2018年2月26日月曜日

無宗教国家日本 1

 死生観は宗教と密接に関連する。宗教が死生観を決めるといってもいい。
 来世に想いをはせればそこに宗教が生まれ、来世に関心がなく死は一切が無に帰すと考えれば宗教の生まれる余地はない。
 イスラム教では、人は死んでも再び生き返り最後の審判でアッラー(神)が判決し、緑園(イスラム教の天国)行きか地獄行きかを決定する。
 ジハード(聖戦)で戦死すれば来世では緑園にいける。そこでは、いくらつきあっても処女であり続ける美女がいて、いくら飲んでも悪酔いしない美酒がある。イスラム教の聖典コーランはこう教えている。
 ムスリムの青年が従容として自爆攻撃するのは来世を信じていればこそであろう。
 キリスト教の教義では、最後の審判の日、「神の国」が到来し、イエス・キリストがこの世に再臨し判決を下す。
 「神の国」とは、この世がそのまま神が支配する世界になる国である。審判によって、そこに入れる人と入れない人とに分けられる。「神の国」に入れる人は永遠の生命を与えられるが、入れない人は永遠の死滅となる。
 この最後の審判にそなえてクリスチャンは、人であり神である、また神であり人でもある、いわば現人神のイエス・キリストの教えである「神を愛し隣人を愛せよ」を信じ、意向にそうよう祈り求める。
 イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒教などなど世界の大多数の人びとは、程度の差こそあれ来世に関心をもっている。関心をもっているからそれぞれの信念に従い宗教に入信している。

 日本はどうか。文部科学省所管の統計数理研究所のデータによれば昭和33年から平成25年まで5年毎の「日本人の国民性調査」に宗教関係の意識調査がある。それによると

 ① 宗教をもっている、信じている人の割合は 総じて減少傾向となっている。

全体    35%(昭和33年)→28%(平成25年)
20歳代  14%→13%
30歳代  30%→20%
40歳代  41%→20%
50歳代  51%→27%
60歳代  66%→31%
70歳以上 63%→44% 

 年齢が高くなるほど宗教をもっている、信じている人の割合が多いが、逆に年齢が高くなるほど信じている人の割合が減少している。

 ② 「あの世」を信じるかの問いに対し信じると回答した人の割合は、全体では倍増しているものの年齢別では興味ある数字になっている。

全体    20%(昭和33年)→40%(平成25年)
20歳代  13%→45%
30歳代  14%→41%
40歳代  21%→48%
50歳代  29%→47%
60歳代  39%→34%
70歳以上 37%→31% 

 年齢が若いほど「あの世」を信じる人の割合が増えているのに対し、これとは逆に年齢が高くなるほど「あの世」を信じている人の割合が減少している。

 以上のデータから、日本人は全体として年々宗教心を失いつつある。ただし、高齢になるほど宗教心や「あの世」を信じる人が減少傾向にあるのに反し、若い世代は宗教心を高齢者ほど失くしていない。「あの世」を信じるかに限っていえば若い世代ほど信じる人が増えている。
 高齢者は宗教をもっている、信じている、といいながら「あの世」を信じていないという一部矛盾した回答となっている。
 こと宗教心に限って言えば、子供は親の背中を見て育つ。神仏に拝まない親をみれば宗教心も育ちようがない。
 だが宗教教育を受けていない若い世代も「あの世」の存在を肌身で感じとっているのだろう。それがデータとして現れている。
 このことから高齢世代になるほど宗教に対する関心が薄れているが若い世代はそれほどでもないということが言える。
 無宗教国家日本といわれるがその原因の過半は高齢世代の宗教離れにあるといえよう。

 宗教は人びとの心の問題であると同時に人びとの行動様式をも左右する。
 国家や民族の根っこの部分を形造るという意味では政治や経済にもましてその与える影響は大きい。宗教は国家あるいは民族の根幹中の根幹である。

2018年2月19日月曜日

学者の資質

 「学者にとって最も大事なことは驚く能力である」 社会学者マックス・ヴェーバーは、学者の資質について問われこう答えたという。
 文献やデータなどからそれまでの常識や価値観を覆すような事実をいかに感じ取るか。
 この敏感度、いってみれば驚く能力こそ学者にとって第一に要求される資質であるという。
 研究対象に情熱をもって取り組みかつその仕事を根気よく継続すればいつかひらめいてインスピレーションが現れるかもしれない。
 このほかマックス・ヴェーバーは学生向け講演で学者の資質についていくつか挙げている。

・「こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。」

・「いわばみずか遮眼革を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」

  ・「学問の領域で『個性』をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。」

・「自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを『体験』で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの『専門家』じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら『個性』のある人ではない。」(マックス・ヴェーバー著尾高邦雄訳岩波文庫『職業としての学問』)

 一意専心自己を滅して学問に傾倒することができる人のみが学者として相応しい。自己宣伝するような人は個性ある人とはいわない。
 学問の世界では、「個性」は研究対象に専心することによってのみ獲得される。
 高名な学者に憧れるとか自意識過剰では「個性」は獲得できない。
 マックス・ヴェーバー流にいえば、いわゆる御用学者は学問に縁遠い「個性」がない人ということになる。

2018年2月12日月曜日

イスラム社会と近代化

 宗教が違えば人びとの行動様式も異なる。このことを最も実感させるのがイスラム教徒の行動様式である。イスラム教の規範は外面的行動によって規定されているからである。
 キリスト教は内面だけが問われるので外部から見え難いが他宗教と行動様式が異なることに違いはない。
 無宗教に近い日本人は宗教が行動様式を左右するなど思いもつかないしどうしても理解できない
 日本人にとって宗教より人間が優先する。人間あっての宗教ではないかと考える。
 宗教が違っても同じ人間じゃないか、腹を割って話し合えば必ず分かりあえる。こう考えるのは世界広しといえども日本だけであろう。
 無宗教であることには弊害があるがこのことについては稿を改め考えてみたい。

 イスラム教は規範がはっきりしていて最も宗教らしい宗教である。無宗教国家日本にはイスラム教徒が殆んどいないのは規範の多さとその厳しさが原因であるともいわれる。
 イスラム教徒の信仰告白は「アッラーのほかに神はなく、マホメットは神の使徒である」。
 イスラム教徒の救済はイスラム法の規範を守ることである。規範を守るとは、第一法源のコーランから第十法源まで細大漏らさず規定された目に見える外面的行動を守ることである。このようにイスラム教は宗教と法律が一体である。

 ところで近代化とは西洋化である。西洋化とはイスラム社会をキリスト教プロテスタンティズムに起源をもつ資本主義、民主主義、近代法にとって替えることである。
 そんなことはできない、できっこない。それはイスラム教の放棄を意味する。
 イランのパーレビ元国王はイランの近代化、西欧化の改革を推進した。この一環として女性のヒジャブ着用禁止、ムスリムに限った選挙権と被選挙権の撤廃など世俗化も進めたが法学者の反発を招き失脚した。
 イスラム主義者にとって近代化、世俗化は革命によってでも阻止すべきことであったのだ。
 イスラム法は、イスラム教徒にとって法律であり宗教であり生活のすべてを拘束するものである。
 イスラム教徒がいうインシャーアッラー(アッラーの思し召しによって)は「アッラーと人」との契約であり資本主義社会での「人と人」との契約を意味していない。
 イスラム教社会を近代化しようとすればアッラーの思し召しに背く。いってみればイスラム教は近代化を拒む宗教である。それゆえイスラム社会と西欧社会が互いに理解し合える日がくることはないであろう。

2018年2月2日金曜日

イエスの実像 3

 ナザレのイエスという人物を知るうえで忘れてならないのは、彼がユダヤ人であったことである。

 「ユダヤ人として、イエスの関心は、ひたすら同胞ユダヤ人の運命にあった。イエスの関心はもっぱらイスラエルにあった。
 彼は自分の使命は『イスラエルの家の失われた羊のところにしかない』(「マタイ」15章24節)と断言し、自分の弟子たちに『異邦人の道に行ってはならない。またサマリア人の町に入ってはならない』(「マタイ」10章5-6節)と、福音は自分たちユダヤ人以外には共有させないように命じている。
 彼は異教徒と会う時はいつも距離を置いていたし、彼らを癒す時には、しばしばためらいを示した。
 イエスはシリア・フェニキア人の女が自分の娘から悪霊を追い出してほしいと頼みに来た時、こう説明した。
 『まず、子供たち(イスラエルを意味している)に食べさせましょう。子供たちのパンをとって犬(彼女のような異邦人を意味する)にやってはいけない』(「マルコ」7章27節)と言っている。
(レーザー・アスラン著白須英子訳文藝春秋社『イエス・キリストは実在したか?』)


 なんという差別だろう! およそ慈悲深い博愛のイメージのキリスト像から程遠い。
 この差別はユダヤ教の真髄である『モーゼの律法』からきていることがわかる。
 イエスは自分の使命はこの法を廃止することでなく、完成することだと言っている。

・わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
(マタイによる福音書5章17節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)

・よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
(マタイによる福音書5章18節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)

 モーゼの掟はユダヤ人同士の関係と、ユダヤ人とユダヤ人以外の関係を峻別している。

 敵を愛しなさい、あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。このイエスの説教は同胞ユダヤ人内の関係に限定されたものであった。
 このように同胞とそれ以外を峻別する一世紀のユダヤ人社会は共同体を形成していたと推定される。
 共同体の際立った特徴は内の規範と外の規範が異なる二重規範である。外の規範は相対的で緩やかであるが内の規範は絶対的で重い。マックス・ヴェーバーが定義した社会学の鉄則がここにも生きている。
 初期キリスト教会共同体は、このイエスの説教をユダヤ人内の関係に限ることなく普遍的、全人類に向けられたように演出した。 
 使徒パウロは、イエスの教えを信じてこれを実践することで新しい生を得ることができるという
 イエスは神殿を私の家と呼び祈りの家といった。パウロは、この『祈り』を重視した。人間は自力ではなく神の恩寵によってのみ救われる。現実的な物質的世界から神の導きによって精神性を獲得していく過程で救済されるという。
 ローマ市民権を有していたパウロはその立場を利用しローマ帝国内を広範囲に伝道した。

 このようにして初期キリスト教共同体とパウロはこのローマに反抗したユダヤ人の急進的なナショナリスト・革命家であるナザレのイエスが神の子となる礎をつくった。その結果イエスの実像はかき消されてしまった。