2013年10月7日月曜日

民主主義考 3

 丸山真男は、民主主義運動の経緯を次のように述べている。

 「文化活動は、文化団体や文化人に、政治活動は政治団体や政治家にそれぞれ還元されてしまうから、文化団体である以上、政治活動をすべきでない、教育者は教育者らしく政治に口を出すなというふうに考えられやすいのです。
 こういう傾向がはなはだしくなってくると、政治活動は職業政治家の集団である”政界”の専有物とされ、政治は国会のなかにだけ封じこめることになります。
 ですから、それ以外の広い社会の場で、政治家以外の人によって行われる政治活動は本来の分限をこえた行動あるいは”暴力”のようにみなされるようになる。
 ところがいうまでもなく、民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで開放する運動として発達したものなのです。そして、民主主義をになう市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。
 とすれば、民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市民の政治的関心によって、また”政界”以外の領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」(日本の思想 岩波新書)

 「税制はプロである俺たちに任せろ、素人はそこのけ」
 このような発言が、いかに民主主義の精神から縁遠いか。
遺憾ながら、この類いの発言が現代の政治家からなされている。

 丸山真男は、民主主義実現には不断の努力と運動が不可欠と考えた。彼の考え方の基本は一貫して次の主張からなっており、その後も繰り返し主張している。

 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。
 それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。
 民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」(日本の思想 岩波新書)

 この論旨を敷衍してみよう。
 民主主義という制度があるだけでは駄目で、理念と運動を伴なってはじめて民主主義といえる。
 民主主義の理念は、人民が支配するという、政治の現実と反するパラドックスである。
 如何なる時代でも、支配は、少数の多数に対する関係であって、人民が支配するということは、それ自体がパラドックスである。
 統治されるものが統治する、被統治者が統治者になるという日々の運動の中で民主主義の理念は実現される。民主主義が制度として確立されただけでは民主主義は実現されない。
 多数の被統治者が統治主体を目指して権利を実現する運動をつづけることによって、統治者と被統治者が固定化されることを防げる。このような不断の民主主義を求める運動によってはじめて人民の権利は保障される。

 この運動を丸山真男は永久革命と定義した。


 「もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。
 なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても支配は少数の多数にたいする関係であって、人民の支配ということは、それ自体が逆説的なものだ。
 だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する」(丸山眞男集第16巻 岩波書店)


 丸山真男は戦後民主主義運動の理論的リーダと言われた。
 彼に対する批判はともかくとして、彼の学問的立場は、民主主義を求めて止まない精神であったことは間違いない。
 彼はひたすら民主主義実現についての研究に没頭し、これの啓発に努めた。
 彼の学問的情熱の一部は、彼が青年期の一時期、ファシズム下の日本で、ふとしたことから官憲に拘束され強大な国家権力を身をもって体験したこと、また望まざる悲惨な軍隊生活に由来しているのかもしれない。
 大東亜戦争イデオロギーの破綻後、ようやく手にした民主主義が、かつての進化論や啓蒙思想のように、日本的共同体に吸い込まれて解体されてしまうこと。
 これだけは何としても避けなければならない。少なくともそういう想いは彼の主張の端々から読み取ることができる。


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