2015年2月9日月曜日

苛立つイスラム 2

 イスラム教を知るにはコーランに如くはない。
 コーランでアッラーは、ある時には弁護士のように、ある時には医者のように、ある時には政治家のように率直で、具体的、現実的に信仰の道を説いている。聖典らしくない聖典である。これほど具体的な聖典はコーランのほかにないだろう。コーランで繰り返し説かれているもののうちいくつかの節を抜粋してみよう。

 まず冒頭の開扉

 「一 開扉 -メッカ啓示、全7節-
慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
1 讃えあれ、アッラー、万世の主、
2 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
3 審きの日(最後の審判の日)の主宰者。
4 汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
5 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
6 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
7 汝の嘉し給う人々の道を歩ましめ給え。 」
(岩波文庫 井筒俊彦訳『コーラン』)・・・以下コーランの引用は同書から

 ”慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・” この句はコーラン全114章の各章冒頭で例外なく述べられている。
 アッラーが唯一の神、アッラーのほかに神はいない。最後の審判が訪れるが、その主宰者はアッラー。教えを守らぬ者はアッラーの怒りを蒙る。この開扉はコーランのいわばエッセンス。

 信仰なきものに対してアッラーは預言者ムハンマド(マホメット)を通じ、諭して言う。

 「 『どうせこの世は一生かぎり。生きて死ぬ、ただそれだけのこと。”時”がわしらを滅ぼすまでのこと』
 などと彼らは言う。実は、なにもわかっておらぬ。ただ当て推量しているだけ。
 誰の目にも明らかな我らの神兆(死後の復活を説く”コーラン”の文章)を誦んで聞かされると、持ち出してくるきまり文句は、『それでは、わしらの御先祖がたをここへ連れて来て見せるがいい、もしお前らの言うことが本当なら』と。
 言ってやるがよい、『アッラーはお前らに生を与え、次に死を与え、次に復活の日、みな(裁きの場所に)集め給う。これは絶対に間違いないところ。だが大抵の人間にはそれがわからない』と。」
(コーラン第45章23~25節)

 最後の裁きの場所とはどのようなところか。その様子が生き生きと述べられている。

 「さて、いよいよ喇叭が一吹き嚠喨と鳴りひびき、大地が山々もろとも持ち上げられ、ぐしゃっとただ一打ちに叩きつぶされてしまう時(天地の終末)、その日こそ見るも恐ろしい光景が出来する。
 空は裂け割れ - その日にはあの(硬い空も)脆いもの - あたりには天使らがずらりと立ちならぶ。その日、主の玉座を頭上に捧げまつるは八天使。
 さ、その日には、お前たちみなむき出しで、何一つ隠せるものはありはせぬ。
 己が帳簿(現世での行いが全部記録してある天上の帳簿)を右の手に渡された者(天国行きが決定した人)は(嬉しさのあまり)言うだろう、
 『さあ、みなさん手に取って読んで下さい、このわしの帳簿。なあに、いずれは自分の決算にお目にかかると思っていたよ』と。
 そしてまあ、今度の生活のなんとも言えぬ心持よさ。高い高い(天上の)楽園の中、手を伸ばせば(おいしい)果物が取り放題。 『さ、食べよ、飲めよ、心ゆくまで。これもみな過ぎ去った遠い日々(現世に生きていた頃)お前たちが自分でした(善行)の報い』(これは天使の言葉)
 これに反して、帳簿を左手に渡された者ども(地獄行きが決定した人)は、きっとこう言うことであろう。
 『ああ、情ない、こんな帳簿など貰わぬ方がましだった。自分の決算など知らぬ方がましだった。ああ、いっそ何もかも終わりになってしまえばいいに。山なす財産もついにものの役には立たなかったか。かってのわしの威勢は消え去ったか』と。
 『掴えよ、縛りつけよ(アッラーが地獄の番人どもに命令しているところ)、それから地獄で焼いてやれ。焼いたら今度は七十尺の鎖でぐるぐる巻きにしてしまえ。
 この者は(現世にいたころ)偉大なアッラーを信じなかった。貧乏人の養いを勧めることもしなかった。
 その報いで、今日、ここでは為を思ってくれる友とてなく、食い物といってはどろどろの膿汁ばかり、罪人だけが食べる食い物。』」
(コーラン第69章13~37節)

 アッラーが唯一の神、アッラーのほかに神はいない。
 イエス・キリストは神などではなく預言者にすぎない。キリスト教徒もイスラムに帰依し善行を積めば報われる。


 「それから、陰部を堅く防ぎ通したあの女(聖母マリアを指す)、あれには我らがじきじきに聖なる息吹きを吹き込んだ。
 そしてあれと、あれの息子(イエス・キリストを指す)とを全人類への神兆となした。
 『まこと、汝らのこの宗団こそは統一ある一つの宗団(唯一神教を奉ずる宗団として宗派の別などあるはずのないもの)であり、わしが汝らの主。さ、みなわしを崇めよ』と。
 だが、彼らは互いに仲間割れして、ばらばらになってしまった。 しかし、いずれは誰もかれも、みな我らのところへ戻ってくる身。 信者になって義しい行いに精出す者は、努力しただけの分は決して付落しされる心配はない。我らが一々記録しておる。」
(コーラン第21章91~94節)

 最後の審判で天国にいければつぎのような緑園が待っている。

 「だが信仰を抱き、かつ善行をなす人々に向かっては喜びの音信を告げ知らしてやるがよいぞ。
 彼らはやがて潺々(せんせん)と河水流れる緑園に赴くであろうことを。その緑園の果実を日々の糧として供されるとき彼らは言うことであろう、
 『これは以前に地上で私たちの食べていたものとそっくりでございます』と。
 それほどによく似たものを(見かけは地上の果実とそっくりだが味は全然違うのでなお美味しく感じる)食べさせて戴けるうえに、清浄無垢の妻たちをあてがわれ、そこにそうして永遠に住まうであろうぞ。
(『清浄無垢の妻』というのは、古アラビアの伝説で天上の楽園に住むと言われる神女フールfur即ち『白色に乙女たち』のこと。
 西欧ではペルシャ化されたフーリーという名で有名で、回教の天国の官能的性格を示すものとしてよく引かれる。
 回教の伝承によると、信者は死後楽園に入ると同時に彼女らに迎えられ、地上においてラマザーン月に断食した日の数と、善事を行った数だけ彼女らと歓を交えることが許されるが、しかも彼女らは永遠に処女であるという)。
(コーラン第2章23節)

 最後の審判で地獄行きとなった者を待ちかまえている地獄とはどんなところか。

  「あの男(マホメットに敵対するクライシュ族の有名な首領ワリード・イブン・アル・ムギーラを指すという)のことはこのわしアッラーひとりに任せておくがよい。
 ああしてわしが創ってやり、ずらりいならぶ息子を授け、万事都合よく行くよう特にとりはからってやったのに、もっとほしいとは何事か。
 いや、いや、そうは行くものか。我らの神兆にあくまで頑な態度を取ったあの男。
 辛い山坂(地獄の刑罰を譬えて言う)を無理やり登らせてやるだけのこと。
 あの男、知恵をしぼって案をねった(『コーラン』をおとしめようとして奸策をねった)。
 ええ、呪われよ、なんたる案をねり出したことか。も一度呪われよ、よくも見事な案をねり出したものよ。
 ちょっと眺め(『コーラン』に一瞥を投げ、眉をひそめてしかめ顔。それから後ずさりして、傲然と、『これはどう見ても伝来の妖術だ。どう見てもただの人間の言葉だ(アッラーの啓示ではない)』と言う。
 よし、あの男、地獄の劫火で焼いてやる。さて、劫火とは何かとなんで知る(劫火がいかに恐ろしいものか、とうていお前にもわかるものではない、の意)。
 一物も残さず、一物もあまさず、皮膚をじりじり焼き通し、十九の天使がその番をする。」
(コーラン第74章11~20節)

 コーランには天国(緑園)と地獄について繰り返し描写されている。
 イスラム教徒はこの世で戒律により厳しく禁じられてことを守り通せば来世ではその褒賞として快楽が約束されている。
 逆に戒律を守らずこの世で快楽に耽れば来世では恐ろしい地獄が待っている。
 イスラム教はすぐれて論理的な宗教である。

 つぎにイスラム教の論理について検討したい。


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