2013年5月27日月曜日

道州制考 5

 グローバル時代に領土や資源をめぐり国家が鬩ぎ合うとき、地方分権は流れに逆らう政策となる。
 が、現在の中央集権体制も今や制度疲労といった生易しいものでなく腐敗・腐蝕しきっている。
 百年河清を待つ政策といわれようがこの腐敗体質を駆逐しない限り真の日本の再生はない。
 これは、中央集権とか地方分権とかの以前の問題である。仮に地方分権型道州制が実現したとしても、この腐敗の駆逐なしに成功するとは考えられない。
 この病巣は手を変え品を変え組織に侵入するからである。シロアリ、否それ以上、猛毒をもった新種の病巣と考えたほうがよい。
 明治初期、大久保利通によって創設された官僚制は、日本の近代化に大いに貢献した。官僚制なくして、あの目覚しい発展はなかっただろう。
 近代化を急ぐために、明治初期は、欧米であたりまえであった議会・政党政治を避け、これからの超然主義をとり、政府・官僚がタッグを組み強力に近代化の政策を推進した。
 当時の官僚 都築馨六は政治論文で、
「一国の多数は凡人なり、専門的な教育もなく大きな事業をなしとげる能力などない。国にとって正しい政策は、官僚が専門的に研究したことに基づくべきである。」
 この考えは、当時の政府・官僚の一般的な考えを代弁している。
 現代の我々にとって、この論文は、信じられないほど国民軽視であるが、発展途上であった明治の日本にあっては、まことに適切な政策であった。
 短期間の驚異的な近代化達成の実績がなによりそれを物語っている。
 不幸なことに、この都築馨六の考えは、現代の日本の官僚に今なおDNAとして根付いている。
 成功体験ほど人々を慢心に落ち入らせ、失敗へと導くものはない。
 太平洋戦敗戦後、軍部と財閥はGHQによって解体させられた  が、米占領軍の占領政策上の要請から、官僚機構を利用され、官僚制は無傷のまま生き残った。
 このため、明治の成功体験は、世界第3位の経済大国である今日に至るもなお亡霊のごとく生き残っている。
 公務員の腐敗、汚職が摘発される度に、叩かれるが、もぐらたたきのごとくまた顔をだす。あるいは間歇泉のごとく時間をおいて湧き出す。
 明治の官僚は、近代化のために一身を国家のために投げ出した。現代の官僚は、私利私欲のためと言はれてもしかたない行動が目にあまる。
 時として、10年に一度の大物次官登場などの新聞記事をみかける。
 さぞかし、政策の勉強に怠りない優秀な官僚かと思いきや、なんと接待など絶対に断わらず、料亭から料亭を渡り歩けば歩くほど大物の称号が得られるというから恐れ入る。
 裏返していえば、職務に精励刻苦すればする程、小物ということになる。
 次官からしてそうである。他は推して知るべし。
 もし民間の会社社長がこのようなことをすれば、会社は左前になり、会社の株は叩き売られること間違いなし。
 明治の官僚と比べ、現代の官僚の倫理感は180度異なる。
 わが国のマスコミはこれら官僚を大物次官登場などと囃し立てる。なにをかいわんやである。
 官僚の中の官僚 財務省の権限は途方もなく巨大だ。この改革なくして公務員の改革なし。
 なにしろ主税と主計を擁している。徴税権と予算の配分権 これを鬼に金棒と言はずしてなにをいうか。
 この飴と鞭をもって脅しすかされて平然としておれる人はいないだろう。
 与野党を問はず政治家、官僚、財界、一般国民などなど、この財務省の権限の前に改革を叫び突撃しては幾たびともなく討ち死にしてきた。
 歴代の内閣総理大臣でさえ例外ではない。
 どんなに清廉潔白な人でも、人にはなんらかスネに傷がある。財務省はその気になれば、そのささいな傷めがけてしかけることもできる。
 げに恐ろしきは、経済警察。10億円の脱税を見逃すかと思えば、10万円の脱税をも摘発する。
 その恣意的権力を見せ付けられると人々は震え上がる。
 折りしも先週アメリカで、共和党を支援するティーパーティーなど特定の保守系団体を標的に、免税措置の審査を厳格化しているとの報道があった。
 厳格な審査が意図的であったかどうか、大統領が関与しているかどうかが問題とされた。民主主義が徹底している国ならではの問題提起だ。
 わが国を見渡しても、このような報道をしかけることができるマスコミはまず期待できない。そのようなことをすれば、ただちに当局から圧力がかかるからだ。
 しからば、我々はこの権力を前にしてなすべき手段はないのだろうか。
 かすかな希望の曙光は見える。国民の圧倒的支持があればそれは可能だ。
 先月、長らく国民不在の金融政策をとってきた日銀に対し、ようやくまともな金融政策に変更させることができた。
 この政策を選挙の争点にし勝ち取った政権ならではの成功であった。
 時あたかも、公務員改革が俎上に上っている。
 国税庁と年金機構徴収部門をまとめて歳入庁にし財務省から独立した組織にする案がある。
 これは民主党が政権交代時のマニフェストにあったが財務省の抵抗であっさり挫折した。
 そして今野党5党は、歳入庁設置法案を参議院に提出している。
 与党はいまのところこれに賛成とは言い難い。財務省と厚生労働省の抵抗があまりに激しいので与党も二の足を踏んでいるのかもしれない。
 主要なOECD加盟国も歳入庁で税と保険料の徴収を行っている。
 が、これは世界の流れだ。この流れの抗しても、自ずから限度がありいずれ抗しきれないだろう。
 中央集権とか道州制とかの議論以上に重要な議案である。注視したい。
 これが実現すれば、公務員の既得権益に対する”蟻の一穴”となり、瓦解が見えてくる。
 が、これが挫折し将来に亘り成立の見込みがなくなれば、道州制議論など空虚な響きになってしまう。
 そうなれば、日暮れて道遠し、”日本よ、汝の日は数えられたり”となりかねない。

2013年5月20日月曜日

道州制考 4

 参議院議員 江口克彦氏の地方主権型道州制は、さすがに松下幸之助の衣鉢を継いでいるだけに、真に日本の将来を考えた憂国の情にあふれる提言である。
 江口氏の提言の骨子は、明治以来続いてきて制度疲労の極にある中央集権体制の是正、および画一型社会から多様性を求める社会へと時代の要請が変わったことに伴いこれに対応するための地方の活性化である。
 中央集権体制の制度疲労の是正と地方の活性化 これに異を唱える人はまずいない。
 考えなければならないのは、これをいかにして具現化するかである。
 江口氏は中央集権体制を潔く諦め、地方分権化し、これに主権を持たせることによって具現化するのがベストだと考えた。
 中央を解体し、地方に主権を持たせるとは、明治維新が逆の方向でそうであったように革命にも匹敵する。
 もし、これが唯一の方法であり、かつ時代の要請であれば万難を排して実行される価値がある。
 地域主権型道州制が時代の要請であるかどうか考えてみたい。
 国内をみわたしても、コンビニやスーパは全国均一であり、地方の特色ある店舗はすたれ、中心街はシャッター街となり地方は疲弊した。
 しかし時代は画一型のものではもはや満足せず多様性を求める知価社会になった(堺屋太一)のであるから、これにこたえるには地方の活性化しかない。
 が、地方活性化の手段は方法論であって、道州制が唯一の方法だと断言はできない。
 グローバル化の時代の波は、夜警国家から福祉国家というのが流れではないか。
 グローバル化が進めば、国家の意味合いが薄れるという意見がある、特にグローバル企業の経営者からそういう言葉が発せられる。その議論には国民は置き去りにされている。
 中央集権体制の不具合の是正は、地方分権化は手っ取り早く解りやすいが、これが唯一の手段ではない。
 ここで制度疲労を来した中央集権体制を立て直す途はないのか、地方主権型道州制にするより他に途はないのか、また時代はたしかに多様性をもとめているが、この要請にこたえるには地方分権以外考えられないのだろうか。

 まず、中央集権体制が制度疲労を来していることに異論はない。
 戦後、アメリカのGHQによって、日本の旧体制はことごとく解体させられた。ただ官僚機構だけは解体させられなかった。GHQが、占領政策を遂行するのに都合よく利用できたからである。
 従って、この官僚機構のみは、旧体制のまま生き延びている。  このこと自体がさまざまな弊害をもたらしている。幾度となく、官僚機構の改革は叫ばれてきたが何の成果もあげてこなかった。
 官庁の中の官庁 財務省(旧大蔵省)は、金融ビッグバンで改革の俎上に上ったがびくともしなかった。
 金融庁は分離されたが、さして改革と呼べるほどのものとも思えない。
 主計と主税という強大な権限は手放さないで、未だに無傷のままである。他の官庁も推して知るべし、肝心要の権限を手放す筈がない。
 このような、制度疲労を来し、腐蝕した組織を立て直すには、確かに、江口氏や堺屋氏が主張するように地方に権限と財源を移すのが手っ取り早い方法かもしれない。

 つぎに、時代は確かに多様性を求めている。地方に権限、財源が移管されれば、地方の自由裁量が増し特色を生かせることも間違いない。
 が、時代が求めているのは多様性ばかりでない。
 地方分権型道州制が、時代の要請に合致するかどうかだが、諸外国の情勢はどうもそうはなっていない。
 レーガン・サッチャー時代の小さな政府による新自由主義的政策は敬遠されている。グローバル化時代でも、EUに見られるように国家の利益がぶつかり合い、国家が全面にでて鎬を削っている。
 また、成熟した社会では、福祉は時代の要請であり、北欧諸国に見られるように国家に付託されている。
 国家間の利害の衝突、国民に広くおよぶ福祉政策、かかる政策は地方の政策とは相容れない。

 このようにグローバル的にみても地方分権は、時代の流れに逆らっている。この流れに逆らってあえて地方分権型道州制を推し進めることは、漱石流にいえば”意地を通せば窮屈だ”ということになる。
 窮屈でない方法といえば、中央集権を続けることになるが、この弊害は前述の通りである。
 制度疲労を来した中央集権の弊害を是正するなど、叫ばれつづけ、人々は、百年河清を待つ心境になっている。
道州制議論が一向に盛り上がりに欠けるのは、この辺りにも原因の一端があるのかもしれない。
 が、諦め/停滞は流れのなかでは後退を意味する。
ここは考えぬいて解決の端緒を探ろう。

2013年5月11日土曜日

道州制考 3

 明治の新政府は、地域に根付いていた全国302の藩を、試行錯誤の末整理し、現在の県を設置し、県令を政府から派遣した。 中央集権化が主たる目的であった。近代化を急ぐためにはまことに適切な施策といえよう。
 外国では、連邦制を敷いている国が多い。形態はさまざまでも、先進国では、殆ど連邦制である。
 わが国で道州制を、これを議論されたことはあるが、実際に導入されたことはない。
 かって、かの松下幸之助氏は、明治100年にあたる1968年に、廃県置州を唱えた。幸之助の衣鉢を継いだ参議院議員江口克彦氏が、地域主権型道州制を唱え、これが現在の道州制導入の主流の一つである。
 以下が氏の主張の要旨である。

① 明治維新と国家総動員法
 中央集権体制の極めつけが1938年の国家総動員法であり、この社会主義的、軍国主義的体制が亡霊となって生き続け、今日の日本のあらゆる分野を徘徊し、混迷をもたらしている。
② 中央集権で発展した戦後日本
 アメリカ占領軍の意向もこれあり、中央集権体制を推し進め経済大国となった。
③ 地方を発展させるには限界がある
 画一化の時代は、中央集権は適していたが、多様化の時代にはむしろ障害になる。地方の努力も中央集権のもとでは徒労に帰す。
④ 官僚機構の弊害
 中央集権とは行政だけでなくさまざまな社会活動を中央政府が直接主導していくということであるから、当然それにたずさわる官僚機構は大きくなる。
 官僚機構は、規則万能、責任回避、秘密主義、画一主義、権威主義、自己保身、形式主義、前例主義、セクショナリズムに陥りやすいといわれている。
 中央集権によって形成された日本の官僚機構はまさにこのような弊害を内包しているのである。
⑤ 特殊法人という奇妙な企業
 中央集権体制は各省庁の下に特殊法人という奇妙な企業も生み出した。
 この企業は「親方日の丸」の放漫経営をし、傘下に作った関係会社・法人で不当な利益を上げ、しかも官僚の天下り先になるというものである。
 現在は特殊法人等改革基本法で整理縮小、移管、民営化の措置がとられつつあるが、中央集権体制がなくならない限り、その性質が根本的に変わるはずはない。
⑥ 規制と保護が競争を阻害する
 政府による必要以上の「規制」や「保護」も中央集権のマイナス面である。
 現在のようにボーダレス化した経済社会においては、規制や保護は企業の独創性を阻害し、市場における自由な競争と発展を抑制している。
 日本国内の経済活動や社会活動に霞が関から眼を行き渡らせるのは事実上不可能である。
 なぜ不要になった規制や保護が存在するかといえば、官僚が既得権益を守ろうとし、それによって利益を得てきた事業者や従業員も廃止に抵抗し、そうした人たちを支持者に持つ政治家も自分の政治基盤を維持することが優先しているからである。
 バブル崩壊後の歴代政権がこの改革に取り組んできたが、中央集権的統治制度が続くかぎり、改革の効果はおのずと限度がある。
 中央集権の弊害をなくすためには、弊害の対処療法ではなく、中央集権という弊害の根源を崩し、「地域主権型道州制」に大きく国の舵を切らなければならない。
⑦ 消えた自立心と責任感
 日本の中央集権的なシステムは、日本人の精神構造までゆがんだものにしてしまった。
 自治体の首長や議員は永田町や霞が関を訪れてひたすら陳情をし、国会議員は国政のことはそっちのけで、地元利益、特定企業の利益の代弁者のようになってしまった。
 また、霞が関の官僚の中には、自分達こそが国の支配者であると勘違いするウスラトンカチすらでてきてしまった。
 一方、国民の間には自立心と責任感が消えうせ、「甘え」や「たかり」、「あきらめ」や「無関心」の精神が蔓延してしまった。何度も繰り返しているように、「中央集権は諸悪の根源」であるという所以である。
⑧ 複雑・高速の時代に対応できない
 現在の日本の状況をみると、戦前に作られ、戦後も形を変えながら維持されてきた中央集権的な国家体制は、かつては日本に高度成長をもたらし、国民を豊にしたかもしれないが、今となっては日本を破滅に向かわせている。
 その理由は大きく二つある。一つは、中央集権的な国家体制では、複雑かつ高速化し、さらに統合されつつある国際社会、とくに経済活動に対応できなくなっていること。
 もう一つは、中央集権的な国家体制によって、中央政府が肥大化し、国家財政を逼迫させていることである。

 中央集権とか地方分権とかの議論はともかく、官僚機構の腐敗、腐蝕にたいする憤懣やるかたない思いがひしひしと伝わってくる。
 制度疲労を来した中央集権体制に対する、悲鳴にも似た糾弾に聞こえる。
 江口氏の主張は、とりようによっては、中央集権を止め、地域主権型道州制を導入さえすれば全てうまくゆくかの如くうけとれる。 確かに現体制に諦めの境地にも似た感情をもつ国民からすれば新鮮に映る。
 氏の貴重な提言を、ここは詳しく検証し、さらに別の角度からも考えてみたい。
 前稿でものべたが、道州制論は、革命的な議論の筈であるが、熱気が感じられない。
 何故なのか、このあたりの理由を含め、次稿で検討したい。

2013年5月6日月曜日

道州制考 2

 明治政府は、列強の帝国主義政策という外敵から守るためにも、近代化をあらゆるものに優先させた。
 幾多の障害を乗り越えたが、その中でも廃藩置県は、最も身を削る改革であった。
 長年つづいた武士階級の廃絶という荒療冶を断行した。革命というに相応しいレジームチェンジであった。
 列強の植民地政策である、”分割して統治する”という常套手段に、先手をうって中央集権体制を確立し、列強に対抗した。明治の志士の最大の功績の一つだろう。
 これに対し道州制はどのような位置づけになるのだろうか。県よりもさらに広域の州にしようとする、廃県置州とはなにを目指すのか。
 道州制導入の熱心な論客であり、同支持者の精神的バックボーンでもある堺屋太一氏の所見を検証して見よう。
 堺屋氏によると、

 人々は、自動車に代表される大量生産型の近代工業社会に、もはや満足していない。
 多様性と独創性を尊ぶ知価社会型を人々は求めている。
 前者は、中央集権体制が相応しかったが、後者は地方主権型が相応しい。
 中央集権が行き過ぎ、情報発信機能が東京のみに集中した「情報出島」構造を解消、各道州に情報機能を高める。
 自分のお金、市町村のお金、国家のお金とだんだん遠くになるに従って、使途が杜撰になる。
 厚生労働省のグリーンピア保養所など、役所の独断と偏見による無駄遣い以外のなにものでもない。
 公共事業、教育、医療、産業振興、観光、運輸等の政策と行政に地域の特性を反映させる。
 国と道州の住み分けとして、国の業務はつぎの17に限る。
 「皇室、外交、防衛、通貨、通商政策、移民政策、大規模犯罪、国家プロジェクト、大規模災害、高等司法、究極的なセーフティーネット、全国的な調査統計、民法商法刑法等の基本法に関すること、市場競争確保、財産権、国政選挙、国の財政税制。」
 道州内の地域の調整は道州がおこない、道州間調整は「道州間調整委員会」が行う。道州間調整のための財源として、租税の一部を「道州調整基金」に入れる。


 堺屋氏の基本的立場は、大量生産型社会から知価社会へと時代の要請が変わったこと、および中央集権体制が制度疲労を来し、今や有害になってきた、の2点であろう。
 自ら官僚として、また内閣の一員としての経験に裏打ちされており説得力がある。

 一方、道州制導入に真っ向から反対している、内閣府参与 京都大学大学院の藤井聡教授の論拠は、

 第一に、今回の東日本大震災がその典型であるが、今日本にまさに襲いかからんとし ている巨大災害は、個々の自治体や道州政府のレベルを完全に超えた規模になる。
 そうした規模の災害に対しては、今回の大震災に対する対応がまさにそうで あった様に、国家組織である自衛隊に加えて、「地方整備局」の組織力が不可欠だ。
 しかし、道州制になれば、地方整備局が解体されることとなっている。それ では巨大地震に対応できず、見殺しにされる被災者が続出することとなるだろう。
 その証拠に、整備局解体を含めた(九州、関西等の)「広域連合」の権限強化 の動きに、実に全国の400以上もの市町村長が明確に反対を表明しているのだ。
 つまり現場を知る者の生の声では、整備局解体などは、論外、以外の何物でも ないのだ。
 第二に、公的事業のための財源調達において公債は極めて重要な意味を持つ。この 時、同州政府に財源が移管されていれば、地方債を発行せざるを得なくなる。
 しかし地方債は国債と違い、最終的に中央銀行による買い支えが期待できない。
 そ の結果、大規模な公債発行が不可能となり、各種事業が大きく停滞することとなるだろう。その上、中央銀行の後ろ盾が無い以上、地方債では「夕張」の様に破 綻するリスクが格段に高くなってしまうのだ。
 第三に、道州制に移行するとはつまり、都道府県が無くなるということだ。おそら く、多くの国民はそれをリアルには理解していないのではないか。都道府県が無くなれば、奈良県民、鹿児島県民、福島県民といった「アイデンティティ」が急 速に崩壊していくことは間違いない。

つまり道州制への移行は行政システムの形だけに影響を及ぼすのではなく、自分は何物かという人間の根幹にも関わる問題 なのだ。
 一度「自分の都府県が無くなる」、という事を、全国民が少しは真面目に考えてはどうだろうか。


 藤井教授によれば、軍隊と中央銀行のない道州は、中途半端であり、地方主権というのもおこがましい。親の庇護で生きている中学生が「俺は独立だ、何でも俺が決めるんだ」と叫んでいるようなものだ、と揶揄している。


 明治維新の廃藩置県は、大久保利通はじめ、維新の立役者が、不退転の決意で断行した革命であった。

 道州制導入は、単なる都道府県合併ではなく、主権を道州に移すのであれば、廃藩置県にも匹敵する改革である。
 が、道州制には、なぜか革命を思わせるような熱気が感じられない。
 これは、どこにその原因があるのだろうか。