2018年2月2日金曜日

イエスの実像 3

 ナザレのイエスという人物を知るうえで忘れてならないのは、彼がユダヤ人であったことである。

 「ユダヤ人として、イエスの関心は、ひたすら同胞ユダヤ人の運命にあった。イエスの関心はもっぱらイスラエルにあった。
 彼は自分の使命は『イスラエルの家の失われた羊のところにしかない』(「マタイ」15章24節)と断言し、自分の弟子たちに『異邦人の道に行ってはならない。またサマリア人の町に入ってはならない』(「マタイ」10章5-6節)と、福音は自分たちユダヤ人以外には共有させないように命じている。
 彼は異教徒と会う時はいつも距離を置いていたし、彼らを癒す時には、しばしばためらいを示した。
 イエスはシリア・フェニキア人の女が自分の娘から悪霊を追い出してほしいと頼みに来た時、こう説明した。
 『まず、子供たち(イスラエルを意味している)に食べさせましょう。子供たちのパンをとって犬(彼女のような異邦人を意味する)にやってはいけない』(「マルコ」7章27節)と言っている。
(レーザー・アスラン著白須英子訳文藝春秋社『イエス・キリストは実在したか?』)


 なんという差別だろう! およそ慈悲深い博愛のイメージのキリスト像から程遠い。
 この差別はユダヤ教の真髄である『モーゼの律法』からきていることがわかる。
 イエスは自分の使命はこの法を廃止することでなく、完成することだと言っている。

・わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
(マタイによる福音書5章17節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)

・よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
(マタイによる福音書5章18節『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)

 モーゼの掟はユダヤ人同士の関係と、ユダヤ人とユダヤ人以外の関係を峻別している。

 敵を愛しなさい、あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。このイエスの説教は同胞ユダヤ人内の関係に限定されたものであった。
 このように同胞とそれ以外を峻別する一世紀のユダヤ人社会は共同体を形成していたと推定される。
 共同体の際立った特徴は内の規範と外の規範が異なる二重規範である。外の規範は相対的で緩やかであるが内の規範は絶対的で重い。マックス・ヴェーバーが定義した社会学の鉄則がここにも生きている。
 初期キリスト教会共同体は、このイエスの説教をユダヤ人内の関係に限ることなく普遍的、全人類に向けられたように演出した。 
 使徒パウロは、イエスの教えを信じてこれを実践することで新しい生を得ることができるという
 イエスは神殿を私の家と呼び祈りの家といった。パウロは、この『祈り』を重視した。人間は自力ではなく神の恩寵によってのみ救われる。現実的な物質的世界から神の導きによって精神性を獲得していく過程で救済されるという。
 ローマ市民権を有していたパウロはその立場を利用しローマ帝国内を広範囲に伝道した。

 このようにして初期キリスト教共同体とパウロはこのローマに反抗したユダヤ人の急進的なナショナリスト・革命家であるナザレのイエスが神の子となる礎をつくった。その結果イエスの実像はかき消されてしまった。

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