2018年5月21日月曜日

健全財政の罠 4

 近代社会のシステムは複雑多岐で官僚も有能であることが求められる。法律を忠実に執行する能力が官僚に求められる。
 セクハラ疑惑で辞任に追い込まれた財務省の福田前事務次官は辞任会見で「われわれは財政の管理人にすぎない」と語った。
 管理人であれば与えられた目的を達成するのが任務である。管理人が政治に介入することなどあってはならない。
 ところがこれは建前である。現実にはわが国では官僚が政治の領域へ容赦なく踏み込んでいる。
 重要な財政政策は実質官僚が取り仕切っている。本来これは政治家が率先してリーダーシップを発揮すべき分野である。
 官僚にも言い分があるに違いない。なにも好きこのんで政治に首を突っ込んでいるわけではない。そうせざるを得ないからそうしているのだと官僚は弁明するだろう。ここにこの問題の核心の一端がある。
 明治初期多くの青年が読んだ本がある。「学問のすすめ」と「自助論」である。当時の大ベストセラーであり警世・啓蒙の書である。これ等の書は国際的にも地盤沈下した現代のわが国にとっても今なお色あせることがない書である。

 まず「自助論」から
 この本は大英帝国全盛期のサミュエル・スマイルズの書で冒頭近くに国家と国民の関係についてのくだりがある。
 「政治とは、国民の考えや行動の反映にすぎない。どんな理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルまでひきさげられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。
 つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。これは、水が低きに流れるのと同じくらい当然の論理である。
 立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ劣悪な政治が幅をきかす。
 国家の価値や力は国の制度ではなく国民の質によって決定されるのである。」
(サミュエル・スマイルズ著竹内均訳三笠書房『自助論』)

 政治家のレベルが低いのは国民のレベルが低いからだ。政治家のレベルを上げるには国民のレベルを上げなければならない。 
 まして政治家を選挙で選ぶ民主主義国家においてはなおさらそうであろう。次図は国民が政治家をどう見ているかの国際比較である。

 


 日本の政治家がいかに信頼されていないかが分かる。日本国民は自分たちが選んだ政治家を信頼していない。 政治家が信用されなければ行政の執行を担う官僚への依存が高くなるのは理の当然である。
 ましてわが国は官僚国家といわれるほど官僚に対する依存度が高い。昔から ”お役人さん” は畏れられもしたが公平で信頼できる人でもあった。だが権限が増大するにつれ官僚の振舞いも次第に尊大になった。
 もともとの習性として官僚は放っておけばどこまでも権力を求める。
 だが官僚の専横を許したのは官僚の習性もさることながらそれ以上に国民と政治家の共同作業によるところが大きい。国民と政治家が長い期間をかけて役人の専横を醸成してきたからに他ならない。
 その結果、役人が政治を実質的に取り仕切るという最悪の事態となった。
 この事態を改善するのは容易ではない。言うは易く行うは難し、だが手を拱いていてはなにごとも変わらない。
 殷鑑(いんかん)遠からず。失敗の手本および問題解決の糸口は身近にある。福澤諭吉の「学問のすすめ」がそれである。少しも色あせていないばかりかすっかり自信をなくした今こそ読まれてしかるべき書である。

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