター科学博士の65パーセントが、外国人もしくは移民だった。
 2010年には、ありとあらゆる分野の博士課程で、博士号取得者に占める外国人学生の割合が50パーセントを超え、科学の分野に限れば、75パーセントに近づくだろう。
 シリコンヴァレーの新興企業のうち半数の創業者は、移民もしくは二世だ。
 新たな生産性の爆発の可能性、ナノテクノロジーとバイオテクノロジーにおける優位性、未来を創造する能力・・・これらすべてが移民政策によって左右される。
 アメリカの大学で教育した人々を、国内に引きとめられれば、イノベーションはアメリカで起こるだろう。
 彼らを母国へ帰してしまえば、イノベーションも彼らとともに海を渡るだろう。」
(ファリード・ザカリア著楡井浩一訳徳間書店『アメリカ後の世界』)

 イギリスの凋落の主な原因は 『不可逆的な経済の衰退』 であったが、これはアメリカには当て嵌まらないと言う。

 「イギリスの場合、他を寄せつけない経済超大国の地位は数十年の寿命しかなかった。
 しかしアメリカの場合は、すでに130年以上も続いている。
 1880年代半ばから現在まで、アメリカ経済は世界一の座を維持してきた。
 実際、世界の総GDPに占める割合は、驚くほど一定の水準で推移している。
 1940年代と50年代は先進工業諸国が壊滅したため占有率は50パーセントにも達したが、これを除くと、世界経済に占めるアメリカ経済の割合は、100年以上の間、ほぼ四分の一の数字を保ってきた。
 これからの20年間、占有率は下落する可能性が高いが、といって大幅な下落は考えにくい。
 2025年の時点でも、アメリカの名目GDPは中国の二倍の水準を維持する、というのが大方の見方である(ただし、購買力平価で比較すると両者の差は縮まる)。」(前掲書)

 ではなにがアメリカにとって問題なのか。それは、『機能不全に陥ったアメリカ政治』 だとファリード・ザカリアは言う。

 「基本的に言うと、21世紀のアメリカは、経済が弱いわけでなも、社会が退廃しているわけでもない。
 しかし、政治は深刻な機能不全に陥っている。
 誕生から225年を迎え、過度に硬直化した時代遅れの政治システムは、金や、特殊権益や、扇情的なマスコミや、イデオロギー的な攻撃集団によって翻弄されてきた。
 この結果、瑣末な問題をめぐって敵意むき出しの議論が繰り広げられ(政治の劇場化)、政治は実利を取ったり、妥協を成立させたり、計画を実行に移すことがほとんどできなくなってしまった。 ”なせばなる”の国は今や、”何もしない”政治プロセスを背負い、制度に命じられるまま、問題解決よりも党派争いに明け暮れている。
 過去30年間で特殊権益、ロビー活動、利益誘導予算はいずれも増大した。アメリカの政治プロセスは以前と比較して格段に党利党略の度合いが強まり、格段に目標達成の効率が低下している。
 反対反対と小賢しく立ちまわる政治家は、激しい党利党略を助長するだけでなく、党派を超えた尊い呼びかけを聞き逃す可能性が高い。
 一部の政治学者は長きにわたり、アメリカの政党がヨーロッパ化すること ー すなわち純粋なイデオロギーをもち、原理原則を重んじることを望んできた。
 この望みはようやくかなえられた(民主党でも共和党でも穏健な中道派は減少している)ものの、結果として、アメリカ政治は八方ふさがりの状態に陥っている。」(前掲書)

 ファリード・ザカリアはイギリス帝国についでアメリカの一極支配に綻びが生じアメリカの時代は終わりを告げつつあると言っている。
 これがため過去500年にわたり支配的であった西洋の文化・宗教・産業など西洋的価値観は見直され21世紀には全く別の価値観となるかもしれない。
 そうなれば世界の政治的・文化的地図は大幅に塗り替えられることになる。
 だが500年にもわたり西洋的価値観に染まりきっている現代のわれわれは、パラダイムシフトを俄かに信じられないし理解もできない。
 
 「”(アメリカ以外の)その他の台頭”の意味を本当に理解したいなら、”その他”が休眠していた期間を正確に理解する必要がある。」(前掲書)

 と言う。
 しからばファリード・ザカリアが言う”その他の台頭”とはなにか、またその可能性や如何に。
 このインド出身のアカデミックなジャーナリストの予測はアメリカで賛否両論を呼び話題になったという。
 上梓から5年経過した今、彼の予測は少しも色褪せていないようだ。

2014年8月25日月曜日

衰退するアメリカ 3

 エマニュエル・トッドは、『帝国』の資質に必要な2つ目の基準として普遍主義を挙げている。

 「帝国というものの本質的な強さの源泉の一つは、普遍主義という、活力の原理であると同時に安定性の原理でもあるもの、すなわち人間と諸民族を平等主義的に扱う能力である。
 このような姿勢は、征服した民族や個人を中核部に統合することによって権力システムを連続して拡大して行くことを可能にする。
 当初の民族的基盤は止揚される。システムと一体化する人間集団の規模は、被支配者が支配者の一員となることが認められるがゆえに、絶えず拡大を続ける。
 服従した諸民族の心の中で、征服者の当初の暴力は寛大さへと変貌する。」
(エマニュエル・トッド著石崎晴己訳藤原書店『帝国以後』)

 支配者が被支配者に、被支配者が支配者にいつでももなり得るという恰も民主主義体制のごとく、帝国もまた体制維持にはそのことを可能にする公平性・普遍性が不可欠であると言う。

 「アメリカ合衆国それ自体における平等主義的・普遍主義的感情の後退である。その基本的帰結は、アメリカ合衆国が帝国というものに不可欠のイデオロギー手段を失ったということである。
 人類と諸国民についての同質的把握を失ったアメリカは、あまりにも広大な多様な世界に君臨することはできない。
 公正感という武器を、もはやアメリカは所有していない。
 終戦直後ー1950年から1965年ーという時代はそれゆえ、アメリカの歴史の中で普遍主義の絶頂期というべきものであった。
 当時の戦勝国アメリカの普遍主義は、ローマ帝国の普遍主義と同様に謙虚で寛大であった。
 ローマ人はギリシャの哲学、数学、文学、芸術の優越を認めていた。ローマ貴族はやがてギリシャ化していった。
 軍事的勝利者が多くの点で、被征服者の優れた文化に同化したわけである。
 それにローマはオリエントの宗教のうちのいくつかに帰依し、やがてそのうちのただ一つに帰依するに至る。
 アメリカ合衆国は本当に帝国の名に値した時代にあっては、外部の世界に対して知識欲と敬意を抱いていた。
 世界のさまざまな社会の多様性を、政治学や人類学や文学や映画を通して共感をこめて観察し分析していた。
 本物の普遍主義は世界中から最良のものを集めて貯えるものである。征服者の力の強さが文化の融合を可能にするのである。
 アメリカ合衆国において経済・軍事力と知的・文化的寛容とが組み合わさっていたあの時代は、いまでははるか昔のことと思われる。
 2000年の弱体化し生産的でなくなったアメリカは、寛容でもなくなった。専ら己のみが人間の理想を具現しており、いかなる経済的成功の秘訣をも手中にし、己のみが映画と考えられ得る映画を製作していると豪語する。
 このような最近の社会的・文化的覇権への主張、このような自己陶酔的な拡大のプロセスは、アメリカの普遍主義と同時に、その現実の経済・軍事力も劇的に衰退して行く、その数多くある兆しの一つにすぎない。
 世界を支配する力がないために、アメリカは世界が自律的に存在することを否定し、世界中の諸社会が多様であることを否定するのである。」
(前掲書)

 このようにエマニュエル・トッドは、アメリカは「帝国」の資質に不可欠な、安定的なな貢納物の徴収システムと公平性・普遍性を欠いているという。
 さらに、二つの危機がアメリカを襲っているともいう。

 一つはアメリカの帝国としての存在理由である。

 フランシス・フクヤマは民主主義と資本主義が最終的に勝利すればそれは「歴史の終わり」を意味し、かつ、マイケル・ドイルが言うように民主主義国家同士の戦争はあり得ないとすれば、民主主義を普及し戦争を抑止するという大義はなくなり、アメリカの存在理由もなくなる。

 二つ目は、世界経済への依存である。

 「1990年から2000年までの間に、アメリカの貿易赤字は、1000億ドルから4500億ドルに増加した。
 その対外収支の均衡をとるために、アメリカはそれと同額の外国資本のフローを必要とする。
 この第三千年紀開幕にあたって、アメリカ合衆国は自分の生産だけでは生きて行けなくなっていたのである。教育的・人口学的・民主主義的安定化の進行によって、世界がアメリカなしで生きられることを発見しつつあるその時に、アメリカは世界なしでは生きられないことに気付きつつある。」 (前掲書)

 この二つの危機に直面しアメリカは習慣のなせる業で自由と民主主義の言辞を弄しているがその実 国民の統制の効かない寡頭制となってしまった。
 世界の保安官たる任務を全うし己の存在を証明するためにとられた行動が、イラクなどの「弱者を撃つ」という挙であった。
 自由と民主主義の旗手を任ずるアメリカが実質上、自ら民主主義国家であることを放棄してしまったのだ。
 アメリカは『帝国』としての資質に欠けるだけでなく、存在理由が消滅し、世界経済もアメリカを必要としなくなってしまった。
 かくてエマニュエル・トッドはアメリカの帝国としての日は数えられたり、それも2050年まで断言している。予断を持たず論をすすめたい。

2014年8月18日月曜日

衰退するアメリカ 2

 フランスの歴史人口学・家族人類学者である、エマニュエル・トッドは、2002年に発表した「帝国以後」で、2050年までにアメリカの覇権が終わると予言しフランス、ドイツ等でベストセラーとなった。
 彼は真の帝国に値する組織には常に2つの特徴があるという。

 「・・・帝国は軍事的強制から生まれる。そしてその強制が、中心部を養う貢納物の徴収を可能にする。
 ・・・中心部は終いには、征服した民を通常の市民として扱うようになり、通常の市民を被征服民として扱うようになる。
 権力の旺盛な活力は、普遍主義的平等主義の発達をもたらすが、その原因は万人の自由ではなく、万人の抑圧である。
 この専制主義から生まれた普遍主義は、征服民族と被征服民族の間に本質的な差異が存在しなくなった政治的空間の中で、すべての臣民に対する責任へと発展していく。

 この2つの判断基準に依拠するなら、直ちに以下のことが理解できるようになる。
 すなわち、最初は征服者にして略奪者であったが、次いで普遍主義的で、道路、水道、法と平和という恵みを分配したローマは、まさに帝国という名に値していたのに対して、アテネは挫折した一形態にすぎなかった、ということである。(中略)

 この2つの基準に照らしてみると、アメリカは著しい不足振りを呈する。
 それを検討するなら、2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる。
 2つの型の『帝国』の資質がアメリカには特に欠けている。
 その1つは、全世界の現在の搾取水準を維持するには、その軍事的・経済的強制力は不十分である、ということ、2つ目は、そのイデオロギー上の普遍主義は衰退しつつあり、平和と繁栄を保証すると同時に搾取するため、人々と諸国民を平等主義的に扱うことができなくなっている、という点である。」
(エマニュエル・トッド著石崎晴己訳藤原書店『帝国以後』)

 アメリカの軍事能力について、海空の制圧力には疑いの余地はないが、地上戦については、帝国にふさわしい能力を備えていない、帝国を維持するには領土の占領と、慣習的な意味での帝国的空間の形成が不可欠であるからという。
 第2次大戦 欧州戦線でのアメリカ軍の戦いについて厳しい評価を下している。

 「イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考慮すれば、効率性に劣るものだった。
 ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。
 イタリアのモオテ・カッシーノではポーランド人部隊とフランス人部隊、ノルマンディではファレーズで敵軍を分断するのにポーランド人部隊という具合である。
 作戦毎に部族の長と契約して金を支払うという、現在アフガニスタンでアメリカがやっている『流儀』は、それゆえ昔ながらの方法の、さらに悪質化した現代版にすぎない。
 この面ではアメリカはもはやローマにもアテネにも似ておらず、ガリア人傭兵やバレアレス島の投石兵を雇っていたカルタゴに似ている。
 B29はさしずめ象の代わりということになろうが、生憎ハンニバルの役割を果たすものはだれもいない。」(前掲書)

 第2次大戦時、アメリカは、たしかに欧州戦線でも太平洋戦線でも地上接近戦に強いとはいえなかったかもしれない。
 しかし非効率とはいえ圧倒的な物量と技術でカバーした。
 戦後もこの方式は変わらない。これを可能にしているのが全世界からアメリカへの貢納物である。
 アメリカへの貢納物とはなにか。それは基軸通貨ドルを利用したシステムである。

 「アメリカ合衆国の『景気の回復』の度に、世界各地からの製品の輸入は膨れ上がる。
 貿易収支の赤字は増大し、毎年毎年、マイナスの新記録を打ち立てる。ところがわれわれは満足する、というよりむしり、安堵する。
 これはまさに逆様にしたラ・フォンテーヌの世界で、蟻がキリギリスに食べ物を受け取ってくれと頼んでいるようなものなのである。 こうなるとアメリカ合衆国に対するわれわれの態度は、国家が景気刺激策を打ち出すのを待望する、全世界的なケインズ的国家の臣民の態度に他ならない。
 現にケインズの見解では、需要を下支えするために消費するというのは、国家の機能の一つである。
 その『一般理論』の末尾で彼は、ピラミッドを建設するフォアラについてちょっとした優しい言葉をかけている。
 彼は浪費を行うが、それによって経済活動の調整を行っているわけである。アメリカはわれわれのピラミッド、全世界の労働によって維持されるピラミッドに他ならない。
 このケインズ的国家としてのアメリカというヴィジョンと、グローバリゼーションの政治的解釈とは完全に適合するということ、これは確認せざるを得ないのである。
 アメリカ合衆国の貿易収支の赤字は、このモデルで言うなら、帝国が徴収する課徴金と定義されなければならない。
 アメリカ社会は経済的観点からすると、世界全体にとって国家となった、ということになる。」(前掲書)

 非生産的で金融に支えられたアメリカ。これがエマニュエル・トッドがいうアメリカの『中心部を養う貢納物の徴収』システムであるが、この信頼性には疑問があるという。

 「アメリカはローマのような軍事力を持っていない。その世界に対する権力は、周縁部の朝貢国の指導階級の同意なしには成り立たない。
 徴収率が一定限度を越え、資産運用の安全性の欠如が一定水準を越えると、彼らにとって帝国への加盟はもしかしたら妥当な選択ではなくなってしまう。
 われわれの自発的隷属は、アメリカ合衆国がわれわれを公平に扱うのでなければ、さらに的確に言うなら、われわれをますます中心的支配社会の成員とみなすようになるーこれこそあらゆる帝国の力学の原理そのものであるーのでなければ、維持され得ないであろう。」(前掲書)

 このシステムは公平性、普遍主義が生かされてはじめて機能するが、アメリカはこれから遠ざかっているという。

2014年8月11日月曜日

衰退するアメリカ 1

 1897年6月22日は大英帝国ビクトリア女王の在位60周年記念日であった。

 「八歳のアーノルド・J・トインビーが叔父に肩車された状態で、パレードを食い入るように見つめていた。
 のちに有名な歴史家となったトインビーは、当日の壮大な式典を思い返し、こう感想を記している。
 『まるで太陽が天界の真ん中で静止したかのようだった。ヨシュアの命令で静止したときと同様に・・・。
 わたしは当時の雰囲気をおぼえている。
 ”おお、われわれが今いるのは世界のてっぺんだ。永遠にここにとどまり続けるべく、われわれは頂点まで登りつめてきた。
 もちろん、歴史というものの存在は知っている。しかし、あの歴史という不愉快なものは、ほかの連中の身に降りかかってくるものだ。われわれは愉快にも歴史の枠外にいる”』」
(ファリード・ザカリア著楡井浩一訳徳間書店『アメリカ後の世界』)

 八歳時のトインビーに限らず、天界の光輝く太陽は、その場にいる人にとってはいつまでも没することがない錯覚にとらわれるにちがいない。
 この記念日からわずか2年後大英帝国はボーア戦争にてこずり帝国の威信に翳りが見え始めた。

 アメリカのブッシュ政権が仕掛けたイラク戦争は国際社会から批判を浴び、アメリカの威信を傷つけたが大英帝国のボーア戦争と重ね合わせに見える。
 覇権国はいづれ衰亡の時を迎える。

 「研究者と評論家の多くは、新興諸国の躍進を目のあたりにして、アメリカの全盛期は過ぎたという結論を下してきた。
 インテル創業者のアンディ・グローブは次のように断じている。  『アメリカはヨーロッパ衰退の二の舞を演じつつある。最悪なのは、誰もそれに気づこうとしないことだ。タイタニック号が全速力で氷山に向かっているというのに、誰もが現実から目を背け、仲間うちの自画自賛に明け暮れている』」(前掲書)

 先見の明あるからこそ成功したであろうインテル創業者の指摘にはそれなりに重みがあると思うが、アンディ・グローブの指摘などには目もくれず、アメリカはいつまでも天界の太陽であるかのごとくふるまっている。
 国際社会も、世界中のどこかで紛争があればアメリカが解決してくれるのではないかと密かに期待している。
 途上国のみならず先進国も、アメリカに注目している。
 リーマンショックは全世界に多大な影響を及ぼし爾来アメリカの一挙手一投足から目が離せないでいる。
 世界はアメリカの覇権が揺るがないことを暗々裏に期待しているかのようだ。
 米ドルは世界中どこでもハードカレンシーだし、米国軍事予算は一国で世界の約50%を占める。
 覇権国アメリカとともに同時代を生きるわれわれは、トインビーならずとも、アメリカの覇権は永遠に続くという錯覚に陥りかねない。 ましてアメリカの衰亡などと言われてもにわかに信じられない。
 長きにわたりアメリカの威信を眼前で見せつけられてきたのだから。

 が、現実の世界では、アメリカが介入する紛争で綻びが見えはじめ、アメリカの威信にも翳りが見え始めている。
 アメリカの最盛期は過ぎ、密かに衰亡への途を辿っていると見る識者は多い。
 いずれやってくるであろう覇権国アメリカの脱落は何時なのか、またどのような方法でやってくるのか。これに対し日本の対処は。 識者の著作を手がかりに考えてみたい。

2014年8月4日月曜日

移民政策 6

 元法務官僚の坂中英徳氏は、日本はもともと雑種文化であり、ルーツも北方、西方および南方渡来の寄せ集めであり、大量の移民受入れも何ら違和感はないと言い、産業競争力会議の竹中平蔵議員は、アメリカでもオーストラリアでも成長戦略を議論する場合には、まず最初に移民の問題を議論すると言った。
 これらの発言を聞けば、日本もアメリカのように、移民によって世界の英知を集めれば、人口減対策にもなるし、国の発展に寄与すると思う誘惑にかられるかもしれない。
 しかしこれほど主体性を欠いた議論はない。
 坂中氏のいうルーツとはいつのことか、先史時代と現代とを比較してどれほどの意味があるのか。人間のルーツは猿であったと言ったほうがまだ罪は少ない。前者はいかにも関連性があるかのような錯覚を起こすからである。
 産業競争力会議の竹中平蔵議員がアメリカやオーストラリアの例を持ち出しているが、これらの国は最初から移民で成り立っており、これらの国とわが国を同列で比較するのは乱暴すぎる。
 主体性、それも国家としての主体性を欠いた議論ほど国の将来を危うくするものはない。
 外国人労働者受入れは、移民政策につながる 「国のありかた」 を変えかねない政策である以上「国のありかた」 という原点に立ち返ってこの政策は検討さるべきである。

 幕末までの日本は、中国から朝鮮半島経由で中華文明が入ってきた。明治維新以降は、西欧文明が容赦なく入ってきた。入ってきたがそれを丸呑みすることはなく取捨選択あるいは拒絶し、独自のものに作り上げた。
 作り変えたものの中には、例えば律令制がある。法家の思想による中国の律令は中国皇帝の冊封を受けなければ許されなかった。日本は冊封を受けておらず独自に律令体系を作った。
 拒絶したものには、中国の、宦官、纏足、科挙、食人の習慣がある。
 キリスト教は仏教ほど布教に成功していない。厳格な一神教が日本の『古層』に馴染めなかったのだろう。が、キリスト教的禁欲主義から生まれた資本主義の精神は受け入れた。
 マックス・ウエーバーは、労働は救済であり資本主義精神の真髄は目的合理性であると言っている。
 主神自ら繭を育てて働くような日本の土壌にあっていたからであろう。
 菅原道真は和魂漢才、佐久間像山は和魂洋才といったがいずれも日本流の外国文化の受け入れ方である。
 日本思想史を深く研究した丸山真男教授は、わが国のかたちを次のように論じている。

 「ここでは、記紀神話の冒頭の叙述から抽出した発想様式を、かりに歴史意識の『古層』と呼び、そのいくつかのーこれまた平凡なー基底範疇をひろってゆくが、それは歴史にかんする、われわれの祖先の文字通り『最古』の考えを指すわけではむろんない。 そうした『最古』なるものはどの分野でもそもそも検出不能であるが、とりわけ『書かれた歴史』を素材にするこの稿では、一層無意味である。
 それどころか、ここでの『論証』は一種の循環論法になることを承知で論がすすめられていることを、あらかじめ断っておきたい。 というのは、右にいう『古層』は、直接には開闢神話の叙述あるいはその用字法の発想から汲みとられているが、同時に、その後長く日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプローチの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高にひびきつづけてきた、執拗な持続低音(basso ostinato)を聴きわけ、そこから逆に上流へ、つまり古代へとその軌跡を辿ることによって導き出されたものだからである。
 こういう仕方が有効かどうかは大方の批判に俟つほかないが、少なくともそれを可能にさせる基礎には、われわれの 『くに』 が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の形態などの点で、世界の『文明国』のなかで比較すればまったく例外的といえるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持して来た、というあの重たい歴史的現実が横たわっている。」
 (丸山真男著ちくま学芸文庫『忠誠と反逆』の 歴史意識の『古層』から)

 難解な文であるが、日本という 『くに』 の本質を的確についていると思う。日本文明は、少なくとも千数百年その基礎の部分では変わっていない。独自文明という意味では、アメリカの政治学者ハンチントンもその著作「文明の衝突」で日本文明を世界七大文明の一つに採り上げている。
 日本は様々なものを受け入れてきた。あるものはそのまま取り入れ。あるものは修正して取り入れ。あるものは拒絶した。
 その判断の基準は、日本の『古層』にあるという。丸山教授は、この『古層』に働きかける変化について次のように言う。

 「漢意(からごころ)・仏意(ほとけごころ)・洋意(えびすごころ)に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした『古層』は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる格好の土壌となった。(中略)
 もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける『変化の持続』は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。」(前掲書)

 日本は千数百年来等質性を保持して来た。
 これこそ稀有な一国一文明の根幹である。中華文明と西洋文明が時を隔て怒涛のごとく押し寄せてきたが、それらは丸山教授がいう日本人の『古層』の意識にを刺激をあたえたが取って代わられるようなことはついになかった。

 移民から成り立ち世界の覇権国になったアメリカ、移民政策が曲がり角にきているEU諸国、中でもドイツのメルケル首相は移民政策は失敗であったと公言している。
 この両者の事例から我々が学ぶことがあるとすれが、論をまたず後者であろう。

2014年7月28日月曜日

移民政策 5

 1972年にローマクラブが発表した「成長の限界」で人口は等比級数的に増加するが、食料は等差級数的にしか増加しない。
 このため地球の成長は人口増加と環境汚染で100年以内に成長の限界に達すると警鐘を鳴らした。
 1970年日本の人口は約1億500万人であった。当時でさえ人口密度は高すぎると言われた。わずか42年前である。
 そして今、先進各国は人口減少は成長の妨げとばかりに少子化対策や移民政策に熱心である。
 変わり身の速さといえば聞こえはいいが、まるで健忘症ではないか。
 なぜこのようなことになったか。経済は永遠に成長し続けなければならないという脅迫観念にでもとりつかれたのかもしれない。
 現実の問題として労働力人口の減少と社会保障費負担の増大が目の前に迫り懸念されている。

 まず労働力人口の減少から

 労働人口の減少で現在の経済活動が維持できなくなるといわれている。
 が、人口変動を専門に研究している古田隆彦氏は、江戸中期の人口は1732年の3230万人をピークに、集約農業文明の限界と連続した大飢饉が重なり、子供を作るより自分を守るという本能的な人口抑制装置が作動し以後60年に渡って減り続けた。
 人口は減ったが生産性を上げることによって米の生産量は変わらなかったと言う。

 「江戸中期だけでなく、14世紀のヨーロッパでも同じことが起きています。このときの原因はペストです。
 1340年頃に約7400万人に達したヨーロッパは、ペストが大流行し、たった10年間で約5100万人に激減するのです。
 この後も減り、人口が回復するまでに150年かかっています。
これだけ働き手が減っても農業生産量は保たれていたのです。江戸と同じように工夫によって労働生産性を上げたのです。
 イギリスでは人口の4割が減ったため、農業労働者の雇用賃金は高騰して、2倍になり、15世紀には農業労働者の黄金時代を迎えます。
 ペストによって結果的には個人所得と生産性が両方共に上がったわけです。
 この時代に比べればいまや工場は自動化、ロボット化され、労働生産性をさらに上げることは可能でしょう。
 仮にGDP(国内総生産)がゼロ成長になっても、生産性を上げていけば、人口が減る分だけ個人所得は増えて、生活水準は高くなるのです。」(NIKKEIBP NET人口減少影響解説インタビュー2005.9.5)

 次に社会保障費負担増大について

 社会保障費負担増と少子化については、社会保障費とくに年金制度との関係で検討されるべき問題である。
 日本の公的年金制度は戦後積み立て方式からスタートした。積み立て方式の年金制度は人口の増減との関連性はない。
 少子化との関連性が言われるようになったのは年金積み立て方式の破綻がきっかけであろう。
 花澤元厚生省年金課長が自身の厚生年金制度回顧録で臆面もなく「集めた年金保険料はどんどん使って、後で年金支払いのときに困るようなことになれば、賦課方式にすれば良い」と言った。
 AIJ投資顧問の200億円以上の年金の損失は社会問題になったが、厚生省の年金積み立て欠損は90兆以上ともいわれ、「巨悪は眠る」を地でいくストーリだ。
 年金問題の実態は未だ全貌が明らかにされたとは言えず、社会保険庁が悪かったとか管理が杜撰であったとか問題が矮小化されたままである。
 このような場合、真の原因は他にある。花澤元厚生省年金課長の上述の言などは、その一つである。
 最近になって少子化で人口減少がクローズアップされると、外国人労働者を受入れて、労働力人口を増やし年金制度を維持すべしとの論調が目立つ。
 が、外国人労働者は年金制度維持に役立つどころか破綻に拍車をかける。
 少なくともドイツの例では、
 「社会保障費を補填してくれるはずだった外国人労働者たちは、多くのケースで、それを食い潰す存在になった。」(川口マーン恵美著講談社+α新書『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』)
 ヒトはモノのようには扱えないのだから自然の帰結といえる。
 この点でもドイツは反面教師となる。

 労働力人口の減少や社会保障費負担増から派生する問題は、少子化問題を解決すればすべて解消するなどといった短絡的な考えでは通用しそうにない。
 急がば回れ。さすれば解決の糸口も見出せよう。