2019年4月29日月曜日

揺らぐアメリカ 1

 日本の首相がアメリカ大統領に「抱き着き外交」する。戦後70年以上にわたりアメリカが日本の政治、経済、外交、安全保障について深くかかわりこれを支配してきた象徴的な姿である。
 政権与党の幹部はこのような首相を余人をもって替え難いと高く評価する。国民もこれに特に違和感を覚えないようだ。
 アメリカは長年にわたり日本の運命であったし今もそうである。そのようなアメリカを日本人はどこまで理解しているのだろうか。
 結論からいえば日本人はほとんどアメリカを理解していない。日本人にアメリカを理解させるのは猿に小説を書かせるよりも難しいと皮肉をいう学者もいる。
 事実われわれはアメリカを表面的にしか知らない。その最たるものは宗教であり契約である。

 この世には神の意思しかない。死をふくめ病気、老衰などすべて人間の妄想にすぎない。
 人間をなやますのは妄想を妄信しているあいだだけである。妄想を妄信しなければ人間は病気、老衰、死を迎えることもない。
 実在するのは神だけであり神は善である。神を信じるものには病気、老衰、死は訪れない。
 これはクリスチャンサイエンスであるがこれに類似するファンダメンタリストがアメリカ国民の4割を占めている。驚くべき数字である。
 アメリカ人の4割もの人が人間は死なないと信じているのだ。このような説教をどれだけの日本人がまともに受け取るだろうか。
 次に契約である。新天地を求めて移住した人たちには伝統もなければ慣習もない。いってみれば無法地帯に来たに等しい。
 無法地帯のままでは生活できない。法秩序は生きていくうえで不可欠である。
 アメリカ上陸前にピューリタンを中心としたメイフラワー号の乗船客が結んだ「メイフラワー契約」はルソーの契約によって社会を作るという社会契約論が発表される140年以上も前に社会契約説を地でいっている。
 アメリカは自然発生的ではなく人類史上初めて人工的に造られた国家である。片言隻句にわたり契約書に記載する原点がここにある。
 日本は自然発生的に国家誕生し慣習や因習に縛られている。契約は阿吽の呼吸、細かいことを書かず、問題が発生したら誠意をもって協議することですべてをカバーする。

 宗教と契約については日米の間には天と地ほどの開きがある。それにもかかわらず70年以上にわたり運命を共にしてきた。
 日本はアメリカを理解しないままただ抱き着いてきたといっていい。問題はこれからもそれでいいのかどうかである。

2019年4月22日月曜日

日本語考 11

 物事を考えるときには言葉を使って考える言語思考と言葉を介さず具象やイメージだけで考える場合がある。
 会話や説明などコミュニケーションの場ではそれと意識することなく言葉に置き換えて考えている。
 一方科学者が宇宙の成り立ちを考え将棋指しが長考に耽るときなどわざわざ言語に置き換えて考えるようなことはしないだろう。
 言語思考は思考全体の一部にすぎない。それにもかかわらずなぜ言葉が重要なのか。
 人は言葉に影響される。言葉には人びとを拘束する力がある。言葉がひとたび発せられると発した方もその受け手もともにその言葉に引き寄せられる。
 言葉には情報伝達の手段のほかに人びとの行動を律するという重要な働きがある。
 言葉が文明の重要な要素の一つとなっているのはこの言葉がもつ引き寄せる力にある。
 自己主張が強い言語は自己主張が強い文明を築きその逆もまた然りである。
 このことから言葉を単に情報伝達の手段として捉える見方は言葉の一つの側面にすぎないことが分かる。

 文明の重要な要素である言語を替えることは文明を替えることにも通じる。
 母語や国字を替えることは過去との断絶を意味する。アイルランドではゲール語を話す人が少なくなりケルト文明の継承が危ぶまれている。
 朝鮮半島とベトナムは長年使用してきた漢字を廃止したため混乱している。古代文献は漢字で書かれているため自国の歴史を知るのも困難となっている。

 わが国ではグローバル化に対応するためとして熱心に英語教育が推進されている。
 政治学者の丸山真男は日本の文化は日本固有の文化層という古層の上に新しい外来の文化を取捨選択して積み重ねることを繰り返すことによって成り立っていることを明らかにした。このことは言語についても言える。

 わが国はかって日本固有語である訓読みの和語に加えてかって東アジアの国際公用語であった古代中国語の音読み漢語を日本語の枠組みに取り入れた。
 和語の替わりに漢語にするようなことはしないで和語に漢字文化を組み入れさらに日本独自の訓読み漢字を開発して言語のアイデンティティを守った。
 現在の国際公用語である英語はわが国にとっては当時の古代中国の漢語に匹敵する
 英語の日本語化が進んでいる。グローバル、ファイナンス、コンビニ、リテラシーなど数多くの英語の語彙が日本語化され理解されている。
 英語の日本語化はかっての漢語の日本語化と同じ流れであるが、日本語の使用を禁止したり日本語ではなく英語を優先する教育は明らかに行きすぎである。
 小学校低学年からの英語教育は子供の成長に問題がある。人は幼少期に2つ以上の言語を習いいずれも中途半端で終われば混乱して物事を深く考えることができなくなるという。
 日本の企業が日本語の使用を禁止し英語を強制する政策には違和感がある。
 母語を禁じられた社員は英語で考えるようになるだろうが考える力や発想の自由が母語のようにはままならないだろう。
 母語は思考活動の基盤である。これをおろそかにすることは思考をおろそかにするに等しい。

 日本はこれまで漢語、オランダ語、英語など外国語の文献を懸命に翻訳しその結果日本語で読めないものはないまでになった。
 維新前は日本語の語彙不足のため翻訳ではなく外国語のままで学ぶほかなかった。

 現在の言語政策は翻訳が未整備な時代に逆行するかのようである。グローバル化の波に乗り遅れてはならないと国際公用語の英語教育が優先され日本文明の一翼を担う母語教育が後回しになる。
 グローバル化の病を治す薬はないかのようだ。グローバル化の病膏肓(ヤマイコウコウ)に入る。
 歴史が証明するように母語をないがしろにする国の文明は衰退する。

2019年4月15日月曜日

日本語考 10

 従来の価値観や考え方では対処できない激動期になると人は物事を根本に立ち返って考える習性がある。
 近代日本においてそのようなことが3度あり言語もその対象の一つであった。
 最初は明治維新のとき、2度目は太平洋戦争敗戦直後、3度目は今世紀初頭である。それぞれの時期を簡単にスケッチしてみよう。

 まず明治維新、初代文部大臣の森有礼は日本語を廃止し時制や活用を撤廃したシンプルな英語を公用語化とするよう主張した。
 植民地化を防ぐために強国の言語である英語を公用語化して一気に学術レベルを欧米の水準に引き上げようとした。
 当時日本語の語彙は遠く欧米のレベルに及ばず地理、歴史、数学、動植物その他すべての学科は外国語で学ぶほかなかった。
 森から言語改革について意見を求められた米国人言語学者ホイットニーは英語を公用語とすることに反対した。

 「母語を棄て、外国語による近代化を図った国で成功したものなど、ほとんどない。
 しかも、簡易化された英語を用いるというのでは、英語国の政治や社会、あるいは文学などの文明の成果を獲得する手段として覚束ない。
 そもそも、英語を日本の『国語』として採用すれば、まず新しい言葉を覚え、それから学問をすることになってしまい、時間に余裕のない大多数の人々が、実質的に学問することが難しくなってしまう。
 その結果、英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけがすべての文化を独占することになり、一般大衆との間に大きな格差と断絶が生じてしまうであろう。」
(施光恒著集英社新書『英語化は愚民化』)

 危機感を抱いた当時の知識人は諸外国の文献を懸命に翻訳し語彙を欧米並みのレベルまで引き上げた。その結果すべての科目が日本語で学べるようになった。
 郵便制度の創設者として知られる前島密は教育の普及のために漢字撤廃を主張した。
 漢字は時代遅れで表音文字で書かないと欧米人のように賢くなれないとまで言った。
 前島の提案は採用されなかったがその後国字問題提起の先駆けとして評価されている。

 2度目は太平洋戦争の敗戦直後、社会がアノミーに陥っていたせいか奇抜な案がとびだした。
 小説の神様といわれた大作家の志賀直哉が日本語を廃止して世界一美しい言語であるフランス語を採用したらどうかと提案した。因みに志賀直哉はフランス語を全く知らなかったという。
 GHQ(連合国総司令部)の要請によりアメリカ教育使節団は国語改革について報告書を提出した。
 内容は漢字は難しすぎるので日本語の漢字、カナを全廃しローマ字採用を提案するものだった。
 これを受け15歳から64歳まで1万7千人の国民の識字率を調査したところ漢字の読み書きができない人はわずか2.1%でありその利点なしとして実現しなかった。

 3度目は今世紀初頭、グローバル化時代に対応するためとして小渕内閣の諮問機関「21世紀の日本構想」懇談会が提案した英語公用語論である。
 同懇談会の報告書はコンピュータやインターネットの情報技術および国際共通語としての英語を使いこなせることをグローバル・リテラシーと定義した。
 英語については社会人になるまで日本人全員が実用英語を使いこなせるようにするといった具体的な到達目標を設定する必要があること、学年にとらわれない修得レベル別のクラス編成、英語教員の力量の客観的評価や研修の充実、外国語教員の思い切った拡充、英語授業の外国語学校への委託などを考えるべきであることなどを提案した。
 長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくるが、国民的議論を必要とする。
 まずは、英語を国民の実用語とするために全力を尽くさなければならないと結んでいる。
 グローバル企業を目指す楽天とファーストリテイリングはすでに社内英語公用語化し、その他多くの企業が英語を公用語化に準じた扱いをしている。
 2020年から小学校低学年からの英語教育が始まる。官民あげての英語教育花盛りといったところか。

 こう見てくると総じて時代が下るにしたがって国語見直し、英語重視の大義が次第に実利優先主義に走り矮小化されてきたことが分かる。
 その裏で政策は着実に実行に移されつつある。外国語を翻訳したかのような小説がもてはやされる一方夏目漱石などの小説を読む人は限られる。
 英語を話せないと肩身の狭い思いをしなければならないどこかの植民地にいるかのような錯覚に陥る。グローバル化の病が蔓延している。

2019年4月8日月曜日

日本語考 9

 生まれ育ってから話している言語である母語が他の言語に取って替わられる。
 少数民族などにはよくあることかもしれないが比較的大きな国単位では珍しい。アイルランドはその数少ない国の一つである。
 アイルランドの母語変更はそれが人びとに与える影響を研究する格好の材料となっている。

 アイルランドは17世紀イングランドが事実上最初に植民地として支配した国である。
 アイルランドの言語はイングランドの植民地化となるまではインド・ヨーロッパ語族ケルト語派に属するゲール語だけであった。
 イングランドによる植民地支配が始まっても最初のうちは英語を話すのはコミュニケーションのため一部に過ぎなかった。
 ところがイングランドによる学校における強制的英語教育、ジャガイモ飢饉、アメリカへの移住さらに英語を習得することによる経済的メリットなどで次第にゲール語話者の人口が減少し英語に取って替わられていった。
 長いイングランドによる植民地支配でアイルランドは英語社会になった。英語は社会的成功を収めるためには必要な条件の一つになった。
 1922年アイルランドは自治権を獲得したがこの時点で英語はすでに90%以上浸透しゲール語しか話せない人は数パーセントであったという。
 アイルランド政府は自治権獲得とともにケルト民族としてのアイデンティティを守るためゲール語を第一公用語、英語を第二公用語と憲法に規定した。
 ゲール語を教育のための言語として採用し、公務員にはゲール語の使用を義務付けた。
 実質上英語が母語となっているほとんどのアイルランド人にとってゲール語は新規に学習しなければならない言語で大きな負担となり結果的にこのアイルランド政府による言語復活政策は失敗におわった。
 今日でも第一公用語がゲール語であることに変わりはないがその使用は儀式的なものに限られ保護対象の言語扱いである。実質上の第一公用語は英語である。
 いったん優位となってしまった言語をもとの母語に戻すことは国の政策をもってしてもできない。アイルランドの事例はそのことを教えている。

 英語が新たに母語になったことによりアイルランド人はゲール語ではなく英語で物事を考えるようになった。
 ゲール語と英語は同じインド・ヨーロッパ語族とはいえ前者はケルト語系、後者はゲルマン語系である。
 言語の系統が異なれば語順や表現形態も違ってくる。語順や表現形態が違えば物事の見方もそれなりに違ってくる。
 ゲール語を話していたころのアイルランド人と英語を話す今のアイルランド人の思考形式は同じではない。言葉が替わればものの見方、世界観も替わることは避けがたい。
 アイルランド人は今でもゲール語のことをmy native languageというらしいがそれは一種の郷愁でありもはやもとの母語であるゲール語に戻ることはないであろう。
 アイルランドの母語が英語に替わった主な原因はアイルランド人が言語を価値評価したことによるものであろう。
 ゲール語より英語を上位に置いたのだ。逆の評価であれば結果は全く違ったことになっていたであろう。
 イングランドによる英語の強制はそのキッカケではあったが決定的理由ではない。
 人びとが自国語よりも他の言語によりよい価値を見出しそれが大勢を占めるようになればいつでも言語交替が起こりうる。アイルランドの事例はそのことを示しておりわが国にとっても他山の石となろう。

2019年4月1日月曜日

日本語考 8

 アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンはよく知られた彼の著書「文明の衝突」の第2章で文明について述べている。

 「文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方である。
 人びとはさまざまなレベルのアイデンティティをもっている。
 ローマの住人が自分のアイデンティティを定義する場合、ローマ市民、イタリア人、カトリック教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人、西洋人など、さまざまなレベルで定義するだろう。
 人が属する文明は最も広いレベルの帰属領域で、人はそこに強い一体感をもつ。
 文明は『われわれ』と呼べる最大の分類であって、そのなかでは文化的にくつろいでいられる点が、その文明の外においる『彼ら』すべてと異なるところである。」
(サミュエル・ハンチントン著鈴木主税訳集英社『文明の衝突』)

 サミュエル・ハンチントンは文明の客観的要素をこう定義してその中で最も重要なものは宗教であるという。
 人類の歴史における主要な文明は主要な宗教とかなり密接に結びついている。それが証に民族性や言葉が同じでも宗教が違えば互いに殺し合う場合があるからだという。
 
 ところが日本においては宗教と文明の結びつきが密接とは言い難い。
 かって明治政府は、仏教は隆盛を極め人心を繋ぎとめたときもあったがその勢いは衰えた神道は宗教として人心を一つにする力に乏しいとの見方をした。
 人びとの帰属意識を高めるために宗教に換えて皇室にその機軸を求めた。皇室の中心である天皇を現人神とし国家神道を強力に推進した。

 が、敗戦を機にその体制も崩壊した。戦後の混乱と経済成長を経て今改めて日本人のアイデンティティとは何かを問う時期にきている。
 さまざまなアイデンティティの中で言霊信仰のある日本において言語には特別なものがある。それが生活習慣や行動様式に影響するからである。
 最も顕著なものは自己主張であろう。自己を前面に出す欧米人にたいし控えめで自己抑制する日本人。
 人は考える場合には言葉で考える。主語が絶対君主として君臨する英語にたいしこれを省略するのがあたりまえの日本語。
 この言葉の違いが主観的な自己認識に影響を及ぼさないはずはない。
 言葉と人の思考形式や行動様式とは切っても切り離せない関係にある。日本語が日本文明を育んできたと言っても過言ではない。

 このことを念頭に置き他国の事例も参考としつつ日本語のあり方を考えてみよう。