2018年5月14日月曜日

健全財政の罠 3

 官僚政治の国家、それがわが国の実態である。建前上は民主国家であるが一歩踏み込めば官僚による統制がゆきわたっている。
 近代国家では立法、行政、司法の三権が分立しそれぞれの役割を担っている。
 ところが日本では建前はそうであっても実質官僚がこれを壟断している。官僚が法律をつくり、運用し、かつ解釈までしている。

 わが国の法案は、議院内閣制であること、政党には党議拘束があることおよび提出時に法案に賛同する人数要件をクリアしなければならないなどのハードルがあり議員立法は少なく殆んどが政府提出法案である。議員立法を33本も成立させた田中角栄は例外中の例外である。
 法案は官僚が起案し内閣法制局を経て閣議決定され国会へ送られる。実質上官僚が法律を作っている。
 重要な政策、例えば骨太の方針は閣議決定される以前に官僚によって外堀が埋められ、内閣はこれを追認するだけ。
 運用については、文科省が獣医学部新設の申請受付を法律の根拠なく中止していたように、裁量行政が普通に行われている。裁量行政がもたらす権力は強大で国民だけでなく政治家までこれに悩まされている。
 官僚は司法にまで手を伸ばす。たとえば条例の解釈などに疑義が生じた場合、裁判所に持ち込まれるのはまれで、殆んどが地方の役所で解釈される。それでも解決しない場合中央にまで持ち込まれ当局がこれを裁定し決着がつく。

 このようにわが国の官僚の振舞いが極めて政治的であることは明らかである。
 古今東西の官僚制を研究したマックス・ウエーバーは「職業としての政治」のなかで政治家の本文と官僚のそれは異なるという。


 「官僚は間違っていると思う命令でも、誠実かつ正確に、あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように執行することが名誉である。このような倫理的規律と自己否定がなければ官僚機構は崩壊してしまう。
 これに反し国政を担う政治指導者は自分の行為の責任を自分一人で負うことが名誉である。責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、許されもしない。
 ゆえに政治的な意味において最も名誉ある優秀な官僚は政治家としては最も無責任かつ道徳的に劣っている。」

 これが有名な ”最高の官僚は最悪の政治家である” の由来である。官僚が自分の本分を離れ政治家の分野に踏み込めば意図せずとも無責任な結果を招くという。
 残念ながらわが国の官僚主導の財政策はその好個の例であり二重の意味で罪が深い。
 デフレ時のインフレ対策という誤った政策であること、およびそのことによる責任を一切負おうとしないことである。

 わが国は今も昔も官僚をエリートと思ってきた。官僚もまた自分たちをエリートと思ってきた。
 順調に国が発展しているときはなんら問題はなかった。ところがそうでなくなると誰かが責任を負わなければならなくなる。
 その責任は誰が負うべきか。これまでの考察では官僚のようにも思える。またそう主張する人も多い。
 だがよく調べてみるとそうでないことが分かる。真の責任は官僚ではなく他にある。
 そのヒントは近代日本の黎明期に求めることが出来る。これが分かれば自ずと解決策も浮かび上がってくる。

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