2014年12月29日月曜日

官僚に対する民主的統制 4

 財務官僚は黒子に徹し権力を行使する。このエトスは明治以来変わらない。財務省についの内部からの情報発信は殆んどない。
 ときおり匿名条件の対談で本音が語られる程度である。(1996年7月飛鳥新社テリー伊藤著『お笑い大蔵省極秘情報』など)

 その点、元財務官の榊原英資氏の財務省寄りの財務省論は貴重な資料である。
 彼は長年(34年間)の財務省勤務で自ら「親財務省」のバイアスがあると認め財務省論を展開している。
 彼の財務官僚を中心とする公務員論についての骨子はおおよそつぎの4つに分類される。

1 日本の公務員は諸外国と比し少数精鋭である。
2 エリートは必要であり、これなくして国の発展はない。
3 立法・行政・司法の三権のうち実質上テクノクラートである官僚が立法と行政を担っており三権分立は名ばかりとなっている。
4 天下りは必要であり、民の子会社出向と同じく、これなくして人事はまわらない。

順次敷衍しよう

1 日本の公務員は極端に少ないと言う。
 「日本の公務員は人口1000人あたりで先進国最少の42.2人です。アメリカは73.9人、フランスは95.8人ですから、他の先進国のほぼ半分です。しかも、国家公務員の数はさらに少なく、イギリス、フランスの四分の一前後なのです。(中略)
下図はOECD諸国の財政と公務員数の規模を図示したものです。
 日本は財政規模も小さいのですが、公務員数ではOECD諸国中、最も少なくなっています。財政規模が日本より小さい、スイス・韓国・メキシコなども公務員数の規模では日本より大きいのです。」(PHP研究所 榊原英資著『公務員が日本を救う』)


2 榊原氏はエリートである官僚達、特に財務官僚が政治家を補佐し誘導しなければ、日本の政治・行政はおかしくなってしまうという。
 「国家にとってエリートは必要です。そしてエリートであることを隠す必要はありません。常に努力をし、自らの知識と能力を磨き続けることは、エリートの条件です。(中略)
 今の日本はそうしたエリートを必要としています。そしてその条件を備えているグループの最たるものは官僚、特に財務官僚たちでしょう。
 ヨーロッパ、特にフランスでは日本のキャリア官僚にあたる官僚たちは日本以上にエリートとして扱われています。筆者は日本の財務官僚達もフランスのようにエリートとしての誇りを持ち、エリートとしての責任を果たすべきだと思っています。」(新潮新書 榊原英資著『財務省』)

3 一年に成立する法律のうち8~9割は政府提出のもの、つまり各官庁の官僚たちがつくったもの。国会は立法府であり、立法は国会議員に付託されているが実情は官僚に簒奪され、こと立法に関し政治家はロビイストにすぎないという。

 「三権分立とはいうまでもなく、立法・行政・司法がそれぞれ独立しながら、その機能を果たし、全体として国を支えて行くシステムです。しかし、前述したように、立法と行政については事実上、国家公務員たちがその双方を担っているというのが日本の実際のシステムです。(中略)
 それでは、立法府の国会議員は何をしているかということになります。じつは、国会議員の役割は、立法そのものよりも、立法に注文つけることなのです。
 国家公務員たちと違って、彼らは選挙区を持ち、選挙民の意向を踏まえていますし、また、業界団体との結びつきもより強いケースが少なくありません。
 そうしたネットワークを背景に、政務調査会や部会で、役人が中心となって作成する法律にさまざまな注文をつけるのです。」
(朝日新聞出版 榊原英資著『なぜ日本の政治はここまで堕落したのか』)

4 終身雇用、年功序列を原則とする日本の雇用システムのもとでは、天下りや再就職は必要なメカニズムであり、これを根絶することなど不可能であると榊原氏は言う。

 「民間の場合は『天下り』などといって非難されることがないのに、どうして官庁の場合だけ、『天下り根絶』などと批判されるのか私には理解できません。(中略)
 独立行政法人や公益法人には、今でも多くの官僚が再就職しています。
 しかし、例外はあるにせよ、それは民間大企業の再就職と同様で、それなりに意味があり、当該法人にとってもプラスになる場合がほとんどです。
 官庁だけは再就職はだめだといったら、役人は60歳、65歳まで役所に残るしかありません。そんな極端なことをいう政治家もいないではありませんが、それでは組織が機能しなくなることは明白です。
 関連会社への再就職がスムーズにいってこそ、人事がうまく回っていくのです。」(前掲『公務員が日本を救う』)

 そして榊原氏は中小企業を次のように切り捨てている。
 「子会社や関連会社を持たない中小企業から見れば腹立たしいことかも知れませんが、だからこそ大学生は卒業時に大企業や官庁を目指すわけですし、いい大学に入ろうとするわけです。」
(前掲『財務省』)

 官僚出身で、これほど率直に自説を述べる人は少ない。貴重な存在である。早速彼の説について検証しよう。
 

2014年12月22日月曜日

官僚に対する民主的統制 3

 絶大な権力をもつ財務省はなにを目指すのか。
トップエリートの義務として粉骨砕身し国民のために働くのだろうか、日本国の財政を真に憂いこれを再建するために働くのだろうか。
 安倍首相も言ったではないか「財務省は善意で財政再建のための消費税増税を推し進めている」と。
 われわれも安倍首相と同じくそう考えたい。が、過去2回の消費税増税はそのような希望的観測を無惨に打ち砕いた。増税のたびに財政再建はむしろ遠ざかった。
 この期に及んでも財務省の増税による財政再建を信じるとすれば、その人はよほどおめでたい人であろう。
 ”権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する”とイギリスの歴史家ジョン・アクトンは言った。
 歳入権、予算編成権、官僚の人事権を手にした財務省は絶対的に腐敗する。歴史に照らしても明らかだ。
 再び高橋洋一氏が解説する官僚が目指すものとは何かをみてみよう。
 「官僚は、本音を言えば、うまくコントロールできない市場も嫌いだが、民主主義も嫌いだ。もちろん、対外的には『市場原理を生かしつつ』とか言いながら市場原理を決して否定しない。
 また、表で民主主義を否定するようなバカもいない。
 ところが、酒でも入ると、『市場なんかデタラメだ、金利が自由に動くとろくなことがない』などと喚く。また、『民主主義じゃあ、減税ばかりの大衆迎合になってダメだ。とくに国会議員なんかに任せておくと、カネをせびりばかりで財政再建なんて絶対にできない』と、威勢のいい輩も出てくる。」(高橋洋一著祥伝社黄金文庫『官愚の国』)
 市場金利の克服には毎月の発行価格を変化させる。これにより3ヶ月程度は一定の金利に収めることができる。民主主義については、建前上如何ともし難いので、国会議員を手玉にとる。これにより民主主義を克服する。
 資本主義社会の市場を自由に操り、民主主義社会の代議制の議員を手玉にとれば、あとはやりたい放題となる。
 腐敗した権力が目指すものは古今を問わず東西を問わず常に同じ途を辿る。国家のことより自らの利権を最優先する。
 特に税については、財務省の意図はいつも明確だ。
200年の経済学の歴史から、国家の基幹である税は、経済情勢によってデフレ不況期には減税、インフレ好況期には増税と相場が決まっている。こんなことにはおかまいなしに財務省はすきあらば増税を企む。増税により国家全体の税収が減ることが明らかであっても増税を推し進める。
 増税によって財務省が得る利権とは何か。それは例外措置である。典型的なものに消費税増税時の軽減税率適用がある。広く税全般に適用される租税特別措置法も財務省の利権に結びついている。
 軽減税率や租税特別措置法の適用は財務省にとって利権拡大のチャンスである。裁量の余地が大きければ大きいほど利権は拡大する。これら法の適用により当該業界に睨みをきかしたり、天下り先を確保できるからである。
 なぜ財務省の官僚は国家全体の税収が減るにも拘らず増税を目論むのか。財務省内には不文律があると高橋洋一氏は言う。どんな理由であれ増税すれば勝ち”減税すれば”負け”
長期金利を一定のレベルに押さえることができれば”勝ち”、ブレが大きくなれば”負け”である。
この不文律には、国民への配慮などない。
 大蔵一家と言われるように、この不文律は省内の規範である。この規範を破ればその後の出世は覚束ない。このため財務省の官僚は財務省の規範に忠実に行動する。
 このため財務省の考えを改めさせればよいなどという人がいるが、そんな説得が通用する世界ではない。
 腐敗官僚の大先輩である中国の人がそれを聞いたら鼻先で笑うこと受け合いだ。
 財務省について、これを擁護する人もいる。次に財務省寄りの財務省論を検証してみよう。

2014年12月15日月曜日

官僚に対する民主的統制 2

 われわれの財務省についての知識は断片的である。新聞や雑誌で官庁のなかの官庁といわれてもピンとこない。
 財務省に28年間在籍し内情に詳しい高橋洋一氏が解説する財務省の”権力”の源泉とその”権力”が向かって行く”ベクトル”は想像を絶するものがある。戦前の陸軍にも例えられる。
 まず財務省の”権力”の源泉から。
 権力の源泉はおおまかに次の3つに分類される。
1 警察権
 財務省には警察力がある。財務省の外局である国税庁を傘下にもっている。徴税の権力を利用し警察力を発揮することができる。
 「国税庁のほうも脱税を摘発するのが仕事だから、相手が政治家であろうが何であろうが虎視眈々と狙っている。
 たとえば政治家がテレビに出演して、公務員制度改革を批判したとしよう。
 すると誰かの差し金か、即座に国税局(形式上は国税庁の地方支分部局。しかし財務省にとっての地方出先機関のような位置づけ)が『先生、ちょっと調べたいことが・・・・・』とやってくる。
 一種の脅しだ。こんなことは日常茶飯事である。
 もちろん無闇に税務調査などできないから、一応、役所(国税庁、国税局)のほうにも言い分がある。
 それは『脱税を疑わせる情報提供(タレコミ)があったので、調べなければならない決まりなのです。』だ。
 間違っても『先生がテレビに出て批判的発言をしたから』とは言わない。『テレビに出て稼いでいるでしょう』とも言わない。
 役所には必ず”しかるべき言い訳”が用意されている。
 タレコミなり調査のきっかけのことを、国税用語で『端緒』と言う。とはいえ、情報提供者は明らかにされないし、確たる情報提供がなくてもかまわない。検証のしようがないからである。
 そのため『端緒』は税務調査官の心証に大きく左右される。『週刊誌を読んでいたら、この人に脱税の疑いを感じた』でも立派な『端緒』になってしまうのだ。」(高橋洋一著祥伝社黄金文庫『官愚の国』)
 権力が恣意的に使われても政治家を含め国民はそれを防ぐことができない。恣意的な権力行使は法治国家にはあり得べからざることである。

2 予算編成権
 日本の国家予算は政府予算案が国会に上程・決議される仕組みになっている。ところが財務省は政府予算案以前に事実上予算編成権を手にしている。
 「日本の国家予算は事実上、財務省が先に決めていってしまう。財政制度審議会(大蔵省時代にあった5つの審議会を統合したもの)の提出する『建議』を盾に、8月頭ごろには概算要求基準(シーリング)を発表する。
 これがそのまま閣議決定されて、その後は財務省の”手順”どおりに進むのだ。
 通常8月末ごろに各省庁から予算要求額(概算要求)が出されるが、先にシーリングが決まっているのだから、手足を縛られたようなものである。(中略)
 財務省原案が政府予算案として閣議決定される前に『復活折衝』がある。各省庁(概算要求)と財務省(原案)との間で行われる修正交渉だ。交渉内容の難易度・複雑度にしたがって、事務折衝(各省庁の総務課長級と財務省主計局の主査級)、大臣折衝(各省庁の大臣級と主計局長級)、政治折衝(与党幹部と財務大臣)とレベルアップするのが通例となっている。
 財務省原案発表後、およそ5日間かけて展開される。ところが、この復活折衝も、あらかじめ財務省の”手順”に組み込まれているのだ。年末になっていきなり折衝が始まるわけではない。11月の中ごろになると、主計局の官僚は、担当省庁の人間と『握る』(私は9月に握ったこともある)。
 『握る』とは、要するに復活折衝のシナリオを提示して、相手(担当省庁)の合意を引き出すことだ。」(前掲書)
 警察権がムチとすれば予算編成権はアメである。

3 官僚の人事権
 国家公務員全体の人事管理は、人事院とか各省庁の人事部ではなく財務省が押さえていると高橋洋一氏はいう。
 「もちろん、各省庁にはそれぞれ人事セクションがあり、省内の人事を担当する。個々の人事異動は各省庁に一任されている。また、人事院は建前上『国家公務員法に基づき、人事行政に関する公正の確保及び国家公務員の利益の保護等に関する事務をつかさどる中立・第三者機関として、設けられた』(人事院HPより)独立組織だ。
 国家公務員の人事を国家全体の仕組みとして管理するには、3つの部門が必要になる。このことがよく理解されていない。
 先にその3つを書いてしまうと、こうなる。

① 財務省主計局給与共済課(旧大蔵省主計局給与課):給与の額を管理
② 人事院給与局給与第二課:各省の人事を管理
③ 総務省人事・恩給課:全体の国家公務員数を管理

 要するに『お金』(給与)と『人』(人員、定員)を管理しなければ、国家公務員の人事は成り立たないということだ。
 ①、②、③は、機構上は別個の組織である。
 ところが、①の職員が財務官僚であるのは当然のこととして、②にも③にも同じく財務省の官僚が出向し、実務を取り仕切っているという事実を知る人は少ない。
 私が『国家公務員全体の人事管理は財務省が押さえている』とする理由はここにある。」(前掲書)
 官僚の給料と人員配置は、すべて財務省が握っている。
 このため財務省には大蔵省時代からの隠語があると高橋洋一氏はいう。

「われら富士山、他は並びの山」

 隠語であるから露骨に使われることはないが、財務省では伝統的に使われているという。この言葉に「官庁のなかの官庁」の自負が読み取れる。
 このように財務省が絶大な権力を手中にしていることが分かったがその権力は何処を目指しているのだろうか。

2014年12月8日月曜日

官僚に対する民主的統制 1

 先月30日フジテレビ報道2001の党首討論で安倍首相は衆議院を解散した理由を説明した。
 その内容は日本において実質上権力を掌握しているのが誰であるか、その一端を垣間見た思いがする。
 この会見で安倍首相は財務省によって消費税増税という外堀を埋められてしまったためこの流れを変えるためには衆議院を解散する他手段がなかったと告白している。
 税は民主主義の根幹である。消費税は国民すべてに関係する。
 民主主義社会においてはいうまでもなく国民が主権者である。消費税増税については、主権者である国民が国民の代理人である政治家にその可否を委任している。
 ところがその判断を実質財務省が行っていたことが白日のもとに晒された。
 近年財務省は経済情勢の如何を問わず、どの政権に対しても財政再建には増税が不可欠であると説明してきた。
 安倍首相は、増税しても全体の税収が減れば元も子もないとの信念で、この旨機会があるごとに発言している。
 ところがこの会見では、「財務省は財政再建しようという善意で消費税増税を目指している」と言って財務省に対する怒りの言葉を呑んだ。
 最高権力者である筈の安倍首相が財務省に対する不満を差し控えたのだ。
 見方によっては財務省によるしっぺ返しを心配したとも言える。行政府の長と官僚の立場を考えれば異常という他ない。
 5年前民主党は官僚主導から政治主導を掲げ政権交代を実現した。
 いずれも財務大臣を経験して政権の座についた管元首相と野田前首相は、公約にない消費税増税を言い出し、ミイラ取りがミイラになってしまった。
 衆議院を解散せざるを得なかったとはいえ安倍首相は既定路線の消費税増税を延期した。驚くべきことに安倍首相は財務省に逆らった最初の首相であるとさえ言われた。
 自民、民主を問わずどの政権にも財務省の影は色濃くついてまわっている。
 官僚、それも官僚の中の官僚といわれる財務省についてわれわれはあまりにも知らないことが多い。
 次稿以降、財務省寄りに財務省を論じる人とアンチ財務省の立場から財務省を論じる人のそれぞれの見方を検証し、官僚に対する民主的統制のあり方について考えてみたい。
 未だ真の市民革命を経ていない日本社会に於いて、官僚に対する民主的統制が果たして可能なのか否か、その可能性を探りたい。

2014年12月1日月曜日

小学校の英語必修化

 英会話が上手な日本人には滅多にお目にかかれない。中学・高校あるいは大学まで6~10年間も英語を学んでいる筈なのにまともに英語で話しができない。
 国際会議などで通訳を介さないと意思疎通できない心もとない日本代表の姿をテレビニュースなどで見かけることがある。
 かかることを心配してか、文部科学省は、今や実質国際語となった英語によるコミュニケーション能力向上を目指すべく立ち上がった。
 先月20日中央教育審議会の総会が開かれ、下村博文文部科学相は小・中・高校の学習指導要領の改定について諮問した。
 諮問内容の一つに小学校高学年からの英語教科化の議論が進められ、東京五輪が開催される平成32年度からの新指導要領の実施を見据え、早ければ平成28年度に答申されることになった。
 注目すべきは、小学校3年生からの英語活動開始と5年生からの英語教科化である。
 その目的はグローバル化に対応した人材育成が急務となったためという。
 下村文科相が特記として見直しを諮問している内容の一部は下記の通り

 「グローバル化する社会の中で,言語や文化が異なる人々と主体的に協働していくことができるよう,外国語で躊躇(ちゅうちょ)せず意見を述べ他者と交流していくために必要な力や,我が国の伝統文化に関する深い理解,他文化への理解等をどのように育んでいくべきか。
 特に,国際共通語である英語の能力について,文部科学省が設置した「英語教育の在り方に関する有識者会議」の報告書においてまとめられた提言も踏まえつつ,例えば以下のような点についてどのように考えるべきか。
 ・小学校から高等学校までを通じて達成を目指すべき教育目標を,「英語を使って何ができるようになるか」という観点から,四技能に係る一貫した具体的な指標の形式で示すこと
 ・小学校では,中学年から外国語活動を開始し音声に慣れ親しませるとともに,高学年では,学習の系統性を持たせる観点から教科として行い,身近で簡単なことについて互いの考えや気持ちを伝え合う能力を養うこと
 ・中学校では,授業は英語で行うことを基本とし,身近な話題について互いの考えや気持ちを伝え合う能力を高めること
 ・高等学校では,幅広い話題について発表・討論・交渉などを行う能力を高めること」
(初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について『諮問』26文科初第852号平成26年11月20日中央教育審議会)

 明らかに英語による日本人のコミュニケーション能力不足を意識した諮問内容となっている。

 思考の基礎は母国語による。
 このことは日本に限らずどの国においてもそうであろう。
 未だ母国語である日本語の習熟過程にある小学生段階から外国語である英語を学ばせるには無理がある。
 基礎ができていないものにいきなり高度な応用編を学ばせるようなものだ。
 思考の基礎を阻害するだけでなく、外国語学習の発展をも阻害する。なぜなら外国語学習といえども母国語という土台あっての学習であるからである。
 なぜ文科省は短兵急にこのような諮問をなげかけたのだろうか。
 一にも二にもコミュニケーションを重視するあまり大事なものを見失っていないだろうか。
 小・中学校段階からかかるコミュニケーション重視の教育に偏重したら肝心の高校でめざす「発表・討論・交渉などをおこなう能力を高めること」に資することにはならない。
 なぜなら英語教育の基礎である日本語に裏打ちされた読み・書きを無視し、文法・構文を等閑に付しているからである。
 まさかコマーシャルにあるように”英語のシャワーを浴びるだけで英語が話せるようになる”や旅行英会話や立ち話を流暢に話せることが英語教育の目的と考えているわけではあるまい。

 日本人で語学の達人といわれ英語を母国語とする人よりも英語がうまいといわれた人たちがいた。
 岡倉天心、新渡戸稲造、南方熊楠などがその英語の達人いわれた人たちである。
 これらの人に共通する語学習得方法がある。それは名文の素読、暗誦である。南方熊楠はさらに筆写にこだわったといわれている。また英語を学び始めた時期はけして早くからではない。せいぜい現在と同じく中学生からである。
 彼らは英語の名文を反復暗誦し英語の基礎を体得した。昔の日本人が漢語を素読したように英語を素読したのである。
 あたかもプロ野球の選手が繰り返しノックを受け体で守備を体得するのに似ているといったらいいか。
 彼らは、この方法により日本語と構成がまるで異なる英語の基礎を習得しその後ネイティブ以上に英語の達人になった。
 文科省はそのような方法はまどろっかしいと思っているのか否か定かでないが、小学生にいきなり会話能力を身に付けさせたいらしい。
 読めない、書けないけど、話はできるようにする。
 残念ながらこの方法は前述したように小学生にとって最も大切な母国語である日本語学習を阻害するだけでなく、基礎を抜かしいきなり応用を学習させるようなもので英語能力の発展をも阻害する。
 いうなれば小学生に対し”角を矯めて牛を殺す” ことになりかねない。
 小学生に対しては、なにより母国語である日本語の学習を優先させるべきである。この意味において小学校の英語必修化は時機尚早といえる。