2012年10月19日金曜日

財政再建 続

 財政再建には、なにより景気をよくし、税収を増やさなければならない。
 日本には、景気を良くする為の客観的条件は、充分整っている。しかし、景気はよくならない。景気を良くする為の、正しい、施策が打たれれば、景気はよくなるだろう。
 何故に、正しい施策だ打たれないのか。これを、阻害する要因があるのだろう。景気対策は、政府が立案し、行政が具現化する。官僚は、法律の忠実な履行者であるが、立案段階から、深くかかわっている。
 このシステムが正しく機能していれば、失われた20年などあり得ない、失われた10年、いや5年ですんだかもしれない。
 デフレ期の景気回復には、財政政策と金融政策のあわせ技が要求される。学者、エコノミスト等、これについて異を唱える識者はすくない。
 まず、財政政策。景気回復のための財政政策として、民間の需要が望めない今、官主導で、思い切った予算を組み成案化しなければならない。
 ところが、その財源はどこにあるのか、借金まみれの、日本のどこに財源があるのか、”付け”を子孫にのこしていいのか、と、必ず、こういう反論がかえってくる。
 しかし、それは国の財政をよく知らない人を説得するには有効でも、正鵠を射ていない。長期の建設国債発行等手段はある。
 景気を良くすれば、税収は増え、子孫に借金を残すこともない、子孫には、建設国債によって実施されたインフラがプレゼントされる。
 ところが、このような説明も、馬耳東風、先刻承知で自説をまげるなどとんでもない。
 そんなことして、景気でも良くなったらどうする、増税の大儀名文、必然性がなくなる、とばかり反対の論陣を張る。
 判断基準は、利権と権限の拡充であり、これに悖れば、政治家、財界、マスコミを説得し、自らの意向に、副うようにするのは、得意中の得意。
 財政再建には、消費税増税は不可欠でまったなし、はたまた、復興税創設も喫緊の課題だ、と。
 消費税増税には、軽減税率の裁量権拡大はじめ、権限と利権拡大が盛りだくさんである。
 財務省が、組織をあげ、消費税増税に突き進んだのは周知の事実である。またこれと酷似の述懐が夙にメディアで流布された。
 「蛇の道は蛇」、自らの体験に基づく財務省のエトス(行動様式)についての見解は、少なくとも一面の真実を語っているだろう。
 つぎに、金融政策。円高により、日本企業が、国外に工場を移し、どれだけの雇用が失われたか、国外に移せるほどの体力のない零細企業は円高で苦しみ、事業を畳まざるを得なくなった。このような惨状にも、かかわらず、日銀は、円高対策を怠ってきた。 リーマンショック以降、アメリカとEUは、景気回復と雇用確保のため、ベースマネーを増やした。すさまじいペースでドルとユーロを増刷してきた。
 なお且つ、景気と雇用が目標に達するまで、期限をつけず金融緩和するとまでいっている。
 日銀はというと、欧米に引きずられるようにして、小出しの金融緩和を実施してきた。敗軍の将の常套作戦 ”兵力の逐次投入” である。
 ドルとユーロに比べれば、殆ど円を増刷してないに等しい。円高が止まらないのも、むべなるかなである。
 行き過ぎた金融緩和は、インフレを招き、国債価格が下落し、これを大量に保有している、邦銀が損失を蒙り、ひいては、国民経済に影響するとの理由である。
 邦銀は、国債価格が下落するのををみて、なにもしないで、ただ手を拱いているだけというのだろうか、銀行は無能と言わんばかりである。
 国民が、デフレであえぎ苦しんでいる時に、インフレの心配をするとは! 食うものも食えず、栄養失調に、なっている人間が、飽食し糖尿病の心配をするようなものではないか。
 どこにそんな人間がいるか。インフレを心配するより、自らの、無能さ、を心配したほうがいいとさえ言いたくなる。
 歴代の日銀総裁は、ことあらば、金融引き締めに舵をきり、そのつど、景気の足をひっぱってきた。日銀の金融緩和は悪という、”伝統主義の呪縛” があるのだろうと疑いたくもなる。 財政政策にしろ、金融政策にしろ、景気をよくするための消費と投資を促す政策が、どうやら、あたりまえにできないようだ。
 また、それらの政策には、日本の官僚システムが深くかかわっているようだ。
 官僚システムは、本来、役割分担がはっきりしていて、それを忠実に履行してこそ機能する。官僚システムの機能不全は、国家の土台を揺るがしかねない。
 日本の官僚システムが何故、充分機能しないのか、稿を改め、考察したい。

2012年10月15日月曜日

財政再建

 日本、際立つ借金体質! IMFが10/9各国の財政に関するレポートで日本については、消費税が10%でも財政再建には不十分だと指摘した。
 12年度の債務残高が対GDP比236.6%、財政赤字依存度が10%、これが13年度では、それぞれ245%、9.1%と予想している。
 これがどれくらいひどいかは、ギリシャの12年度の債務残高170.7%、財政赤字7.5%、13年度がそれぞれ181.8%、4.7%をみれば歴然である。
 消費税率引き上げの是非が議論されだしてから、この類の情報が、メディアを通じ、頻繁に、我々の耳目にとびこんできた。
 日本はひどい事になっている、あのギリシャよりひどいじゃないか、と。
 消費税を上げて、国家財政が健全になるのであれば、我々もそのくらいの痛みには耐えよう、と健気にも賛意を示す街頭でのインタビュー光景も、時として、放映された。
 消費税率を上げなければ、財政が破綻すると政府は説得し、メディアもこれに同調した。
 消費税率上げの効果はどうか、1997年消費税3%から1998年同5%になって、税収は、期待に反して、46.67兆円から37.87兆円に減収になり、その後も回復しないままである。
 今回の消費税率引き上げについては、国論は分れ、結果的に、緩やかな条件付で、8%から10%へと、段階的に引き上げられることになった。はたして、これで、財政再建の糸口となるのか。
 個人の場合、家計に大きな負債があれば、消費を我慢し、ひたすら節約に努め、借金の返済を最優先するだろう。
 これを国家のレベルで行えば、流動性の罠に陥り、GDP縮小→税収減で、ますます負債が膨らむ。
 個人としては正しい行動でも、全体としては間違った行動、合成の誤謬となる。
 国家のレベルでの、財政再建とは、節約ではなく、GDP、それも名目GDPの拡大である。
 日本のGDPの構成要素は、官民の消費と投資である(純輸出はごくわずか)。財政再権のためには、消費と投資を拡大することが、必要不可欠である。
 ところが、人々はいっこうに消費しようとしない、物が売れない、売れないから、設備投資をして、事業を拡大しようなどと思わない。
 これは、ほんの一例で、日本は、この悪循環に陥っている。先進諸国の中で、日本だけが、GDPが伸びていない。
 なぜ、こんなことになってしまったのか。重い英国病にでもなったのか。各国から、失われた20年の日本のようにはなるなと、揶揄される体たらくである。
 金がないかといえば、そんなことはない、バブルを経て、日本には、有り余るほど、金がある、家計金融資産は1515兆円(2012年6月末日銀資金循環統計)このうち現預金が55.7%を占める。 これに対しアメリカは51.9兆ドルあるが、このうち現預金は14.7%にすぎない。対外純資産は253兆1000億円(2011年末)で、21年連続世界一の債権国である。驚くべき数字である。
 また、景気回復に必要な、生産力、技術力はどうか、街には、物があふれている。しかし、物は売れない。需要さえあれば、いくらでも生産できるだろう。物が売れないから、生産しようにも、生産できない。
 技術力にいたっては、計らずも、先の東日本大震災で明らかになったように、日本の技術がなければ、欧米の自動車製造工場の一部が、生産停止に追い込まれたほどである。
 資金、生産、技術、どれをとっても、申し分ないのに、消費と投資は低迷したまま、GDPは縮小し、税収は、減る一方、政府の収支は、年々赤字を重ねている。
 一体全体、日本はどうなっているのか。構造改革だ、行政改革だ、などと、声高に叫ばれても、空虚に響くだけである。
 論より証拠、ここは、先例に学ぶしかない。現在の日本の景気は、需要不足、供給過多のデフレギャップ、明らかな、平成のデフレ不況である。
 そして、経済学者、エコノミストをはじめ、このことに異を唱える人は殆どいない。そうであるならば、デフレ不況の処方箋を、過去に遡り、紐解くにしくはない。
 昭和恐慌は、デフレに起因する大不況であったが、時の、高橋是清蔵相は、金融緩和政策と財政政策を通じて、有効需要を創出した。リフレーション政策を断行して、ハイパーインフレなど起こさず、需要を喚起した。
 この政策により、不況からの脱出に成功した。デフレ不況の見事な成功事例がここにある。
 日本には、資金もあり、生産力もあり、技術力もある。かつ、デフレ不況対策の、はっきりした成功事例もある。
ああ、それにも拘わらず、何故、未だに不況の底から這い上がれないのか。皆、不思議に思うだけで、なすすべを失っている。
 人々は消費もしないし、投資もしない。どうしていいか分からない。右往左往するばかりである。
 この原因を、次回、根本から分析してみたい。

2012年10月8日月曜日

日本破綻論

 日本の財政は借金だらけでGDPの200%を超え、まもなく破綻すると、いう人がいるかとおもえば、日本の借金は国民に対しての借金だから何も問題なく財政は破綻しないという人がいる。
 この議論はバブルが弾けてから議論され、特に、最近は消費税導入に絡めて話題になってきた。
 考察の前提として、財政の破綻とは何か、この定義づけが必要である。破綻するとは、個人のばあい、借金が多く、これを返せなくなり破産すること、国のレベルでいえば、国債を償還できなくなること、ロシア、アルゼンチンが実際、償還できなくて、破綻した。 最近では、ギリシャ等南欧諸国が、危ないといわれている。
 この定義づけに従えば、日本は絶対に破産することなどありえない。
 日本国債は、100%円建てであり、かつ91%が国内で消化されているからである(2012/9末)。
 償還に困るようなことになれば、日本政府は子会社の日銀に命じ、円を増刷すればよい。
 コストは円の印刷費ですむ。法律上できなければ、改正するだけである。
 破綻するくらいなら、国民は法律改正を選ぶだろう。北海道の夕張は財政破綻した。大阪の和泉佐野市は破綻寸前に追い込まれ自らの市名を売りに出すほど困った。
 いずれも通貨発行権がないからである。
 日本政府には通貨発行権という伝家の宝刀があるため、日本国は債務不履行にはけして陥らないのである。
 しかし、伝家の宝刀は、普段は使わず、ここ一番の起死回生に使うのが昔からの習い。
 この慣例に従わず、現下の情勢のもと、日銀が際限もなく、国債を引き受けたらどうなるか。現下の情勢、、毎年の国の収支、プライマリーバランスがマイナスで、かつ、デフレーションがいつまでも脱却できない情勢での大量の国債を引き受ければ、国債の価格が暴落し、長期金利がはねあがる。
 今、EUで長期金利が問題になっているのは7%であり、これを超えると、危険水域といわれている。
 いくら、日本国債が、円建てで、国内向けが大半とはいえ、収支赤字とデフレ継続のままでの、日銀による大量の国債引き受けは、長期金利が7%にせまり、国債価格は暴落する。国際価格が暴落すれば、これを大量に保有している、ゆう貯、メガバンク、年金基金、損保、生保等金融機関の経営がおかしくなる。
 金融機関の経営がおかしくなれば、いつか来た道で、失われた20年の再来となる。
 こうなっても、前述の定義に従えば、日本政府は財政破綻しないが、国民生活は破壊される。
 政府は生き延びても、国民生活が破壊されれば意味がない、これは破綻というしかいいようがない。
 したがって、EUの例にならい、長期金利7%超えを、財政破綻と定義づけすれば、条件さえととのえば、日本の財政は破綻する。 現状、プライマリーバランスはいっこうに改善せず、マイナスインフレで、名目GDPは成長しない状態のまま、日銀による大量の国債引き受けを一気に行えば、長期金利は、高い確率で7%を超えるだろう。
 日本の財政が、現状のままでいいという人は殆どいない。何とかしなければならないと皆が皆思っている。財政再建は、与野党を問はず、声高に叫ばれて久しい。どうすればいいのか。専門の学者の知恵でもかりれば解決するのか。
 これも、あてにできない。彼らの知恵に頼って解決するのであれば、とっくに解決している筈である。
 次回、財政再建につき、考察したい。

2012年10月1日月曜日

民意

 新しい第25代自民党の総裁に元首相の安部心晋三氏が選出された。
 党員投票の意向に逆らうかたちで選出された。ワシントンポストは日本は右傾化けしつつあると論評した。安部氏の選出には何点か懸念があげられている。
 安部氏は3世議員である(他の候補もすべて2世以上の世襲議員である)。5年前に病気を理由に首相の座をほうり投げた。中国、韓国との微妙な時期にあまりにもタカ派すぎてあやうい。民意に反し古い自民党の論理で選ばれた、等々。
 特に懸念されるのが、民意に反し、自民党の論理で選出されたのでは、という点である。早速、自民党秋田県連では、「石破氏が圧倒的に党員の支持を集めたにもかかわらず、国会議員の決選投票にはそうした民意が全く反映されていない」として、役員4人の辞任騒ぎとなっている。秋田県のみでなく、その他の県連、メディアでも民意が反映されていないとの論調が目立つ。
 日本は議院内閣制である。総理大臣は議員の投票でえらばれる。党首を選任するのは各党の自由であるが、今回の自民党総裁選挙は次期総理大臣の有力候補となる。民意に反するからとの理由で、これを受け入れなければ、議院内閣制の否定につながりかねない。
 民意とはなにか、日本の政治体制である議院内閣制をも揺るがしかねない民意とはなにかを改めて考えてみたい。
 自民党総裁選挙は、党員投票300ポイントと議員票199ポイントで争われた。ここで民意とは、年額4千円の会費を支払っている自民党員の民意のみならず、有権者から選任された議員の意思は間接的に民意である。
 今回問題となったのは党員の民意であり、これが十分反映されなかったことである。自民党員の意思は、一般大衆の意思に近く、これを無視するとはなにごとか、というのが彼らの主張である。
 しかしそうだからといって一般大衆の意思が間接的にしかつたわらない議員の意思は軽視していいわけではない。
 そんなことをすれば議院内閣制の根幹にかかわることである。民主主義は、少数者でも自由に意見をのべ、反対、棄権もできる一方、規則は遵守し、多数決には従う義務がある。この相矛盾したシステムにより成り立っている。
 そこに議論の余地があり、反対意見、少数意見であっても、耳を傾ける謙虚さが求められる。その根底をなすのが、多数であれ、少数であれ、それぞれの意思決定に至った過程をもう一度ふりかえってみるということであろう。
 もう一度振り返ってみるというが、なにを振り返ってみればいいのか、当然の疑問である。
 一般の有権者、自民党員、自民党議員のそれぞれの意思決定に至った根拠を探り当てること、それがその答えとなる。
 ここでのキーワードは「民意」である。物事が多数決によって決定される民主主義社会では、民意は金科玉条であり、神聖冒さざるもべきのである。
 何人もこれに逆らうことはできない。しかし、である。ドイツのヒットラーは、この民意によって合法的に政権を奪取した。なにも武力によって政権を奪取したのではない。
 この事実を、我々は肝に銘じなければならない。
 民意とは、特に、民主主義社会では、誤解されやすいが、一般大衆から、自然発生的に澎湃として湧き起った国民の意思であり、神聖冒さざるべきものであると。この妄信こそ、恐るべきものであり、過去に、幾多の過ちを犯した原因であった。
 民主主義社会で、民意が自然発生的とおもわれるのは、自由に意見をのべ、自由に意思表示できるからある。もし、意思決定に至る過程で操作、誘導があれば、純粋に自然発生的などといえるものではない。
 この、操作、誘導は今に始まったわけでなく昔からあった。情報リテラシーが進んでいる現代は、操作、誘導等情報にたいし、ある程度抵抗力がついているが、情報が不足していた時代は、現代ほど抵抗力があったとは思えない。
 為政者、官僚、御用学者、マスコミ、経済界等々の民意ジェネレイターには事欠かない。機会があるごと、これらの民意ジェネレイターは、国民に対し情報を発信している。
 心しておきたい。古来より、国民のためでなく、自己の利益のためである、などといった人を、私は誰一人知らない。