2017年12月25日月曜日

デフレの怖さ 7

 過去1997年と2014年消費税増税によりわが国GDPの約6割を占める消費が冷え込み景気が腰折れした。 そしていま二度の延期を経て2019年10月に8%から10%へと消費増税が予定されている。
 さらに2010年に民主党管直人政権が閣議決定した2020年までに基礎的財政収支プライマリー・バランス)を黒字化する目標が未だ生きていて取り消されていない。
 デフレ脱却のためこの目標を撤回すべしと主張する人が政府関係者にもいる。藤井聡内閣官房参与は自著『プライマリー・バランス亡国論』でアルゼンチンやギリシャを例に、プライマリー・バランス改善に向けて歳出削減や増税に踏み切れば、景気が冷え税収が減り、結果として財政が悪化すると警告している。
 一方政策当局は、財政健全化のためには増税やプライマリ-・バランス黒字化目標は必須であると主張する。

 だがわれわれは学者や政策当局の議論を俟つまでもなくデフレ時の緊縮財政は財政政策の禁忌であることを昭和恐慌の教訓から得ている。
 にもかかわらずなぜこれが生かされないのか。これが小論の核心テーマである。

 まず、わが国の金融や財政政策についてそれぞれの責任者はどう考えているのだろうか。
 麻生財務大臣は、当局の責任者として財政健全化は喫緊の課題であるという。ところが大臣就任以前の発言はこれと真逆である。 日本に債務問題はない。日本の国債は円建てでその90%以上を日本国民が買っているから。このような主旨を講演会などで発言している。
 黒田日銀総裁も総裁就任以前これと同じ類のことを文書で発信している。財務官時代の2002年4月30日アメリカ格付け会社による日本国債格下げに対し反論して曰く。
 ・ 自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。
 ・ マクロ的に見れば、日本は世界最大の貯蓄超過国
 ・ その結果、国債はほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化されている
 ・ 日本は世界最大の経常黒字国、債権国であり外貨準備も世界最高

 このように政策当局の責任者は日本に財政の問題は無いと現在の主張と真逆の発言をしている。
 現在わが国の論調は、「債務が拡大し財政破綻のおそれがあり財政健全化は喫緊の課題である」との主張が大勢をしめる。
 上記政策責任者がそれを率先推進しているのもその原因の一つであろう。
 一方、彼らは本音として長引くデフレを脱却するには財政健全化などではなく緊縮財政を止め大胆な財政政策で景気を刺激しなければならない。
2%の物価目標を達成するためにも金融だけでなく財政の支援が必要であると考えているに違いない。
 彼らにしてみれば、こんなことは経済学者やエコノミストに言われるまでもなく100も承知200も合点のことだろう。 それが証左に財務大臣や日銀総裁に就任する前に自説を得意げに開陳しているではないか。わかっちゃいるけどそうしない、あるいはそうできない。

 なぜこういうことになるのか。繰り返し言おう。これが本問題の核心である。
 ここは社会科学の出番である。これによってはじめてこの問題が明らかになるであろう。
 日本は今も昔も、そして良くも悪くも官僚国家である。また空気が支配する社会でもある。
 ここにこの問題解決の糸口がある。これらを解明し課題のまとめとしよう。

2017年12月18日月曜日

デフレの怖さ 6

 消費者物価指数ときまって支給する給与データの推移をみるかぎりわが国は今なおデフレから脱却できていない。デフレがいかに怖いかも屡説した。だがデフレのなにが問題なのか、どうして危機なのか疑問に思う人もいるに違いない。それが原因でさしせまって困ったこともないからである。
 わが国のデフレについての現状認識をかいつまんでいえばこういうことになるだろう。

① 一部リフレ派エコノミストはデフレ脱却について具体策を提言している。その内容は昭和恐慌時の政策がベースとなっている。
② だが政治家や行政当局がこれらの声に対し真摯に対応しているようには見えない。
③ 国民も収入が増えないのは困るけど物価が安いのは悪いことではないとさして困っている様子でもない。
④ 失業率もこれ以上望めないほど理想に近い。失業者が少ないことは社会が安定していることの証だ。



 現状はたしかに問題があるようには見えない。だが、データの背景には懸念すべきことがある。
 失業率が低く平均賃金が上がらないのは企業が正規社員にかわりパート・アルバイトを増やしたからであり、物価が安いのはグローバル化による競争激化と需要不足が原因である。しかもこの傾向が20年もの長きに亘っていることである。
 仮にこの傾向が継続し無策に終始したとすればデフレスパイラルに陥るであろう。そうなれば悲惨だ。
 悲観的な見方をすれば、日本経済の現状は滝壷に落ち入る前の穏やかな水の流れである。やがては奈落の底が待ち構えている。
 かかる悪夢は予測し難い。1929年のアメリカ恐慌が世界大恐慌に発展すると予想した世界の指導者はだれ一人いなかったように。
 当時の井上準之助蔵相も1929年までのアメリカの繁栄をみて遅れじと金を解禁し、後にアメリカが恐慌になってもこれを一時的な反動と見た。

 殷鑑遠からず。昭和恐慌はわが国のデフレ対策のお手本である。ただ当時と今では環境が違うのでこれを考慮しなければならない。
 IMF集計によると、2016年末日本の対外純資産は349.1兆円で26年連続世界最大である。2位中国210.3兆円、3位ドイツ209.9兆円(機軸通貨国アメリカは947.2兆円の対外純債務) 

 過去の遺産による債権大国という意味では昭和恐慌より19世紀後半のイギリスに似ている。
 イギリスは18世紀後半から世界の工業国として君臨してきたが、19世紀後半不況に陥り、当時の新興国アメリカやドイツに追い上げられ競争力が低下した。
 産業転換が遅れイノベーションも興らず、高コスト体質で物が売れなくなり物価が下落した。
 市場利子率を上回る投資案件がなく需要不足からデフレとなり経済が長期にわたり停滞した。
 これを現在のわが国に照らせばこうなる。

 1 26年連続世界最大の債権大国であるため危機意識が希薄
 2 中国など新興国に追い上げられ産業転換が遅れ競争力が低下
 3 イノベーション分野でアメリカなどの後塵を拝している
 4 企業は需要不足で投資せず国債など購入している

 昭和恐慌時と大きく異なるのは現在わが国は19世紀後半のイギリスと同じく過去の蓄積による債権大国であることである。
 このため危機意識も乏しくデフレも長期化している。19世紀後半のイギリスは1873年から1896年まで約四半世紀デフレが続いた。その後も長期停滞が続きようやく回復に向かったのは1979年サッチャー首相登場からであった。
 過去の蓄積が変化への対応を遅らせた。わが国が今後ともイギリスの轍を踏むか否かは政策次第であるが現実をみれば楽観的にはなれない。
 なぜそうなのかどこに問題があるのか。本件については物事の表面だけを見ていても何も分からない。原因は背後に隠されている。

2017年12月11日月曜日

デフレの怖さ 5

 当時の経済学の主流は古典派経済学の「自由放任主義」であった。
 そのため世界恐慌も一時的な反動であり下手に公債を発行すればインフレを誘発するから成りゆきにまかせるべきという思想が支配的であった。
 秀才の誉れ高い井上蔵相は模範解答よろしくこれを忠実に実行した。不運なことに第一次世界大戦後、金本位制が行き詰まり世界恐慌がこれに追い討ちをかけた。それにもかかわらずこの現実を正しく認識せず金解禁に踏み切り、その結果大量の金流出と物価下落を招き「嵐に向かって窓を開けた」と言われた。
 緊縮政策に耐えればいずれ景気が上向くだろうとの予想に反し不況は益々深刻の度を増し農村や中小企業の疲弊は極度に達した。農家は借金地獄に陥り、街には失業者があふれた
 政府の指導もこれあり国民はこぞって倹約に努めたが景気は一向によくならない。政治家も役人も学者もみんな首を傾げた。どうしてなのか理由がさっぱり分からない。万事休し途方に暮れた。

 だが歴史上にっちもさっちもいかなくなると時として白馬の救世主が現れることがある。
 高橋是清その容貌から「ダルマさん」と親しみをもって呼ばれたこの人物がその役割を担って現れた、というより請われて現れた。
 困ったときの「ダルマさん」頼みで、当時度目の蔵相就任である。生涯では6度就任している。
 彼は経済理論より現実の産業の発展、国民生活の向上を最優先した。
 蔵相就任後ただちに金輸出禁止、兌換停止(紙幣と金の交換停止)を実行した。さらにそれまでの緊縮政策をかなぐり捨てリフレーション政策に切り替えた。

 「昭和7年夏の臨時議会で、一挙に財政支出の増額に踏み切った。
 満州事変の影響のもとで軍事費は昭和6年の8700万円から2億5000万円にふくれ上がり、血盟団事件や5.15事件の底流にあった農山漁村の救済のために予算は一挙に膨張して、昭和6年の14億9000万円から19億5000万円になった。
 その膨張はすべて公債の発行によってまかなわれねばならなかった。その公債のすべてを、いったん日本銀行が引き受けて、金融市場の余裕のある時期に、民間に売りわたす、日銀引受発行である。
 これは当時欠乏しきっていた資金を民間に流し、政府の必要とする財源を確保し、市中金利を引き下げるという『一石三鳥の妙手』(深井英五)であった。」
(中村隆英著講談社学術文庫『昭和恐慌と経済政策』)

 財政拡大、金融緩和、金輸出禁止、為替レート安定、これら一連の施策により日本経済は息絶え絶えの状態から輸出ならびに国内景気が回復し他国に先駆けデフレ脱出に成功した。
 高橋是清は随想禄でこう述べている。

 「緊縮という問題を論ずるに当たっては、まず国の経済と個人経済との区別を明らかにせねばならぬ。
 例えばここに一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円をもって生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行って誠に結構な事であるが、これを国の経済の上から見る時は、その倹約によって、これまでその人が消費しておった二万円だけは、どこかに物資の需要が減る訳であって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。
 故に国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕ある人には、それだけの生活をしてもらった方がよいのである。
 さらに一層砕けて言うならば、仮にある人が待合行って、芸者を招んだり、ぜいたくな料理を食べたりして二千円を消費したとする。
 これは風紀道徳の上からいえば、そうした使い方をしてもらいたくは無いけれども、仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散らばって行くかというのに、料理代となった部分は料理人等の給料の一部分となり、又料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれ等の運搬費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。
 この分は、すなわちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。
 しかしてこれ等の代金を受け取りたる農業者や、漁業者、商人等は、それをもって各自の衣食住その他の費用に充てる。
 それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。
 すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、この人個人にとりては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるあろうが、その金の効果は二千円を出でない。
 しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く」(鈴木隆著文藝新書『高橋是清と井上準之助』)

 デフレ時の緊縮財政は禁断の政策である。この昭和恐慌が残した教訓を無にするほどわれわれは愚かであるとは思いたくない。さて現実はどうか。

2017年12月4日月曜日

デフレの怖さ 4

 昭和恐慌で最も被害を蒙ったのは農業であった。生糸の最大の輸出先アメリカの不況で価格は暴落し、輸出は激減した。これにより養蚕農家は壊滅的な打撃を受けた。都市近郊農家は不況で野菜価格が暴落し収入の途を絶たれた。
 物の値段は安くなるがそれにもまして収入が減る。失業者も続出し惨状は目を覆うばかりとなった。デフレスパイラルは経済的弱者を容赦なく叩きのめした。

 「土木事業や、日雇いなど副業収入が減少した。紡績や製糸の不況のために、娘の工場への出稼ぎもできなくなった。そのために農家は赤字になるものが多く、負債も激増していったのである。
 昭和4年現在についての調査によると、一戸当たりほぼ800~900円の負債があったといわれており、そのかなりの部分が頼母子講や高利貸しからの借金である。
 借金に苦しみぬいた農家は娘を遊里に身売りーーー数百円の前借金で年季奉公させるほどの苦境に追い込まれるものも多かった。
 それとともに弁当をもたない学童や、長期欠席の児童など、農家の窮乏はまことに激しかった。
 小学校の教員は町や村の雇用者であり、その俸給の源泉は地方税である。農家の収入源のために地方税の滞納が続出した結果、教員の俸給が不払いになった所や、教員の減俸を決議した所も続出するありさまであった。」
(中村隆英著講談社学術文庫『昭和恐慌と経済政策』)

 日本史に残るクーデター未遂・2.26事件はこのような社会環境下で発生した。
 「娘の身売りに代表されるような農村の窮乏は当然全社会的な反響を呼び起こした。
 昭和6年の三月事件に始まる青年将校のクーデター参加も、農村出身の新兵を教育するうちに、その出身家庭の窮状を聞いてこれに同情し、またこのままでは後顧の憂いが大きすぎて強い軍隊はできぬという素朴な正義感に発するものが多かった。」(前掲書)

 このような酷いデフレの原因はアメリカ大恐慌の影響のほかに当時のわが国の経済政策に起因している。
 浜口首相・井上蔵相体制下で執られたデフレ政策である。
このデフレ政策とは、一言でいえば緊縮財政である。その骨子は
① 第一次世界大戦以来財政は赤字続きゆえ政府も企業も家計も収入に見合った支出にしなければならない。
② さらに金輸出を禁止しているため為替が低下しているので金解禁して為替を上げなければならないがそのための準備として政府は財政を緊縮し、国民は消費を節約しなければならない。
③ かかる準備をして金解禁すれば通貨も物価もうまく調節される。

 金解禁についてその正当性を理路整然と述べている

 「日本が外国から物を沢山買いますと、その支払のために金貨が外国に流れ出て国内の金が減り、金利が高くなり物価が下落します。従て輸入は減ります。
 其の結果は金が外国に出ることは止まり、場合によっては外国から金が入ってきます。
 斯ういうようにして通貨、物価の天然自然の調節が行われるのであります。」
(井上準之助著千倉書房版『国民経済の立て直しと金解禁』)

 浜口・井上内閣は1929年のアメリカの不況はやがて治まるだろう、そして緊縮財政を堅持すればいずれ景気も持ち直すと予想していた。
 だが予想に反しアメリカの不況は世界を巻き込む大恐慌へと発展し、不運にもわが国の緊縮財政と重なり未曾有のデフレ不況となった。
 井上蔵相は、政府も企業も国民も一致団結して節約すれば景気が良くなるだろうと信じた。緊縮財政によって経済を鍛えれば合理化が推進され景気が回復するという信念のもとに執られた政策である。
 世界大恐慌と緊縮財政、この重なりが昭和恐慌というまれに見る悲劇をもたらした。
 ではその結末は、善後策はいかに講じられたか。

2017年11月27日月曜日

デフレの怖さ 3

 小幡氏の円高を容認し政府はなにもしないことこそ成長戦略だというのは一つの見識かもしれないがデフレ礼賛は違う。
 過去の深刻なデフレの悲惨はインフレの比ではない。
 長引くデフレに対し日銀は2%の物価上昇目標を掲げデフレ対策を行ってきた。
 2013年3月以降デフレは貨幣現象という岩田副総裁の見解もあってか日銀執行部は異次元といわれる金融緩和策を継続して実施してきた。
 ところが4年を経過した今なおデフレ脱却とはいい難い。デフレという病に対し金融緩和が想定されていたような効果を発揮していない。

 データがそれを示している。

① 消費者物価指数
詳細データ(エクセルファイル)を開く
② きまって支給する給与(前年比)
   平成27年     +0.2%
   平成28年     +0.2% 
   平成29年1月~8月   +0.3%
            出典 厚生労働省 毎月勤労統計調査

 日本は敗戦後酷いインフレの経験から経済政策はいかにインフレを抑制するかが課題とされてきた。
 政府や日銀は経済成長を掲げる一方インフレを未然に防ぐことを忘れなかった。
 景気過熱と見るや拙速かつ過激な金融引き締めでたびたび景気の腰を折ってきた。
 20年にも及ぶデフレにもかかわらず的確なデフレ対策が行われてこなかったのはこのことが原因の一つになっていたかもしれない。
 これほど長い期間のデフレは戦後はじめての経験であるがこれ以外にわが国は明治以降2度デフレを経験している。松方デフレと昭和恐慌である。
 松方デフレは、1880年代に西南戦争による戦費調達で生じたインフレ解消のための行き過ぎたデフレ誘導財政策の帰結あり、昭和恐慌は1929年のアメリカの大恐慌の影響と第一次世界大戦の戦勝景気のバブル崩壊が重なり対策のために採られた金本位制の緊縮財政が裏目に出た深刻なデフレ不況であった。
 なお海外においては1873年から1896年まで長期にわたる当時の覇権国イギリスを悩ませたデフレがある。

 デフレに陥った原因とその対策に関連してわが国で最も深刻なデフレ不況であった昭和恐慌を生きた事例として現下のデフレ対策のヒントとして探ってみたい。

2017年11月20日月曜日

デフレの怖さ 2

 デフレはインフレの対語である。インフレが強者の敵とすればデフレは弱者の敵である。
 どちらも敵には違いないがハイパーインフレを除けばデフレはインフレより怖い。
 インフレは富裕層に損をさせるがデフレは物価が下がる以上に所得が下がり経済的弱者に損をさせるのでデフレのほうがより一層経済に与えるダメージが大きい。
 かかる見方が一般的であるが反対もある。

 経済政策によって円安とインフレを起こすことは百害あって一利なし。円高・デフレの成熟した社会こそ理想である。こう主張するのは経済学者の小幡績氏である。
 小幡氏は、日本経済が停滞している原因についてこう言う。

 「多くの人が陥っている誤りを正すと次のようになる。
 第一に日本経済は需要不足ではなく、供給力不足である。
 第二に、供給力不足と言っても、単純に移民や女性投入(女性活用という言葉を、輝ける女性に代えたところで、彼らの狙いは労働力の頭数を増やすことに変わりはない)などで労働力増やすことや単に設備投資をすることによっては解決できず、質の高い労働力とニーズに合った実物資本。そして、将来にわたってニーズをつかみ続けるような柔軟な研究開発能力が必要だ。
 第三に、消費を無理に増やすことは、百害あって一利なしである。需要が足りているなかでは、単なる無駄なインフレが起きるだけであり、景気の過熱はロスとなる。
 さらに、消費を増やすということは貯蓄を減らすことであり、貯蓄が減るということは、貯蓄が元になる、つまり貯蓄の裏返しである投資が減るということであり、投資が減るということは、日本経済の将来への生産力、供給力が落ちることである。
 そして、これこそ、日本経済が陥っている成長力不足をさらに深刻化させた原因である。」

 この誤りを正すにはどうしたらいいか。

 「まず、景気対策を止める。公共事業はもちろん止める。歳出削減をさらに進める。社会保障も削減する。
 その代わり、現状の社会保障を維持するなら30%以上とも言われている消費税率の引き上げを15%までに抑える。歳出を削減し、歳入もそれに見合ったものにする。
 小さな政府というよりは、『効率的な政府』を目指す。これが、最大の成長戦略であり、日本の成長力は上がる。
 なぜ成長力が上がるのか? 国債市場を縮小することになるからである。これが成長には重要だ。つまり、過去15年の政府債務の急増によって、民間にあふれる資金が政府部門という成長を生み出さないところに吸収されてしまい、いわばブラックホールに吸い込まれたように、資金が成長にまったく貢献しなくなっていたことが、成長率が低下していた根本原因だからである。
 政府は成長戦略ができない。これは現政権だけでなく、今まで誰もできなかった。政府にはできないのである。だから、資金を民間セクターに取り戻す。これが最大の成長戦略だ」(小幡績著ディスカヴァー携書『円高・デフレが日本を救う』)

 小幡氏はまた、円安は日本経済にマイナスの影響をもたらすという。
 「大企業が輸出で儲け、富裕層が株で儲け、低所得者がガソリン、食料の必需品の値上がりで苦しみ、中小企業の大半が内需企業で、原材料費や光熱費などにおいて円安による輸入品コスト上昇で苦しくなった。しかし、この格差が問題なのではなく、経済全体トータルで損をしていることが問題なのである。」
 そして円高の利点については
 「円の価値を維持し、高める。これにより、世界の資産、財を安く手に入れる。円高を背景に、世界中の企業を賢く買収し、世界に生産拠点、開発拠点、さらには研究拠点のポートフォリオを確立し、それを有機的に統合する。
 すでに大企業ではこれを行っているが、中堅企業を含めて、この大きなグローバルポートフォリオに参加する。」(前掲書)

 デフレを礼賛し、円高を歓迎する。
 日本経済の低迷は、需要不足ではなく供給不足である。かりに需要不足に陥れば市場を世界に求めればいい。そのためには価格競争力がなくてはならない。
 円安はそれにもとる。円安は経済格差が問題ではなく競争力を阻害するから問題なのである。
 小幡氏のこのような主張はグローバル市場経済で生き残りを図る多国籍企業やヘッジファンドのそれと重なる。
 政府の干渉を極力少なくするという新自由主義者のそれに限りなく近い。
 彼の目指す成熟社会はもちろん日本国を意味しているのだろう。だがその成熟社会なるものは意図に反して一部のグローバル企業家を利する社会となろう。
 彼は政府に歳出削減と増税をすすめ成長戦略は民間に任せるという。
 3%から5%、5%から8%へと消費税増税のたびに消費が極端に落ち込んだがこれをさらに15%に増税すればどういうことになるか。
 また国民が消費をひかえ貯蓄すればそれが将来投資として生きその投資が成長を促進する。経済は、個人の総和であるから国民一人ひとりの節約が将来の投資になり経済成長へとつながるという。
 マクロ経済学が教える「合成の誤謬」を地でいくような言葉である。支離滅裂としか言いようがない。
 彼の主張を実行すれば大多数の日本国民は貧困化し塗炭の苦しみを味わうこと請け合いである。

2017年11月13日月曜日

デフレの怖さ 1

 デフレになれば貨幣価値が上がるので人びとは消費から貯蓄へと貨幣選好になる。
 インフレ時は物価が上がるので欲しいものがあればすぐ買いたいと思うが、デフレ時にはその逆で欲しいものがあってもいずれ安く買えるという心理が働く。
 デフレ時には企業は投資しなくなる。投資の原資はたいてい借り入れによっているが1990年代初めのバブル崩壊後企業は借金の返済に苦しんだので安易に借金をしようとしない。
 儲からなければ借金して投資などしないし、儲けるものがなければ借金を返済し設備投資を減らし事業を縮小する。資金に余裕があれば将来に備えてひたすら剰余金を積み増す。企業として極めて合理的な行動である。

 個人は消費しない、企業は投資しない、政府も税収減で緊縮財政政策を採用する。このように個人も企業も政府もデフレから身を守る。
 その結果どういうことになったか。1929年アメリカは大恐慌に襲われた。その影響は日本にもおよび翌年から翌々年にかけて第一次世界大戦による好景気のバブル崩壊と重なり深刻なデフレ不況に陥った。

 ところがデフレになれば物が安く買えるので歓迎だなどという見方もある。デフレが日本を救うという見方さえある。 驚くことにデフレ時にこそ緊縮財政政策でがんばらなければならないと信念をもって主張する人もいる。しかもそれが国内だけではない。
 EUの盟主ドイツのメルケル首相は筋金入りの緊縮財政派であるようだ。
 リーマン・ブラザーズ破綻時に倹約に戻ることをすすめ
 「なぜ窮状になったか理由を知りたければシュヴァーベン地方の主婦(質素倹約で知られる)に聞くがいい」
といった。
 インフレ時にはシェアリングや助け合い精神が生まれるようにデフレ時にも緊縮財政で人心を引き締めるチャンスの効用があるということか。

 デフレ対策は諸説入り乱れ議論が二分している。なにが正しくなにが正しくないのか。賛否それぞれの論拠・妥当性について考えてみたい。

2017年11月6日月曜日

多勢に無勢

 われわれは、はっきりと確信がもてることについては人に何と言われようと平気だが、確信が持てないことについて反対されると動揺する。
 古代ギリシャの哲学者エピクテトスは問うている。

 「われわれは人に頭が痛いでしょうと言われても怒らないのに、われわれが推理を誤っているとか、選択を誤っていると言われると怒るのは、なぜだろうか」 

 これに対するパスカルの答え。

 「われわれは、頭が痛くはないということや、びっこでないということは確信しているが、われわれが真なるものを選んでいるということについては、それと同じ程度の確信は持てない。
 したがって、そのことについての確信は、われわれがそれをわれわれの全力で見ているという以外に根拠がないのであるから、他の人がその全力で正反対のことを見るならば、われわれは宙に迷わされ、困惑させられる。
 まして千人もの人たちがわれわれの選択をあざける場合は、なおさらのことである。
 なぜなら、こうなるとわれわれは、われわれの理性の光のほうを、かくも多くの人たちの光よりも優先しなければならないことになるが、それは大胆で困難なことであるからである。
 びっこに関する感覚については、このような矛盾が決してない。」
(中央公論社『パスカル』パンセ前田陽一/由木康訳)

 政治や経済政策の実証は容易ではない。政策が妥当であったかどうかは結果を見なければ分からずそれには一定の年月を要する。

 結果が出るまではいずれの政策も仮説である。いかに信念に基づく政策であっても反対が多ければそれを説得するのは ”大胆で困難な” ことである。

 いまわが国では消費税増税と緊縮財政が重要案件で国論が二分している。
 メディアによればこれら政策を推進する勢力が多数派であり、これに異をとなえるのは少数派である。ここでいう多数とか少数は人数ではなく力関係である。
 推進派の中心とみられているのは実質的に国の徴税と予算配分の権利を壟断している財務省である。
 平成26年5月に発足した内閣人事局に審議官級以上の人事が一元化されたがいまのところ財務省の権力構図にそれ以前と特段変わった様子はない。
 一方反対派の中心は一部国内のエコノミストとコロンビア大学のノーベル経済学賞受賞者スティグリッツ教授などである。
 反対派は、平成9年の橋本内閣による消費税増税以降失われた20年はこの消費税増税と緊縮財政が主原因であると主張する。
 現に消費税が増税される度に(平成9年3%→5%、平成26年5%→8%税収トータルが落ち込み、持続的な緊縮財政により日銀の異次元金融緩和にもかかわらずデフレの進行に歯止めがかかっていないという。
 だがこの声は多勢に無勢でかき消されてしまっている。

 実証困難とはいえここ20数年の結果から判断すれば反対派の主張に理がある。
 にもかかわらず彼らの主張が通らず政策に反映されていない。このままでは消費税増税と緊縮財政政策により日本経済は縮小均衡化の途を辿るだろう。近い将来事態が深刻化し一時的な巻き戻しがあるにしても遅きに失すればわが国は先進国から脱落するという誰も想像しないようなことが起こるかもしれない。デフレとはそれほど重篤な病である。

「OECD  GDP推移 過去20年」の画像検索結果
                  出典:OECD

 このグラフは過去20年間のわが国とG7のGDP推移である。
 平成26年 日本はG7の6位、OECD諸国35カ国中20位、世界では27位である。
 この傾向が今後も続くと想像すれば誰しも慄然とするだろう。

2017年10月30日月曜日

専門家の時代

 現代は専門家がもてはやされる。特定の分野に秀でた人はメディアにとっては貴重なタレントである。
 彼らは自分の専門はいうにおよばず専門外のことについても独自理論で批評する。
 高い専門性を身につけた人や一芸に秀でた人の意見は貴重である。
 が、このように専門家がもてはやされるのは21世紀特有のことかもしれない。以前はそうではなかったようだ。
 20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセは、専門家をエリートの対極においた。
 中でも科学者は善悪の価値判断を重視せずに時にパトロンの目的・意向に盲目的に従って、客観的な知識・技術だけ上させようとすると酷評している。
 さらに遡って17世紀フランスのブレーズ・パスカルは、すべてを少しずつと題しこれを推奨している。

 「人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。
 なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。
 もしも両方を兼ね備えられるならばもっとよいが、もしもどちらかを選ばなければならないのだったら、このほうを選ぶべきである。
 世間は、それを知っており、それを行っている。」
(中央公論社『パスカル』前田陽一/由木康訳)

 このようにオルテガやパスカルは専門家を必ずしも評価していない。だが現代の科学技術の発展は専門家なしでは語れない。
 それでは科学技術にとってオルテガやパスカルは無益なことをいったのだろうか。
 よくみればそうではないことがわかる。日進月歩の技術の進歩には専門家は不可欠であるが、科学の飛躍的発展は単なる専門家にはできないという。
 専門性のほかに深い教養に裏打ちされた能力が要求されるとオルテガはいう。
 科学技術分野においても哲学その他の素養があってはじめて精神の飛躍が期待できる。アインシュタインが哲学者のカントやマッハに傾倒したことはよく知られているという。
 パスカルは普遍性こそ美しいといっているがそれは精神的ないいであろう。
 専門バカということばがある。自分の専門以外一切興味をもたないことの戒めであろうか。
 われわれはある特定の分野で成功した人を尊敬する。だがその尊敬は彼が成功したその分野においてであってそれ以外ではない。このことをわきまえないと当人も周囲も困惑するばかりである。
 われわれは骨折したら整形外科に行く。間違っても精神科などにはいかない。ところが政治や経済のことになるとわれわれは平気で門外漢に委託する。

2017年10月23日月曜日

エリートと大衆 3

 大衆の力が増し、優れた少数者を排除する社会とはいかなる社会か。それは他者への共存、隣人を尊敬する自由主義的デモクラシーを破壊する社会である。
 自由主義的デモクラシー社会においては国家権力は強大であるにもかかわらずその行使を制限し、多数と異な少数の人々が生きていけるよう配慮する。この寛容さこそが自由主義である。オルテガは自由主義を絶賛する。

 「自由主義とは至上の寛容さなのである。われわれはこのことを特に今日忘れてはならない。
 それは、多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かって地球上できかれた最も気高い叫びなのである。 自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。
 人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。
 したがって、その同じ人類がたちまちそれを廃棄しようと決心したとしても別に驚くにはあたらない。自由主義を実際に行なうことはあまりにもむずかしく複雑なので、地上にしっかり根を下ろしえないのである。」
(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)

 1920年代欧州ではファシズムとボルシェヴィズム運動が台頭していた。オルテガはこの風潮を深く懸念した。
 歴史が示すように彼の懸念は不幸にも現実となり人類は第二次世界大戦に突入した。
 少数者に耳をかさない大衆の暴力が悲劇をもたらした典型的な例である。なぜ少数者を排除する風潮がうまれたのか。

 煩瑣な手続き、規則、長引く裁判、調停、正義等々自由主義はむずかしい。
 これらは洗練されてはいるが複雑である。野蛮な直接行動と相容れない。だがそれは文明の特徴でもある。
 人と共存すること、自分以外の人へ意を用いることが文明の基礎でありこれを欠いた社会は未開であり野蛮である。

 つぎになぜ人への配慮を欠く社会が生まれるかが問題である。
 「良家の御曹子」ということばには、世間知らず、わがまま、過保護など否定的なイメージがつきまとう。自分の特権をあたかも空気のように自然物と錯覚し独善的となり自分以外の人へ意をつくすことがない。
 甘やかされて育ったため家庭内のわがままが外でも通用すると考える。
 彼がやれることといえばなにか。ただ一つ遺産相続するだけである。それを遺した先祖の努力に思いをはせることもなく当然の権利として受け取るだけである。
 今日われわれはちょっとまえまでは考えられないような便利な快適な生活環境にあり、それを当然のごとく受け止め利用している。
 だがわれわれはこの便利な生活空間の仕組み、メカニズムを殆んど知らない。
 ましてこのような仕組みの背後にあるごく少数の優秀な人の努力に思いはせることがない。
 あたかも良家の御曹子が当然のごとく遺産を相続し先祖の苦悩に思いはせないように。

 19世紀は技術の進歩などによりそれ以前と比し快適な豊かな社会となった。
 19世紀の大衆は文明の便益を相続した。技術の進歩による快適、贅沢、安全性など豊かな生活空間を相続した。
 大衆は文明の成果を受け取るだけである。それを創りだしたわけではない。創造したのは少数者である。
 良家の御曹子が遺産を相続するように19世紀の大衆は文明の便益という遺産を相続した。
 自ら創造せずただ与えられただけの快適な環境におかれた大衆は自らを錯覚する。それらは少数者の成果であるがそれに敬意を表することもしない。
 文明の便益を当然のごとく受け取り他者へ配慮することもない。それどころか慢心した大衆は優秀な少数者を自分たちと異なるという理由でこれを排除する。大衆の暴力であり大衆の反逆である。

 オルテガはその病根の深さをこう表現している。

 「こうしたタイプの人間が、便益のみで危険はまったく目につかないような、あまりにも立派に組織された世界に生れ落ちた場合、別の態度をとれといっても無理なのだ。
 環境が彼を甘やかしてしまうのである。なぜならば、環境は『文明』---つまり、一つの家庭---だからである。
 そして『良家の御曹子』は、自分の気儘な性質を捨て、自分よりも優れた外部の審判に耳を傾ける必要性を感じないし、自分自身の運命の非情な根底に自ら触れる義務などなおさらのことに感じもしないからである。」(前掲書)

 衆議院選挙は与党の勝利で終わった。希望の党の小池百合子代表は出張先のパリで「『非常に厳しい結果だ』『自分に慢心があった』と顔をこわばらせた」(パリ=大泉晋之助) 彼女は真摯に反省しているようだ。
 だが「慢心」とは何のことか、いつの時代においても大衆がこれを理解することはないであろう

2017年10月16日月曜日

エリートと大衆 2

 大衆は自分を疑わない。自分を極めて分別に富む人間だと考えている。
 大衆は経験や習慣的考えにもとづく信念や主義主張をもっている。このため自分と異なる意見に対しては相手が間違っていると考える。
 だが自分の限られた経験にもとずく思想は真の思想とはいえない。その理由をオルテガはこう説明する。

 「平均人の『思想』は真の思想ではなく、またそれを所有することが教養でもない。
 思想とは真理に対する王手である。思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。
 思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。」(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)


 オルテガは大衆を量的ではなく人間学的な概念で定義する。

 「厳密にいえば、大衆とは、心理的事実として定義しうるものであり、個々人が集団となって現れるのを待つ必要はないのである。
 われわれは一人の人間を前にして、彼が大衆であるか否かを識別することができる。
 大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感じることに喜びを見出しているすべての人のことである。」(前掲書)

 この定義にしたがえば「大衆」は上流階級にも下流階級にもいるし、労働者にも学者・知識人にも広く存在する。
 大衆は自分自身には何も果さず現在あるがままのものに満足する。自分と違う考えをする人を排除しようとする。
 それゆえ理想を求めて「自分自身となるための闘い」をする人の足を引っ張る。
 他の人々と同一であるとは、万人に共通・平均的であることを意味しそれは量的ではなく質的な概念である。
 他と同一でありたいと願う人はあえて自分に対して特別な要求を果すことなく既存の生の瞬間的連続の生き方に喜びを見出す。
 シンガーソングライター吉田拓郎の「今日までそして明日から」はこの大衆の心理をうまく代弁している。

  わたしは今日まで生きてみました
  そして今わたしは思っています
  明日からもこうして生きていくだろうと

 「大衆には、生まれながらにして、それが事象であろうと人間であろうと、とにかく彼らの彼方にあるものに注目するという機能が欠けているのである。」
 「風のまにまに漂う浮標のような」(前掲書)生き方は心地いい。
 あえて自己完成をめざして努力をする少数者はこの心地よさを乱すので尊敬の対象などではなくむしろ排除の対象となる。

 大衆と少数者の力学のバランスが適正に保たれていれば社会は健全であるが、これが崩れると社会は堕落し危機が訪れる。
 不幸にもそうなる社会とはどんな姿か、なぜそうなるのか。

2017年10月9日月曜日

エリートと大衆  1

 20世紀スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセは名著『大衆の反逆』でエリートと大衆について「高貴な生と凡俗な生」と対比し論考している。
 わが国の衆議院解散・選挙を機にこのテーマについて考えて見たい。
 エリートは「選良」と訳されるが、いまやこの漢字は死語に近いほど使われていない。選良は代議士の代名詞でもある。この漢字と人びとがもつ代議士に対する負のイメージが重なりエリートの訳語として使うには違和感があるのかもしれない。
 国会議員の25%、大臣はなんと60%以上、この数字はわが国の世襲議員の割合(9/28衆議院解散前)である。
 そうでない人に比べて政界進出が容易でかつ上にいけばいくほど有利になりその割合が増える世襲議員、この人たちを選良と呼ぶには抵抗があるのだろう。
 1960年から2005年にわたる調査の結果、世襲議員の割合は1960年の約3%から1993年の30%のピークに達するまで一貫して増加し、その後25%強と安定している。
(論文『世襲議員の実証分析』グラフから 筆者 飯田健・上田路子・松林哲也)
 このことは戦後の混乱期を経て世の中が安定するに従って世襲議員が増加したことを意味している。

 政治家に限らず世襲にも功罪があるだろうが、オルテガは世襲に対して厳しい。

 「彼は生まれた時に、突如、しかも、そしてそれがいかにしてかは知らないまま、富と特権を有している自分を見出す。
 これら富と特権は、彼自身に由来するのではないから、彼は内的にはそれらと何の関係もない。
 いうなれば、それらは、他人、他の生物、つまり、彼の先祖が残した巨大な殻なのである。
 そして彼は遺産相続者として生きなければならない。つまり、他の生が用いた殻を身につけなければならないのである。
 さて、どういうことになるのであろうか。『世襲貴族』が生きる生は自己の生であろうか。それとも初代の偉大なる人物の生であろうか。
 実はそのいずれでもないのである。彼は他人を演じるよう運命づけられているのだ。つまり、他人でも自分自身でもないように運命づけられているのである。
 彼の生は、容赦なく。その真正性を失い、他の生の単なる代理もしくは見せかけに変質してしまう。
 彼が用いなければならないように義務づけれれている手段があまりにも多いため、彼は自分自身の個人的な運命を生きる余地がなく、彼の生は萎縮させられてしまうのである。
 生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力である。」
(オルテガ・イ・ガセ著神吉敬三訳ちくま学芸文庫『大衆の反逆』)

 オルテガは、生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力であると規定し暗に世襲者にはこの努力が欠けているという。
 自己自身たるための戦いとは、自分自身との不一致、今の自分は本来の自分ではないという不一致感。この不一致感を埋めるために絶えざる努力をすること、それが高貴な生である。オルテガは敷衍して言う。

 「自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。
 たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより過酷な規範を発明するのである。
 これが規律ある生---高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige)」(前掲書)

 社会の方向性を担うエリートはあらゆる可能性の中から決断を積み重ねなければならない。決断にあたっては迷い、恐れがなければならないとも言っている。

 「生の現実を直視し、生のすべてが問題であることを認め、自分が迷える者であることを自覚するのである。
 これこそ真理なのであるから---つまり、生きるということは自己が迷える者であることを自覚することなのであるから---その真理を認めた者はすでに自己を見出し始めているのであり、自己の真実を発見し始めているのである。彼はすでに確固たる基盤に立っているのだ。」(前掲書)

 このように迷いながらも絶えざる努力をぜずにはいられないのがエリートであり、その区分は社会階級などではなく人間の質である。
 エリートは高い規範のために自ら進んで困難と義務を背負い込むことをいとわない性格である。
 このように厳しい規律を自らに果すことができる人間であれば職業や社会の上層・下層を問わずエリートと呼ぶことができる。

 社会の原動力はこれら少数のエリートによる支配とそれに従順な大衆の相互行為から成り立っている。エリートの支配が弱まればそれに応じて大衆の力が増す。
 それではエリートの反対の大衆とはどういう人なのか。

2017年10月2日月曜日

カタルーニャの独立志向

 スペインのカタルーニャにおける独立を問う投票で圧倒的多数の賛成票が投じられた。
 「スペイン北東部カタルーニャ自治州政府は、1日に実施した自治州の分離独立を問う住民投票で226万人が投票し、90%が独立に賛成したと明らかにした。投票率は自治州の有権者数534万人に対し約42.3%。」(マドリード 2日 ロイター) 
 この結果を中央政府は認めていないので実効性あるものになるかどうか予断を許さない。
 スペインのバスクとカタルーニャはそれぞれ独自の文化と言語をもつ。
 1939年スペイン内戦後、独裁者となったフランコ将軍は内戦時の敵対勢力の中でも特に独立志向の強いこの2州に対しては他より強く弾圧した。独自言語を公用語として使用禁止にするなどはその一例である。
 昨日の投票結果は中央政府への反発とカタルーニャ民族主義に起因すると言われる。
 だがそれに劣らずカタルーニャがスペインGDPの2割を占める経済の中心になっているにもかかわらずその恩恵を十分受けられない不満が原因であるとも言われている。自州の富が貧しい州に使われているという不満である。 
 スペインからの独立はカタルーニャの念願である。安全保障など問題はあるもののまずは独立を優先する気風がありなにかのキッカケで今回のような独立運動が行われてきた。
 欧州にはスペイン以外にもイギリスのスコットランド、ベルギーのフランドルなど独立志向が強い地方がある。
 翻ってわが国はどうか。東京都の小池百合子知事が立ち上げた「希望の党」への民進党の突然の合流は政党の常識から信じられない行動である。
 政党とは基本部分の主義主張を同じくするものの集団であるはずである。もっとも民進党はそれが右も左も揃えたデパートのような政党であり、解党して出直したほうがよいと言われてきた。
 ところが今回の騒動で当の民進党はそのような批判など意に介しないように当然のごとく党まるごとの合流を望んだ。 兄弟の主義主張が違っても同じ家族じゃないかというノリなのだろうか。さすがにまるごと合流は実現しないようだがいかにも日本的なドタバタ劇である。
 独自の文化と言語をもつ独立志向のカタルーニャ、一方なりふり構わず合流へと雪崩をうつわが国の野党第一党。お国柄とはいえこの隔たりは大きい。

2017年9月25日月曜日

詭弁を弄する 3

 財務省のホームページに「日本の財政を考える」という動画がある。
 国の財政を家計に例えると、借金はいくら?
というタイトルで分かりやすく説明している。

 「日本の財政を月々の家計に例えてみます。仮に、月収50万円の家計に例えると、月収は50万円ですが、ひと月の生活費として、80万円を使っていることになります。
 そこで、不足分の30万円を、借金で補い家計を成り立たせています。こうした借金が累積して、8400万円のローン残高を抱えていることになります。」

 この説明には次のことが隠されている。
① 国の財政を家計に喩えて分かりやすい。だが比喩は適切なものもあれば不適切なものもあり論理の替わりにはならない。
 国と家計は異なる。国は徴税できるが家計には出来ない。国は通貨を発行できるが家計にはできない。
 この違いを無視しているのでこの比喩は適切でない。
② 借金についてのみ説明し資産については説明していない。
 国には資産があるのだから家計の資産にも言及すべきにもかかわらずそうしていない。
③ 国の借金の貸し手について語っていない。
 貸し手は90%以上日本国内の法人・個人であり、発行は100%円建てである。政府には通貨発行権があるので返済が滞ることはない。

 また同ホームページの動画には、国の借金の残高はどれくらい?
というグラフ付の説明がある。

 「日本の公債残高は、年々、増加の一途をたどっています。
 平成29年度末の公債残高は865兆円に上ると見込まれていますが、これは税収の約15年分に相当します。
 つまり将来世代に、大きな負担を残すことになります。
 また債務残高の対GDP比を見ると、90年代後半に財政健全化を進めた先進国と比較して、日本は急速に悪化しており、最悪の水準になっています。」

 税収の約15年分相当の公債残高があり、将来世代に、大きな負担を残すという。
 いわゆる老年世代の食い逃げ論、ツケを後にまわす無責任論である。この説明の通りであれば現世代は非難されてしかるべきである
 だがこの政府債務の将来世代負担論については、アメリカの経済学者 アバ・ラーナーのよく知られた反論がある、と専修大学の野口旭教授は言う。
 その反論の主旨は、国債が海外において消化される場合には、その負担は将来世代に転嫁されるが、国債が国内で消化される場合には、負担の将来世代への転嫁は存在しないということである。

 「ラーナーによれば、租税の徴収と国債の償還が一国内で完結している場合には、それは単に国内での所得移転にすぎない。
 ラーナーはそれについて、以下のように述べている。
 『もしわれわれの子供たちや孫たちが政府債務の返済をしなければならないとしても、その支払いを受けるのは子供たちや孫たちであって、それ以外の誰でもない。
 彼らをすべてひとまとまりにして考えた場合には、彼らは国債の償還によってより豊かになっているわけでもなければ、債務の支払いによってより貧しくなっているわけでもないのである』」

 「ラーナーの議論の最も重要なポイントは、将来の世代の経済厚生にとって重要なのは、将来において十分な生産と所得が存在することであり、政府債務の多寡ではない』という点にある。」
野口旭投稿2017.7.20Newsweekコラム『ケイザイを読み解く』)


 なお、2016年の債務残高の対GDP比が、日本は232.4%、ギリシャは200%である。
 財政破綻のおそれありと騒がれたあのギリシャが日本よりも低い。
 財政健全化とは債務残高対GDP比の安定的な引き下げであることが国際的にも認知されている。
 ただ国債の買い手(国内か否か)と通貨の種類(自国通貨か否か)が、債務残高対GDP比よりも重要であることは上のラーナーの議論から当然の帰結であり、ギリシャの債務危機でも実証されたことである。

 なぜ財政がいまにも破綻するおそれありなどとすぐにでも見破られる論法がまかり通るのか。
 かって民主党政権時代に財務大臣も経験した菅直人首相が日本国債の格付け引き下げについて問われ「そういうことに疎いので」と答えたので国民は唖然とした。
 官僚も好きこのんで財政危機をあおる脅しともとれる言い方をしないだろう、政治家や国民を挙げて財政に疎い羊の群れと思いさえしなければ。
 増税必要論はこのような詭弁を弄さないと他に説得方法がないことの証でもある。
 脚が地についていない詭弁は少数の人を一時的に欺くことはできても多数の人を長期にわたって欺くことはできない。

2017年9月18日月曜日

詭弁を弄する 2

 言葉によって何かを伝えようとすると発信者が意図すると否とにかかわらず中立的ではなくなる。
 日本のメディアは日韓関係といい韓国では韓日関係という。もし日本で韓日関係と言ったら韓国寄りメディアとレッテルを貼られるだろう。
 言っていることは同じだが受け取る印象はこれほど違う。この意味において中立的な表記方法などない。

 人に訴える議論は詭弁となりやすい。先ごろ話題となった加計学園の獣医学部新設問題で、前川前文科省事務次官は「行政が歪められた」と言った。
 これに対し菅官房長官は、「前川前次官は行政が歪められたというが当のご本人は出会い系バー通いをしていた、教育行政にかかわっていながらそのようなことをする人の発言は信用できない」と非難した。
 この問題で議論すべきは、獣医学部新設の認可が正当に行われたかどうか、行政が歪められたかどうかであって、出会い系バー通いの非難はこれとは関係のない論点のすり替えである。

 嘘つきの人間が「嘘はいけない」と言ったからといって、「嘘がいけない」ことに変わりはない。
 だが受けとるほうは、嘘つきがそう言うのだから、たまには嘘をついていいのかもしれないと思うかもしれない。嘘つきのこの発言が「嘘をつく」ことに一種の免罪符を与えたようなものだ。
 詭弁はこれを弄する人は無意識のうちに本題と離れたこの人に訴えるやり方で人びとを説得しようとしているのだろう。

 論点のすり替えは、言葉がすべての法曹の世界でも行われている。
 よく例に挙げられるのが昭和47年に起きた外務省秘密漏洩事件である。当時、毎日新聞の西山太吉記者が、沖縄の本土復帰の日米交渉で密約があったという証拠の機密資料を、外務省の蓮見喜久子事務官から入手した。
 この裁判は国民の知る権利と国家の秘密保全のどちらを優先するかについて世間の話題をさらった。
 ところが検察の起訴状に「情を通じ」という言葉があり、これがメディアによって明らかにされると世論の流れは一気に西山記者に厳しくなった。
 報道の自由と国家機密の議論より起訴状の「情を通じ」が世間の注目を集め、こんなことで資料を入手した西山記者はとんでもないヤツだということになった。

 上の論点のすり替えは詭弁のほんの一例にすぎない。詭弁は必ずどこかに誤りがある。詭弁は正しくある必要がないのでその種類はいくつもある。
 詭弁の種類について統一された定義はないようだが、大まかには論理的に破綻しているものと論理以外の意図的なものに分けることができる。
 論理は「Aが成立するならばBになる」から構成されるが、このAの前提部分に誤りがあるものと、Bの演繹部分に誤りがあるものに分けられる。
 論理以外のものには、論点のすり替え、言葉によるマジックなどレトリックを駆使した手法である。
 なお冒頭に挙げた日韓関係、韓日関係のように間違ってはいないが印象操作も詭弁の一種とする場合もある。

 世の中には詭弁や誤謬が溢れかえり日常茶飯事に使われている。
 人を説得したり、誘導しようとする意思が働けばどうしても中立的ではなくなる。
 世論調査も質問の仕方によって結果も微妙に異なってくる。
 政権寄りのメディアの世論調査は政権寄りに、政権に距離を置くメディアのそれは政権に厳しい結果となって表れる。
 メディアは新聞の社説などのほかに世論調査を通じて時の政権に一定の影響力を及ぼしていることになる。
 世論調査と同様に国の政策もその策定過程では中立的ではない。
 いづれの省庁も各種諮問会議のメンバーには自らの意に沿う人選を行い政策が策定されるまでにレトリックの限りを尽くす。
 それがどんなものか内容によっては唖然とするものがある。

2017年9月11日月曜日

詭弁を弄する 1

 一見正しそうに見える論理だがよくよく考えると間違っている。われわれはこのようなことを時々体験する。いわゆる詭弁である。
 だがこのようなことは実社会には溢れかえっている。しかもわれわれ自身もそれと気づかず詭弁を弄している。
 こう語るのは論理的思考の研究者であり教育者でもあった修辞学者の香西秀信氏である。
 
 詭弁を間違った論理とすればその反対の極に位置するのが形式論理に則った論理ということになる。それはいわば真空の無菌室で純粋培養されたような論理である。

 「われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。
 われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分に機能しない。
 が、その十分に機能しないことを、相手が詭弁を用いたからだと勘違いしてはいけない。(中略)
 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。
 このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。
 が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。」
(香西秀信著光文社新書『論より詭弁』)

 言葉で何かを主張したり、説得しようとした途端に純粋な形式論理から逸脱した理論になる。このことをもって詭弁と定義すれば実社会は詭弁に溢れていることになる。もっとも詭弁はその使用者に騙しの意図があることが前提であり、そうでなければそれは詭弁ではなく誤謬ということになる。
 世の中に詭弁や誤謬が溢れているとすればわれわれはうかつに人の言ったことなど素直に信じられなくなってしまう。 実生活上これらに無関心を決め込むわけにもいかない。それではどうすればいいのか。
 詭弁や誤謬を正しく認識しそれらが与える影響について冷静に対応すること。これに尽きると言えるが、具体的にはどうすればいいのか。それが問題である。

2017年9月4日月曜日

悲観大国ニッポン 5

 内閣府が先月公表した「国民生活に関する世論調査」によると、現在の生活に「満足」「まあ満足」合わせて約74%、この先どうなるかの質問には「同じようなもの」65.2%、「悪くなっていく」23.1%、「良くなっていく」9.4%であった。
 この結果から見る限り国民は先行きの暮らし向きに多少不安はあるものの悲観している様子ではない。悲観の原因が経済的要因でないとすればその他に求めなければならない。
 その他に求めなければならないがそれが何であるか明白な要因は見当たらない。強いていえば漠然たる要因ということになるが、そうなれば社会学的分析を俟たなければならない。
 19世紀末フランスの社会学者デュルケームは自殺の研究を通じて連帯が失われればアノミーになるという社会学の一大発見をした。
 連帯が失われる原因の一つに父性の欠如がある。社会の父性が欠如すれば社会不安になるし、家族の父性が欠如すれば家族崩壊を来たす。父性とは必ずしも父親とは限らないその役割を母親が担うことだってある。
 ところで今日本の社会システムは安定している、特段父性が欠如しているとも思えない。
 それにもかかわらずニッポン人が将来に対し最も悲観的な国民であるという事実はこの父性の欠如を無意識のうちに嗅ぎ取っているのかもしれない。
 潜在意識のどこかに父性の欠如を感じている。それは世論調査でも国民が懸念している国防・安全保障に表れている。 日本はこれを外国の軍隊に依存している。日本がアメリカの強大な核の傘で守られていることは周知の事実である。
 国防・安全保障は国の基本である。国の基本にかかわることを自国で担わず他国に依存する。
 家庭内で暴れる子供に手を焼いた父親が誰か他人に解決を依頼するのと同じで、いずれも父性が欠如している。
 国家に父性が欠如すれば社会は不安定になる。国の主権にも歪みが生じる。

 戦後日米間には、一貫して経済対話が行われている。日米構造協議、年次改革要望書、そして現在の日米経済調和対話と名前は変わったが実態は変わっていない。
 建前は、日米それぞれの要望を出し合う協議の場だが、実態はアメリカの要望に対し歴代政権がこれを受け入れるという一方的なものであったことはその成果が示している。

 経済対話とは別に日米合同委員会がある。日米の政治家が参加しないこの合同委員会は1960年に締結された日米地位協定の正式な協議機関として設立された。
 日本の官僚と在日米軍のトップがメンバーで月2回行う秘密の会合である。
 日米の間には、米軍と日本の官僚とのあいだで直接結ばれた占領期から続く軍事上の協定(国民に明らかにされていない)が存在している。秘密会合たる所以である。
 そこではおよそ主権国家としてあるまじきことがらが決定されている。その異常さを他ならぬアメリカ側メンバーでただ一人軍人でないスナイダー公使が上司の駐日大使に報告している。
 その報告書で、米国の軍人が日本の官僚に直接指示する日米合同委員会のありかたは異常であると激怒して曰く。

 「本来なら、ほかのすべての国のように、米軍に関する問題は、まず駐留国の官僚と、アメリカ大使館の外交官によって処理されなければなりません」「ところが日本における日米合同委員会がそうなっていないのは、ようするに日本では、アメリカ大使館がまだ存在しない占領中にできあがった、米軍と日本の官僚とのあいだの異常な直接的関係が、いまだに続いているということなのです(1972年4月6日アメリカ外交文書)」
(矢部宏治著講談社現代新書『知ってはいけない隠された日本支配の構造』)

 いくら秘密にされているとはいえ主権を脅かされているこのような事実を国民はうすうす感じている。
 自前で核武装できないのでアメリカの傘に頼らざるをえない。被爆国のわが国では核武装の議論さえタブー視される。 主権を脅かされても他国に国の安全を委託する。国民が恒心を持てるのは健全な主権を自覚できればこそである。 日本国の主権に懸念あり、これがニッポン人が将来に対し不安を抱き悲観的になる原因の一つであることは間違いない。
 もともと日本人は楽観的であった。

生ける者遂にも死ぬるものにあれば
   この世なる間は楽しくをあらな              
                 大伴旅人(万葉集)

 この歌にくよくよしない楽観的な万葉人の生き様をうかがい知ることができる。
 外国と比べて経済的に恵まれている方に属するわが国が悲観大国であることは正常な状態ではない。
 この歪みは国民の心に積み重なっている。いずれこの揺り戻しが起こるであろう。
 歪みが長引き大きくなるほどそれもまた大きくなる。その時がいつかは分からないが。
 日本人は明治維新に成功した。その時は必ずくる。

2017年8月26日土曜日

悲観大国ニッポン 4

 生まれや育った環境、文化、宗教が異なる外国人は、日本人とは違った視点で日本を客観的に見ることができる。その見方は、正しいか否かは別にしてわれわれの考えるヒントにはなる。
 この観点から二人の外国人の相反する日本感の根拠について検証してみよう。

 ・ジャック・アタリ
 日本は並はずれた技術力で80年代に世界の中心都市になるチャンスがあったにもかかわらずそれを逃した。
 それは官僚が特権維持にこだわり外国人を受け入れて中心都市になるにふさわしい普遍化の使命を担わず内にひきこもったからである。
 これがジャック・アタリの日本に対する見方の核心部分である。
 80年代当時日本が世界の中心都市になろうという野望をもっていたかは疑問であるが、経済的に日の出の勢いにあり、外国からもそのように評価されていた。
 外国人受け入れは、歴史的にみても世界の中心都市になるためには必要条件かもしれない。
 だがその意思がなければあえてすることもないだろう。『ジャパンアズナンバーワン』でも指摘されているように日本の成功は日本的なやり方にあり、と日本自身が自負していたのだから。
 ジャック・アタリはグローバリズムや緊縮財政について利点は述べてもそれがもたらす弊害については過小評価している。
 欧州は行き過ぎたグローバリズムと緊縮財政のために現状は彼の思惑通りにはなっていない。
 アジアについては日本と異なり韓国は中国との関係が良好として過大評価しているが現状は説明するまでもない。
 日本のグローバルな人材の受け入れは先進国では最も遅れているかもしれないが、この分野で進んでいる欧州の混乱を見るかぎり、行き過ぎた人材のグローバル化には疑問が残る。
 このようにいくつか疑問点があるにしても、ジャック・アタリの自由についての歴史的見識は高く評価されているようだ。
 この点、日本に対しては否定的であるが、それは個性とか自由について日本と欧米との間には抜き難い認識の差があるからであろう。

 ・イェスパー・コール
 知的財産 
 研究開発費のGDPに占める割合が米独より多いので、日本は将来にわたり楽観していいという。が、問題はその内容である。
 80年代に日本企業の強みは長期的視野に立った経営にあるといわれた。
 ところが昨今の知的財産の活用については、それは当て嵌まらないようだ。
 かってソニーの知財部門のトップを務めた中村嘉秀氏はいう。
 「経営者は長期的事業戦略や競争には気が回らない。開発、事業、知財の三位一体こそ競争力の源泉である。・・・ 世界を見渡せばApple,Google,Amazon,Microsoft,Qualcomm,Intelなど知財戦略がそっくり事業戦略になっている。
 日本でもかっては、ソニーのプレイステーションやCD事業、任天堂のファミコン、日本ビクターのVHS事業なども同じだった。」(馬場練成『発明通信社【潮流No73】』)
 研究開発費の多さだけで手放しで楽観的にはなれない。

 人口問題
 生産年齢人口の減少→労働力不足→供給不足、はこれを否定的に捉えるのではなくむしろ一人ひとりの価値および生産性を引き上げるチャンスと見るべきであると主張している。 この見解は現在の供給過剰・需要不足に起因するデフレ時代には言い得て妙である。
 労働力不足を安易に移民により補うことの危うさは欧州の混迷をみれば明らかだ。

 日本に楽観的なイェスパー・コール氏であるが、彼は2008年当時、日本に悲観的であった。その根拠について自ら述べている。

 「私も色々と日本の審議会に参加しました。それはすごい。検討は深いところまでやって、国際的な比較もします。 非常に面白く、勉強になる。勉強で終わらずにプランまでは出す。しかし、決定能力はゼロに近い。(中略)
 日本がいずれ二等国に転落するというレポートはすでにいろいろ出ています。その最大の原因は意思決定ができないということです。」
(イェスパー・コール『日本はすでに世界の関心からはずれている』2008年6月言論NPO)

 当時と比べ政治の決定力が格段によくなったとも思えないが彼が楽観に転じたのは、資産運用も手がけるエコノミストらしい変わり身の速さなのだろうか。

 このように楽観も悲観もその根拠となるものに、外国特に先進国と比べて際立ってニッポンが悲観的にならなければならない理由が見出せない。
 双方とも人口問題を主要な根拠の一つに挙げているが、そのこと自体決定的な根拠に欠ける証でもある。
 ニッポン人は諸外国に比べ社会システムに不信感をもっておらず、平和だと思っているにもかかわらず、将来に対して最も不安を抱えているのは日本人であるという事実は受け止めなければなりません、と調査会社の社長が言うように、これは事実なのだからそうなった原因がなければならない。
 なにもニッポン人は趣味で悲観的になったわけではなかろう。中には悲観好きの人がいるかもしれない。どこにも物好きはいる。
 問題は、好事家ではない大多数のニッポン人がなぜ悲観的になったか、真の原因がどこにあるかである。

2017年8月21日月曜日

悲観大国ニッポン 3

 次に楽観的な日本論について
 高度経済成長期には時代を反映した日本楽観論が受け入れられた。その一人にアメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルがいる。彼が1979年に上梓した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、日本の高度経済成長の要因を分析した代表的な日本楽観論の一つである。
 1970年代から80年代にかけては生産年齢人口が多い人口ボーナスといわれる時代であった。
 だが現在の低成長時代の近未来予測としては人口ボーナスは前提にできない。日本の生産年齢人口の減少は内外の識者が一様に指摘するところである。この人口減少が今や日本悲観論の主要な根拠の一つとなっている。
 それでは今の日本楽観論はなにがベースになっているかといえば皮肉なことにこの人口減少もその一つになっていることである。つまり人口減少は悲観・楽観双方の主張の根拠となっているのである。
 ドイツ人エコノミストのイェスパー・コール氏は日本楽観論を展開しているが人口減少をその要因の一つとして挙げている。
 彼はエコノミストらしくデータを駆使して日本の悲観論は根拠がなくそれは単なる日本人の悲観好きにすぎないという。
 その主張の裏づけをいくつも挙げているがとくに彼が強調しているのが知的財産と人口問題である。

 ・知的財産
 公的機関と民間企業を合わせた研究開発費対GDP比率を日米独で比較すれば2014年の時点では米独が2%台後半に対し日本は3%台後半である。
 日本はものづくり大国といわれるが、競争力の源泉となる研究開発によって生み出される知的財産分野でも大国である。
 研究開発費投資がそのまま特許取得・商品化につながるわけではないが資本主義に不可欠なイノベーションの可能性という点で日本はリードしている。

 「日本は資源の乏しい国です。生産人口が減少する時代に入って、労働力という意味での人的資源も今後は不足していくでしょう。
 しかし、日本には資源不足を補って余りある知財という資源がある。これを活かすことでふたたび世界をリードできるはずです。」(イェスパー・コール著プレジデント社『本当は世界がうらやむ最強の日本経済』)

 ・人口問題
 人口減少、特に若年労働力人口が減少するのは深刻であるが、需要と供給の原則から労働者一人ひとりの価値は上がる。労働者の価値が上がれば自ずから雇用の問題の解決につながる。
 日本の失業率は欧米に比べて低い。日本3.11%、米4.85%、独4.16%である。(2016年IMF統計ベース)
 日本に限って失業の問題など存在しないかのようにに見える。
 だがそれは見せかけにすぎない。近年アングロサクソン流の新自由主義、市場原理主義、グローバル資本主義が推進された結果、正規社員から賃金が安い非正規社員へと置き換えられ失業率こそ悪化しないものの雇用の質が悪化してしまったからである。

 「いかに非正規を正社員化して、賃金を高めていくか。それが日本の抱える課題でした。少子化によって人口が減るのは、おもに若年層です。
 これから2020年東京オリンピック&パラリンピックまで、66歳以上の日本人は毎年43万4000人ずつ増えていきます。
 一方、企業のマネジメントの中核をなす36歳以上55歳未満は毎年17万2000人ずつ減少します。
 現場を担う25歳から35歳の人に至っては、毎年23万1000人ずつ減っていきます。
 つまり働かなくなる人が増えて、働く人が減ります。働く人が減れば、人手不足になりますよね。
 人手不足とは人の供給不足ですから、一人あたりの価値は高まります。
 企業は人を確保するためにこれまで以上の高条件を提示しなくてはいけません。その結果、魅力のない非正規のオファーは減り、かわりに正社員のオファーが増えていきます。
 つまり人口、とくに生産人口が減れば、需給のバランスという自然の摂理によって、勝手に非正規社員の正社員化が進むのです。」

 「非正規が減って正社員化が進めば何が起きるか。まず賃金が上がります。
 正社員の賃金のうち約35%がボーナスです。もし同一労働同一賃金で正社員と非正規社員の月給が同じだとしたら、正社員はボーナスに加え、社会保険の恩恵もプラスされますので、年収ベースで50%近く高いという計算になります。 
 この前提で正社員の割合が1%高くなれば、日本の国民所得は0.7%上がります。仮に正社員率が10%上がれば国民所得は7%アップ、正社員率が15%上がれば国民所得は約10%アップです。
 私は非正規率が40%から25%に下がると予想しているので、国民の所得はトータルで10%アップですね。」

 「所得が増えて生活が安定すれば、これまで経済的事情で結婚や出産をあきらめていた人たちが積極性を取り戻します。
 そうなれば出生率も改善します。政府が婚活支援をするより、このほうがずっと効果があります。
 少子化は日本にメリットをもたらしますが、急激な少子化は社会的な混乱を招きやすい。
 出生率が上向けば、そのデメリットが緩和されて、より好ましい形で人口減少が進んでいきます。
 人口減少がもたらす正社員化は、まさしく日本のあらゆる問題を解決してくれるのです。」(前掲書)

 いくら労働力の質が改善されたとしても絶対的な労働人口が減少すればGDPがマイナス成長になるのではと心配されるがそれは生産性向上でカバーできる言う。
 1998年に日本の労働力人口がピークを迎えたが、GDP成長率は199年以降、低成長あるいは時折マイナスを記録するものの、平均的にはプラスで推移している。これは生産性向上の証である。
 イェスパー・コール氏は、数少ない楽観的な日本人以上に楽観的である。

2017年8月14日月曜日

悲観大国ニッポン 2

 自分の顔は鏡を通してしか見ることができない。ところがわれわれは自分の思考や行動パターンになると鏡の役目など思いもつかないで自分自身を熟知しているかのごとく考えかつ振舞いがちである。
 だが熟知していると思っているのは錯覚にすぎないのではないか。自分自身を知るのは難しい。同じ失敗を繰り返す人が多いのがその証左である。
 失敗を繰り返す人はおおにして周囲の忠告に耳をかさず客観的に自分を見ようとしない。
 このことは国家や民族についても言える。外国人の日本論はわれわれが気づかないことを教えてくれることがある。
 そこで視点を変えて外国人の日本論をとりあげこれを検証してみよう。

 まず、フランスの思想家ジャック・アタリの日本論について

 ”欧州の知性”とか”欧州の頭脳”と形容されるほどこの高名な思想家は彼の代表的な著作で日本の近未来について悲観的な見方をしている。

 「日本は世界でも有数の経済力を維持し続けるが、人口の高齢化に歯止めがかからず、国の相対的価値は低下し続ける。
 1000万人以上の移民を受け入れるか、出生率を再び上昇させなければ、すでに減少しつつある人口は、さらに減少し続ける。
 日本がロボットやナノテクノロジーをはじめとする将来的なテクノロジーに関して抜きん出ているとしても、個人の自由を日本の主要な価値観にすることはできないであろう。
 また、日本を取り巻く状況は、ますます複雑化する。例えば、北朝鮮の軍事問題、韓国製品の台頭、中国の直接投資の拡大などである。
 こうした状況に対し、日本はさらに自衛的・保護主義的路線をとり、核兵器を含めた軍備を増強させながら、必ず軍事的な解決手段に頼るようになる。
 こうした戦略は、経済的に多大なコストがかかる。2025年、日本の経済力は、世界第5位ですらないかもしれない。」(ジャック・アタリ著林昌宏訳作品者『21世紀の歴史』)

 ジャック・アタリが指摘するのは人口減、個人の自由の制限および国防費増の3点でありこれらにつき少し敷衍し問題点を明らかにしよう。
 ・ 人口減問題
 国立社会保障・人口問題研究所(平成29年推計)の日本の将来推計人口によれば、2015年の国勢調査で1億2709万であった人口が、2040年に1億1092人、2053年に9924万人、2065年に8808万人になると推計している。
 世界の人口が爆発的に増加すると予測されているのにこの日本の人口減予測は突出している。
 日本はこれまで移民を受け入れてこなかったがこの政策を撤回しないかぎり長期衰退は避けられないという。
 ー人口減は日本衰退の予兆として内外から指摘されている。

 ・ 個人の自由
 ユダヤーギリシャの理想は自由こそが究極の目的であり、また道徳規範の遵守ともなり、生存条件でさえあることを明確にした。
 ところが個人の自由は日本の主要な価値観ではない。それゆえ外国から有能な人材を集めることが出来ない。
 ー個人の自由・個人主義が徹底していないところに優秀な人材は集まらない。

 ・国防費の負担増
 中国、韓国、北朝鮮との関係は和解しなければならないが、話し合いでの解決は容易ではない。
 軍事的なオプションが必ず求められるであろう。その場合多大な費用負担を伴う。
 ー国防費の負担増はその他の縮減を伴い国力低下になる。

 ジャック・アタリは日本に対し悲観的である。日本はかって世界の中心になるチャンスがあったのに国を開放せず移民を受け入れなかったことなどのためそれを逃した。
 近未来には世界の中心になる資格などなくむしろ凋落の一途をたどるだろう。

 2011年1月中央大学における講演で21世紀の世界のシナリオで日本について少子化以外の要因も挙げて悲観的に言及している。

 「第1段階はアメリカの相対的凋落だと言った。ヨーロッパは連邦化が進み上昇するが、日本は沈むだろう。
 日本は国家債務が多すぎ、少子化に有効な手が打てず、政府は勇気ある増税策を取れないから、危機から脱するのは難しい。
 しかしナノテクノロジー、バイオテクノロジー、ニューロサイエンス、情報技術といった、教育や医療に有効な技術的ポテンシャルを日本は持っている。その強みを生かせるかどうかだ。」

 未来に希望がないわけではないが、日本の命運は半ば尽きたと言わんばかりの日本論である。

2017年8月7日月曜日

悲観大国ニッポン 1

 調査会社エデルマン・インテリジェンスが2016年10月13日から11月16日にかけ28カ国で実施した国民の自国に対する信頼度調査で、日本は最下位であった。
 プレスリリースでは具体的に他国と比較した内容について述べ結論として日本は将来に希望をもてない悲観大国であると断じている。
 
 「日本の知識層における信頼度は回復しましたが、『自分と家族の経済的な見通しについて、5年後の状況が良くなっている』と答えた日本人回答者は、知識層31%、一般層17%で(グローバル平均:知識層62%、一般層:49%)、昨年に引き続き調査対象28カ国中最下位の結果となりました。
 さらには、『全体として、国は正しい方向に向かっている』と思っている日本人は全回答者の33%しかおらず(グローバル平均:50%)、英国(50%)や米国(51%)と比較しても、日本人はより将来に対して悲観的な国民であることが伺えます。
 また、『子供たちは、私より良い人生を送れるだろう』と思っている日本人回答者は29%で、英国の43%、米国の58%と比較しても、またグローバル平均の55%と比較しても、日本人は将来に対して希望を抱いていない国民であり、引き続き「悲観大国」であることが明らかになりました。」
(エデルマン・ジャパン(株)2017年2月7日プレスリリース『日本は悲観大国を脱することができるのか?』)

 この調査結果についてはエデルマン・ジャパン社長ロス・ローブリーもコメントしている。

 「相対的に見ると、日本人は現在、他の諸外国に比べれば、そこまで社会システムに不信感を持っておらず、様々な社会問題に対しても、不安や恐れのレベルはそれほど高くないように思われます。
 日本の知識層の自国に対する信頼度が大幅に上昇したのも、ブレグジットやトランプ現象に比べれば、日本は平和だと思った結果なのかもしれません。
 しかし、日本における信頼の格差(注:知識層と一般層の格差)が調査史上初めて明らかになり、また、将来に対して最も不安を抱えているのは日本人であるという事実は受け止めなければなりません。」

 日本人は悲観的である。悲観論が好きとも言われる。日本に生活の拠点を移してから約30年経つというドイツ人エコノミストのイェスパー・コール氏は自著『本当は世界がうらやむ最強の日本経済』で、「日本の文化や生活スタイルにだいぶ馴染んだつもりです。ただ、いまでも理解しがたいことが一つあります。日本人はどうしてこんなに悲観論がすきなのか!」と不思議がっている。
 日本人は貯蓄好き、保険好きともいわれる。これは将来に対し不安を抱いているからだろう。ラテン系の人たちのように楽観的でないことはたしかだ。
 悲観主義は日本の文化なのかもしれない。日本人は自分や家族あるいは身内については自慢しないし、そういうことははしたないことだと教わっている。
 自慢する人がたまにいてもそういう人はなんとなく違和感をもたれる。
 ものごとを悲観的に話すほうが知的と受けとられる。テレビのコメンテータは深刻な面持ちで悲観論を展開すれば高額なギャラを受け取ることが出来る。その背景に視聴者の悲観論好きがあるからである。
 なぜ日本人はこうまで悲観的なのか、一度立ち止まって考えてみたい。

2017年7月31日月曜日

君子豹変

 自説や持論を変えないことは一貫性があり信頼に足ると概して評価される。
 だがそれが個人の信念や生き方であれば問題ないが政策や学説となれば話は別だ。
 与える影響が前者は当の本人にかぎられるのに対し後者はそれに止まらない。

 ”君子は豹変す”という故事は否定的にもとられることがあるが本来の意味ではない。
 過ちを犯さない人などいない。学者とて例外であるはずがない。
 学者が自説の過ちに気づきその説を変えることはごく自然なことである。
 ましてそのことによって非難されるいわれもない。非難さるべきは過ちに気づきながら自説を変えないことであろう。 
 経済学者の中谷巌氏や浜田宏一氏は自説を変えた勇気ある代表的な学者として記憶に残る。

 中谷巌氏は自身が提言してきた政策について転向したことを雑誌で公表している。
  ①労働市場の流動化、
  ②民営化・自由化による小さな政府
  ③グローバル経済への対応
 以上三点について「日本経済再生への戦略」として提言したが問題点を自己批判的に分析し、結論として
 「私はこの十年、日本社会の劣化を招いた最大の元凶は経済グローバリズムの跋扈にあったと考える。そしてそれを是認し、後押しした責任は、小泉改革に代表される一連の『改革』にある」
と断言し自己批判している。
(2009年3月『文藝春秋3月特別号【竹中平蔵君、僕は間違えた】』から)
 そしてアングロサクソン流の新自由主義、市場原理主義、グローバル資本主義の旗印のもと小泉内閣の聖域なき構造改革が格差社会を助長したと批判している。
(因みに、中谷氏に雑誌の論文で呼びかけられた竹中平蔵氏は、今や「労働市場の流動化」の最先端、人材派遣会社パソナグループの会長である。)

 浜田宏一氏はデフレは貨幣現象であると主張し内閣官房参与の立場でそれを政府に進言してきたがあることをキッカケにあっさりそれを撤回した。
2016/11/15日本経済新聞社のインタビューに答えて曰く。

 「私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない」
 「(著名投資家の)ジョージ・ソロス氏の番頭格の人からクリストファー・シムズ米プリンストン大教授が8月のジャクソンホール会議で発表した論文を紹介され、目からウロコが落ちた。
 金利がゼロに近くては量的緩和は効かなくなるし、マイナス金利を深掘りすると金融機関のバランスシートを損ねる。 今後は減税も含めた財政の拡大が必要だ。もちろん、ただ歳出を増やすのではなく何に使うかは考えないといけない」

 学者らしいスッキリした話だ。間違っていたと自覚してもそれを認めない、悪しき官僚の「無謬性の原則」を地でいくような学者に比べれば浜田教授の勇気ある発言は一服の清涼剤である。

 過ちては改むるにはばかることなかれ。間違っても正さなければそれは不作為の罪である以上に失策である。

2017年7月24日月曜日

通貨発行益 3

 量的金融緩和の縮小(テーパリング)の行く先には、日銀の債務超過が待っている。
 金融緩和の出口政策では国債など保有資産のキャピタル・ロスが発生する。さらに中央銀行預金のうち法的に義務付けられた法定準備預金額を超える部分が超過準備であり、それに対して中央銀行が支払う利子が付利と呼ばれ、これがテーパリング時には高くなり、結果として付利が国債の利子(通貨発行益)を上回わる。
 これらの要因により日銀の剰余金がマイナスになり債務超過に陥るというのである。
 債務超過になっても中央銀行である日銀は自ら債務を創造できるため資金繰りに支障を来たす訳ではないが通貨の番人に対する信認が問われることになる。
 日銀がテーパリングによる保有資産のキャピタル・ロスと付利上昇などで債務超過に陥ったとしてもそれは一時的となる可能性が高い。
 インフレ率が日銀が目指す2%を安定的に超える状況では日銀が保有する資産から得られる収益は、日銀の負債である当座預金の付利を必ず上回るからである。
 しかも日銀の負債のうち付利は当座預金に対してのみで銀行券にはつかない。
 当座預金対応の日銀資産は貸出され利子を得ている。金利は、中央銀行当座預金 → 短期市場金利 → 中央銀行貸出金利と順に高くなっている。
 このように中央銀行当座預金の付利は下限であるから金利収支上日銀が恒常的にマイナスになることはない。
 テーパリング時のキャピタル・ロスや付利上昇などによる一時的な債務超過であれば放置してもかまわないだろうが政府による増資も考えられる。 親会社の関係にある政府が増資すれば日銀のバランスシートは健全となる。
 問題になるとすれば政府の増資で日銀のバランスシートが拡大(国債や債権など保有資産増)し、市場や国民の信認が損なわれはしないかということである。
 急激な長期金利の上昇、インフレ、円安を招かないかということである。
 出口政策については、通貨安、高インフレなどの懸念があり今となっては量的緩和解除は早ければ早いほどよいという。これに関連しては過去の出口政策の結果が参考となる。

 2016年7月15日公開された2006年1~6月金融政策決定会合議事録によれば、政府は「緩やかなデフレが続いている」(安倍晋三官房長官)とけん制したが、福井日銀総裁は動じず5年間継続した量的緩和政策の解除を強行した。
 結果的にはその後日本経済が長期のデフレに沈む原因となったように、その後の推移から時期尚早な量的緩和解除であったことが明らかで政策の失敗であった。
 福井総裁の量的緩和の巻き返しは短期的かつ急激であったにもかかわらず、テーパリングは円滑に実施され金融市場は平静を保たれ実務的に問題が発生したという記録はない。

 この事例をみる限り出口政策についての混乱を強調する議論に与することはできない。
 こと金融・財政政策については自分の出身母体に拘束されたかのような発言が多い。その姿は自分の信念を曲げ権力におもねる御用学者のようにも映る。
 しかも結果が出ても詳細に検証されることがない。消費税率アップの議論などその典型である。国民のリテラシーが特に望まれる分野である。
 通貨の信認とは何か。それは通貨価値が維持されることであり通貨供給の調整は中央銀行の主たる任務の一つである。
 通貨が適切に管理・維持されるために中央銀行のバランスシートが制約を受けることはない。
 金融政策の本来の目的は物価や雇用といったマクロ経済の安定化であって、中央銀行の財務の健全化ではないはずである。

2017年7月17日月曜日

通貨発行益 2

 通貨発行益に関連する政策を考えるにあたり、まず通貨発行益の源泉となる貨幣発行の規模を把握しておかなければならない。
 平成28年の紙幣製造は14.87兆円(財務大臣が定めた平成28年日銀券の製造枚数による)、硬貨製造は0.16兆円(平成28年造幣局の年銘別貨幣製造枚数データによる)である。
 紙幣が貨幣全体の99%を占めているのに対し硬貨は全体の1%にすぎない。
 硬貨はたとえ製造原価との差額がただちに通貨発行益になるとしても全体に与える影響は限られる。したがって通貨発行益に関しては主に紙幣がその対象となる。
 通貨発行益に関連して、特に日銀による市中からの国債買いオペレーションについては最近特に否定的な論調が目立つ。通貨発行益そのものに懐疑的な見方をしている
 野口悠紀雄氏は、通貨発行益があるのだから貨幣は増発すればするほど政府の利益になるはずとの意見に真っ向から反論している。

 「日銀は、実際には、当座預金を増やすことによって国債を購入している。そして、超過準備に対しては、これまで金利がつけられてきた(日銀当座預金の残高は、17年4月末現在で約356兆円だが、法定準備預金は約19兆円だ。残りの337兆円が超過準備だ)。
 したがって、国債利子収入をうるためのコストはゼロではない。このコストを差し引いたものをシニョリッジと考えるべきだろう。
 ただし、これまでは付利するといっても0・1%であったので、国債の利回りよりも低かった。しかも、当座預金残高もさほど大きくなかった。
 このため、利払い費の総額はわずかだった。12年度においては、315億円だった。
 しかし、異次元緩和によって当座預金残高が増えたので、それに伴い、利払いも、13年度836億円、14年度1513億円、15年度2216億円と増えた。
 マイナス金利政策で減ったが、16年度で1873億円と、まだ大きい。
 ところが、金融緩和政策から脱却すると、先に述べたように、プラスの付利を復活させる必要がある。
 2%という日銀のインフレ目標が達成されたとすると、付利と国債利回りは逆ザヤになり、シニョリッジはマイナスになってしまうのだ。
 予想される損失は、日銀の自己資本(=引当金勘定+資本金+準備金)約7・6兆円をはるかに上回っている。したがって、日銀は、数十兆円の規模の債務超過に陥る。
 そうなると、日銀は政府への納付金を停止する。日銀納付金は税と同じようなものだから、これがゼロになるというのは、国民負担の増大だ。それにとどまらず、資本注入が必要になるかもしれない。
 しかし、これには強い反対があるだろう。また、中央銀行が債務超過になった事例はないので、どうしたらよいのかの目安もない。」(現代ビジネス2017.6.28野口悠紀雄氏寄稿『異次元緩和の先に、日銀が【巨額債務超過】に陥る可能性』から)


 野口氏はいますぐ金融緩和から脱却しなければ日銀が政府への納付金を納められず、あまつさえ債務超過になり資本注入が必要になるかもしれないと言っている。
 日銀法では、日銀が債務超過に陥った場合の規定がない。債務超過が想定されていない。

 この問題の論点は二つ。
政府と日銀の関係および日銀の債務超過。
 政府と日銀の関係は、親会社・子会社の関係にあることは既に述べた。親会社・子会社の関係であればバランスシートも一体となる。
 日銀の独立性は金融政策の独立性であって財務的に独立性があるわけではない。現に硬貨の発行益や国債の利子収入は政府へ上納されている。
 これとは逆に、仮に日銀が【巨額債務超過】に陥り資本注入が必要となれば政府による救済が考えられる。
 具体的には政府が増資して日銀の債務超過を解消する。親会社・子会社の関係で債務超過を補填する。
 政府による中央銀行の債務超過補填については見解が分かれる。これを問題視する意見と何ら問題ではないという見方である。
 通貨発行益に関連する政策は日銀債務超過問題に見られるように最終的には政府の財政と関係している。