2015年2月16日月曜日

苛立つイスラム 3

 イスラム教の論理は分かり易く論旨明快である。

 まず神について。
 イスラム教では、神はただ一人アッラーのみ、アッラーの他に神はいない、ムハンマド(マホメット)は人間であり預言者にすぎない。
 イスラム教の神は、神がいたるところにいる多神教の神とは異なるし、イエス・キリストは神であると同時に人間でもあるというキリスト教の神とも異なる。
 ましてイスラム教には、キリスト教の父と子と精霊が一体となる三位一体説など難解な教義などない。
 父と子と精霊という神様が3人いてそれが一体であるなどという分かったような分からないような教義はない。神様は1人に決まっていると言っている。
 コーランでイエス・キリストはムハンマドと同じく単なる人間で預言者にすぎないと繰り返し断じている。

 つぎにイスラム教の教義で明快なのは現世と来世を峻別していることである。
 イスラム教ではムスリム(イスラム教徒)に現世で”六信”を求めている。神、天使、啓典、使徒、来世、定命である。
 勿論この六信は現世で信じることを求められている。
 ここでで重要なことは最初の五つ、”神、天使、啓典、使徒、来世”、と最後の”定命”の違いである。
 前者は来世のための”信”であり、後者は現世のための”信”である。
 来世のための”信”とは、現世で”善行”を行えば、来世ではその報償があるとし、行わなければ、それに対し罰が下る。
 ここでいう”善行”とは、神、天使、啓典、使徒、来世を信じることである。
 現世のための”信”とは、キリスト教の予定説と同じで幸不幸は予め神によって決定されている。
 人間では如何ともし難く神が命じ給う天命である。
 重要なことはこの定命が現世限りのものであることである。来世にも及ぶキリスト教の定命とは決定的に異なる。
 イスラム教ではムスリムに六信とともに五行を求めている。
 信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の五行である。これら五行は、コーランによってムスリムとして義務づけられている。
 ムスリムとして五行を義務付けられているが、コーランのみでは日常の行動の細部まで網羅できない。
 このための補則としてイスラム法源がある。確定している法源はコーラン、ハディーズ、イジュマー、キャースの4つである。
 未確定のまで含めると十の法源があり、用意周到に準備されている。

 最後にイスラム教の預言者の位置付けである。イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教と同じくヤハウェを神とする”啓典の神”を信仰する。
 ユダヤ教もキリスト教も長い歴史のなかで教義も書き換えられてきた。そこで天使ガブリエルが最後の預言者として指名したのがムハンマドである。
 ”最後の”というところが極めて重要で、ムハンマドの後に預言者は出現しないということになる。つまりイスラム教は究極の教えということになる。

 このようにイスラム教は、ムスリムに神を信じ、来世を信じ、六信五行の勤めをするよう求めている。
 その宗教思想は首尾一貫していて体系的である。
 そして忘れてならないのはイスラム教の教義は、単なる宗教の戒律に止まらず、社会の規範、国家の法律にも及ぶことである。 六信五行によって内面も外面も、そして個人も社会も国家もすべてイスラム教の教義が優先される。
 この点キリスト教がローマ帝国の弾圧を逃れるためにパウロがすすめた内面重視の信仰とは根本的に異なる。

 イスラム教の教義から必然的に派生する掟とも言うべきものがある。
 偶像崇拝の禁止とジハード(聖戦)である。この2つを腑に落とし込んでおかないとイスラム教を真に理解したとはいえない。

 イスラム教の掟の一つ偶像崇拝の禁止。
 これは啓典の宗教であるユダヤ教、キリスト教でも同じであるがキリスト教ではイエス像、マリア像があるように必ずしも守られていない。
 ところがイスラム教では厳格に守られている。バーミヤンの仏像遺跡破壊やムハンマド風刺画に対する執拗な報復などその証左の一端である。
 
 「お前たちアッラーをよそにして木石ばかり拝み、それでありもせぬもの(偶像神は神ではなくて、根も葉もない空想の所産)を造り出す。アッラーをよそにしてお前たちの拝んでいる者どもは、お前たちに日々の糧一つくれることすらできないではないか。何かお願い申すことがあるならアッラーにお願い申せ。(アッラー)を崇め、感謝し奉らなければならぬ。お前たちみんな、いずれはお側に連れ戻されて行くのだぞ。」
(コーラン第29章16節)

 なぜ偶像崇拝は禁止なのか。
 神は全知全能にして万物を作り給うた。神の被造物にすぎない像を拝むなど瀆神行為に他ならない。これがその答えである。
 この背景にはイスラム教が偶像崇拝や多神教と戦った成立過程がある。特にイスラム教の使徒ムハンマドは信仰対象となり易くその絵や像はタブーとなっている。
 イスラム教では偶像崇拝は死に値する大罪である。

 イスラム教のもう一つの掟 ジハード(聖戦)。
 本来は戦闘的なものでなくアッラーの教えに忠実に”努力する”ほどの意味と言われた。だが、挑戦的な一面もある。

 「アッラーの路に斃れた人々(『聖戦』すなわち異教徒との戦いにおいて戦死した人々)のことを死人などといってはならぬ。
 否、彼らは生きている。ただ汝らにはそれがわからないだけのこと。」
(コーラン第章149節)

 「これ、信徒の者、遠い国々に出征し戦いの庭にたおれた己が同胞のことを『彼らも、我々と一緒にいたら死んだり殺されたりしないですんだものを』などと言う者ども無信仰者どもの真似をしてはならぬぞ。」
(コーラン第3章150節)

 「もし汝らがアッラーの道で殺されたり死んだりした場合、(汝らが頂戴できる)アッラーのお赦しとお情けとは、人々が積み上げる(すべての財宝)よりもはるかにまさる。
 もし汝らが(戦場で)死んだり殺されたりした場合、必ずアッラーのお傍に呼び集めて戴けるのだぞ。」
(コーラン第3章151~152節)

 すべてのムスリムは死んだあと再び生き返って最後の審判を受ける。
 審判では現世の善行と悪行とが天秤にかけられてアッラーの裁きを待つ。
 ムスリムも人間であるからいくら現世で善行を積んだとしても悪行もあるだろう。楽園へ行ける確証はない。不安で仕方ない。
 これに比しジハードで戦死すれば来世で確実に楽園入りができる。
 そうであればジハードで死を恐れる理由などない。
 異教徒に無闇に戦いを挑むわけではないが異教徒から戦いを挑まれたら怯むことなく戦いを挑めとアッラーは命じている。
 ムスリムは敬虔になればなるほど死を恐れなくなる。
 分かり易く筋が通った宗教である。

 このような完結された宗教とも言うべきイスラム教はどのような運命をたどるのか。宗教社会学を参考に考察したい。

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