2014年2月24日月曜日

「反日」韓国 1

 あいつだけにはなにがなんでも負けたくない、 あいつだけはどうしても許せない! 
 かかる感情は個人レベルではよくあること。国家間でも、イングランドとアイルランド、イスラエルと中東諸国など、今も昔も犬猿の仲、とてもいいとは言えない。
 日韓関係となるとどうなるか。その敵対感情はどこにも負けないほど激しく、かつ一方的である。
「日本に負けたら玄界灘に身を投げろ」
 日本人には悪名高い李承晩初代韓国大統領は、1954年初めてのサッカー日韓戦で、こう言って選手を送り出したという。
 最近では、李明博前大統領の公然たる竹島上陸、韓国系アメリカ人の運動による米グレンデール市の慰安婦像の設置、同じく米バージニア州とニュージャージー州の日本海/東海併記問題、強制動員賠償訴訟での韓国裁判所での有罪判決、日本の歴史教科書にたいする公然たる内政干渉、など韓国からの反日攻勢は枚挙にいとまがない。
 朴槿惠現韓国大統領は、中国に働きかけ日本国初代総理大臣 伊藤博文を暗殺した安重根の記念館を暗殺地のハルピン市に開設させた。日本に向かっては事あるごとに歴史認識を非難し、就任後1年たっても未だに日韓首脳会談を拒否している。
 今、韓国は、社会体制、安全保障体制に関係なく、また韓国自身にとっても死活問題とさえなりかねない日本との経済交流に障害となることなど一切視野にないかの如く、政府と民間、国内と国外を問わず、国を挙げて「反日」の熱気が渦巻いている。
 何故に、韓国はこうまで「反日」なのか。その感情はどこからきているのか。どうして日本はここまで恨まれなければならないのか。
 隣国だからしかたないという人がいるかとおもえば、西洋列強と同じく植民地化したからだという人もいる。はたしてそうか。
 殖民地化された国と旧宗主国の関係は、西洋列強のばあい、日韓ほど仲が悪くない。むしろ友好的でさえある。
 日本は、先の大戦でアジア諸国に軍靴をとどろかし官民問わず戦争の惨禍を及ぼした。しかしそれは他のアジア諸国も同じではないか。台湾を見よ。韓国と同じように併合した。台湾から恨みつらみの言葉などつゆぞ聞かない。
 ベトナム、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ミャンマーなど他のアジア諸国から怨念のことばなど聞かない。韓国と中国だけが「反日」感情を隠そうともせず、事あるごとに日本を非難し、歴史問題、靖国問題に過剰反応し、公然と内政干渉を繰り返す。

 この韓国の「反日」の熱気に煽られ、わが国でも「反韓」感情が次第に熱気を帯びつつある。
 テレビ、新聞、雑誌などでその類の記事が目に付くようになった。特に、「反韓」ものが書店にあふれ人気の度合いがわかる。  目ざといテレビのコメンテータなど、「反韓」をいえば視聴率を稼げるとばかり、いっそう声高になる。
 が、このような日韓の非難応酬合戦からはなにも生産的なものは生まれてこない。
 これでは北朝鮮を利するばかりと、とうとうアメリカが仲裁の役をかってでんばかりの情勢となっている。
 かかる問題の解決には、テレビ、新聞、ネットなどからの情報に頼った常識的な判断だけでは道を誤る。
 一時の感情に振り回されて導かれた結論ほど危ういものはない。
 ここは、問題の根っこにある本質的な部分に焦点をあてる社会科学的アプローチこそが本筋である。
 この類の社会科学的分析は、日本人はあまり得意な分野ではないようだ。それが証左に太平洋戦争時の国家総動員法という格好の例がある。
 この時アメリカはどうしたか。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」 という孫子の兵法を知ってか知らずか、ともかく戦争参入にあたり、目的合理的に国家を挙げて戦争に望んだ。軍事面のみならず、敵国である日本および日本人の行動様式を徹底的に研究した。この目的のため社会人類学者を召集し研究せしめた。よく知られていることだが、ルース・ベネディクトの『菊と刀』はその成果の一つである。
 これに比し、第一次近衛内閣によって制定された国家総動員法は軍事面、主にハード主体で、社会科学的分析が十分になされたとはいえない。この意味において当時の日本は、総力戦とはいっても、中途半端な軍国主義国家であったといえる。
 かってないほど日韓関係がギクシャクした今こそ、激情にかられ過剰反応することなく、社会科学的に「反日」韓国を分析しなければならない。
 その結果、結論が常識とは異なるかもしれないが、社会科学の教えるところによるべきである。
 なぜなら他の諸科学で、常識と思われたことが間違いであったことをわれわれはしばしば見てきたからである。
 社会科学とて例外ではありえない。
 

2014年2月17日月曜日

ギャンブル考 5

「この出来事で利益を得るただ一人の男は、僕たちが知る限り、継父だということだ。」
 (アーサ・コナン・ドイル著シャーロック・ホームズの冒険から『花婿失踪事件』)

 犯人探しのキーワードの一つがこのセリフにある。犯罪の動機から遡って犯人をつきとめるというやり方である。
 この手法に倣い、何かを禁止することによって利益を得るものは誰か、という観点で物事をみると意外なことが分かる。
 例えば1920年代のアメリカ禁酒法成立が最も有名である。
 この法案を推進したのはプロテスタント系教会とギャングであった。
 教会は思想的信条により禁酒法を率先して推進した。ギャングは表立って運動はしなかったものの、禁酒法により大きな利益を得ることがわかっていたので裏で推進した。
 禁酒法成立の結果、ギャングが跋扈するシカゴは暗黒街になりはてたことはいうまでもない。
 わが国では長らくギャンブルは禁止されてきた。これによって利益を得た人たちがいた。この人たちはカジノが合法化されれば不利益を蒙る。産業振興の名目で容認された公営ギャンブルの関係者も同じく不利益を蒙る。
 今わが国ではカジノ法案が国会に上程されている。つい先だっての東京都知事選でもカジノについて議論された。
 革新系の候補はカジノは、公序良俗に反するという理由で反対論を展開した。これはアメリカの禁酒法推進派の教会と同じく思想的信条にもとずく反対である。
 弱者の味方を標榜する革新勢力が、身の破滅をもたらすギャンブルから社会的弱者守るという主張には一見反対の余地がない。 が、この主張が必ずしも所期の目的を得られるとは限らない。否、むしろ意図したことと反対の結果をもたらしがちだ。
 一方でカジノ合法化に表立って反対しないもののこれを喜ばない功利的な勢力がある。競輪、競馬、オートレース、宝くじなどの公営ギャンブル関係者および裏社会の勢力がそうであろうことは容易に想像できる。
 
 少しく敷衍してみよう。
 まず、1970年代の美濃部元東京都知事以来 わが国の革新系の政治家は総じてギャンブルに反対である。
 反対の理由は、ギャンブル中毒者が街にあふれ、犯罪も増える。街の風紀が乱れ、スラム街化し、暴力団が跋扈する。勤労意欲低下、失業者増加、家庭崩壊などなど。一言でいえば公序良俗に反する、である。
 これは、アメリカの禁酒法を推進したプロテスタント系教会の論理そのものである。この論拠に説得力があるか。人が賭けるという行為は人間の本源的欲求の一端であるに違いない。
 その証左に、ギャンブルは古来たびたび禁止されが、そのたびに復活している。いわば必要悪といってもいい。
 ギャンブルを一時的に禁止できてもそれを永久的に禁止することができないことは歴史的にも明らかである。
まして資本主義世界にあっては、仕事そのものが濃淡こそあれギャンブル的性格を持ち合わせている。
 次にカジノに表立っては反対しないものの合法的なカジノを喜ばない勢力について述べたい。
 わが国のカジノ法に反対する勢力は公営ギャンブルの関係者および裏社会であり、彼らは功利的理由でカジノ法に反対している。
 端的にいえば、カジノ合法化は彼らの既得権益を侵害するからである。
 競輪、競馬、オートレースなど戦後産業振興の名目で設立されたが、その役割はとっくに終わっているにも拘わらず、未だに続いている。
 ギャンブルでは世界に類をみない25%もの高い控除率、宝くじに至っては50%強である。この高控除率で得た収益は産業振興に充当されるのが本来の主旨であるが、今や名ばかりで、天下りの温床になっていることは周知の事実である。
 また、この高控除率のために、ノミ行為が横行し、裏社会の暴力団の有力な資金源となっている。
 また公営以外のギャンブルは禁止されているため、賭博開帳などのヤミ行為が、同じく暴力団の資金源となっている。
 カジノが合法化され、自由競争になれば、公営ギャンブルの既得権益に与った勢力は、忽ち不利益を蒙る。控除率が自由競争になれば、人が高い控除率のギャンブルから低い控除率のギャンブルへと移るのは自然の流れだ。ギャンブルが人間の本源的欲求の一部であるとすれば、ギャンブルの合法化はより健全な方向に向かうだろう。
 革新系政治家がいうようにギャンブルはたしかに公序良俗に反する面がある。
 が、そこで思考停止してしまっては暗黒街のシカゴに戻ってしまう。人の歴史とともにはじまったと言われる『賭ける』という行為は禁止しても効果がなく、これとうまくつきあってゆく他ない。
 ましてわが国の公営ギャンブルだけが合法であるなどという歪な状態は是正さるべきである。
 公営ギャンブルは公序良俗に反せず、民営ギャンブルは公序良俗に反するなどという論理が通用する筈もない。

2014年2月10日月曜日

ギャンブル考 4

 はじめてのギャンブルで儲けるビギナーズラック、これで調子にのりギャンブルに深入りし、やがて損をだし、それを取り戻すために泥沼にのめり込む。
 あるいは、運試しのつもりのギャンブルに負け、これを取り返えさんとして同じように泥沼にのめり込む。これらは典型的なギャンブルに嵌る動機である。
 ギャンブルする可否はともかく、これで馬鹿げた行動をとらないためには、前稿で述べた
 ”勝っても負けても一定額になったらやめる、借金してまで勝負しない” というルールを厳守すること。
 これはギャンブルホーリックにならないためのいわば安全弁である。
 が、理性では理解できてもいざとなるとそれを実行できない。地獄の釜の蓋を開き、そこに飛び込んでいくか否かは、この簡単なルール厳守にかかっている。
 なぜこの簡単なルールを守れないのか。損を取り返すという行為自体、危険と隣り合わせである。
 仇を討つつもりが返り血を浴びる、倍返しのつもりが元も子もなくす、などの可能性は常につきまとう。
 が、損を取り返しにいく人はこのことをきれいに脳裏から消し去る。 
 このように自ら律したルールでありながら、損を取り返すという誘惑にかられ、これが優先しルールが置き去りになる。
 自分に厳しくとはいうものの、言うは易く行うは難し。余程の覚悟と努力が求められる。ましてギャンブルなどに手をそめる人にとってはなおさらである。
 自ら律したルールに綻びが生じるのは、まずルールに”例外” を設けることによってはじまる。堅固に築いた堤も蟻の一穴が原因となって崩落するごとく、この例外の容認によってルールは瓦解してゆく。
 自らの都合のいい解釈で抜け道を探してしまう。
 いとも簡単にどんでん返しがおきるのがギャンブルの常であるが、このことは例外容認に格好の理由づけを与えてくれる。
 曰く、”あと一勝負だけ” ”あと一日だけ” ”今回だけ” ”これが最後” など抜け道の言い訳には事欠かない。
 これで終わることがないことは容易に想像がつく。ひとたび麻薬に手を染めた人間が容易にそこから抜け出せないように、ギャンブルもひとたび禁を破れば同じ運命が待ち受けている。
 ギャンブル地獄に陥らないためには、冷静にならなければならないが、ギャンブルホーリッカにはどうしてもそれができない。
 人はどこまでも自分に甘く、自分に有利に解釈する。また、足るを知らず、欲望には際限がない。勝っても、まだまだだという念にかられる。
 ギャンブルには人間の弱さが凝縮されている。

 吉田兼好の次の言葉は冷静を欠いた人の心に警鐘を鳴らす。

 「双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、『勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし』と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。」
(『徒然草』第110段)


 いきすぎたギャンブルは身の破滅をもたらし、ひいては犯罪につながり社会問題化する。つぎにこの問題を考えてみたい。

2014年2月3日月曜日

ギャンブル考 3

 人が賭ける理由があるように、人が賭けを止められない理由もまたある。
 大王製紙の前社長 井川氏は賭けを止められない理由を率直に述べている。

   負けが一定額になった段階でカジノをあとにする
   勝ちが一定額になった段階で勝ち逃げする
   借金をしてまで勝負しない

 「これらのルールを厳格に守ってさえいれば、106億8000万円もの大金をカジノに突っ込むなどという馬鹿げた行動は取らなかったはずだ。
 だが、ギャンブラーはそんな常識人のような発想はしない。4時間かけて500万円が2000万円まで膨らんだのであれば、8時間かければ1億円を3億円にまで爆発させることだってできるはずだ。
 元手がゼロになってしまう可能性は思考から排除し、倍々ゲームの未来を自分本位の脳内確率で夢想してしまう。」
                                        (井川意高著双葉社『熔ける』)
 常識的な発想を逸脱した途端にギャンブルの泥沼にはまり込み、そこから抜け出せない。その原因を、井川氏は、『自分本位の脳内確率』と表現した。
 これはカジノに限らず、勝負事、賭け事一般にいえる。負ける確率を十分認識しながら、無意識の世界でそれを排除してしまう。

 ギャンブルを社会学として研究している谷岡一郎氏は、ギャンブルをやめられなくなる原因を、精神医学者の分析を交えながら次の三つを挙げている。

 1 現実逃避 
 精神医学において、ギャンブルに限らずその他、酒、くすりなどに耽溺し、依存状態に陥る主たる原因として考えられているのは、”日常生活では解消されない心理的欲求を満たすため” である。が、これは一時的な満足を得るにすぎない。
 また、ギャンブル依存症の心理を研究した草分けともいえるバーグラーの研究を紹介し、”病的なほどのギャンブラーは心の奥底で実は”負けたがっている”と。
 ギャンブルは理性やそれを教えた、父母を含む社会に対する否定としてなされるが、父母などの社会的権威に対する直接の攻撃は心理的に前提として禁じられているため、自分をいじめる行為によってしか反逆心は達成されない。
 したがっ、て自分への攻撃イコール父母を含む社会への攻撃という形の中で負け続けることが必要となる。
 表面上本人は勝ちたいという気持ちでギャンブルをし続けるが、その実、負けることに心の奥底で満足感を覚えている。
 すなわちギャンブル依存症とは、無意識下における社会への反抗心の顕在化である。

 2 認識の甘さ
 精神医学者ロバート・カスターは人がギャンブルにはまっていくプロセスを『冒険/勝ち』、『負け続け』、『自暴自棄』の三段階にわけ、そのプロセスの各段階で ”オレだけは勝てる” ”私は確率論の外にいる” ”神に選ばれた人間のはずだ”など奇妙に信じ込む。
 ギャンブラーの常として、勝った時は自分自身の実力(強運)による結果であると信じ、いつまでも忘れずに他人に自慢するが、負けた時は自分の実力以外の要素(となりに座った人が話しかけたとか、信じられない不運の連続など)のせいにし、何日も経たないうちに記憶から消えてしまう。
 そして負け続けてもいつか必ず勝ってプラスになることを信じて疑わない。

 3 やめさせない心理トリック
 財布がカラになるまでやめない、または財布がカラになってもやめない、という行動は、一面ではやめない本人の問題であるが、ある面では、やめさせない工夫がギャンブル場によって用意されている。
 これがギャンブルにはまっていく者たちの内面的心理に対し、ギャンブルを提供する側による外部的誘因たる、やめさせない心理トリックである。
 カジノに例をとれば、現実を忘れさせる『空間』、いたれりつくせりの『サービス』、ハラハラドキドキ感を醸し出す『ゲーム』、賭け金が無くなった人に対する容易な『クレジット』の提供、などである。

 現実逃避についてのバーグラーの研究は、”過度のギャンブルは自己を罰したいとする内なる欲求である” とする、フロイトの説を構成しなおしたものであり、実証研究上のサポートがないため、有力な説ではないと、谷岡氏は述べている。
 が、われわれが日頃報道で接する破滅したギャンブラーの家庭環境には、ある共通点に気づく。父母あるいは社会的権威による抑圧である。実証研究が進めば結論も違ったものとなろう。
(谷岡一郎 仲村祥一編世界思想社『ギャンブルの社会学』から)

 認識の甘さについては、これは何もギャンブラーに限らないが、ギャンブラーはその度合いが強いということか。
 人間は、本来自分に甘いようだ。
 ユリウス・カエサルも 『ガリア戦記』 で ”人々は自ら欲することを信じる (homines id quod volunt,credunt) ” といっている。
 ギャンブルに狂うとその歯止めが利かなくなる。

 やめさせない心理トリックについては、大王製紙の前社長 井川氏の『前掲書』でその生々しい実態が詳細に描写されている。
 詐欺の被害に遭う人の行動は、傍からみればとても信じられない行動をとるが、ギャンブルをやめられない環境におかれた人も傍からみればとても信じられない賭け方をする。
 いずれの場合も、当事者にとってはごく自然の行動、自然の流れである。当事者はそれを危険などと気づかない。

 重度のギャンブル依存症など他人事と、ほとんどの人は考える。
 が、そのように考える人もいつ何時この忌まわしい病にまきこまれないとも限らない。
 次稿でこの危険な心理的誘惑について考えてみたい。