2018年5月28日月曜日

健全財政の罠 5

 「たいていの人は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい」 アドルフ・ヒットラーは政権奪取前に自著『わが闘争』でこう述べている。
 このヒットラーの言葉が今の日本で現実に起きている。こういっても俄かには信じ難いだろうが残念ながらこれは事実である。しかもその嘘が国家の財政についてであるから事は深刻である。
 例えば
1 日本の借金は厖大で17年末1085兆円(2018.2.9財務省)で赤ん坊を含めて一人当たり858万円となる。
2 財政を立て直すには増税するしかない。とりわけ消費税は現在8%であるが諸外国に比し低すぎる。将来的にはこれを20%にまで上げなければ財政再建などとてもできない。
3 わが国の財政は危機的でこのままでは破綻する。

 これらのことおよびこの類のことが財務省を発信源として広く深く浸透している。それは一般国民だけでなく政界、財界、学界、言論界など国民をリードする立場にある階層にまで浸透している。腕利きのマジシャンの催眠術にでもかかったような浸透ぶりである。

 実態はこうである。
① 国民が借金しているのではなく政府が借金している。貸し手は個人や企業であり一人あたり858万円政府に貸している。
② 消費税収は諸外国に比しけして少なくない。消費税8%の現時点においてもそうである。
 国税の税目別収入のうち消費税が占める割合
        日本     27.9%
        アメリカ    0
        イギリス   26.3%
        ドイツ    35.4%
        フランス   50.5%
        イタリア   27.3%
   (2017年6月財政金融統計月報第782号から)
③ わが国には財政問題は存在しない。国債は自国通貨建てで、かつ90%以上が国内で消化されている。対外純資産328兆円27年連続世界一である。(2018.5.25閣議報告

 なぜこういうことになるのか。消費税を増税すれば消費が停滞し意図に反し減収となることはこれまでの実績が示している。財務官僚もこのようなことでGDPが停滞し国民が貧乏になるのを望んでいるわけではないだろう。特に日本の消費税は欧州と違い一律に課されるため増税は経済的弱者に厳しく経済格差を一層拡大させる。
 彼らに悪意の意図があるとは思えないが目指していることはまぎれもなく日本の貧困化である。
 組織の論理はあらゆるものに優先する。組織には掟があり、内部規範は絶対的である。最近の財務省の一連の不祥事がこのことを図らずも証明している。
 一方、だまされる側にも一定の責任があるだろう。嘘を真実と信じこんでしまう側である。財政に関する正しい知識が不足しているがゆえに易々とだまされてしまう。
 財政リテラシーの欠如は、いまや糖尿病などの生活習慣病と同じく国民の身体を蝕む深刻な経済の病である。

 福澤諭吉は学問とは何かについて定義している。

 「文字は学問をするための道具にすぎない。たとえば、家を建てるのに、かなづちやのこぎりといった道具がいるのと同じだ。
 かなづちやのこぎりは建築に必要な道具ではあるけれども、道具の名前を知っているだけで、家の建て方を知らないものは大工とは言えない。
 これと同じで、文字を読むことを知っているだけで、物事の道理をきちんと知らないものは学者とは言えない。いわゆる『論語読みの論語知らず』というのはこのことである。  『古事記』は暗誦しているけれども、いまの米の値段を知らないものは、実生活の学問に弱い人間である。
 『論語』『孟子』や中国の史書については詳しく知っているけれども、商売のやり方を知らず、きちんと取引ができないものは、現実の経済に弱い人間である。
 何年も苦労し、高い学費を払って西洋の学問を修めたけれども、独立した生活ができないものは、いまの世の中に必要な学問に弱い人間だと言える。
 こうした人物は、ただの『文字の問屋』と言ってよい。『飯を食う字引』にほかならず、国のためには無用の長物であって、経済を妨げるタダ飯食いと言える。
 実生活も学問であって、実際の経済も学問、現実の世の中の流れを察知するのも学問である。和漢洋の本を読むだけで学問ということはできない。」
 (福澤諭吉著斉藤孝訳ちくま新書『学問のすすめ』)

 知識だけでは何にも役に立たない。健全財政という罠にはまってしまって20年以上もデフレから脱却できずにのたうちまわっている現状を解決できなければ、どんな理屈をこねようと、国のためには福澤諭吉流に言えば ”無用の長物” ということになる。

2018年5月21日月曜日

健全財政の罠 4

 近代社会のシステムは複雑多岐で官僚も有能であることが求められる。法律を忠実に執行する能力が官僚に求められる。
 セクハラ疑惑で辞任に追い込まれた財務省の福田前事務次官は辞任会見で「われわれは財政の管理人にすぎない」と語った。
 管理人であれば与えられた目的を達成するのが任務である。管理人が政治に介入することなどあってはならない。
 ところがこれは建前である。現実にはわが国では官僚が政治の領域へ容赦なく踏み込んでいる。
 重要な財政政策は実質官僚が取り仕切っている。本来これは政治家が率先してリーダーシップを発揮すべき分野である。
 官僚にも言い分があるに違いない。なにも好きこのんで政治に首を突っ込んでいるわけではない。そうせざるを得ないからそうしているのだと官僚は弁明するだろう。ここにこの問題の核心の一端がある。
 明治初期多くの青年が読んだ本がある。「学問のすすめ」と「自助論」である。当時の大ベストセラーであり警世・啓蒙の書である。これ等の書は国際的にも地盤沈下した現代のわが国にとっても今なお色あせることがない書である。

 まず「自助論」から
 この本は大英帝国全盛期のサミュエル・スマイルズの書で冒頭近くに国家と国民の関係についてのくだりがある。
 「政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんな理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルまでひきさげられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。
 つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である。
 立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。
 国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。」
(サミュエル・スマイルズ著竹内均訳三笠書房『自助論』)

 政治家のレベルが低いのは国民のレベルが低いからだ。政治家のレベルを上げるには国民のレベルを上げなければならない。 
 まして政治家を選挙で選ぶ民主主義国家においてはなおさらそうであろう。次図は国民が政治家をどう見ているかの国際比較である。

 


 日本の政治家がいかに信頼されていないかが分かる。日本国民は自分たちが選んだ政治家を信頼していない。 政治家が信用されなければ行政の執行を担う官僚への依存が高くなるのは理の当然である。
 ましてわが国は官僚国家といわれるほど官僚に対する依存度が高い。昔から ”お役人さん” は畏れられもしたが公平で信頼できる人でもあった。だが権限が増大するにつれ官僚の振舞いも次第に尊大になった。
 もともとの習性として官僚は放っておけばどこまでも権力を求める。
 だが官僚の専横を許したのは官僚の習性もさることながらそれ以上に国民と政治家の共同作業によるところが大きい。国民と政治家が長い期間をかけて役人の専横を醸成してきたからに他ならない。
 その結果、役人が政治を実質的に取り仕切るという最悪の事態となった。
 この事態を改善するのは容易ではない。言うは易く行うは難し、だが手を拱いていてはなにごとも変わらない。
 殷鑑(いんかん)遠からず。失敗の手本および問題解決の糸口は身近にある。福澤諭吉の「学問のすすめ」がそれである。少しも色あせていないばかりかすっかり自信をなくした今こそ読まれてしかるべき書である。

2018年5月14日月曜日

健全財政の罠 3

 官僚政治の国家、それがわが国の実態である。建前上は民主国家であるが一歩踏み込めば官僚による統制がゆきわたっている。
 近代国家では立法、行政、司法の三権が分立しそれぞれの役割を担っている。
 ところが日本では建前はそうであっても実質官僚がこれを壟断している。官僚が法律をつくり、運用し、かつ解釈までしている。

 わが国の法案は、議院内閣制であること、政党には党議拘束があることおよび提出時に法案に賛同する人数要件をクリアしなければならないなどのハードルがあり議員立法は少なく殆んどが政府提出法案である。議員立法を33本も成立させた田中角栄は例外中の例外である。
 法案は官僚が起案し内閣法制局を経て閣議決定され国会へ送られる。実質上官僚が法律を作っている。
 重要な政策、例えば骨太の方針は閣議決定される以前に官僚によって外堀が埋められ、内閣はこれを追認するだけ。
 運用については、文科省が獣医学部新設の申請受付を法律の根拠なく中止していたように、裁量行政が普通に行われている。裁量行政がもたらす権力は強大で国民だけでなく政治家までこれに悩まされている。
 官僚は司法にまで手を伸ばす。たとえば条例の解釈などに疑義が生じた場合、裁判所に持ち込まれるのはまれで、殆んどが地方の役所で解釈される。それでも解決しない場合中央にまで持ち込まれ当局がこれを裁定し決着がつく。

 このようにわが国の官僚の振舞いが極めて政治的であることは明らかである。
 古今東西の官僚制を研究したマックス・ウエーバーは「職業としての政治」のなかで政治家の本文と官僚のそれは異なるという。


 「官僚は間違っていると思う命令でも、誠実かつ正確に、あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように執行することが名誉である。このような倫理的規律と自己否定がなければ官僚機構は崩壊してしまう。
 これに反し国政を担う政治指導者は自分の行為の責任を自分一人で負うことが名誉である。責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、許されもしない。
 ゆえに政治的な意味において最も名誉ある優秀な官僚は政治家としては最も無責任かつ道徳的に劣っている。」

 これが有名な ”最高の官僚は最悪の政治家である” の由来である。官僚が自分の本分を離れ政治家の分野に踏み込めば意図せずとも無責任な結果を招くという。
 残念ながらわが国の官僚主導の財政策はその好個の例であり二重の意味で罪が深い。
 デフレ時のインフレ対策という誤った政策であること、およびそのことによる責任を一切負おうとしないことである。

 わが国は今も昔も官僚をエリートと思ってきた。官僚もまた自分たちをエリートと思ってきた。
 順調に国が発展しているときはなんら問題はなかった。ところがそうでなくなると誰かが責任を負わなければならなくなる。
 その責任は誰が負うべきか。これまでの考察では官僚のようにも思える。またそう主張する人も多い。
 だがよく調べてみるとそうでないことが分かる。真の責任は官僚ではなく他にある。
 そのヒントは近代日本の黎明期に求めることが出来る。これが分かれば自ずと解決策も浮かび上がってくる。

2018年5月7日月曜日

健全財政の罠 2

 「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」これが2006年3月小泉政権時の政府によるデフレ脱却の定義である。
 現状はデフレ脱却の兆しがあるとはいえ政府は未だデフレ脱却を宣言していない。
 デフレ時には物が売れない、物を買わない、投資を控える、貯蓄する、このため物価も上がらない。この結果経済活動が停滞しGDPが低迷する。
 したがってデフレ下では景気を刺激しなければならない。デフレ脱却には金融緩和だけでは限界がある。それはここ数年の異次元金融緩和にもかかわらず2%の物価目標に遠くおよばないことで明らかになった。そして財政支援が欠かせないことが徐々に識者の間で認識されるようになってきた。

 ところが現実にはこれに反する政策がとられている。財政健全化の名目で消費税増税と緊縮財政というデフレ対策と真逆のインフレ対策である。
 これは確実に景気を冷やす政策である。1997年以降の実績がそのことを示している。
 なぜこうなっているか、その原因は1980年代後半のバブル崩壊時にまで遡らなければならない。

 戦後の金融・財政政策は良くも悪くも官僚主導であった。バブル崩壊でそれまでの成功体験が根本から崩れ当局は経験したことがないデフレという事態に直面した。なにしろデフレが起きたのは大恐慌の時代以来のことであるから官僚にとっても未知の事態である。
 決められた法律の枠内で忠実に業務を遂行する官僚にとってこの経験したことがない事態の対処方法は最も不得意の分野である。

 そのことがまもなく証明された。バブル崩壊で自信を失くした日本はワシントン・コンセンサスを受け入れた。
 ワシントン・コンセンサスとは1980年代にブラジル・メキシコ・フィリピンなど途上国の累積債務問題の処方箋である。
 ワシントンに本拠を置くIMFなど国際機関の間には一定の合意がありその政策の骨子は市場原理・新自由主義的インフレ対策である。
 折りしも英米ではサッチャーとレーガンがこの政策で一定の成功を収めていた。
 このため渡りに船と思ったのだろうか日本は対外純資産国であるにもかかわらず累積債務問題を抱えた国と同じ処方箋を採用した。
 そして一旦これを採用したら変更不可。官僚の無謬性の原則がそれを許さない。
 先輩が決めた政策を変更すること、それは先輩に弓を引くことになる。そんなことなどできない、できっこない。
 いくらデフレ対策に悖ろうがそんなことはお構いなし。知ったことではない。外部からの意見には聞く耳を持たない。

 共同体の内の規範(内部規範)と外の規範(外部規範)は異なる。内部規範は絶対的であり外部規範は相対的である。ゆえに内部規範が常に外部規範に優先する。
 このことは官僚組織という共同体のみならず組織一般に共通する。マックス・ウエーバーが発見した社会学の法則がここにも生きている。

 財務省が推し進める消費税増税およびプライマリーバランス黒字化に象徴される緊縮財政策は政界、財界、言論界など日本国内に広くかつ深く浸透している。
 一強といわれる安倍内閣もこれを止めることができない。太平洋戦争前の陸軍の暴走を誰も止められなかったように。

 もしこの政策が今後も継続すれば経済格差拡大と貧困化がすすみ最悪の場合かってのアルゼンチンのように先進国から途上国へと逆戻りすることもあり得る。
 アニメ「母をたずねて三千里」は、一人の少年がイタリアからアルゼンチンへ出稼ぎにいった母を訪ねるストーリーである。現代の両国の関係を考えれば隔世の感がある。日本とていつまでも先進国であり続ける保障はない。
 現状ではデフレ下のインフレ対策という狂った政策の軌道修正は望めそうもない。
 このまま日本はズルズルと経済的に弱小国になり安全保障面でも外国の脅威に怯えるだけの国になるのだろうか。
 狂瀾を既倒に廻らす、起死回生の方法があるのだろうか。あるとせばそれは何か。