2013年10月28日月曜日

経済格差 1

 日本の雇用形態は、パートタイマー、派遣社員、非正規社員などがかってなく増え、格差が問題になっている。
 高度成長期(1955~1973頃)は、一億総中流といわれ経済格差を問題にする人は少なかった。
 今となっては、高度経済成長期の約20年間など、日本歴史2600年のなかでは「異常な期間」という説さえある。

 下のグラフは、総務省統計局の2009年全国消費実態調査から等価可処分所得のジニ係数の国際比較で、日本のジニ係数は1980年代以降一貫して上昇している。
 経済格差が一貫して拡大基調にあるということになる。
(等価可処分所得は世帯単位で集計した可処分所得をもとに、構成員の生活水準を表すように調整したもの。ジニ係数は 1 に近いほど不平等が大)

図2 等価可処分所得のジニ係数の国際比較(総世帯)


 下図は「The Great Gatsby Curve」という指標で、総務省統計局統計調査部消費統計課 吉岡課長が紹介したもので解説も同課長によるもの。


The Great Gatsby Curve

解説

 「2008年にノーベル経済学賞を授賞されたクルーグマン教授が今年(2012)1月15日付けのニューヨーク・タイムズのブログで米国大統領経済諮問委員会委員長であるクリューガー教授の「グレート・ギャッツビー・カーブ」という不平等に関する考え方を紹介しています。
 下のグラフは横軸にジニ係数、縦軸に世代間の所得弾性値を取っています。
 世代間の所得弾性値とは、例えば、親の世代の所得が1パーセント上昇すれば、子供の世代の所得がどれくらい影響を受けるかの指標であり、後の世代に対して(資産ではなく)所得が「相続」されるとすれば高い値を取ることとなります。
 すなわち、高所得の親の子供がやはり高所得であれば、この弾性値は高い値を示し、逆に、子供の世代の所得が親の世代の所得から独立であれば弾性値は低くなります。
 ですから、高所得又は低所得が親から子に世代をまたいで受け継がれるとすれば、社会全体のジニ係数は高くなることが示唆されています。
 米英でジニ係数が高くて不平等の度合いが大きいのは、親から子へと世代を通じて不平等が代々に渡って波及している可能性があるといえます。」


 この図で日本社会の国際社会における経済格差の立ち位置がよくわかる。
 格差と世襲がアングロサクソン諸国よりは少ないが、北欧諸国より多い、独仏との比較では、世襲がフランスより少なく、格差がドイツより多い。
 日本社会は、現在のところ先進国の中では、経済格差は略中程度ということになる。
 問題は今後の傾向だ。
上のジニ係数のグラフが示すように、日本のジニ係数が一貫して上がっているのが気になる。
 吉岡消費統計課長の解説にもあるように、世襲の度合いが強くなればなるほど社会全体のジニ係数が高くなり格差が拡大する傾向にある。
 日本社会は今後どうなるか。
アングロサクソン型社会に向かうのか、それとも北欧型社会を志向するのだろうか。
 次稿で考えてみたい。


2013年10月21日月曜日

民主主義考 5

 日本は平和で、外国からの脅威は多少あるもののアメリカと同盟を結んでいる限りまず安全だろう。
 政治家は少々頼りなくとも、日本には優秀な官僚がいる。治安もよく失業者も外国に比べたら少ない。何より安定した民主主義国である。
 このように考える人に対して、”日本の民主主義は名ばかりで、外国の脅威にさらされ国自体も不安定である” などと言おうものなら、バカも休み休み言えと罵声を浴びせかけられるだろう。
 このことについて、小室直樹博士の著述を交え以下検証していきたい。

 近代デモクラシーの大前提は「約束を守る」ことであるが、残念ながら日本の政治では守られているとはいい難い。
 遠くは、自社さ連立政権、近くは、民主党政権がその典型である。
 選挙時の公約が守られるどころか、公約とは真逆のことを実行している。
 日本においては、選挙の公約は、取り扱いが融通無碍。政治家は、情勢が変われば、公約にこだわらなくともよいとでも考えているようだ。国民もそのことに寛容である。
 が、これほど民主主義の前提を無視したものはない。
欧米では、選挙時の公約は、なにがなんでも守ろうとするし、守れなければ自ら辞任するか、さもなくば辞任に追い込まれる。
 19世紀英国で、サー・ロバート・ピール内閣の穀物法廃止を公約違反だとして、同じ保守党のディズレーリが追求し、辞任にまで追い込んだ。
 これ以降、英国民には、政治家の公約は厳正に守られるべきものという考えが刷り込まれた。

 近代デモクラシーの前提は「約束を守る」ことであるが、根本的条件は「三権分立の機能」であると、小室直樹博士はいう。

 「議会主義デモクラシーが機能するための最大の条件は何か。
第一には、国民の代表によって議会が形成されること。
第二に議会における討論によって国策が決定されること。
そして第三に議会にして最大の条件は、”国会が立法の機能を失っていない”ということ。
・・・・・・・・・・
 日本の三権は官僚に簒奪されてしまった。三権分立のないデモクラシーはあり得ない。
 今の日本は、デモクラシーを止めて役人クラシーの国に成り果てた。
 ”国会は、国権の最高機関”(憲法41条)とは名のみであって、実は、官僚の傀儡である。
 デモクラシー(リベラル・デモクラシー)であるかないかを判断する上で、憲法(の条文)があるかないかは、余り関係ない。
 英国憲法は十八世紀の半ば頃に成立したと言われ、世界中の憲法の手本になっている。その英国憲法に明文はない。又明文化された憲法がデモクラシーを謳っていても、その憲法に実効性がなければ、その政治はデモクラシーとは言えない。
 憲法は改正されたと解釈されなければならない。
現在の日本はどうか。角栄後、デモクラシーは死んだ。憲法は改正されたと解釈されるべきである。」(ビジネス社小室直樹著 日本いまだ近代国家に非ず)

 これを少しく敷衍しよう。
まず、条件第二の議会における討論によって国策が決定されること。
 これは国会法第七八条「各議院は、国政に携わる議員に自由討論の機会を与えるため、少なくとも、二週間に一回その会議を開くことを要する。」 
 このように自由討論の場が法律で定められているにも拘わらず、この条文は実益なしとし発効八年後の昭和三十年に削除された。

 「自由討論こそ議会政治の生命であるのに、今や、そんなものは薬にしたくもない。
 日本の議会は、自由討論とは無縁の衆生となった。官僚の書いた原稿の棒読みの光景ばかりが、余りにも屡々テレビなどで見せつけられ、周知なこととなったものだから、国民もいつしか呆れ果てるのも忘れ、政治家は役人の木偶だと諦めてしまった。
 しかも、国会の機能喪失は自由討論の廃止に始まると記す史家も居ない。これ又、特筆すべきことであろう。」(同上)

 次に、条件第三の国会が立法の機能を失っていないこと。
 法律を作るのは議員であって、官僚はその法律に基づいて運営する。
 これが本来の姿であるが、日本では議員立法は殆どないに等しい。法律を作成するのは、専ら官僚の手に委ねられている。
 官僚にとって、国会議員が法案作成能力に欠けていることは歓迎すべきこと。
 法律に基づいて国を運営することもひとつの権力だが、法律を作るということはもっと大きな権力であり、この手に入れた権力を官僚がみすみす手放す筈がなく、うがった見方をすれば、国会議員にはいまのまま法案作成能力なしの状態でいてほしい。
 このような有様では、とても国会が立法機能を果しているとはいい難い。

 かかる状況を鑑みて、小室直樹博士は、日本には、議会主義デモクラシーはなく、司法も役人に簒奪されていると、(同上)書で縷説している。
 かくて日本の憲法は実質上改正され、デモクラシー国家とは名ばかりとなった。

 ここで改めて、マックス・ウエーバの政治学の大定理 ”最良の官僚は、最悪の政治家である”を考えてみたい。

 小室直樹博士はいう
 「官僚に問われるのは、所与の状況への適応能力である。固定した状況への適応能力である。
 官僚は、この能力を発揮するようにのみ条件付けられている。
良い官僚であればあるほど、この条件付けは徹底したものとなる。
 そうすれば、どういうことになるか。
官僚、特に良い官僚は、条件は所与のもの、固定して動かないものであると思い込む(意識においても無意識においても)ようになる。
 このように条件反射するようになる。これ以外には条件反射出来ないようになってしまう。習い性と成る(書経)のである。
 斯かる官僚にとって、状況が変化するなどということは、あり得べからざることである。
 不変の状況下では泰然自若であった官僚も、忽ち動転して、周章狼狽して策の出るところを知らない。
 この時どうする。此処が政治家(君主)の出番なのである。
政治家(君主)こそ、変化する状況への適応能力を発揮しなければならない。運命を制御しなければならないのである。
 これぞ政治家の本領、此処にこそ政治家の存在価値がある。」(同上)

 近代国家にとって官僚制なしで統治することは出来ない。官僚制は不可欠だ。
 官僚にとっては法律が全てであり、これを遵守する番人でもある。
 過去の慣例に反することなど官僚の世界では掟破りである。
法と慣例、これを厳格に守れば守るほど優秀な官僚ということになる。
 官僚に新しい事態とか未経験の領域に対応せよなどというのは、”木に縁りて魚を求む”ようなものだ。
 平穏無事、不変の状況下では、官僚に、実質上、三権を簒奪されても致命的な打撃とはならない。
 しかしながら一旦事が起き、動乱の時勢が来れば直ちに国家の死活にかかわる。
 先の大戦では、軍事官僚が、マックス・ウエーバの ”最良の官僚は、最悪の政治家である”という政治学の定理を破り、国家の三権を簒奪した。
 それによってもたらされた悲劇は記憶に新しい。
そして今また同じく、官僚が政治学の定理を破り、国家の三権を実質上簒奪している。
 とても安定した民主主義国家とは言えない。
この国は、もはや過去の苦い経験を生かすことができなくなってしまったのだろうか。
 一見平穏なこういう時こそ、古今東西の社会科学を跋渉した小室直樹博士の識見を拳々服膺したい。

2013年10月14日月曜日

民主主義考 4

 「資本主義にしても、民主主義にしても、その根っこを掘っていけば、かならずキリスト教に突き当たる。
 キリスト教の"神”があって初めて、人間は平等だという観念が生まれたのだし、また労働こそが救済になるという考えがなければ、資本主義は生まれてこなかった。
 それだけでも日本人にとって、いろいろ考えさせられるわけですが、実はこれ以外にも大きな問題があるのです。
 それは契約という概念です。この単語は、民主主義にとっても資本主義にとっても欠かすことのできないものなのですが、これもまた聖書から生まれた考えなのです。
 はたして日本人は民主主義、資本主義を理解し、体得しているのか。そのゆゆしい問題を考えるうえで、契約は避けて通ることのできない問題です。」 (集英社「日本人のための憲法原論」)

 小室直樹博士は、このように民主主義の成り立ちについて述べ、キリスト教徒でもない日本人がはたして真に民主主義を理解しているのか疑問を投げかけている。
 そして同博士は、キリスト教と契約について次のように述べている。

 「旧約聖書とは要するに、神様との契約を破ったら、どんなひどう目に遭うかという、その実例が ”これでもかこれでもか”と書いてある本なのです。
 したがって旧約聖書の教えというのは、”こんな目に遭いたくなければ、神様との契約を守りなさい”という、ただそれだけなのです。
・・・・・この神様との契約をのちに改訂したのが、キリスト教の創始者であるイエスです。・・・・・
 イエスは十字架にかかることで、神様との契約を改訂して新しい宗教、つまりキリスト教を打ち立てます。
 それにともなって、新しい聖典が作られた。それが新約聖書です。”新約”とは、新しい契約という意味です。
 したがって、旧約聖書を聖典にするユダヤ教も”契約の宗教”ですが、キリスト教もまた”契約の宗教”。
 契約の内容は異なりますが、ともに契約がその中心にあるというわけです」(同上)

 同博士は、民主主義の根っこにあるキリスト教の由来から説明し、近代デモクラシーの大前提が「契約を守る」ことであるという。
 神との契約は、神が一方的に人間に与えるものであり、人間同士の契約は、両当事者の合意によって成立するという違いがあるが、「契約は絶対である」という点でなんら異なることはない。
 そしてこの「契約は絶対であり、契約は守らなければならない」というエートスは欧米人に深く根付いているという。

 「たしかに現代では欧米人も昔ほど信仰熱心ではありません。日曜日ごとに教会に行く人は少なくなりました。
 しかし彼らのエートス、行動原理が完全に宗教離れしているかといえば、それは違います。
 彼らが先祖から受け継いできたエートスを作ったのは、他ならぬキリスト教であり、聖書です。
 彼ら自身が意識するしないは別として、聖書は今でも彼らのエートスの中に生きているのです」
(同上)

 翻って日本はどうか、近代デモクラシーの大前提である「契約を守る」ということについての日本人のエートスはどうか

 例えば、我々は商談でどのような会話を交わすか
 商談が重要であればあるほど、一席もうけられる。
そこではゴルフ、釣り、その他趣味 世間話等に商談の殆どの時間が費やされる。
 そして商談の最後に 
 「あの件をよろしく」 
と当事者の一方がいえば、相手が
 「わかった、俺を信用してくれ」 とか「悪いようにはしないから」 
でケリがつく。
 これで約束が成立、もしくは実質上の契約成立である。
このようなやりとりを、日本人は男らしくかっこいいと思う。
 こういう席で、細かい契約のことなど持ちだしたら、水くさいとか野暮と思われかえって商談がうまくいかなくなる。
 このようなことは、日本人の間だけに通じることで、欧米人に通じる筈もない。
 欧米人にとって、これは約束でもなんでもないし、まして契約などである筈もない。
 欧米人にとって契約とは、言葉によって記された約束である。
もっとも近年国際化が進み欧米相手のビジネスでは、日本人も契約の概念にシビアになったが、日常生活一般では旧来の約束とか腹芸が、まだまだ巾をきかせている。
 ことは民主主義の根幹にかかわることであり、欧米と日本の習慣の違いなどで済まされる問題ではない。
 単なる習慣の違いなどと思っていることに大きな落とし穴がある。
 にも拘わらず日本人はこの近代デモクラシーの大前提である「約束を守る」ことの重大さに気付いていない。
 次稿で、民主主義とは名ばかりの現代日本の真の姿と、それによってもたらされている災難を小室直樹博士に炙り出してもらい問題の所在を明らかにしたい。

2013年10月7日月曜日

民主主義考 3

 丸山真男は、民主主義運動の経緯を次のように述べている。

 「文化活動は、文化団体や文化人に、政治活動は政治団体や政治家にそれぞれ還元されてしまうから、文化団体である以上、政治活動をすべきでない、教育者は教育者らしく政治に口を出すなというふうに考えられやすいのです。
 こういう傾向がはなはだしくなってくると、政治活動は職業政治家の集団である”政界”の専有物とされ、政治は国会のなかにだけ封じこめることになります。
 ですから、それ以外の広い社会の場で、政治家以外の人によって行われる政治活動は本来の分限をこえた行動あるいは”暴力”のようにみなされるようになる。
 ところがいうまでもなく、民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで開放する運動として発達したものなのです。そして、民主主義をになう市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。
 とすれば、民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市民の政治的関心によって、また”政界”以外の領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」(日本の思想 岩波新書)

 「税制はプロである俺たちに任せろ、素人はそこのけ」
 このような発言が、いかに民主主義の精神から縁遠いか。
遺憾ながら、この類いの発言が現代の政治家からなされている。

 丸山真男は、民主主義実現には不断の努力と運動が不可欠と考えた。彼の考え方の基本は一貫して次の主張からなっており、その後も繰り返し主張している。

 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。
 それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。
 民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」(日本の思想 岩波新書)

 この論旨を敷衍してみよう。
 民主主義という制度があるだけでは駄目で、理念と運動を伴なってはじめて民主主義といえる。
 民主主義の理念は、人民が支配するという、政治の現実と反するパラドックスである。
 如何なる時代でも、支配は、少数の多数に対する関係であって、人民が支配するということは、それ自体がパラドックスである。
 統治されるものが統治する、被統治者が統治者になるという日々の運動の中で民主主義の理念は実現される。民主主義が制度として確立されただけでは民主主義は実現されない。
 多数の被統治者が統治主体を目指して権利を実現する運動をつづけることによって、統治者と被統治者が固定化されることを防げる。このような不断の民主主義を求める運動によってはじめて人民の権利は保障される。

 この運動を丸山真男は永久革命と定義した。


 「もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。
 なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても支配は少数の多数にたいする関係であって、人民の支配ということは、それ自体が逆説的なものだ。
 だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する」(丸山眞男集第16巻 岩波書店)


 丸山真男は戦後民主主義運動の理論的リーダと言われた。
 彼に対する批判はともかくとして、彼の学問的立場は、民主主義を求めて止まない精神であったことは間違いない。
 彼はひたすら民主主義実現についての研究に没頭し、これの啓発に努めた。
 彼の学問的情熱の一部は、彼が青年期の一時期、ファシズム下の日本で、ふとしたことから官憲に拘束され強大な国家権力を身をもって体験したこと、また望まざる悲惨な軍隊生活に由来しているのかもしれない。
 大東亜戦争イデオロギーの破綻後、ようやく手にした民主主義が、かつての進化論や啓蒙思想のように、日本的共同体に吸い込まれて解体されてしまうこと。
 これだけは何としても避けなければならない。少なくともそういう想いは彼の主張の端々から読み取ることができる。