2015年2月23日月曜日

苛立つイスラム 4

 社会現象を科学的に解明する社会科学は、法律、制度、慣習、文化、宗教などの社会構造をその研究対象とする。
 マックス・ウエーバーは、社会構造のなかでも宗教が最も重要な社会構造であることに着目した。そして彼は、彼の著作”宗教社会学論文集”の序言で注目すべき課題を設定した。

 「近代ヨーロッパの文化世界に生を享けた者が普遍史的な諸問題を取扱おうとするばあい、彼は必然的に、そしてそれは当をえたことでもあるが、次のような問題の立て方をするであろう。
 いったい、どのような諸事情の連鎖が存在したために、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象 - 少なくともわれわれはそう考えたがるのだが - が姿を現すことになったのか、と。
 今日、われわれが『普遍妥当的』だと認めるような発展段階にまで到達している『科学』なるものは、西洋だけにしか存在しない。」
(マックス・ウエーバー著大塚久雄 生松敬三訳みすず書房『宗教社会学論選』)

 近代資本主義発生は、通常の考えは歴史上の事実と異なる、と大塚久雄博士はマックス・ウエーバーの説を引用し解説している。

 「通常の考え方では、まず商業が発達し、そして、その商業やその担い手である商人たちを内面から動かしている営利精神、営利原理といったものが社会の到るところへしだいに浸透していくと、その結果として近代の資本主義が生まれてくることになるのだ、とされている。
 しかし、歴史上の事実は決してそうはなっていない、と彼は言っているのです。」
(マックス・ウエーバー著大塚久雄訳岩波書店『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』訳者解説から)

 近世以前、西洋キリスト教社会は経済的、文化的、科学的に、ギリシャ、ローマ、イスラム教社会、インド、中国などに大きく遅れていた。
 現代でこそ世界に占める西洋キリスト教社会の経済的、文化的、科学的プレゼンスは圧倒的であるが、近世以前はマイナーな存在にすぎなかった。
 従って上記の通常の考え方が正しければ、西洋キリスト教以外の世界でとっくに近代資本主義が生まれているはずである。
 なぜ近代科学、近代資本主義経済は西洋キリスト教社会でのみ生まれ、その他の社会では生まれなかったのか。
 この疑問をもとにマックス・ウエーバーが設定したのが宗教社会学論文集の序言の課題である。

 この課題に対し、マックス・ウエーバーは 『理念』 によって説明した。

 「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。
 しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。
 つまり、『何から』wovonそして『何へ』wozu『救われる』ことを欲し、また - これを忘れてはならないが - 『救われる』ことができるのか、その基準となるものこそが世界像だったのである。」
(前掲書)

 うっかりすると読み飛ばしてしまいそうなフレーズであるが、ここには驚くべき意味が込められている。

 ”人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって” この言葉は、カール・マルクスの考えであるが、これに対しマックス・ウエーバーは理念によって作られた世界像が違えば、自ずから利害関係も違ってくるのではないかと考えた。
 カール・マルクスとは異なる理念によって作られた世界像の違いとは何か。
 それはピューリタンの世界像であるという。
 キリスト教の予定説では、『最後の審判』で救われて神の国へ入る人と、救われないで永遠の死滅に向う人に分かれる。
 しかもこのことは予め神が決め給うことで人間はそれを知ることさえ出来ない。不安で仕方がない。
 プロテスタント、なかでもピューリタンの人たちは、この不安を和らげる方法を考えた。
 隣人愛は神の栄光を増す。隣人愛を実践している者は、神に選ばれているのではないか、と。
 ところで、隣人愛の実践とは。
 カトリックの場合、クリスチャンとしての禁欲修行は教会内に限られる。
 ピューリタンの場合は教会外、普段の生活の場である。いわゆる世俗内禁欲である。
 ここで禁欲とは、あらゆる他のことがらへの欲望を抑えて目標達成のために全力を尽くすことをいう。
 あたかもマラソン選手がゴールを目指してひたすら走りに走るように。
 世俗内禁欲のピューリタンが実践する隣人愛とは働きかつ祈ることである。
 ここでいう働くとは、一生懸命仕事をすることである。仕事をすることによって人の役に立つ。
 よりよいものをつくり隣人に提供することは隣人愛にほかならず、神に選ばれるに違いない。だが選ばれる確証はない。
 そのため益々仕事に励む。隣人のためにいいものを提供するためには、目的合理的に仕事をし、それから生じた利益は、自分の消費に使うと神の栄光を穢すことになるので、必要以上の消費はしない。
 利益は再投資してもっと多くの人に貢献できるように使う。
 この一連の努力によって神に選ばれているという確証を得ようとする。
 このピューリタンのエトスが資本主義社会を作り上げた。
 『理念』とは、このようなピューリタンの宗教的考えであり、これこそが社会のあり方のレールを変える『転轍手』であるとマックス・ウエーバーは言っている。

 このようなピューリタンのエトスは、内面のみを重視する教義であるキリスト教にのみ見られることであって、内面・外面とも重視するイスラム教では決して見ることは出来ない。
 キリスト教徒は内面の信仰のみで外面的な結果は問われないが、イスラム教徒は内面的な信仰のみならず外面的な戒律、規範、法律に違反することは許されない。
 然るに近代資本主義社会は、法律、規範、約束を守るなどはすべて外面的な規制である。
 イスラム法が資本主義の法律と矛盾すればイスラム法が優先される。近代資本主義が生まれない所以である。
 イスラム教社会にはこの他にも近代資本主義をはじめその他の近代化に大きく遅れをとった致命的な欠陥があった。

2015年2月16日月曜日

苛立つイスラム 3

 イスラム教の論理は分かり易く論旨明快である。

 まず神について。
 イスラム教では、神はただ一人アッラーのみ、アッラーの他に神はいない、ムハンマド(マホメット)は人間であり預言者にすぎない。
 イスラム教の神は、神がいたるところにいる多神教の神とは異なるし、イエス・キリストは神であると同時に人間でもあるというキリスト教の神とも異なる。
 ましてイスラム教には、キリスト教の父と子と精霊が一体となる三位一体説など難解な教義などない。
 父と子と精霊という神様が3人いてそれが一体であるなどという分かったような分からないような教義はない。神様は1人に決まっていると言っている。
 コーランでイエス・キリストはムハンマドと同じく単なる人間で預言者にすぎないと繰り返し断じている。

 つぎにイスラム教の教義で明快なのは現世と来世を峻別していることである。
 イスラム教ではムスリム(イスラム教徒)に現世で”六信”を求めている。神、天使、啓典、使徒、来世、定命である。
 勿論この六信は現世で信じることを求められている。
 ここでで重要なことは最初の五つ、”神、天使、啓典、使徒、来世”、と最後の”定命”の違いである。
 前者は来世のための”信”であり、後者は現世のための”信”である。
 来世のための”信”とは、現世で”善行”を行えば、来世ではその報償があるとし、行わなければ、それに対し罰が下る。
 ここでいう”善行”とは、神、天使、啓典、使徒、来世を信じることである。
 現世のための”信”とは、キリスト教の予定説と同じで幸不幸は予め神によって決定されている。
 人間では如何ともし難く神が命じ給う天命である。
 重要なことはこの定命が現世限りのものであることである。来世にも及ぶキリスト教の定命とは決定的に異なる。
 イスラム教ではムスリムに六信とともに五行を求めている。
 信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の五行である。これら五行は、コーランによってムスリムとして義務づけられている。
 ムスリムとして五行を義務付けられているが、コーランのみでは日常の行動の細部まで網羅できない。
 このための補則としてイスラム法源がある。確定している法源はコーラン、ハディーズ、イジュマー、キャースの4つである。
 未確定のまで含めると十の法源があり、用意周到に準備されている。

 最後にイスラム教の預言者の位置付けである。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教と同じくヤハウェを神とする”啓典の神”を信仰する。
 ユダヤ教もキリスト教も長い歴史のなかで教義も書き換えられてきた。そこで天使ガブリエルが最後の預言者として指名したのがムハンマドである。
 ”最後の”というところが極めて重要で、ムハンマドの後に預言者は出現しないということになる。つまりイスラム教は究極の教えということになる。

 このようにイスラム教は、ムスリムに神を信じ、来世を信じ、六信五行の勤めをするよう求めている。
 その宗教思想は首尾一貫していて体系的である。
 そして忘れてならないのはイスラム教の教義は、単なる宗教の戒律に止まらず、社会の規範、国家の法律にも及ぶことである。 六信五行によって内面も外面も、そして個人も社会も国家もすべてイスラム教の教義が優先される。
 この点キリスト教がローマ帝国の弾圧を逃れるためにパウロがすすめた内面重視の信仰とは根本的に異なる。

 イスラム教の教義から必然的に派生する掟とも言うべきものがある。
 偶像崇拝の禁止とジハード(聖戦)である。この2つを腑に落とし込んでおかないとイスラム教を真に理解したとはいえない。

 イスラム教の掟の一つ偶像崇拝の禁止。
 これは啓典の宗教であるユダヤ教、キリスト教でも同じであるがキリスト教ではイエス像、マリア像があるように必ずしも守られていない。
 ところがイスラム教では厳格に守られている。バーミヤンの仏像遺跡破壊やムハンマド風刺画に対する執拗な報復などその証左の一端である。
 
 「お前たちアッラーをよそにして木石ばかり拝み、それでありもせぬもの(偶像神は神ではなくて、根も葉もない空想の所産)を造り出す。アッラーをよそにしてお前たちの拝んでいる者どもは、お前たちに日々の糧一つくれることすらできないではないか。何かお願い申すことがあるならアッラーにお願い申せ。(アッラー)を崇め、感謝し奉らなければならぬ。お前たちみんな、いずれはお側に連れ戻されて行くのだぞ。」
(コーラン第29章16節)

 なぜ偶像崇拝は禁止なのか。
 神は全知全能にして万物を作り給うた。神の被造物にすぎない像を拝むなど瀆神行為に他ならない。これがその答えである。
 この背景にはイスラム教が偶像崇拝や多神教と戦った成立過程がある。特にイスラム教の使徒ムハンマドは信仰対象となり易くその絵や像はタブーとなっている。
 イスラム教では偶像崇拝は死に値する大罪である。

 イスラム教のもう一つの掟 ジハード(聖戦)。
 本来は戦闘的なものでなくアッラーの教えに忠実に”努力する”ほどの意味と言われた。だが、挑戦的な一面もある。

 「アッラーの路に斃れた人々(『聖戦』すなわち異教徒との戦いにおいて戦死した人々)のことを死人などといってはならぬ。
 否、彼らは生きている。ただ汝らにはそれがわからないだけのこと。」
(コーラン第章149節)

 「これ、信徒の者、遠い国々に出征し戦いの庭にたおれた己が同胞のことを『彼らも、我々と一緒にいたら死んだり殺されたりしないですんだものを』などと言う者ども無信仰者どもの真似をしてはならぬぞ。」
(コーラン第3章150節)

 「もし汝らがアッラーの道で殺されたり死んだりした場合、(汝らが頂戴できる)アッラーのお赦しとお情けとは、人々が積み上げる(すべての財宝)よりもはるかにまさる。
 もし汝らが(戦場で)死んだり殺されたりした場合、必ずアッラーのお傍に呼び集めて戴けるのだぞ。」
(コーラン第3章151~152節)

 すべてのムスリムは死んだあと再び生き返って最後の審判を受ける。
 審判では現世の善行と悪行とが天秤にかけられてアッラーの裁きを待つ。
 ムスリムも人間であるからいくら現世で善行を積んだとしても悪行もあるだろう。楽園へ行ける確証はない。不安で仕方ない。
 これに比しジハードで戦死すれば来世で確実に楽園入りができる。
 そうであればジハードで死を恐れる理由などない。
 異教徒に無闇に戦いを挑むわけではないが異教徒から戦いを挑まれたら怯むことなく戦いを挑めとアッラーは命じている。
 ムスリムは敬虔になればなるほど死を恐れなくなる。
 分かり易く筋が通った宗教である。

 このような完結された宗教とも言うべきイスラム教はどのような運命をたどるのか。宗教社会学を参考に考察したい。

2015年2月9日月曜日

苛立つイスラム 2

 イスラム教を知るにはコーランに如くはない。
 コーランでアッラーは、ある時には弁護士のように、ある時には医者のように、ある時には政治家のように率直で、具体的、現実的に信仰の道を説いている。聖典らしくない聖典である。これほど具体的な聖典はコーランのほかにないだろう。コーランで繰り返し説かれているもののうちいくつかの節を抜粋してみよう。

 まず冒頭の開扉

 「一 開扉 -メッカ啓示、全7節-
慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
1 讃えあれ、アッラー、万世の主、
2 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
3 審きの日(最後の審判の日)の主宰者。
4 汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
5 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
6 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
7 汝の嘉し給う人々の道を歩ましめ給え。 」
(岩波文庫 井筒俊彦訳『コーラン』)・・・以下コーランの引用は同書から

 ”慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・” この句はコーラン全114章の各章冒頭で例外なく述べられている。
 アッラーが唯一の神、アッラーのほかに神はいない。最後の審判が訪れるが、その主宰者はアッラー。教えを守らぬ者はアッラーの怒りを蒙る。この開扉はコーランのいわばエッセンス。

 信仰なきものに対してアッラーは預言者ムハンマド(マホメット)を通じ、諭して言う。

 「 『どうせこの世は一生かぎり。生きて死ぬ、ただそれだけのこと。”時”がわしらを滅ぼすまでのこと』
 などと彼らは言う。実は、なにもわかっておらぬ。ただ当て推量しているだけ。
 誰の目にも明らかな我らの神兆(死後の復活を説く”コーラン”の文章)を誦んで聞かされると、持ち出してくるきまり文句は、『それでは、わしらの御先祖がたをここへ連れて来て見せるがいい、もしお前らの言うことが本当なら』と。
 言ってやるがよい、『アッラーはお前らに生を与え、次に死を与え、次に復活の日、みな(裁きの場所に)集め給う。これは絶対に間違いないところ。だが大抵の人間にはそれがわからない』と。」
(コーラン第45章23~25節)

 最後の裁きの場所とはどのようなところか。その様子が生き生きと述べられている。

 「さて、いよいよ喇叭が一吹き嚠喨と鳴りひびき、大地が山々もろとも持ち上げられ、ぐしゃっとただ一打ちに叩きつぶされてしまう時(天地の終末)、その日こそ見るも恐ろしい光景が出来する。
 空は裂け割れ - その日にはあの(硬い空も)脆いもの - あたりには天使らがずらりと立ちならぶ。その日、主の玉座を頭上に捧げまつるは八天使。
 さ、その日には、お前たちみなむき出しで、何一つ隠せるものはありはせぬ。
 己が帳簿(現世での行いが全部記録してある天上の帳簿)を右の手に渡された者(天国行きが決定した人)は(嬉しさのあまり)言うだろう、
 『さあ、みなさん手に取って読んで下さい、このわしの帳簿。なあに、いずれは自分の決算にお目にかかると思っていたよ』と。
 そしてまあ、今度の生活のなんとも言えぬ心持よさ。高い高い(天上の)楽園の中、手を伸ばせば(おいしい)果物が取り放題。 『さ、食べよ、飲めよ、心ゆくまで。これもみな過ぎ去った遠い日々(現世に生きていた頃)お前たちが自分でした(善行)の報い』(これは天使の言葉)
 これに反して、帳簿を左手に渡された者ども(地獄行きが決定した人)は、きっとこう言うことであろう。
 『ああ、情ない、こんな帳簿など貰わぬ方がましだった。自分の決算など知らぬ方がましだった。ああ、いっそ何もかも終わりになってしまえばいいに。山なす財産もついにものの役には立たなかったか。かってのわしの威勢は消え去ったか』と。
 『掴えよ、縛りつけよ(アッラーが地獄の番人どもに命令しているところ)、それから地獄で焼いてやれ。焼いたら今度は七十尺の鎖でぐるぐる巻きにしてしまえ。
 この者は(現世にいたころ)偉大なアッラーを信じなかった。貧乏人の養いを勧めることもしなかった。
 その報いで、今日、ここでは為を思ってくれる友とてなく、食い物といってはどろどろの膿汁ばかり、罪人だけが食べる食い物。』」
(コーラン第69章13~37節)

 アッラーが唯一の神、アッラーのほかに神はいない。
 イエス・キリストは神などではなく預言者にすぎない。キリスト教徒もイスラムに帰依し善行を積めば報われる。


 「それから、陰部を堅く防ぎ通したあの女(聖母マリアを指す)、あれには我らがじきじきに聖なる息吹きを吹き込んだ。
 そしてあれと、あれの息子(イエス・キリストを指す)とを全人類への神兆となした。
 『まこと、汝らのこの宗団こそは統一ある一つの宗団(唯一神教を奉ずる宗団として宗派の別などあるはずのないもの)であり、わしが汝らの主。さ、みなわしを崇めよ』と。
 だが、彼らは互いに仲間割れして、ばらばらになってしまった。 しかし、いずれは誰もかれも、みな我らのところへ戻ってくる身。 信者になって義しい行いに精出す者は、努力しただけの分は決して付落しされる心配はない。我らが一々記録しておる。」
(コーラン第21章91~94節)

 最後の審判で天国にいければつぎのような緑園が待っている。

 「だが信仰を抱き、かつ善行をなす人々に向かっては喜びの音信を告げ知らしてやるがよいぞ。
 彼らはやがて潺々(せんせん)と河水流れる緑園に赴くであろうことを。その緑園の果実を日々の糧として供されるとき彼らは言うことであろう、
 『これは以前に地上で私たちの食べていたものとそっくりでございます』と。
 それほどによく似たものを(見かけは地上の果実とそっくりだが味は全然違うのでなお美味しく感じる)食べさせて戴けるうえに、清浄無垢の妻たちをあてがわれ、そこにそうして永遠に住まうであろうぞ。
(『清浄無垢の妻』というのは、古アラビアの伝説で天上の楽園に住むと言われる神女フールfur即ち『白色に乙女たち』のこと。
 西欧ではペルシャ化されたフーリーという名で有名で、回教の天国の官能的性格を示すものとしてよく引かれる。
 回教の伝承によると、信者は死後楽園に入ると同時に彼女らに迎えられ、地上においてラマザーン月に断食した日の数と、善事を行った数だけ彼女らと歓を交えることが許されるが、しかも彼女らは永遠に処女であるという)。
(コーラン第2章23節)

 最後の審判で地獄行きとなった者を待ちかまえている地獄とはどんなところか。

  「あの男(マホメットに敵対するクライシュ族の有名な首領ワリード・イブン・アル・ムギーラを指すという)のことはこのわしアッラーひとりに任せておくがよい。
 ああしてわしが創ってやり、ずらりいならぶ息子を授け、万事都合よく行くよう特にとりはからってやったのに、もっとほしいとは何事か。
 いや、いや、そうは行くものか。我らの神兆にあくまで頑な態度を取ったあの男。
 辛い山坂(地獄の刑罰を譬えて言う)を無理やり登らせてやるだけのこと。
 あの男、知恵をしぼって案をねった(『コーラン』をおとしめようとして奸策をねった)。
 ええ、呪われよ、なんたる案をねり出したことか。も一度呪われよ、よくも見事な案をねり出したものよ。
 ちょっと眺め(『コーラン』に一瞥を投げ、眉をひそめてしかめ顔。それから後ずさりして、傲然と、『これはどう見ても伝来の妖術だ。どう見てもただの人間の言葉だ(アッラーの啓示ではない)』と言う。
 よし、あの男、地獄の劫火で焼いてやる。さて、劫火とは何かとなんで知る(劫火がいかに恐ろしいものか、とうていお前にもわかるものではない、の意)。
 一物も残さず、一物もあまさず、皮膚をじりじり焼き通し、十九の天使がその番をする。」
(コーラン第74章11~20節)

 コーランには天国(緑園)と地獄について繰り返し描写されている。
 イスラム教徒はこの世で戒律により厳しく禁じられてことを守り通せば来世ではその褒賞として快楽が約束されている。
 逆に戒律を守らずこの世で快楽に耽れば来世では恐ろしい地獄が待っている。
 イスラム教はすぐれて論理的な宗教である。

 つぎにイスラム教の論理について検討したい。


2015年2月2日月曜日

苛立つイスラム 1

 シリアで拘束された邦人2人に悲惨な結末が訪れた。犯人はテロリストでありかつイスラム教徒でもある。国際社会もこの残虐行為にたいし非難一色である。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの報復でイラク大統領フセインとアルカーイダ指導者ビン・ラディーンを倒し、一件落着とおもいきや事態は落着どころかますます混沌としてきた。
 イスラム過激派とアメリカを主とする欧米社会との溝は深まるばかりである。
 シリア拘束事件をきっかけに日本もその渦に巻き込まれかねない事態となった。


 ところでイスラム教とはなにか。われわれはあまりにもそれについて知らなすぎる。
 日本人は、鑑真が渾身の想いでつたえた仏教の戒律を当代の秀才が比叡山に集まりことごとく骨抜きにしたように、おおよそ規範なるものになじまない。
 イスラム教は規範に始まり規範に終わる宗教である。この規範たるや内面だけでなく外面も要求する規範である。
 これほど日本人になじまないものはないし、理解などできる筈もない。
 この点内面のみを要求するキリスト教のほうがまだなじみやすい。
 無知であり理解もできなければ対策のたてようもない。かかるときこそ社会学的アプローチが望まれる。

 唯一の神アッラーを信仰し、コーランを啓典とし、ムハンマド(マホメット)を最後の預言者とするイスラム教は、ユダヤ教、キリスト教と同じく啓典の民でありアブラハム系の宗教である。
 ルーツが同じにもかかわらず欧米社会と激しく対立するイスラム社会。行く末はどうなるのか、またその結末は?
 以下イスラム教について宗教社会学的アプローチを試みたい。