2018年4月30日月曜日

健全財政の罠 1

 セクハラ疑惑で辞任に追い込まれた福田前財務事務次官は辞任表明の記者会見で今回の不祥事と消費増税や財政再建とを関連づけないでほしいと述べ辞める間際まで職務に忠実であった。
 これに関連して思い出すのは7年前の東日本大震災発生直後のテレビのインタビューで震災復興財源について問われた武藤元財務事務次官の答えである。
 既に退官し民間のシンクタンクに転身していた同元次官
は震災復興税の創設を提案し辞めてもなお財務省の立場を忘れることはなかった。
 健全財政死守は現役OBを問わず財務官僚にとって職務上の教義であるのだろう。教義であればこれに反することは許されない。

 財務省設置法第3条第1項には財務省の任務の一つに健全な財政の確保がある。
 財務官僚はこれを「出ずるを制して入るを量る」方式、具体的には緊縮財政と増税で達成しようとしている。
 メルケル首相が推奨するドイツのシュヴァーベン地方の倹約で知られる主婦の生き方である。
 その結果どうなったか。国民の貧困化と国力の低下である。
 1997年以降消費税増税と緊縮財政によってたびたび景気が腰折れし失われた20年となった。(次図)


出典:IMF World Economic Outlook Databases(2018年4月)世界経済ネタ帳






 緊縮策を採用したEUと日本は低迷しているがそうではないアメリカ、中国は順調にGDPを伸ばしている。
 人口減がGDP頓挫の原因という見方もあるがわが国の高度成長期は今と同じく人口は伸び悩んでいたが生産性向上でこれを達成した。また人口増加率とGDP伸び率には確たる関連性はない。(次図)

                                       高橋洋一氏生成

 GDP低迷の原因を消費税増税と緊縮財政のみに帰することはできないがこれが第一の要因であることは間違いないだろう。
 財政健全化のためには国民貧困化も国力低下もやむなし。だれもこのようなことを意図するはずはないが結果としてこうなっている。
 いまやわが国は個人も企業も投資せずひたすら貯蓄に励み政府は財政健全化の旗印のもと増税と緊縮策を推進する。

 これがわが国の現実でありデータとして表れている。そしてこの施策は改められるどころかなお強化される予定となっている。なぜこのようなことになるのだろうか。

2018年4月23日月曜日

無宗教国家日本 9

 神道の土着の神々と飛鳥奈良時代以降すっかり習い性となった仏教の因果律、この二つが大多数の日本人が腹の底から信じかつ信仰の対象としているものである。日本人のエトスからこう言える。
 前者は本居宣長が定義したカミである。日本の神社の起源の殆んどは祟り神である。
 人びとが祟りを鎮めるために祀っているうちにいつのまにか祟り神が善神に変身する。
 たとえば大宰府へ左遷された菅原道真の死後、天変地異が多発しこれを祟りと畏れた人びとが怒りを鎮めるために祀ったカミがいつのまにか学問の神様になった。
 後者は善行を積めばよい報いがあり悪行を行えばそれなりの報いがある。
 そのため現世だけでなく来世のためにも熱心に神仏を拝む。お天道様が見ている。悪いことをすればいずれ天罰が下る。
 ところがキリスト教の予定説は因果律とは全く異なる。神が決めたことは絶対である。変更の余地などない。
 どんなに善行を積もうが、熱心に拝もうが神の決定を覆すことなどできない。これが予定説の本質である。
 因果律の思考が身に浸みついている日本人にとってはとても理解し難い。驚き以外のなにものでもない。

 ところで宗教に関しては日本ほど異質なところはない。日本には仏教、儒教、キリスト教と伝来したが、日本人はそれら宗教の戒律をことごとくとり払いまたは骨抜きにしてもとの宗教とは似ても似つかぬ日本独特のものにした。
 このようなことが許される日本は宗教の無法地帯と言われても反論の余地がない。
 だが山本七平氏はこれを宗教無法地帯と言わず日本教と名づけた。
 日本に入ると、仏教は日本教仏教派、儒教、キリスト教も同じく、日本教儒教派、日本教キリスト教派となる。いずれも日本教に吸収されてしまう。
 宗教には教義が欠かせない。ところがどの宗教も日本に入ると戒律をとり払われるため教義も無くなってしまう。
 教義を欠いた宗教に宗教性はない。人びとは教義に則って物事を理解し判断する。これなくして宗教とはいえない。

 ところが日本にはこれに対応するものとして「空気」があるという。
 これを発見したのは日本教の命名者でもある山本七平氏である。
 空気は一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教義に劣らず人びとを呪縛する。一神教において教義は神との契約でありこれを守ることは絶対の義務である。
 これと同じように日本人にとって空気は絶対である。これに逆らうこともできないしこれから逃れることもできない。日本人にとって空気はそれほどの強制力をもつ。
 たとえば、太平洋戦争前、開戦の是非をめぐって日本海軍内で激論が戦わされたが最後に決定したのはその場の空気であった。
 敗戦後の1980年から11年間、130回余にわたる海軍反省会が行われた。その会での関係者の証言がある。
 400時間にもおよぶテープのなかで複数の出席者が語っている。
 「会議は主戦論で覆われとても反対できるような雰囲気ではなかった。あのときの空気はその場にいたものにしかわからない。」(NHKスペシャル)
 あらゆる生活の場で空気が日本人を呪縛する。宗教に関しても同じである。このため日本においては空気が教義の役目を果たしている。
 ということは空気が日本人のエトスを規定している。このようなことは日本以外では見られない。
 われわれはなにを信じようとも空気が支配し空気が呪縛する社会に生きている。空気が教義となっている日本教から逃れることはできない。
 これから逸脱することもできるだろうがそうすれば生きていけない。凧のひもが切れ無連帯となりアノミーとなるからである。

 ところで契約とか目的合理的精神など近代化に不可欠なものは日本的な空気とは無縁の存在である。
 これをわきまえた明治政府は一神教であるキリスト教にかわるものとして天皇を中心とした国家神道の政策により近代化に成功した。しかし太平洋戦争敗戦を機にこの体制は瓦解した。
 戦後一時期繁栄を遂げたものの永続せず社会的混乱、国力の衰退は時とともに度を増している。根本的原因は明治政府が確立した体制の崩壊にある。
 無宗教国家と揶揄されることになんとも思わない、むしろ自分は無宗教であると誇らしげにいう人さえ現れるまでに至った。
 だが近代法、近代科学、資本主義、民主主義これらすべては西欧のキリスト教文明に淵源をもつ。日本的な思考形態に閉じこもっていては国際的に孤立するばかりである。
 日本に生まれた以上日本教の呪縛から逃れなれないにしても国際社会で生きていくうえでは日本人には難解でも他の宗教の理解は不可欠である。
 敗戦を機に失われた精神のよりどころ、宗教意識の希薄さが社会の混乱と国力の衰退の第一の原因であることはほぼ間違いない。
 一時は復活したかに見えたがそれは過去の残滓にすぎないことも分かった。
 メディアを賑わす官民の不祥事、モラルの低下は目を覆わんばかりである。
 日本が近代化に成功したのは国家主導とはいえ強力な宗教的支えがあったればこそである。
 滅びるも宗教、救われるも宗教、個人も国家も、宗教にはそれほど潜在的な影響力がある。
 もはやかっての国家神道に戻ることはないだろう。さればいかなる道がのこされているか。答えは容易ではない。
 だがここまで考察したところによれば既存の宗教をもっと理解することこれ以外にない。新興宗教はそう容易に現れるとは思えない。
 既存の宗教のなかではユダヤ教やイスラム教はその戒律の厳格さから日本人にはあまりにも遠い存在である。
 仏教は戒律をとり払ってしまったためいまや宗教の体をなしていないまでになってしまった。
 かかる理由で既存の宗教の中ではキリスト教が主な研究対象となるであろう。近代化の揺籃となった宗教の研究という意味においてもそうである。
 なお研究対象と信じることは別とはいえそこは宗教である。截然と分かれていて無関係とも一概にはいえない。敗戦を機に瓦解した精神のよりどころの復活はこれらの研究から生まれるであろうことを信じて止まない。

2018年4月16日月曜日

無宗教国家日本 8

 宗教とは何か? 改めてこう問われると難解な質問であるがマックス・ウエーバーの答えは明快である。
 宗教とはエトス(行動様式)である。意識すると否とにかかわらず人びとの行動パターンを規定するもの、それが宗教であるという。
 この定義にしたがえば日本は宗教国家である。そこで問題となるのが日本人のエトスである。

 歴史の積み重ねが日本人のエトスを形成してきたことに違いはない。
 では日本人のエトスとは何か。それは平穏な時代には潜んで分からないが激動の時代にはそれがくっきりと浮かび上がってくる。
 江戸時代末期から明治にかけて起きた世界史的にもまれに見る革命である明治維新がそうである。
 維新の原因はさまざまな見方があるが、その後の日本人のエトスを規定したという意味において儒学の一派である崎門学の影響を見逃すことは出来ない。
 なかでも決定的役割を演じたのは儒学者の浅見絅斎(あさみけいさい)であろう。
 彼は革命を是認する思想の湯武放伐論を全否定した。君主に対する反抗は理由の如何にかかわらず不可であると主張した。なぜなら君主は絶対者であるからである。君主とは天皇である。
 彼のこの思想が徳川幕府の正統性に疑問を投げかける議論へと発展し倒幕への流れをつくった。
 彼の主著 靖献遺言(せいけんいげん)は幕末の勤王の志士にとってバイブルであり、戦前の日本人にも多く読まれた。
 その一貫した主張は忠義を尽くすことの大切さである。

 「人間にとって何故にそれほどまでに忠義が大切なのか。絅斎の次の言葉はこうした疑問に答えてくれよう。
 『父子兄弟は骨肉で、夫婦はすなわち情で親む者である。ただ君臣だけが、義で合する者である。だから、心を尽し身を忘れ、わずかばかりも遺すことのない者でなければ、利を貪り、義に背いてその君を後にすることになってしまいかねない。---文集雑説
 君臣の絆は、国家の大綱である。それは国家の存立を根本から支える命綱といってもいいすぎではない。
 にもかかわらずその君臣の絆は、父子や夫婦のそれと比べ、結合力の強さの点でどうしても及ばないものがある。
 父子や夫婦の絆は、放っておいても人はこれを忘れることはない。ところが君臣の絆は、ややもすれば人はこれを忘れかねない。
 義による結びつきは、骨肉や情による結びつきほど人間の身に切実なものではないからである。ところがそうなれば、国家はたちまちのうちに崩壊の憂き目にあい、民族は辛酸をなめなければならない。」(石田和夫著明徳出版社『日本の思想家13 浅見絅斎』)

 浅見絅斎が50歳のとき起きた江戸城松之廊下事件で忠義を貫きあだ討ちした赤穂浪士四十七士を当然の如く擁護した。
 忠臣蔵のドラマは事件発生から300年以上経過したいまもなお12月の風物詩となっている。
 個人が規範的に正しいことをすればすべてがうまくいく、社会も国家も。
 その他のことを想い患うな。契約とか組織とかそのようなものに捉われていれば人間が純粋でなくなる。
 たとえば人と約束する場合、欧米人ならあらゆる場合を想定して微に入り細に入り契約を取り交わすが日本人はそんなことは水くさいと考える。
 日本の契約はたいてい「本契約に定めのない事項については双方誠意をもって協議する」旨の文言がある。欧米ではこんなものはない。
 日本的契約を極論すれば、 ”細かい取り決めは不要。おれの目をじっと見よおれが約束を破ると思うか” といったところか。腹芸は得意中の得意だ。

 浅見絅斎の思想の根底にあるのは国家をあたかも一つの家族のように考えこれを守り抜く姿勢である。そしてそれは個人の純粋な動機と規範的に正しい行動によって担保される。
 日本人のエトスはあくまでも歴史の積み重ねで獲得されてきたものであり浅見絅斎はこれを解き放す役割を担った。
 最後にこのようなエトスをもった国民の宗教のあるべき姿について考えてみたい。

2018年4月9日月曜日

無宗教国家日本 7

 資本主義と民主主義と近代法を生んだ西洋キリスト教社会は世界をどう見ていたか。

 パレスチナ系アメリカ人のエドワード・サイードは著書オリエンタリズムで、西洋・ヨーロッパ人は自民族中心主義であり、自分たちは支配する側、東洋・オリエントは支配される対象として見ていたという。
 サイードがいう東洋・オリエントは中近東、北アフリカのイスラム社会である。
 イスラム社会は中世(8世紀から16世紀)を通じてすべての面で西洋に優位にたちこれを凌駕していた。
 ところがルネッサンスを機に西洋が東洋に対し優位になり支配と被支配の立場の関係が逆転した。
 19世紀から第二次世界大戦まではイギリスとフランスが、それ以降はアメリカがこれを引き継いだ。
 欧米人にとって東洋・オリエントは未熟、非合理的、非道徳的、停滞的等々、一言でいえば遅れた社会である。
 そしてそのことが西洋による人種差別、植民地主義の理論的根拠と正当性を与えてきたという。

 支配と被支配の関係は、サイードがいう欧米と中近東・北アフリカの関係に止まらず地球規模に拡大したため事実上西洋と非西洋の関係となった。

 西洋が非西洋を支配する根拠および正当性は上の文化的側面のほかに宗教的側面も無視できない。
 宗教上未開の地を開拓する使命の先兵として宣教師がその役割を担った。その根拠は聖書にある。

 「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(口語訳新約聖書マルコによる福音書16章15項)


 異教徒をキリスト教に改宗させるのが神の意思である。この意思は危険な要素をはらむ。
 11世紀から13世紀にかけてカトリック最高責任者の教皇が提唱した十字軍遠征がその典型である。
 神が造り賜うた土地を神の名のもとに異教徒から取り返す。この思想は19世紀以降の西洋による植民地政策にも継続された。
 キリスト教徒にとってユダヤ教・イスラム教は異教徒とはいえ同じ啓典の民である。だがキリスト教徒にとって多神教徒はなにもかもが遠い存在である。彼らの手による枚挙にいとまがない原住民残虐は人間扱いとは思えない。

 さすがにこの土地略奪の考えは1958年ガーナにおける世界伝道会議で正式に撤回された。キリスト教が帝国主義と密接に結びついていたことの反省である

 同じ一神教でもキリスト教には宣教師がいるがイスラム教やユダヤ教にはいない。布教もキリスト教ほど強制的ではない。
 預言者ムハンマドが神の啓示をうける以前のアラビア半島は部族間の争いが絶えない多神教の世界であったがイスラム教誕生を機にこの争いが終焉した。
 このためイスラム社会は多神教の時代を無知の時代と定義している。
 一神教と多神教、視点が変わればこうも変わる。

2018年4月2日月曜日

無宗教国家日本 6

 2003年元旦の朝日新聞の社説に「『千と千尋』の精神で---年の初めに考える」というタイトルで一神教と多神教について言及し今後は多神教の精神が望ましいと主張している。

 「(前略)この地球上にも、実は矛盾と悲哀に満ちた妖怪があちこちにはびこって、厄介者になっている。それらを力や憎悪だけで押さえ込むことはできない。それが『千と千尋』に込められた一つのメッセージだったのではないか。
 『文明の対立』が語られている。背景にあるのはイスラム、ユダヤ、キリスト教など、神の絶対性を前提とする一神教の対立だ。『金王朝』をあがめる北朝鮮もまた、一神教に近い。
 いま世界に必要なのは、すべて森や山には神が宿るという原初的な多神教の思想である。そう唱えているのは、哲学者の梅原猛さんだ。
 古来、多神教の歴史をもつ日本人は、明治以後、いわば一神教の国をつくろうとして悲劇を招いた。そんな苦い過去も教訓にして、日本こそ新たな『八百万の神』の精神を発揮すべきではないか。
 厳しい国際環境はしっかりと見据える。同時に、複眼的な冷静さと柔軟さを忘れない。危機の年にあたり、私たちが心すべきことはそれである。」
(朝日新聞03年1月1日社説から)


 2003年元旦は9.11の同時多発テロから約1年後にしてイラク戦争勃発直前にあたる。キリスト教とイスラム教という一神教間の対立が喧伝された時期でもある。社説の論旨を敷衍してみよう。

 一神教の対立が世界の争いの種になっている。かって日本も天皇を現人神とする一神教まがいの国家神道で戦争の悲劇を招いた。高名な梅原猛さんも言っているではないか。
 かって文明は多神教から一神教への流れであったが、今後は諸民族が共存するためには一神教から多神教へと向かうべきである。今世界に必要なのは多神教の思想である、と。

 日本人にはストンと腑に落ちる言説である。誰もが納得しそうな言葉だ。だがすぐにストンと腑に落ちることには注意が必要である。
 まずこの議論の前提の一つには多神教の世界では争いが起きないことになっている。
 だが歴史を見ればエジプト、メソポタミア、ペルシャなど古代オリエント世界はすべて多神教であったが争いが起きないどころか争いが絶えなかった。なかでも古代エジプトで最も偉大なファラオといわれるラムセス二世の時代は積極的な領土拡大政策で戦争につぐ戦争の時代である。わが国の古代世界も遺跡などから見る限り同じようなことが言えるのではないだろうか。
 つぎに、一神教は唯一神をあがめるあまり排他的で寛容に欠け、独善的で強調性がなく好戦的となり争いが絶えないという前提で議論が成り立っている。
 だがユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ旧約聖書に起源をもつ「啓典の民」であり、始祖も同じアブラハムである。
 後発のイスラムの聖典コーランにもイエスは神ではないが立派な預言者であると褒め称えている。
 近世から現代にかけての中東の紛争は宗教戦争というより前世紀までの欧州による植民地政策の影響を受けた領土争いの要素が色濃い。
 わが国の天皇を現人神とする一神教的国家神道で戦争に突入したのは異教徒に対する宗教戦争などではないだろう。
 原因は大陸における権益の衝突である。わが国の領土政策が英米露など列強と対立したためである。
 言い古されているが戦争は外交の延長である。宗教が異なるというだけで戦争などしない。
 こう見てくると上の主張は前提が崩れていることは明らかだ。したがって一神教より多神教がよいという論理は破綻している。
 一神教と多神教どちらがよくてどちらがわるい、どちらが好戦的でどちらが友好的とも言えない。議論を深めるためには別の視点で見なければならない。