2016年2月29日月曜日

英語公用語化論 6
























































 言葉を使うのは人間のみであり、人間は考える動物である。何によって考えるかというと、それは言葉である。言葉はまた人びとのコミュニケーションの役割を果たす。
 この意味で人間は優れて社会的動物である。
 ヨハネ福音書の冒頭で言葉について宣言している。
「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。
言葉は神と共にあった。
万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。
言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった。
その光は闇の中で輝き、闇は光に打ち勝つことはなかった。」
(旧約聖書 ヨハネ伝第1章)
 ここでいう言葉とは、神の言葉もしくはイエス・キリストその人を意味する。
 古代ギリシャの世界では言葉はロゴスであり、ロゴスとは論理である。この思想はキリスト教世界に受け継がれた。
 西洋キリスト教文明の基盤をなす旧約聖書ヨハネ伝冒頭のこの一節は 言葉こそすべてであると高らかに宣言している。
 宗教は人々の心の奥深くにかかわるゆえ人々の行動様式にも影響を及ぼす。
 近代西洋キリスト教文明は言葉を基点として哲学、論理学、修辞学などの学問が生まれ、合理主義、普遍性などの真理を求めた。
 言葉は学問の発達に深く寄与するとともに人々の行動様式をも左右する。
 この意味において言葉は優れて社会的であり、これを使う人間は優れて社会的動物であるといえる。

 一方人間は言葉がないと考えることができないかというと、そんなことはない。人間には別の側面がある。
 アインシュタインは言葉について述べている。

 「思考は言葉という形をとっては現れてこない。私はめったに言葉を使わずに考えている。
 はじめにある考えが浮かび、私はあとからそれを言葉で説明しようとする。書かれたものであれ、口頭で伝えられたものであれ、言葉や言語というのは、私が思考する際には、ほとんど役目を果たさないようだ。
 思考を深めていくうえで私の積み木となる心理的実体は、多かれ少なかれ、ある明瞭な具象やイメージとして現れ、私はそれらを自分の好きなように再生したり、組み合わせたりしている。」
(『アスペルガーの偉人たち』 イアン・ジェイムズ)

 このアインシュタインの言葉は、仏教用語の ”離言真如 ” に通じるものがある。離言真如とは言葉を超越した、または言葉ではいえない、”ありのまま” ”真実” の意である。
 仏教の論理は因果律からなっている。結果にはかならず原因があるという近代自然科学の論理そのものだ。
 この意味において、仏教でいう ”法” は 、自然科学でいう ”宇宙の法則” と同じである。両者とも言葉を介さなくとも理解できる。
 離言真如は文字通り言葉を離れたところに真理があるという思想であるから言葉に対し懐疑的である。
 自然科学はその目指す真理の探究から社会的でなければならない必然性はない。仏教にもまたそのような側面がある。

 だが西洋近代化の洗礼を受けた日本は、古代ギリシャに端を発する西洋キリスト教文明の言葉・ロゴスの影響を強くうけ今日を築いた経緯がある。
 明治期以降の日本にとって言葉の問題はいつも関心事であった。
 言葉が人々の行動様式を左右するものであるからには、公用語のもつ意味は大きい。人々の行動が公用語によって左右されるからである。
 
 人は思いのほか外面的なものに左右される。たとえば吉田兼好の徒然草にある、” 狂人の真似だと言って都大路を走るなら、その人はその時点で狂人である” のたとえの如く。
 だが、言葉は人の内面にまで立ち入りついにはその人の行動をも規制するまでに至る。
 粗野なことばばかり使っているひとは知らず知らずと粗野になり、丁寧な言葉を心がけている人は自然と折り目正しい人になるだろう。
  
 ここまで言葉が経済的、社会的に及ぼす影響について考えてきた。
 最後にこれらのことを踏まえてわが国の公用語のあり方につき考えてみたい。



















































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