2017年10月30日月曜日

専門家の時代

 現代は専門家がもてはやされる。特定の分野に秀でた人はメディアにとっては貴重なタレントである。
 彼らは自分の専門はいうにおよばず専門外のことについても独自理論で批評する。
 高い専門性を身につけた人や一芸に秀でた人の意見は貴重である。
 が、このように専門家がもてはやされるのは21世紀特有のことかもしれない。以前はそうではなかったようだ。
 20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセは、専門家をエリートの対極においた。
 中でも科学者は善悪の価値判断を重視せずに時にパトロンの目的・意向に盲目的に従って、客観的な知識・技術だけ上させようとすると酷評している。
 さらに遡って17世紀フランスのブレーズ・パスカルは、すべてを少しずつと題しこれを推奨している。

 「人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。
 なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。
 もしも両方を兼ね備えられるならばもっとよいが、もしもどちらかを選ばなければならないのだったら、このほうを選ぶべきである。
 世間は、それを知っており、それを行っている。」
(中央公論社『パスカル』前田陽一/由木康訳)

 このようにオルテガやパスカルは専門家を必ずしも評価していない。だが現代の科学技術の発展は専門家なしでは語れない。
 それでは科学技術にとってオルテガやパスカルは無益なことをいったのだろうか。
 よくみればそうではないことがわかる。日進月歩の技術の進歩には専門家は不可欠であるが、科学の飛躍的発展は単なる専門家にはできないという。
 専門性のほかに深い教養に裏打ちされた能力が要求されるとオルテガはいう。
 科学技術分野においても哲学その他の素養があってはじめて精神の飛躍が期待できる。アインシュタインが哲学者のカントやマッハに傾倒したことはよく知られているという。
 パスカルは普遍性こそ美しいといっているがそれは精神的ないいであろう。
 専門バカということばがある。自分の専門以外一切興味をもたないことの戒めであろうか。
 われわれはある特定の分野で成功した人を尊敬する。だがその尊敬は彼が成功したその分野においてであってそれ以外ではない。このことをわきまえないと当人も周囲も困惑するばかりである。
 われわれは骨折したら整形外科に行く。間違っても精神科などにはいかない。ところが政治や経済のことになるとわれわれは平気で門外漢に委託する。

2017年10月23日月曜日

エリートと大衆 3

 大衆の力が増し、優れた少数者を排除する社会とはいかなる社会か。それは他者への共存、隣人を尊敬する自由主義的デモクラシーを破壊する社会である。
 自由主義的デモクラシー社会においては国家権力は強大であるにもかかわらずその行使を制限し、多数と異な少数の人々が生きていけるよう配慮する。この寛容さこそが自由主義である。オルテガは自由主義を絶賛する。

 「自由主義とは至上の寛容さなのである。われわれはこのことを特に今日忘れてはならない。
 それは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫びなのである。 自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。
 人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。
 したがって、その同じ人類がたちまちそれを廃棄しようと決心したとしても別に驚くにはあたらない。自由主義を実際に行なうことはあまりにもむずかしく複雑なので、地上にしっかり根を下ろしえないのである。」
(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)

 1920年代欧州ではファシズムとボルシェヴィズム運動が台頭していた。オルテガはこの風潮を深く懸念した。
 歴史が示すように彼の懸念は不幸にも現実となり人類は第二次世界大戦に突入した。
 少数者に耳をかさない大衆の暴力が悲劇をもたらした典型的な例である。なぜ少数者を排除する風潮がうまれたのか。

 煩瑣な手続き、規則、長引く裁判、調停、正義等々自由主義はむずかしい。
 これらは洗練されてはいるが複雑である。野蛮な直接行動と相容れない。だがそれは文明の特徴でもある。
 人と共存すること、自分以外の人へ意を用いることが文明の基礎でありこれを欠いた社会は未開であり野蛮である。

 つぎになぜ人への配慮を欠く社会が生まれるかが問題である。
 「良家の御曹子」ということばには、世間知らず、わがまま、過保護など否定的なイメージがつきまとう。自分の特権をあたかも空気のように自然物と錯覚し独善的となり自分以外の人へ意をつくすことがない。
 甘やかされて育ったため家庭内のわがままが外でも通用すると考える。
 彼がやれることといえばなにか。ただ一つ遺産相続するだけである。それを遺した先祖の努力に思いをはせることもなく当然の権利として受け取るだけである。
 今日われわれはちょっとまえまでは考えられないような便利な快適な生活環境にあり、それを当然のごとく受け止め利用している。
 だがわれわれはこの便利な生活空間の仕組み、メカニズムを殆んど知らない。
 ましてこのような仕組みの背後にあるごく少数の優秀な人の努力に思いはせることがない。
 あたかも良家の御曹子が当然のごとく遺産を相続し先祖の苦悩に思いはせないように。

 19世紀は技術の進歩などによりそれ以前と比し快適な豊かな社会となった。
 19世紀の大衆は文明の便益を相続した。技術の進歩による快適、贅沢、安全性など豊かな生活空間を相続した。
 大衆は文明の成果を受け取るだけである。それを創りだしたわけではない。創造したのは少数者である。
 良家の御曹子が遺産を相続するように19世紀の大衆は文明の便益という遺産を相続した。
 自ら創造せずただ与えられただけの快適な環境におかれた大衆は自らを錯覚する。それらは少数者の成果であるがそれに敬意を表することもしない。
 文明の便益を当然のごとく受け取り他者へ配慮することもない。それどころか慢心した大衆は優秀な少数者を自分たちと異なるという理由でこれを排除する。大衆の暴力であり大衆の反逆である。

 オルテガはその病根の深さをこう表現している。

 「こうしたタイプの人間が、便益のみで危険はまったく目につかないような、あまりにも立派に組織された世界に生れ落ちた場合、別の態度をとれといっても無理なのだ。
 環境が彼を甘やかしてしまうのである。なぜならば、環境は『文明』---つまり、一つの家庭---だからである。
 そして『良家の御曹子』は、自分の気儘な性質を捨て、自分よりも優れた外部の審判に耳を傾ける必要性を感じないし、自分自身の運命の非情な根底に自ら触れる義務などなおさらのことに感じもしないからである。」(前掲書)

 衆議院選挙は与党の勝利で終わった。希望の党の小池百合子代表は出張先のパリで「『非常に厳しい結果だ』『自分に慢心があった』と顔をこわばらせた」(パリ=大泉晋之助) 彼女は真摯に反省しているようだ。
 だが「慢心」とは何のことか、いつの時代においても大衆がこれを理解することはないであろう

2017年10月16日月曜日

エリートと大衆 2

 大衆は自分を疑わない。自分を極めて分別に富む人間だと考えている。
 大衆は経験や習慣的考えにもとづく信念や主義主張をもっている。このため自分と異なる意見に対しては相手が間違っていると考える。
 だが自分の限られた経験にもとずく思想は真の思想とはいえない。その理由をオルテガはこう説明する。

 「平均人の『思想』は真の思想ではなく、またそれを所有することが教養でもない。
 思想とは真理に対する王手である。思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。
 思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。」(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)


 オルテガは大衆を量的ではなく人間学的な概念で定義する。

 「厳密にいえば、大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、個々人が集団となって現れるのを待つ必要はないのである。
 われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを識別することができる。
 大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感じることに喜びを見出しているすべての人のことである。」(前掲書)

 この定義にしたがえば「大衆」は上流階級にも下流階級にもいるし、労働者にも学者・知識人にも広く存在する。
 大衆は自分自身には何も果さず現在あるがままのものに満足する。自分と違う考えをする人を排除しようとする。
 それゆえ理想を求めて「自分自身となるための闘い」をする人の足を引っ張る。
 他の人々と同一であるとは、万人に共通・平均的であることを意味しそれは量的ではなく質的な概念である。
 他と同一でありたいと願う人はあえて自分に対して特別な要求を果すことなく既存の生の瞬間的連続の生き方に喜びを見出す。
 シンガーソングライター吉田拓郎の「今日までそして明日から」はこの大衆の心理をうまく代弁している。

  わたしは今日まで生きてみました
  そして今わたしは思っています
  明日からもこうして生きていくだろうと

 「大衆には、生まれながらにして、それが事象であろうと人間であろうと、とにかく彼らの彼方にあるものに注目するという機能が欠けているのである。」
 「風のまにまに漂う浮標のような」(前掲書)生き方は心地いい。
 あえて自己完成をめざして努力をする少数者はこの心地よさを乱すので尊敬の対象などではなくむしろ排除の対象となる。

 大衆と少数者の力学のバランスが適正に保たれていれば社会は健全であるが、これが崩れると社会は堕落し危機が訪れる。
 不幸にもそうなる社会とはどんな姿か、なぜそうなるのか。

2017年10月9日月曜日

エリートと大衆  1

 20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセは名著『大衆の反逆』でエリートと大衆について「高貴な生と凡俗な生」と対比し論考している。
 わが国の衆議院解散・選挙を機にこのテーマについて考えて見たい。
 エリートは「選良」と訳されるが、いまやこの漢字は死語に近いほど使われていない。選良は代議士の代名詞でもある。この漢字と人びとがもつ代議士に対する負のイメージが重なりエリートの訳語として使うには違和感があるのかもしれない。
 国会議員の25%、大臣はなんと60%以上、この数字はわが国の世襲議員の割合(9/28衆議院解散前)である。
 そうでない人に比べて政界進出が容易でかつ上にいけばいくほど有利になりその割合が増える世襲議員、この人たちを選良と呼ぶには抵抗があるのだろう。
 1960年から2005年にわたる調査の結果、世襲議員の割合は1960年の約3%から1993年の30%のピークに達するまで一貫して増加し、その後25%強と安定している。
(論文『世襲議員の実証分析』グラフから 筆者 飯田健・上田路子・松林哲也)
 このことは戦後の混乱期を経て世の中が安定するに従って世襲議員が増加したことを意味している。

 政治家に限らず世襲にも功罪があるだろうが、オルテガは世襲に対して厳しい。

 「彼は生まれた時に、突如、しかも、そしてそれがいかにしてかは知らないまま、富と特権を有している自分を見出す。
 これら富と特権は、彼自身に由来するのではないから、彼は内的にはそれらと何の関係もない。
 いうなれば、それらは、他人、他の生物、つまり、彼の先祖が残した巨大な殻なのである。
 そして彼は遺産相続者として生きなければならない。つまり、他の生が用いた殻を身につけなければならないのである。
 さて、どういうことになるのであろうか。『世襲貴族』が生きる生は自己の生であろうか。それとも初代の偉大なる人物の生であろうか。
 実はそのいずれでもないのである。彼は他人を演じるよう運命づけられているのだ。つまり、他人でも自分自身でもないように運命づけられているのである。
 彼の生は、容赦なく。その真正性を失い、他の生の単なる代理もしくは見せかけに変質してしまう。
 彼が用いなければならないように義務づけれれている手段があまりにも多いため、彼は自分自身の個人的な運命を生きる余地がなく、彼の生は萎縮させられてしまうのである。
 生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力である。」
(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)

 オルテガは、生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力であると規定し暗に世襲者にはこの努力が欠けているという。
 自己自身たるための戦いとは、自分自身との不一致、今の自分は本来の自分ではないという不一致感。この不一致感を埋めるために絶えざる努力をすること、それが高貴な生である。オルテガは敷衍して言う。

 「自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。
 たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより過酷な規範を発明するのである。
 これが規律ある生---高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige)」(前掲書)

 社会の方向性を担うエリートはあらゆる可能性の中から決断を積み重ねなければならない。決断にあたっては迷い、恐れがなければならないとも言っている。

 「生の現実を直視し、生のすべてが問題であることを認め、自分が迷える者であることを自覚するのである。
 これこそ真理なのであるから---つまり、生きるということは自己が迷える者であることを自覚することなのであるから---その真理を認めた者はすでに自己を見出し始めているのであり、自己の真実を発見し始めているのである。彼はすでに確固たる基盤に立っているのだ。」(前掲書)

 このように迷いながらも絶えざる努力をぜずにはいられないのがエリートであり、その区分は社会階級などではなく人間の質である。
 エリートは高い規範のために自ら進んで困難と義務を背負い込むことをいとわない性格である。
 このように厳しい規律を自らに果すことができる人間であれば職業や社会の上層・下層を問わずエリートと呼ぶことができる。

 社会の原動力はこれら少数のエリートによる支配とそれに従順な大衆の相互行為から成り立っている。エリートの支配が弱まればそれに応じて大衆の力が増す。
 それではエリートの反対の大衆とはどういう人なのか。

2017年10月2日月曜日

カタルーニャの独立志向

 スペインのカタルーニャにおける独立を問う投票で圧倒的多数の賛成票が投じられた。
 「スペイン北東部カタルーニャ自治州政府は、1日に実施した自治州の分離独立を問う住民投票で226万人が投票し、90%が独立に賛成したと明らかにした。投票率は自治州の有権者数534万人に対し約42.3%。」(マドリード 2日 ロイター) 
 この結果を中央政府は認めていないので実効性あるものになるかどうか予断を許さない。
 スペインのバスクとカタルーニャはそれぞれ独自の文化と言語をもつ。
 1939年スペイン内戦後、独裁者となったフランコ将軍は内戦時の敵対勢力の中でも特に独立志向の強いこの2州に対しては他より強く弾圧した。独自言語を公用語として使用禁止にするなどはその一例である。
 昨日の投票結果は中央政府への反発とカタルーニャ民族主義に起因すると言われる。
 だがそれに劣らずカタルーニャがスペインGDPの2割を占める経済の中心になっているにもかかわらずその恩恵を十分受けられない不満が原因であるとも言われている。自州の富が貧しい州に使われているという不満である。 
 スペインからの独立はカタルーニャの念願である。安全保障など問題はあるもののまずは独立を優先する気風がありなにかのキッカケで今回のような独立運動が行われてきた。
 欧州にはスペイン以外にもイギリスのスコットランド、ベルギーのフランドルなど独立志向が強い地方がある。
 翻ってわが国はどうか。東京都の小池百合子知事が立ち上げた「希望の党」への民進党の突然の合流は政党の常識から信じられない行動である。
 政党とは基本部分の主義主張を同じくするものの集団であるはずである。もっとも民進党はそれが右も左も揃えたデパートのような政党であり、解党して出直したほうがよいと言われてきた。
 ところが今回の騒動で当の民進党はそのような批判など意に介しないように当然のごとく党まるごとの合流を望んだ。 兄弟の主義主張が違っても同じ家族じゃないかというノリなのだろうか。さすがにまるごと合流は実現しないようだがいかにも日本的なドタバタ劇である。
 独自の文化と言語をもつ独立志向のカタルーニャ、一方なりふり構わず合流へと雪崩をうつわが国の野党第一党。お国柄とはいえこの隔たりは大きい。