2017年9月25日月曜日

詭弁を弄する 3

 財務省のホームページに「日本の財政を考える」という動画がある。
 国の財政を家計に例えると、借金はいくら?
というタイトルで分かりやすく説明している。

 「日本の財政を月々の家計に例えてみます。仮に、月収50万円の家計に例えると、月収は50万円ですが、ひと月の生活費として、80万円を使っていることになります。
 そこで、不足分の30万円を、借金で補い家計を成り立たせています。こうした借金が累積して、8400万円のローン残高を抱えていることになります。」

 この説明には次のことが隠されている。
① 国の財政を家計に喩えて分かりやすい。だが比喩は適切なものもあれば不適切なものもあり論理の替わりにはならない。
 国と家計は異なる。国は徴税できるが家計には出来ない。国は通貨を発行できるが家計にはできない。
 この違いを無視しているのでこの比喩は適切でない。
② 借金についてのみ説明し資産については説明していない。
 国には資産があるのだから家計の資産にも言及すべきにもかかわらずそうしていない。
③ 国の借金の貸し手について語っていない。
 貸し手は90%以上日本国内の法人・個人であり、発行は100%円建てである。政府には通貨発行権があるので返済が滞ることはない。

 また同ホームページの動画には、国の借金の残高はどれくらい?
というグラフ付の説明がある。

 「日本の公債残高は、年々、増加の一途をたどっています。
 平成29年度末の公債残高は865兆円に上ると見込まれていますが、これは税収の約15年分に相当します。
 つまり将来世代に、大きな負担を残すことになります。
 また債務残高の対GDP比を見ると、90年代後半に財政健全化を進めた先進国と比較して、日本は急速に悪化しており、最悪の水準になっています。」

 税収の約15年分相当の公債残高があり、将来世代に、大きな負担を残すという。
 いわゆる老年世代の食い逃げ論、ツケを後にまわす無責任論である。この説明の通りであれば現世代は非難されてしかるべきである
 だがこの政府債務の将来世代負担論については、アメリカの経済学者 アバ・ラーナーのよく知られた反論がある、と専修大学の野口旭教授は言う。
 その反論の主旨は、国債が海外において消化される場合には、その負担は将来世代に転嫁されるが、国債が国内で消化される場合には、負担の将来世代への転嫁は存在しないということである。

 「ラーナーによれば、租税の徴収と国債の償還が一国内で完結している場合には、それは単に国内での所得移転にすぎない。
 ラーナーはそれについて、以下のように述べている。
 『もしわれわれの子供たちや孫たちが政府債務の返済をしなければならないとしても、その支払いを受けるのは子供たちや孫たちであって、それ以外の誰でもない。
 彼らをすべてひとまとまりにして考えた場合には、彼らは国債の償還によってより豊かになっているわけでもなければ、債務の支払いによってより貧しくなっているわけでもないのである』」

 「ラーナーの議論の最も重要なポイントは、将来の世代の経済厚生にとって重要なのは、将来において十分な生産と所得が存在することであり、政府債務の多寡ではない』という点にある。」
野口旭投稿2017.7.20Newsweekコラム『ケイザイを読み解く』)


 なお、2016年の債務残高の対GDP比が、日本は232.4%、ギリシャは200%である。
 財政破綻のおそれありと騒がれたあのギリシャが日本よりも低い。
 財政健全化とは債務残高対GDP比の安定的な引き下げであることが国際的にも認知されている。
 ただ国債の買い手(国内か否か)と通貨の種類(自国通貨か否か)が、債務残高対GDP比よりも重要であることは上のラーナーの議論から当然の帰結であり、ギリシャの債務危機でも実証されたことである。

 なぜ財政がいまにも破綻するおそれありなどとすぐにでも見破られる論法がまかり通るのか。
 かって民主党政権時代に財務大臣も経験した菅直人首相が日本国債の格付け引き下げについて問われ「そういうことに疎いので」と答えたので国民は唖然とした。
 官僚も好きこのんで財政危機をあおる脅しともとれる言い方をしないだろう、政治家や国民を挙げて財政に疎い羊の群れと思いさえしなければ。
 増税必要論はこのような詭弁を弄さないと他に説得方法がないことの証でもある。
 脚が地についていない詭弁は少数の人を一時的に欺くことはできても多数の人を長期にわたって欺くことはできない。

2017年9月18日月曜日

詭弁を弄する 2

 言葉によって何かを伝えようとすると発信者が意図すると否とにかかわらず中立的ではなくなる。
 日本のメディアは日韓関係といい韓国では韓日関係という。もし日本で韓日関係と言ったら韓国寄りメディアとレッテルを貼られるだろう。
 言っていることは同じだが受け取る印象はこれほど違う。この意味において中立的な表記方法などない。

 人に訴える議論は詭弁となりやすい。先ごろ話題となった加計学園の獣医学部新設問題で、前川前文科省事務次官は「行政が歪められた」と言った。
 これに対し菅官房長官は、「前川前次官は行政が歪められたというが当のご本人は出会い系バー通いをしていた、教育行政にかかわっていながらそのようなことをする人の発言は信用できない」と非難した。
 この問題で議論すべきは、獣医学部新設の認可が正当に行われたかどうか、行政が歪められたかどうかであって、出会い系バー通いの非難はこれとは関係のない論点のすり替えである。

 嘘つきの人間が「嘘はいけない」と言ったからといって、「嘘がいけない」ことに変わりはない。
 だが受けとるほうは、嘘つきがそう言うのだから、たまには嘘をついていいのかもしれないと思うかもしれない。嘘つきのこの発言が「嘘をつく」ことに一種の免罪符を与えたようなものだ。
 詭弁はこれを弄する人は無意識のうちに本題と離れたこの人に訴えるやり方で人びとを説得しようとしているのだろう。

 論点のすり替えは、言葉がすべての法曹の世界でも行われている。
 よく例に挙げられるのが昭和47年に起きた外務省秘密漏洩事件である。当時、毎日新聞の西山太吉記者が、沖縄の本土復帰の日米交渉で密約があったという証拠の機密資料を、外務省の蓮見喜久子事務官から入手した。
 この裁判は国民の知る権利と国家の秘密保全のどちらを優先するかについて世間の話題をさらった。
 ところが検察の起訴状に「情を通じ」という言葉があり、これがメディアによって明らかにされると世論の流れは一気に西山記者に厳しくなった。
 報道の自由と国家機密の議論より起訴状の「情を通じ」が世間の注目を集め、こんなことで資料を入手した西山記者はとんでもないヤツだということになった。

 上の論点のすり替えは詭弁のほんの一例にすぎない。詭弁は必ずどこかに誤りがある。詭弁は正しくある必要がないのでその種類はいくつもある。
 詭弁の種類について統一された定義はないようだが、大まかには論理的に破綻しているものと論理以外の意図的なものに分けることができる。
 論理は「Aが成立するならばBになる」から構成されるが、このAの前提部分に誤りがあるものと、Bの演繹部分に誤りがあるものに分けられる。
 論理以外のものには、論点のすり替え、言葉によるマジックなどレトリックを駆使した手法である。
 なお冒頭に挙げた日韓関係、韓日関係のように間違ってはいないが印象操作も詭弁の一種とする場合もある。

 世の中には詭弁や誤謬が溢れかえり日常茶飯事に使われている。
 人を説得したり、誘導しようとする意思が働けばどうしても中立的ではなくなる。
 世論調査も質問の仕方によって結果も微妙に異なってくる。
 政権寄りのメディアの世論調査は政権寄りに、政権に距離を置くメディアのそれは政権に厳しい結果となって表れる。
 メディアは新聞の社説などのほかに世論調査を通じて時の政権に一定の影響力を及ぼしていることになる。
 世論調査と同様に国の政策もその策定過程では中立的ではない。
 いづれの省庁も各種諮問会議のメンバーには自らの意に沿う人選を行い政策が策定されるまでにレトリックの限りを尽くす。
 それがどんなものか内容によっては唖然とするものがある。

2017年9月11日月曜日

詭弁を弄する 1

 一見正しそうに見える論理だがよくよく考えると間違っている。われわれはこのようなことを時々体験する。いわゆる詭弁である。
 だがこのようなことは実社会には溢れかえっている。しかもわれわれ自身もそれと気づかず詭弁を弄している。
 こう語るのは論理的思考の研究者であり教育者でもあった修辞学者の香西秀信氏である。
 
 詭弁を間違った論理とすればその反対の極に位置するのが形式論理に則った論理ということになる。それはいわば真空の無菌室で純粋培養されたような論理である。

 「われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。
 われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分に機能しない。
 が、その十分に機能しないことを、相手が詭弁を用いたからだと勘違いしてはいけない。(中略)
 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。
 このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。
 が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。」
(香西秀信著光文社新書『論より詭弁』)

 言葉で何かを主張したり、説得しようとした途端に純粋な形式論理から逸脱した理論になる。このことをもって詭弁と定義すれば実社会は詭弁に溢れていることになる。もっとも詭弁はその使用者に騙しの意図があることが前提であり、そうでなければそれは詭弁ではなく誤謬ということになる。
 世の中に詭弁や誤謬が溢れているとすればわれわれはうかつに人の言ったことなど素直に信じられなくなってしまう。 実生活上これらに無関心を決め込むわけにもいかない。それではどうすればいいのか。
 詭弁や誤謬を正しく認識しそれらが与える影響について冷静に対応すること。これに尽きると言えるが、具体的にはどうすればいいのか。それが問題である。

2017年9月4日月曜日

悲観大国ニッポン 5

 内閣府が先月公表した「国民生活に関する世論調査」によると、現在の生活に「満足」「まあ満足」合わせて約74%、この先どうなるかの質問には「同じようなもの」65.2%、「悪くなっていく」23.1%、「良くなっていく」9.4%であった。
 この結果から見る限り国民は先行きの暮らし向きに多少不安はあるものの悲観している様子ではない。悲観の原因が経済的要因でないとすればその他に求めなければならない。
 その他に求めなければならないがそれが何であるか明白な要因は見当たらない。強いていえば漠然たる要因ということになるが、そうなれば社会学的分析を俟たなければならない。
 19世紀末フランスの社会学者デュルケームは自殺の研究を通じて連帯が失われればアノミーになるという社会学の一大発見をした。
 連帯が失われる原因の一つに父性の欠如がある。社会の父性が欠如すれば社会不安になるし、家族の父性が欠如すれば家族崩壊を来たす。父性とは必ずしも父親とは限らないその役割を母親が担うことだってある。
 ところで今日本の社会システムは安定している、特段父性が欠如しているとも思えない。
 それにもかかわらずニッポン人が将来に対し最も悲観的な国民であるという事実はこの父性の欠如を無意識のうちに嗅ぎ取っているのかもしれない。
 潜在意識のどこかに父性の欠如を感じている。それは世論調査でも国民が懸念している国防・安全保障に表れている。 日本はこれを外国の軍隊に依存している。日本がアメリカの強大な核の傘で守られていることは周知の事実である。
 国防・安全保障は国の基本である。国の基本にかかわることを自国で担わず他国に依存する。
 家庭内で暴れる子供に手を焼いた父親が誰か他人に解決を依頼するのと同じで、いずれも父性が欠如している。
 国家に父性が欠如すれば社会は不安定になる。国の主権にも歪みが生じる。

 戦後日米間には、一貫して経済対話が行われている。日米構造協議、年次改革要望書、そして現在の日米経済調和対話と名前は変わったが実態は変わっていない。
 建前は、日米それぞれの要望を出し合う協議の場だが、実態はアメリカの要望に対し歴代政権がこれを受け入れるという一方的なものであったことはその成果が示している。

 経済対話とは別に日米合同委員会がある。日米の政治家が参加しないこの合同委員会は1960年に締結された日米地位協定の正式な協議機関として設立された。
 日本の官僚と在日米軍のトップがメンバーで月2回行う秘密の会合である。
 日米の間には、米軍と日本の官僚とのあいだで直接結ばれた占領期から続く軍事上の協定(国民に明らかにされていない)が存在している。秘密会合たる所以である。
 そこではおよそ主権国家としてあるまじきことがらが決定されている。その異常さを他ならぬアメリカ側メンバーでただ一人軍人でないスナイダー公使が上司の駐日大使に報告している。
 その報告書で、米国の軍人が日本の官僚に直接指示する日米合同委員会のありかたは異常であると激怒して曰く。

 「本来なら、ほかのすべての国のように、米軍に関する問題は、まず駐留国の官僚と、アメリカ大使館の外交官によって処理されなければなりません」「ところが日本における日米合同委員会がそうなっていないのは、ようするに日本では、アメリカ大使館がまだ存在しない占領中にできあがった、米軍と日本の官僚とのあいだの異常な直接的関係が、いまだに続いているということなのです(1972年4月6日アメリカ外交文書)」
(矢部宏治著講談社現代新書『知ってはいけない隠された日本支配の構造』)

 いくら秘密にされているとはいえ主権を脅かされているこのような事実を国民はうすうす感じている。
 自前で核武装できないのでアメリカの傘に頼らざるをえない。被爆国のわが国では核武装の議論さえタブー視される。 主権を脅かされても他国に国の安全を委託する。国民が恒心を持てるのは健全な主権を自覚できればこそである。 日本国の主権に懸念あり、これがニッポン人が将来に対し不安を抱き悲観的になる原因の一つであることは間違いない。
 もともと日本人は楽観的であった。

生ける者遂にも死ぬるものにあれば
   この世なる間は楽しくをあらな              
                 大伴旅人(万葉集)

 この歌にくよくよしない楽観的な万葉人の生き様をうかがい知ることができる。
 外国と比べて経済的に恵まれている方に属するわが国が悲観大国であることは正常な状態ではない。
 この歪みは国民の心に積み重なっている。いずれこの揺り戻しが起こるであろう。
 歪みが長引き大きくなるほどそれもまた大きくなる。その時がいつかは分からないが。
 日本人は明治維新に成功した。その時は必ずくる。