2018年8月27日月曜日

判官びいき

 弱い立場の人への理屈抜きの同情は人類共通の感情であろう。わが国ではそれが判官びいきとなってしばしば集団心理を形成することがある。
 規律ある集団心理はややもすると規律を欠いた群集心理に変わることがあるからやっかいである。
 フランスの社会心理学者ル・ボンは群集心理には4つの法則があるという。
  ① 道徳性の低下 
  ② 暗示にかかりやすくなる 
  ③ 思考が単純になる 
  ④ 感情的な動揺が激しくなる

 今夏甲子園における高校野球では例年以上に判官びいきが見られた。
 秋田の公立高校・金足農業への応援がそれである。この応援は自然な感情であろうが、これが昂じて同校の対戦相手へのヤジとなった。
 対戦相手校からすれば何でわが校が敵役となりアウエーの気分で試合に望まなければならないのかと思うだろう。
 厳しい練習を積み重ねて正々堂々と難関を突破して甲子園出場を果たしたことに何ら変わりはない。ひいきをされない側にとって判官びいきは理不尽な仕打ちとなる。

 判官びいき、この言葉の由来から理非曲直を冷静に分析すればそれがいかに一方的であるかがわかる。

 九郎判官と呼ばれた源義経は異母兄の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれに馳せ参じ一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で勝利し平氏討伐の最大の功労者となった。
 この華々しい戦果にもかかわらずその後の一連の行動によって義経は頼朝の反感を買い最終的に追い詰められ東北の地・平泉で自刃した。
 この悲劇は兄弟間の恨みとか確執に起因するという説もあるがそれ以上に二人には決定的な違いがあった。
 義経は平氏を打倒してその座に平氏に替わり源氏が座ることを考えていた。
 一方頼朝は平氏を打倒してそれまでの公家中心から武家中心による政治を築こうと考えていた。
 義経が考えていたことを中国歴代王朝の交替である易姓革命にたとえれば、頼朝のそれは社会を根底から変える武家革命といえる。
 兄弟の目指すところは全く異なっていた。悲劇の淵源はこの同床異夢に根ざしていると考えられる。
 しかし史実とはおかまいなしに悲劇の主人公義経伝説は独り歩きし800年以上もの間日本中をかけめぐり今後も続くことだろう。
 華々しい功績にもかかわらず兄・頼朝によって滅ぼされたかわいそうな弟・九郎判官。
 人びとは兄を悪役に仕立て弟に同情した。判官びいきはこのような背景から生まれた。

 われわれはメディアにあおられてどうしても同情される側にだけ目がいきその反対側にいる人たちのことに想いが至らない。一方的でいいはずがない。

2018年8月20日月曜日

ボランティア

 先週山口県で行方不明になった2歳の男の子が3日ぶりに保護されたという明るいニュースが話題になった。
 保護したのは大分県の78歳ボランティア尾畠春夫さん。男の子を手渡したとき母親のうれしそうな顔をみて涙が出たという。
 尾畠さんはいう「何も求めないのが私は真のボランティアだと思うんですよ」と。
 中国の儒家 孟子は人にはみな他者の苦境を見過ごせない『忍びざるの心』があるという。
 ボランティアの原点はこの『忍びざるの心』にあるのではなかろうか。
 ところでこのニュースにコメントを求められた社会学者の古市憲寿氏は

 「日本中で60歳とか65歳で会社定年して、やる気あるけど時間をもてあましている人ってたくさんいるわけじゃないですか。
 そういう人にとっても、すごい一個のモデルになるというか、すごい素敵な生き方だなと思うんですけど。
 ただ、誰も彼もが尾畠さんになれるわけじゃないから、真似して逆に迷惑をかける人が多そうですよね。」(フジテレビ系『とくダネ!』)

 と言ってのけこの話題に水を差した。人の行動を素直に信用できない疑心暗鬼の世相を反映している。

 真似することは必ずしも悪くない。吉田兼好も言っている。
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」(徒然草85段)

 偽善は悪いことばかりではない善になることもある、というヤボなコメントをつけ加えておこう。

 たしかに尾畠さんのような強い信念を持った人はまれだろう。だからこそ尾畠さんの生き方が人びとに感動を与えたのだ。
 この救出劇は万事カネが幅を利かす世の中に一石を投じた。肝心なことは真似するかしないかではなく『人は何のために生きるか』であろう。

2018年8月13日月曜日

日本の核

 戦後73年間平和裡に過した今どき、日本も核を持つべきだと日本人が言ったら総スカンを食らうだろう。
 だがこれを外国人が言ったら反応はいささか異なるようだ。
 フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッド氏は雑誌記者のインタビューに応じ「日本は核を持つべきだ」と発言した。
 日本人はこれを冷静に受け止めているようだ。少なくともヒステリックな反応は見られない。
 エマニュエル・トッド氏は米国の核の傘はフィクションにすぎず存在しないと言う。

 「私の母国フランスは、核兵器を保有し、抑止論を突き詰めた国ですが、抑止論では、究極、核は純粋に個別的な自己防衛のためにある、ということになります。つまり、自国を保護する以外には用途がないのです。
 核は例外的な兵器で、これを使用する場合のリスクは極大です。ゆえに、核を自国防衛以外のために使うことはあり得ません。
 例えば、中国や北朝鮮に米国本土を核攻撃できる能力があるかぎりは、米国が、自国の核を使って日本を護ることは絶対にあり得ない。
 米国本土を狙う能力を相手が持っている場合には、残念ながらそのようにしかならないのです。
 フランスも、極大のリスクを伴う核を、例えばドイツのために使うことはあり得ません。」(『文藝春秋』2018年7月号)

 同氏は、日本が核保有しなければ東アジアはますます不安定化するので日本が核保有を検討しないということはあり得ないと思う、と言いその根拠は挙げている。

 「ヒロシマとナガサキの悲劇は、世界で米国だけが唯一の核保有国であった時に起こりました。
 核の不均衡は、それ自体、国際関係の不安定化を招くのです。このままいけば、東アジアにおいて、既存の核保有国である中国に加えて、北朝鮮までが核保有国になってしまう。これはあまりにおかしい。」(前掲書)

 日本は唯一の被爆国にして、憲法九条を持つ国だ、核を持たなければ核攻撃を受けることもない。
 これが核不保持の願望に近い論理であり、核に対する日本人ならではの特別な感情が込められている。
 だが、これは国際社会の論理からは乖離している。
 台風は甚大な被害をもたらすので憲法で『台風の日本上陸禁止』と明記すれば台風の被害を免れるというのと同じだ。ひとりよがりとはこのことだろう。

 それではエマニュエル・トッド氏がいうように日本は核を持つべきなのだろうか?
 日本は中国、北朝鮮の核の脅威にさらされている。同氏が指摘するように、アメリカの核の傘が機能しなければ東アジアの核の均衡が保たれていないことになるから、核を持つべきであろう。
 だが、日本の核武装は中国だけでなくアメリカをはじめ全世界が反対するだろう。
 日本が核武装するためには世界190か国が参加するNPT(核拡散防止条約)から脱退しなければならない。
 これは1933年日本が満州国に関するリットン調査団の報告書を無視し国際連盟を脱退した歴史を想起させる。当時日本は満州国を生命線だと言った。
 いま核を生命線といってNPTから脱退すれば日本は全世界から孤立するリスクがある。
 そのようなリスクを冒して核を保有することがはたして日本の利益になるか疑問である。
 ただエマニュエル・トッド氏の進言はこのようなリスクがなければ説得的であることに変わりはない。
 東アジアにおけるアメリカの覇権とプレゼンスが以前ほどではなくなりこの傾向は今後も進むだろう。
 そうすれば日本にとってリスクであったものがリスクでなくなることも想定されるー同盟国が日本の核保有に理解を示すなど。
 戦後73年が経過し若い世代の価値観は変わりそう遠くない将来日本の外交と安全保障政策が以前とは全く異なることが考えられる。
 数十年後日本が核を保有していることもそのうちの一つに数えられよう。

2018年8月6日月曜日

カントの哲学

 普段はそうでもないが時代の転換点には俄然注目されるものがある。哲学もそういうものの一つであろう。
 18世紀末から19世紀にかけて欧州は大きな転機を迎えていた。
 プロイセン王国の哲学者カントはそうした転換点でドイツ観念論の議論を惹起し起爆剤的役割を果たした。
 哲学門外漢にはカント哲学について詳しく語ることなどできない。ただ彼の業績のなかで二つのことが強く脳裏に残っている。

 その一つは認識論のコペルニクス的転回である。
 従来、われわれは物が存在するのを見て物があると認識するが、カントはわれわれが物が存在するのを見て物があると認識したからこそ物が存在するという。
 人間が対象を客観的に見てもそれは物自体を認識したことにはならず、認識はわれわれの主観に依拠するという。これは従来の形而上学的認識論からすれば180度の転回である。
 このカントの認識論はドイツ観念論をはじめその後の哲学界に大きな影響を及ぼしたといわれる。

 もう一つは永久平和論である。
 カントは善については結果よりも動機を重視した。人生の目的は人格の完成にあり国家も一つの人格である。
 すべての国家が人格を尊重しあい永久平和状態を目指す努力こそ道徳的であり善であると。
 カントの永久平和構想の思想が反映したものには第一次世界大戦後の国際連盟の設立がある。
 だが現実には善の動機を優先した彼の永久平和構想にもとづく国際連盟は機能せずナチスの台頭から第二次世界大戦へ突入した。泉下のカントはこれをどう批判するだろうか。

 21世紀のいまAI,バイオテクンロジー、グローバリズムそして核兵器による大規模戦争が事実上不可能となるなど時代は大きく展開している。
 いずれこれらの問題に対処する指針となる哲学の出番がくるに違いない。既に実在論について議論が高まるなどその兆候が現れている。