2018年2月12日月曜日

イスラム社会と近代化

 宗教が違えば人びとの行動様式も異なる。このことを最も実感させるのがイスラム教徒の行動様式である。イスラム教の規範は外面的行動によって規定されているからである。
 キリスト教は内面だけが問われるので外部から見え難いが他宗教と行動様式が異なることに違いはない。
 無宗教に近い日本人は宗教が行動様式を左右するなど思いもつかないしどうしても理解できない
 日本人にとって宗教より人間が優先する。人間あっての宗教ではないかと考える。
 宗教が違っても同じ人間じゃないか、腹を割って話し合えば必ず分かりあえる。こう考えるのは世界広しといえども日本だけであろう。
 無宗教であることには弊害があるがこのことについては稿を改め考えてみたい。

 イスラム教は規範がはっきりしていて最も宗教らしい宗教である。無宗教国家日本にはイスラム教徒が殆んどいないのは規範の多さとその厳しさが原因であるともいわれる。
 イスラム教徒の信仰告白は「アッラーのほかに神はなく、マホメットは神の使徒である」。
 イスラム教徒の救済はイスラム法の規範を守ることである。規範を守るとは、第一法源のコーランから第十法源まで細大漏らさず規定された目に見える外面的行動を守ることである。このようにイスラム教は宗教と法律が一体である。

 ところで近代化とは西洋化である。西洋化とはイスラム社会をキリスト教プロテスタンティズムに起源をもつ資本主義、民主主義、近代法にとって替えることである。
 そんなことはできない、できっこない。それはイスラム教の放棄を意味する。
 イランのパーレビ元国王はイランの近代化、西欧化の改革を推進した。この一環として女性のヒジャブ着用禁止、ムスリムに限った選挙権と被選挙権の撤廃など世俗化も進めたが法学者の反発を招き失脚した。
 イスラム主義者にとって近代化、世俗化は革命によってでも阻止すべきことであったのだ。
 イスラム法は、イスラム教徒にとって法律であり宗教であり生活のすべてを拘束するものである。
 イスラム教徒がいうインシャーアッラー(アッラーの思し召しによって)は「アッラーと人」との契約であり資本主義社会での「人と人」との契約を意味していない。
 イスラム教社会を近代化しようとすればアッラーの思し召しに背く。いってみればイスラム教は近代化を拒む宗教である。それゆえイスラム社会と西欧社会が互いに理解し合える日がくることはないであろう。

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