2012年11月26日月曜日

ヒメの散歩

 犬の散歩を、毎日の日課としている。名前はヒメ、ウェルシュ・コーギーで6歳になる雌犬である。
 コーギーは脚が短いせいか、成犬でも、一目子犬にみえる。そのためかどうか、時々、散歩の途中で、子供、特に女の子が、かわいいと声をかけてくる。
 たまに学年を訊くと、たいてい、小学校低学年である。
 先週、いつものとおり、散歩の途中、近くの公園で一休みしていたら、例によって、小さい女の子が二人、ヒメに近づいてきた。
 しばらく、すぐ近くでじっとヒメを見ていた。犬に興味ありありの様子だったので、触ってもいいよ、咬まないからといったら、おそるおそる触りだした。
 頭をなでてやって、といったら、素直に頭を撫でだした。頭を撫でられて、ヒメはいつものように、気持ちよさそうにうっとりした表情をみせた。
 どうやら、後でわかったのだが、女の子二人は姉妹で、姉のほうが一つ二つ年上のようだった。
 「名前は?」と訊いたので、「ヒメ、女の子だからお姫さまだよ」と答えたが、これにはなんの反応も示さず、ただヒメを触り続けている。
 ヒメの相手をしている合間、なにやら姉の方が妹にたいし、お姉ちゃんらしく諌めるようなことばとそぶりをみせる。
 10分もたったろうか、そろそろ帰るべく腰をあげた。ところが妹のほうが、のこのこついてきた、いつものとおり公園の前の道路を横切り小川の堤の緑道に沿って家路に向かったが、その子はなおついてくる。
 「何歳」ときいたら、「4歳」とこたえた。さっきの子はお姉ちゃん」と訊いたら、「うん、うちは3人兄弟なの」と答えた。
 訊いたわけではないが「家では、トカゲとウサギはいるけど、犬はいない」という。
 「何で帽子をかぶっているの」と訊いてきたので、「寒いから」とこたえた。
 その間「家はどこ、こっちの方」と方角を指差しながら何度か訊いたが、なぜかこの質問には何の返事もしない。
 「迷子になるから早く家に帰ったほうがいいよ」というと、「大丈夫、道はわかるから」と返事する。
 「道はわかってるから迷子にはならないよ」と間をおいて強調する。
 ヒメの先を歩いたり、後に廻わったりしながら、ポツリと一言「犬の散歩は楽しい」といった。
 緑道も通り過ぎ、ゆるやかな坂を上りかけたころ、見知らぬ女の人から「ヒメちゃんね、あら!このお子さんお嬢さんの」と声をかけられたので、「いえ、知らない子です」とこたえたら、その人はきょとんとしていた。
 やがて坂道ものぼりつめ、いよいよ我が家に近づいた。4歳の子にしては公園からここまでは結構な距離になり、てっきりこの子の家は方角的にこちらの方だろうと、その時点までは思っていた。
 そして、「家はどっち」と再度訊ね、「おじちゃんの家はすぐそこだから」といったら、一瞬まよったそぶりのあと、「それじゃバイバイ」といって、今まできた道と方角は同じだが、別の車道を一目散に駆け出していった。
 それも道路の真ん中を走っていった。幸い車が少ない道路ではあったが、姿が見えなくなるまで走り続けていた。
 曲がり角までせいぜい200メートル程度であるが、小さい子で、しかも夕暮れ時でもあり、最後は点になって見えた。
 その姿を見送った後、迂闊にも、あの子の家が我が家の方角ではないことを知った。そして、迂闊にも、あの子が、何度訊いても、自分の家を教えなかった意味がわかった。
 あの子は自分の家を教えたら、すぐに犬との散歩ができないとおそれていたのだ。
 なぜか清々しい晩秋の一日であった。

官僚システム 続々

 官僚の腐敗は、長い年月を経た官僚システムの制度疲労に由来するもので、単にスローガンだけで官僚の腐敗をなくせるほど生易しいものではない。
 2000年の長きにわたる官僚組織の歴史をもつ中国の盛衰はよい参考となる。
 中国の歴代王朝の衰退の根底には、官僚の腐敗があったと言われてきたが、現代においてもその伝統は脈々と生きている。(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/600833/
“腐敗官僚”になりたい!中国、7割が副収入に魅力
2012/10/23 16:11
 公務員になりたいとの回答者は、広東省など東部よりも陝西省や四川省など中西部の方が多く、開発が遅れている内陸ほど役人になることへの執着心が強いことが明らかになった。(共同)
 中国共産党機関紙、人民日報系の雑誌「人民論壇」がこのほど実施した官僚に関する意識調査で、回答者の70%近くが「党や政府機関の公務員になりたい」との回答を選択した。
 官僚になる魅力として70%以上が、給与以外の所得を指す「グレーな収入」が多いことを挙げた。
 約55%が「官僚の力は法律よりも勝る」と指摘。共産党は来月の党大会を控え、官僚腐敗への綱紀粛正を図る姿勢をアピールしているが、国民の間では官僚の権力や社会的地位に憧れを抱く意識が依然として強いことが浮き彫りになった。
 調査は10~15日にインターネットやアンケートを通じて実施。2823件の有効回答を得た。)
 躍進中国を妨げるものがあるとすれば、歴史的には、中国自身の内部からであろう。
 中国の歴史は、また、官僚腐敗に対する戦いの歴史でもある。腐敗官僚に対し、中国歴代王朝は知恵を絞り、さまざまな対策を立てた。
 官僚に自浄作用を求めるのは、木に縁りて魚を求む類いとし、初めから、官僚の自浄作用など期待していなかった。
 官僚システムを悪として捉え対策を練った。そしてとった対策は、官僚システムに対抗する組織をつくり、この組織にに官僚を監察する役割を与えた。
 王朝により、制度は異なれどこの姿勢は一貫していたようだ。
 しかし、これらの努力にもかかわらず中国の歴代王朝はすべて滅んだ。日本においても、官僚に自浄作用を求めるのは無理であることは、前論でのべた。中国歴代王朝のように官僚システムに組織的なチェック機能をもたせても、最終的には、すべての王朝は、腐敗し、滅んでしまった。
 官僚の腐敗がすべての原因ではなかったにせよ、根底に官僚の腐敗があったと言われている。
 げに恐ろしきは官僚の腐敗構造である。
 それでは、官僚システムをいっそなくせば解決するのか。いくらなんでも、それは暴論である。
 複雑に絡んだ近代国家は、官僚システムなしでは、運営できる筈がない。
 これと真正面から取り組む他ない。官僚が、その本来の役割に徹しできるような環境づくりが本務ではないか。
 官僚が法体系に従い、機械のように機能する環境づくりである。
 そのためには、政治家主導で官僚をうまく使いこなすことに尽きる。
 しかし、これは、言うは易く行うは難しである。日本の現状は、真逆で、官僚が主導して政治家をうまく使いこなしている。
 これが、混迷する日本の元凶である。然るに、そのような、政治家を選んだのはだれか、結局ここに帰着する。
 当の政治家は一体だれによって選ばれたのか、他ならぬ日本国民自身の自由意思によって選ばれたのである。
 現状は、日本国民が自ら蒔いた種によってもたらされたものであり、自業自得といはざるを得ない。
 苦境にあって、これを打開するには、現状を嘆くばかりでなく、まず事実を直視することから始めなければなるまい。危機に直面した駝鳥のように砂の中に頭を突っ込んでいては何の解決にもならない。
 マックス・ウエーバは、資本主義社会が成り立つためには、労働の最終目的が、成果物を得ることではなく、労働そのものであり、労働が使命となることであると定義している。また前提として厳しい倫理観が求められるとしている。
 日本の官僚システムの創設者である大久保利通は、清廉であった。あれほど権勢を誇っていたのに死後、多くの借金があることが判明した。
 夏目漱石の小説に登場する人物は、金銭にたいして厳格で、少しでもやましいお金にたいしては拒絶した、喉から手が出るほど欲しいにも拘わらず。
 もっと遡って、江戸時代では、自分の技術に自信をもち、金銭などのために筋を曲げたり、安易に妥協しない職人気質が尊重された。
 このように日本人の精神構造は、金儲けが、ほんの手段に過ぎず、けして最終目的ではなかったことがわかる。
 この貴重な日本人の精神構造こそが、短期間で近代化をなしとげ、奇跡といはれる経済成長を達成した原動力の一つとなったことは間違いない。
 近代化のための素地は備わっていたのだ。日本はこのように、近代化を成し遂げた。
 しかしながら、それは、けして民衆から澎湃として湧き上がって成し遂げられたものではなかった。
 マックス・ウエーバがいう真の意味で、資本主義社会の実現ではなかった。むしろ社会主義社会よろしく官主導の色彩が極めて濃いものであった。
 社会学者のなかには、日本は唯一成功した社会主義国であると定義する学者もいる。近代日本の歩みをみれば、形式上はともかく、実態としては社会主義そのものだ。日本がこのまま社会主義的な官主導国家のままであったら、衰退は目に見えている。
 バブル崩壊後の現状がなによりもそれを証明している。昨今の日本は、ある意味、第一次大戦後のドイツのワイマール共和国の状況に酷似している。非常に危険な状態といえる。
 日本は、衆愚政治が蔓延り、官僚システムが腐蝕し、もう一度どん底に落ちるところまで落ちねば復活する途はないのかもしれない。
 そのような事態になるのだけは避けなければならないが、日本の現状は、楽観できない。
 日本に真の意味で資本主義を根付かせるためには、母体となる土壌を根気強く耕し、諦めずに、これを求め続ける以外にない。
 実現性の如何は、国民一人一人にかかってるといっても過言ではない。
 なぜなら ”国民のレベル以上の政治家は持てない” のだから。

2012年11月19日月曜日

官僚システム 続

 野田首相の決断で衆議院が解散になった。政治主導を掲げ、華々しく登場した民主党政権ではあったが、結果は、政治主導どころではなく、以前にもまし官僚主導となった。
 民主党については、マニフェスト違反が致命的となった。当然であろう。
 単なる約束違反という罪にとどまらず、日本に民主主義が育つ土壌を破壊したという意味で、万死に値する。
 政権奪取時の公約が、履行されなければ、その時点で直ちに政権を返還するのが民主主義のルールである。
 政権奪取後、公約を守らなくて好き勝手にしていいということになったら、それは民主主義ではなく、独裁政治となる。
 もっとも、公約はいかなる場合も変更不可ではない。環境の激変があった場合、厳格な説明責任を条件に、公約の変更は容認されよう。
 しかし、民主党の場合、マニフェスト違反に必然性もなく説明責任も果たさなかった。
 混迷した民主党にかわり、官僚は、わが世の春を謳歌した。かかる事態をみてか、第三極の日本維新の党が消費増税、原発、TPP等重要な案件の矛盾を抱えたまま、官僚主導の打破を旗印に大同団結するという。
 片や、賢明な識者のなかには、今は、デフレの脱却、福島の復興、防災、防振対策が喫緊の課題であって、官僚主導の打破ではないと主張する。
 どちらに、理があるか。結論を急ぐまえに、なぜ、この3年間で官僚が一段とその権勢を増したかを検証する必要がある。
 民主党は3年前、結党以来初めて政権の座についた。そして政治主導を掲げ華々しく走り出したが、ことごとく壁にぶつかり跳ね返された。
 高速道路無料化、子供手当て、八ッ場ダム中止、天下り廃止等々。
 また、官僚の壁に跳ね返されただけでなく、強烈なカウンター攻撃を受けた。
 不景気の中、財政再建の名目で消費増税を洗脳され、条件付きとはいえ増税を決定した。
 不景気の中での消費増税は税収減となり、財政再建はむしろ遠のくのは、橋本内閣の消費増税で経験済みの筈である。
 シロアリ退治を叫んだ本人が、シロアリの本丸に飛び込み、自らシロアリとなる。”ミイラ取りがミイラになる” しょせん日本の政治家とは、斯くの如きかと諦めたくもなる。
 悲しいかな、民主党は、経験不足、準備不足、知識不足の、ないないづくしであった。
 どの組織であれ、経験もなければ、専門的知識もない人が突然上司としてやってきて、スローガンだけで、おれのいうことを聞けといはれて、すんなりうけいれられるかどうか、自問してみればわかるだろう。
 残念ながら、これが日本の政治家と官僚の関係であるが、民主党の場合、これがあからさまに表面に現れた。知識と経験のない大臣は、官僚に指示するどころか、国会答弁にあたっては、官僚に頼らなければ何一つ答えられない光景がしばしばみられた。
 立法府たる国会で、国会議員が自ら作成した議員立法がでれば、お化けがでたかと紛うほど少ない。
 殆どが官僚が作成している。これでは国民は頼れるのは官僚であって政治家ではないと判断してしまうだろう。
 かかる事態になった淵源は、敗戦直後の混迷の時期に求めることができる。敗戦直後、マッカーサは戦争責任の一環として公職追放令を発した。
 このため保守政界では人材は払底した。吉田茂は官僚の中から優秀な人材を次々政界に引っ張り込んだ。
 「小説吉田学校」の誕生である。優秀な官僚が続々政界に進出し、ついには池田勇人、佐藤栄作などが首相にのぼりつめ中央政界を支配しただけでなく、地方では知事の大半が官僚出身者で占められるまでに至った。
 時あたかも朝鮮戦争特需をへて高度経済成長に向かい、国際社会から奇跡の経済成長ともてはやされた。
 小説「官僚たちの夏」に描かれた官僚は国士意識にあふれ、まばゆいばかりに輝いていた。景気は良くなるし、国民の給料は増える、良いことずくめである。
 主人公の風越信吾は言う「おれたちは、国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ」。
 この言葉に国民は何の違和感も感じなかったし、優秀な官僚に任せておけば万事うまくいく、安心だと思った。
 「最良の官僚は最悪の政治家である」などと、言おうものなら、お前は何だ、国賊か! と罵倒されただろう。
 それほどまでに、官僚に対する、国民の信頼は厚かった。
 遡って、明治維新を経た、新生日本ではどうだったか。
 横井小楠が提唱した国是三論をもとに、明治新政府がおしすすめた「富国強兵」の旗印のもと、官僚システムを総動員し、一躍列強の一角を占めるまでに立ち至り、遂には、日清、日露戦争に勝利した。
 ここでも官僚システムは遺憾なく発揮され、国民の信頼を勝ち得ている。
 日本は神国であり、「お上」が我々を勝利に導いたのであると。かくして、日本人の「お上」のスタッフたる「官僚」に対する、揺るぎない信頼の原型がこの時代に確立されたとみても差し支えないだろう。
 このように、官僚に対する信頼は、日本人のDNAに深く刷り込まれている。
 明治の新生日本から、奇跡といはれた高度成長期に至るまでの、輝かしい成功体験により、日本人の官僚に対する信頼は、生得観念と紛うほど強固になった。
 ここでのキーワードは”成功体験”である。成功体験ほど人を勇気づけるものはないが、同時に、成功体験ほど罠が用意されているものはない。
 しばしば失敗例としてあげられる大艦巨砲の戦艦大和は、後者の例の典型である。
 日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎元帥率いる連合艦隊は、大艦巨砲と艦隊決戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した。
 この戦闘での成功体験が対米戦争でも引き継がれ大艦巨砲主義が廃れることはなかった。
 第2次世界大戦では、すでに航空機が主役を演じているにも拘わらずにだ。結果は周知の通りである。
 成功体験により培われた国民の官僚システムに対する信頼は、相次ぐ官僚の不祥事で、昨今、その信頼が揺らいでいる。
 この傾向はバブル崩壊後顕著になり、底知れずデフレが進行し、リーマンショック、東日本大震災を経て、事態は加速度的に悪化した。
 いままで経験したことのない事態に対して、官僚が全く無能であることを図らずも証明した。
 しかし、官僚システムは自己増殖機能をもつ。国民の信頼の有無にかかわらず、肥大を続ける。利権と権限を求め、果てしなく増大する。
 これはどこかで止めなければならない。さもないと、国家が消滅してしまう。中国の歴代王朝の歴史はその繰り返しであったことが雄弁に物語っている。
 先に述べた、デフレの脱却、福島の復興、防災、防振対策は喫緊の課題であるが、これを完遂するためには、政策が”有効に”実施されなければならない。
 これを担保するのは、官僚システムの”有効な機能”である。
 したがって、この二つは切り離して議論すべき問題ではない。今度の選挙で、第三極は日本の官僚システムを立て直すことを大同団結の旗印にしている。
 日本の官僚システムの成り立ち・経緯を知る限り、これを立て直すのは容易なことではない。
 第三極を、風車に向かって突撃するドンキホーテ、といっては言い過ぎだが。

2012年11月12日月曜日

官僚システム

 戦後の日本は、マッカーサによって、軍部と財閥は解体させられた。
 しかし、官僚システムは無傷のまま存続した。時をおって官僚システムは肥大しつづけ、おきまりの制度疲労をおこした。
 汚職、腐敗が拡がり、ついには厚生省、防衛省の事務次官の逮捕にまで及んだ。
 また賄賂で摘発された官僚が「なんで自分だけが」という不満に代弁されるように官僚の腐敗は、その組織を蝕んでいる。
 表面に現れた不祥事は氷山の一角と考えるのが妥当な推論だろう。
 今や、日本を食いつぶさんばかりの勢いである。なぜ、こうなってしまったのか。
 ここは、社会学者、ドイツのマックス・ウエーバの官僚制についての洞察をもとに解明したい。
 ウエーバは官僚制を家産官僚制(Patrimonial bureaucracy)と依法官僚制(Legal bureaucracy)に分け定義した。
 家産官僚制とは、主君と家臣の関係で、主君の公権と公金を家臣(官僚)が管理する。
 官僚は公権も公金も恣にし、公私の区別はない。家臣は主君のために、働くのであって、臣民に対しては、奉仕するのではなく、施す立場である。施す立場であるので、賄賂は当然の報酬であって、罪悪感などない。
 これと対立概念にあるのが依法官僚制である。官僚は法律によって国家と国民のために奉仕すると定義づけられている。
 そこでは、裁量の余地はなく、法に従い機械のように働くことで公平さが担保される。
 官僚は、国家、国民のために、施すのではなく、奉仕する。奉仕する立場であれば、賄賂など罪悪感なしには受け取れない。
 主君と家臣の立場の関係が、殆ど昇華したと思われる事例がある。
 司馬遼太郎が戦前の参謀本部について述べた事例を思い出す。
 参謀本部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)の参謀が、我々は、天皇陛下の軍隊であり、天皇から統帥権を拝命している。軍隊の、意思、行動は、すべて、この統帥権に基づいているとし、政府、議会を超越して独断的に振舞った。そこには、国家、国民は不在である。当時の軍内部には、統帥権という、なにか、どす黒い、得体の知れないものが、権力を恣にして、蠢いている、と作家一流の表現でのべている。
 翻って、現代はどうか、先にのべたように、わが国の官僚制度は、敗戦にも拘わらず無傷で生き延びた、生き延びただけでなくさらに強化された。
 「権力は腐敗する、絶対権力は絶対的に腐敗する」(ジョン・アクトン)という政治の定理がある。
 実質的に、これほど長きにわたり、権力の座にあれば、腐敗しないほうがむしろ奇跡かもしれない。
 こういうと、かならず反論がある、現代の官僚は、国家、国民に奉仕する立場であり、役人は公僕にすぎないと。
 また、何れの国、組織をみて、賄賂等が一切ないところがあるか、あったらむしろ教えてもらいたい、日本にも、たしかに賄賂があるかもしれないが、他国とくらべれば、まだましな部類ではないかと。
 たしかに、公務員は、行政組織の構成要員であり、予め決められた自らの職務を遂行する立場にすぎない。
 しかし、現代の行政機構は、複雑に絡み合い、一般国民には、分かりにくい組織になっている。
 また、霞ヶ関文学と揶揄されるように、官僚の裁量の余地を、最大限にするための、抜け道を、法律の条文に潜りこませる手法は、官僚の常套手段で、自らの権限と利益を確保しようとする。
 このように、現代の日本の官僚制度は、先に述べた、依法官僚制とは程遠い、限りなく家産官僚制に近いシステムである。
 国家、国民のために奉仕するのではなく、自らの権限と利権のために汗を流す。官僚組織の避けられない一面である。
 権力が権力を求め自己増殖を繰り返す。恰もガンの如しである。
 汚職のない国家は皆無、といってはいいすぎかもしれないが、そのような国家はむしろ稀有だろう。
 ガンによって人は死ぬ場合もあれば、うまく生還できる場合もある。
 国家も官僚の腐敗によって、滅亡する国家もあれば、再生する国家もある。
 その判定基準はなにか。ずばりそれは、自浄能力の有無であろう。
 国家が汚職に対して自浄機能を発揮すれば、どんなに汚職が蔓延したとしても安全である。
 はたして日本の官僚システムはどうか。自浄機能が有効に働いているのか。
 身近な例から一つ検証してみよう。東京電力の福島第一原子力発電所の耐震安全性の問題をピックアップしてみたい。
 福島第一原発は、プルトニウムを使った発電「プルサーマル」を実施した。福島県は、その実施に先立ち、耐震安全性を検証するよう求めていた。
 原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は「プルサーマルと耐震は関係せず」として、福島県の要求を一蹴した。
 結果は周知の通りである。もしこの福島県の要求を受け入れ耐震対策を検討していれば、あのような惨事は避けられたかもしれないし、すくなくとも被害をより抑えられた可能性がある。
 また、事故当時の経済産業省松永和夫事務次官は、おなじく原子力安全・保安院長であった当事、原発の耐震設計の見直しを主導し、津波被害の影響を軽視した指針を策定し(このため、福島原発の津波の想定が低めに設定された)、結果的に、福島原発の惨事を招いた。
 その後両名とも退職したが、退職時の退職金は減額されるどころか増額された。
 注目すべきはこのような大惨事にもかかわらず、官内部から、自らの責任を問い正すことはなかった。自浄作用など全く機能していない。
 驚くべきことに、大多数の国民は、このことに、さして違和感を感じていないようだ。福島第一原発事故は、恰も、隕石が落下した事故であるかの如くである。
 日本は官僚主導により、奇跡といはれる高度成長を遂げた、同時に官僚主導により、バブルを破裂(ハードランディング)させ、護送船団方式で銀行を誘導、支配下におき、金融危機を招いただけでなく、先進国では、はじめて酷いデフレに陥り、いまだにその責め苦から逃れ出ることができないでいる。
 いくらまともな経済政策があったとしても、その遂行をことごとく官僚システムが阻害している、いや、阻害するだけでなく、逆行させている。
 不景気の中の消費増税など言を俟たない。
 「最良の官僚は最悪の政治家となる」というマックス・ウエーバの政治の大定理がある。官僚は、前例や既存の法律に長けても、新しい事態には無力である。
 官僚に、政治をやらせることは、無免許の若者に、大型バスを運転させるようで、危険きわまりない。
 さりとて、官僚に政治を教えることは、サルにバスの運転をさせるよりも難しい。
 幕末の動乱のさ中、身を挺して国を救う気概をみせ、志士の鑑となり、武蔵野の露と消えた吉田松陰。リーダーシップとはなんのことか、官僚には解らないのだ。
 なぜ日本は、マックス・ウエーバの定理を地でいくようなことになってしまったのか、日本人には、どうしても、このことが理解できない。
 官僚支配がこの国に根付いてしまっていて、生得観念になってしまっている。
 その原因を探りあてようにも、自らの立ち位置がわからないため、手がかりさえ掴めないでいる。
 日本人の魂に深く潜り込んでいるからである。これを分析しない限り展望は開けない。
 それは至難の技だ、至難の技だが解明する他ない。

2012年11月5日月曜日

インドの旅

 先月インドを旅した。喧騒と熱気、どこかでみたような風景でありながら、どことも違う、文字通り異国に来た実感がインドにはある。
 インドのほんの一部をみただけの印象であるが、タイやベトナムなどとも違うし、敗戦直後の日本の風景とも違う。それは、気の遠くなるような長い歴史に培われた風習が、現実の生活にむき出しになっていると表現していいかもしれない。
 アーグラでは、ヒンズー教徒ではない、ムスリムのムガール帝国の王が寵姫のために建設した霊廟タージ・マハルを見学した。 タージ・マハルは2万人の職人と22年の歳月をかけ完成された。
 そのロマンもけた外れなら、建設後、みずからは、息子(三男)に幽閉されるという、ギリシャ悲劇にも登場しかねない物語性が人をひきつける。
 ジャイプールでは、マーケットを見学した。インドの女性は、肌身をさらす部分がすくない、そのぶん、衣装に精一杯の力そそそぐようだ。
 マーケットのサリー売り場にひしめく女性の活気、まなざしは、バーゲンに集う日本の女性のまなざしの比ではない。
 狭いところにうずたかく積まれたサリーを漁る女性の姿はまるで戦場だ。
 ベンガル虎を見てみたいとランタンポール国立公園にいった。  キャンターで、でこぼこ道を何時間も走りまわり、運よく親子の虎をみることができた。
 しかし、いざ虎と出くわしたときには虎よりも一緒にキャンターに乗っている人々の興奮した表情に、つい注意がいってしまって、肝心の虎はあっというまに過ぎ去ってしまった。
 インドは、たしかにアメリカの証券会社のエコノミストがレポートした”BRICS”の一角を占めるほど活気に満ちている。
 同時に、五千年にもおよぶカースト制度が、いまなお続いていることは、インドの運命を決定づけかねない。
 カーストはヒンズー教にもとずく身分制度だけに、その根は深い。
 カーストにより職種は決定される。カーストにない新しい職種、たとえばIT関連などに、優秀な人がカーストの身分を問はず流れ、インドがIT大国になったのはそれが原因ともいわれている。  門閥を問はず人材を集めた幕末長州の奇兵隊を連想させる。
 我々がカーストを批判するのはやさしい、しかしカーストはインドの人々の日常生活、世界観に深く根ざしていて、これによって社会の調和がたもたれているようにみえる。
 マハトマ・ガンジーの非暴力抵抗運動が国民に広く浸透しているためだろうか、インドの人はどこかやさしい。
 来世でのカーストのランクアップのためには、何事にも耐え、ひたすら善行につとめているのだろうか。
 ふと疑念が脳裏をよぎった、我々が考える経済発展など、インドの人にとっては”俗物の考え”にすぎないのではないか、と。