2015年5月18日月曜日

核兵器と戦争 7

 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 このわが国憲法第9条は、前稿で述べた国際紛争解決の手段で戦争に代わる戦争以上に合理的で実効的な紛争解決の新メカニズムが創造されたという前提ではじめて機能するであろう規定である。
 ところが世界の現状はこの新メカニズムのおぼろげな曙光さえ見えない。
 戦争にかわる国際紛争解決の手段を等閑に付したこの規定は実効性に疑問がある。
 国際紛争解決は話し合いによるとか、戦力放棄のかわりに国防をアメリカに依存する等がこの規定の背景にある。
 国防を他国に依存する国が真の独立国といえるか否かは議論の余地があるが、ここではこの憲法第9条を契機としてわが国の国防について考えてみたい。

 日本は第二次世界大戦末期、2発もの原子爆弾を投下され非戦闘員を巻き込んだ未曾有の被害を蒙った。
 もう戦争はイヤだ。どんなことがあっても戦争だけには巻く込まれたくない。子々孫々にいたるまで戦場には送らない。そして「不戦の誓い」の憲法をありがたく守り抜いてきた。
 戦後70年間わが国が平和を謳歌できたのは、不戦を誓ったこの憲法第9条のおかげであると平和主義者はいうかもしれない。
 だが冷静に考えればアメリカ軍による抑止力があったからこそ守られてきた平和であると見るのが妥当であろう。
 日本に限らずおおよそ平和を願わない国民はいない。
憲法第9条は平和を希求するという意味では世界に冠たる貴重な憲法である。
 だが平和を勝ち取るという意味では殆んど意味をなさない。紛争解決の手段を何も示していないからである。
 紛争がすべて話し合いにより解決するのであれば戦争など起こりようがない。そんなことは夢物語にすぎない。
 現在にいたるまで国際紛争は最終手段としての戦争に頼ってきた。これを排除した憲法第9条は現実の世界から遊離している。
 日米同盟がないと仮定すればわが国は国際社会の常識からみれば丸腰に近い極めて危険な状態である。
 わが国は非核3原則を貫いている。核保有国が全面戦争をしかけてくれば防御には限度がある。
 通常兵器の戦いでは先に述べたように装備の質と訓練で近隣諸国にもひけをとらない。
 しかし運用面で自衛隊はきわめて大きな制約を受けている。憲法第9条では戦力の不保持をうたっている。
 事実、自衛隊は警察予備隊から出発した。そして未だ自衛の戦力に限定されている。
 自衛隊を拘束している自衛隊法は、基本的精神が国内の治安にあたる警察のそれである。
 警察官が武器を使用してもよい場合は、その基準があらかじめ決められている。これに悖る場合は国内法で法律違反となる。
 これこれはいいが、これ以外はダメというポジティブリスト方式である。
 政府による統治がなされている国内で治安の役割を担う警察には妥当な方式であり、武器の使用も法で定められた必要最小限に限られている。
 わが国で問題なのはこの方式が自衛隊にも適用されていることである。
 自衛隊の行動と権限について、自衛隊法第6章および第7章には予め定められた以外のことはしてはいけないことになっている。
 これは自衛隊は職能上警察と同じで、禁止されている以外のことは何でもやっていいという他国の軍隊とは明らかに異なる。
 国際社会では軍隊は、民間人に対する攻撃、捕虜への非人道的扱い、などやってはいけないことがあるがそれ以外はなんでもやってよいというネガティブリスト方式である。
 おおよそ戦闘になれば想定外のことを常に覚悟しなければならない。
 わが国自衛隊は、優れた兵器とよく訓練された部隊にも拘らず、ポジティブリスト方式で縛られているため戦闘となれば作戦行動が著しく制限され自衛隊員は危険な状況におかれる。
 戦争はサッカー競技とは異なり想定外が常態であり柔軟な対応が要求される。ポジティブリストに拘束されて自衛隊の能力は著しく阻害されている。
 アメリカ軍がいない日本単独での国防を考えた場合、このような事態を想定しなければならない。
 日本の一部平和主義者たちは、憲法第9条を死守し、アメリカ軍には帰ってもらい、自衛隊は災害時の救助に専念してもらうという。被爆国日本が率先して世界に平和をよびかければ平和は訪れるという。
 仮にこれら平和主義者たちの主張が実現したあかつきに外国の軍隊が日本に攻め込んできたらどうするのだろうか。
 戦争は絶対イヤだから戦うまえに相手の要求を全て受け入れるのだろうか。不戦の誓いを徹底したら理論的にもそうするほかない。そういう主張に同調する人がいるかもしれない。
 だがこのような人が増えれば増えるほどわれわれは平和から遠ざかる。
 ドイツの理想的なワイマール憲法は独裁者の揺籃となった。そしてそれにつづく平和主義者、ことなかれ主義者が皮肉にもヒットラーを育てた。
 第二次世界大戦前イギリスのチャーチルは戦争屋といわれた。彼は戦争終結後の回想禄でこの戦争は不必要な戦争であったといった。もっと早く戦争の決断をすれば防げた戦争であった、と。
 平和を声高に叫ぶ平和主義者について小室博士はつぎように断じている。

 「 『平和主義』は、一種の信仰である。『平和教』という宗教として理解したほうが早い。
 悔い改めれば救われるのは、『心の内なる』問題だけである。そうでない問題まで、同じように解決できるときめてかかってはいけない。
 平和主義者が、そのような限界を百も承知で布教して歩くのであれば結構なことである。キリストの言う『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』という原則が貫かれていれば、何をか言わんやである。(中略)
 しかし、心の内なる信念をそこまで貫くのは結構だが、それが人間として当然あるべき姿であり、社会全体がそのようにならないのはけしからぬと考えるにいたったならば、残念ながらまちがいである。
 それは、平和主義者の自己矛盾ではないか。自分の願望を、単純に他人に対する要求とし、社会全体にも強制しようという態度をとるのは、それ自体不合理ではないか。
 平和論者が、それに同調しない者、それに反対する者に対して、暴力をもって襲いかかり、その果ては殺し合いまでするにいたっては、もはや正気の沙汰ではない。
 それは、心の内なる問題の範囲でも、すでに救いよ
うのない堕落に陥っているだけでなく、社会の次元にあっては、文明の単純な否定以外の何ものでもない。」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)

 わが国は戦後70年平和を謳歌してきた。70年前の惨劇は2度と繰り返してはならないという思いが国民の心に刻み込まれている。
 このため戦争とか軍隊に対しては一種の忌避反応がある。
 集団的自衛権に関連しポジティブリストの項目が追加されたことで戦争に巻き込まれるおそれが増すとか、総理大臣が自衛隊を”わが軍” と言っただけで国会で質問の対象となる。
 これら忌避反応が平和の持続に貢献するのであればそれはそれで結構なことである。
 だが国際社会においてはそれらの忌避反応は平和のために貢献しない。平和は組織的努力によりはじめて得られるものであり単に望んで得られるものではないからである。
 この意味において平和とは勝ち取られなければならないものである。
 最後にかかるわが国の現状に鑑み、国防とくに核兵器の取り扱いについて考えてみたい。

2015年5月11日月曜日

核兵器と戦争 6

 戦後70年大国間の戦争は絶えてなかった。大国と小国および小国間の戦争はあったが、大国である米ソ間の戦争は冷戦のみに止まっている。最近では非合法武装組織との戦いが新たに加わった。
 そしていま新たな冷戦ともなりかねないウクライナをめぐる紛争がある。ウクライナ紛争は背後に核大国である欧米とロシアがそれぞれ控えている。この紛争も解決したわけではなく一時的棚上げといったところか。
 紛争が未解決のまま放置されると社会が中毒症状となり、戦争以上に悲惨なことになりかねない。
 さりとて核兵器を使った大規模な戦争もおこし難い。なんとも中途半端でいつの日か爆発するかもしれないマグマが蓄積されているようなものだ。鬱積した不満はどこにはけ口を求めればいいのか。
 国際法には、平時国際法と戦時国際法がある。
 戦時国際法には戦争とははっきり明示されていないが事実上制度としして認められている。これが行使できなければ国際紛争の解決には他の方法に頼らなければならないがいまのところ何も有力な解決方法がない。
 それではどうすればよいか。簡単に答えなど見つからないが、現実を忘れず平和への努力、新しい法の開発を目指して努力を続けるほかない、というのがわが国社会科学の泰斗 小室博士の処方箋である。

 「真の平和を願う者のなすべきことは何か。

 ① まず、戦争の文明史的本質を洞察することである。ポイントは二つある。
 (ⅰ)戦争とは国際紛争解決の手段である。
 (ⅱ)戦争以上に合理的で実効的な紛争解決の手段を創造しないかぎり、戦争はなくならない。

 ② しかし、現在そのような一段と次元の高い国際紛争解決の新メカニズムは、その萌芽すら現れていない。
 具体的な方向すらまだ発見されていない。国際社会は五里霧中である。
 だが、具体的な努力目標もないということではない。方向はわからなくとも、少なくとも準備作業の何たるかは明らかである。それは、
 (ⅰ)長期的には、国際法の成熟を目指して、複雑きわまる組織的努力を続けることである。
 その一環として戦争に関する法の開発がある。しかし、具体的な方向が定まらないので、当面はやみくもの努力以外にやりようがない。要するに試行錯誤の段階である。
 (ⅱ)短期的には、これと並行して、現行の国際法の枠内で、できるかぎり具体的に戦争の勃発を減少させる努力を続けることである。
 ただし、これを戦争廃絶の努力と錯覚してはいけない。

 ③ 前項のような努力を続けてゆく過程で、ひょっとしたら、戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の新メカニズムについて、おぼろげながらヒントが得られるかもしれない。
 これは祈りにも似た悲願である。

 ④ その間、現実の戦争の可能性に対しては、物心両面で十分備えがなくてはいけない。
 このことは、平和への努力、平和への祈りと矛盾することではない。むしろ、そうしないことが、結果として平和主義と矛盾することになる。

 以上が、真の平和主義の核心である。
 まことに、新しい制度の創造には、それに相応した基礎的な法秩序の成熟が前提となる。
 それを達成するまでは、これと並行して現実的に対応することが不可欠である。それが、文明の鉄則である。」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)

 核兵器時代における戦争の勃発を防ぐ努力は喫緊の課題である。ひとたび核戦争が勃発すればその惨禍ははかりしれないからである。小室博士は戦争以上に合理的で実効的な国際紛争解決の新メカニズムは祈りにも似た悲願であるといった。今のところ世界の現状は新メカニズムのおぼろげな曙光さえ見えない。
 つぎに被爆国であり非核保有国であるわが国の防衛について考えてみよう。


2015年5月4日月曜日

核兵器と戦争 5

 中国は2009年以降、領土にかかわる核心的利益として台湾、チベット、東トルキスタン、南シナ海、尖閣諸島を掲げ、これらに関して譲歩することはないと言明している。
 中国が尖閣諸島で譲歩しなければ紛争は継続する。紛争は必ず決着されなければならない。
 今や残された道は限られる。戦争以外の解決方法がなければ戦争となる。
 尖閣諸島をめぐってもその懸念が払拭しきれない。
 尖閣諸島で日中が武力衝突してもアメリカは経済制裁のみで武力介入しないことも予想される。
 そしてこの戦いで日本が敗北すれば戦後70年つづいてきた日本のあり方が根底から問われることになる。

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 このわが国憲法の前文、戦勝国によるおしきせではないかと久しく言われてきた。文法的にもおかしい日本語である。が、すくなくともここに高々と掲げられた理想を戦後の国民は最高法典として戴いてきた。
 それが根底から崩されることになる。戦後70年日本人は、” 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して” 自主防衛をおろそかにしたツケを払わされることになる。
 唯一の被爆国であるわが国は、ひたすら平和を願いそのことを世界に発信しつづけてきた。
 そうすれば平和を保たれると信じてきた。憲法の前文をそのまま信じたと言ってもいい。
 そして国家の防衛は自主努力よりもむしろ他国依存を優先した。
 尖閣諸島を奪われても、アメリカが武力介入しなければ核戦争は避けられたとして国際社会はむしろ安堵するかもしれない。
 当面の危機を逃れるため独裁政権のわがままを見過ごすといかに危険か。
 ドイツ系住民が多数を占めていたチェコスロバキアのズデーデン地方の帰属問題に関するミュンヘン会談におけるヒットラーに対する宥和政策、近くはロシア系住民が多数を占めているクリミアを併合したプーチン大統領に対する経済制裁。
 これら独裁政権に対する優柔不断な対応は一時の平和には寄与するかもしれないが永続する平和を保障しない。
 中国による尖閣諸島奪取とて例外ではありえない。紛争にしろ戦争にしろその性質上拡大する。どちらか一方が譲歩しない限り。
 日本が尖閣諸島で中国に敗北し譲歩を続ければ、一時的に東アジアに平和が訪れるだろう。
 そうなれば第二次大戦後の旧ソ連に対するフィンランドのように、日本は中国の勢力圏にまきこまれ ”フィンランド化” した資本主義国となる。
 日本人はそのような日本を望むだろうか? 今でさえ媚中的発言をする一部政治家がいる。
 片やそのような日本は見たくないという人もいるだろう。
 戦争敗北となれば必ずや国論は二分され、日本社会はアノミーさながらになる。
 このように選択肢が限られるのは、たとえ日本がいかなる運命と辿ろうと核戦争に巻き込まれるのだけはイヤだというのがその根底にあるからであろう。
 核兵器時代以前の選択肢とは明らかに異なる。