2016年3月7日月曜日

英語公用語化論 7

 ここまでの考察で、言葉は人間が介在する社会科学分野に広く深くかかわりその行動に影響を及ぼすことが分かった。
 このことをしっかりと腑に落としこまなければならない。それなくして公用語の議論はナンセンスだ。
 従って、” 言葉は単なるツールに過ぎない、ビジネス世界の公用語は英語だから日本語禁止の英語特区を創設する。 ” などがいかに暴論であるかが分かる。

 英語普及推進派の急先鋒で産業競争力会議の民間議員でもある楽天社長 三木谷氏は、

 ” 日本人は勤勉であり、技術力もデザイン力もあるが決定的に欠けているものがある。それはグローバルなコミュニケーション能力、特に英語力である。英語能力の欠如さえなければ今日の経済的凋落を招くことはなかった。”
と述べている。
 これこそドナルド・ドーアが名付けた 戦後アメリカのビジネス・スクール等で教育された日本の”洗脳世代” が陥り易い陥穽ではないか。
 英語ができないからビジネスに遅れをとる、英語ができないから最先端の情報が得られないなど時代錯誤も甚だしい。
 今やあらゆる情報は日本語に翻訳され、日本語で読めないものは殆んどないといってもさしつかえない。
 今日英語能力の必要性を認めない人はまずいない。だが自国の言葉を犠牲にしてまで英語能力向上を図るのは明らかに行き過ぎである。

 いかに時代錯誤であるか。それは夏目漱石が既に明治時代に語ったことでも明らかだ。
 漱石は明治44年に語学養成法というタイトルで談話をしている。その談話で漱石は自国語と外国語の関係を鮮やかに説いている。

 「    語学の力の有った原因
  一般に学生の語学の力が減じたということは、余程久しい前から聞いて居るが、私も 亦実際教へて見て爾う感じた事がある。
 果して爾うだとすれば、それは何う云ふ原因から 起こったか。その原因を調べなければ、学習の方針も、教授の方針も立つものでないが、専門的 にそれを調べるには、その道の人が幾何もある。
 私は別に纏まった考がある訳では ないが、気附いた事だけを極くざっと話して、一般の教育者と学生の参考にしやうと思ふ。
 ---私の思ふ所に由ると、英語の力の衰へた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達し た結果で、一方から云ふと当然の事である。
 何故かと云ふに、吾々の学問をした時代は、 総ての普通学は皆英語で遣らせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他如何なる学科も皆外 国語の教科書で学んだが、吾々より少し以前の人に成ると、答案まで英語で書いたものが多 い。
 吾々の時代に成っても、日本人の教師が英語で数学を教へた例がある。
 恁る時代に は、伊達にー金時計をぶら下げたり、洋服を着たり、髯を生やしたりするやうにー英語 を使うて、日本語を用ふる場合にも、英語を用ゆると云うのが一種の流行でもあったが、同時に 日本の教育を日本語でやる丈の余裕と設備とが整はなかったからでも有る。
 従って、単に 英語を何時間習はると云ふよりも、英語で総ての学問を習ふといった方が事実に近い位であった。
 即ち英語の時間以外に、大きな意味に於ての英語の時間が非常沢山 あったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然と出来ねばならぬ訳である。 

     語学の力の衰へた原因 
 処が、『日本』 と云ふ頭を持って、独立した国家といふ点から考へると、恁る教育は一種の屈辱で、恰度、英国の属国印度と云ったやうな感じが起る。
 日本の Nationarity は誰が見ても大切である。英語の知識位と交換の出来る筈のものではない。
 従って国家生存の基礎が堅固になるに伴れて、以上の様な教育は、自然勢いを失ふべきが至当で、又事実として漸々其地歩を奪はれたのである。
 実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、 日本では学問をした人がないから巳むを得ないと云ふ事に帰着する。
 学問は普遍的なものだか ら、日本に学者さへあれば、必ずしも外国製の書物を用ゐないでも、日本人の頭と日本の言語で 教へられぬと云ふ筈はない。
 又学問普及といふ点から考へると、 (ある局部は英語で教授 しても可いが) 矢張り生まれてから使ひ慣れてゐる日本語を用ゐるに越した事はない。
 たとひ 翻訳でも、西洋語その儘よりは可いに極ってゐる。  是が自然の大勢であるが、余の見る所では、過去の日本に於いて最も著るしく人工 的に英語の力を衰へしめた原因がある。
 それは確か故井上毅氏が文相時代の事であったと思 ふが、英語の教授以外には、出来る丈日本語を用ゐて、日本の Language に重きを措かしむると同時に、国語漢文を復興せしめた事がある。
 故井上氏は、教育の大勢より見た前述の意味 で、教授上の用語の刷新を図ったものか、或は唯だ 『日本』 に対する一種の愛国心から遣ったものか、その辺は何れとも分らないけれども、要するに此の人為的に外国語を抑圧したことが、現今の語学の力の減退に与って力ある事は、余の親しく目賭した所である。」
(夏目漱石著岩波書店『漱石全集第二十五巻』語学養成法)

 漱石は日本のNationarityは英語の知識ぐらいと交換できる筈がないと言ったが、英語教育を否定しているわけではない。むしろもっと工夫ここらして英語教育を推進すべしと言っている。
 当時の新興国日本の留学生としてイギリスのロンドンで病気になるほど悩みぬいた文豪の言葉である。

 言葉の本質は、そのまま公用語についても言える。公用語を変更するとはいかなることを意味するのか。
 分かり易くするため奇想天外なケースを想定して小論を終わりにしたい。

 仮に、来世紀の日本列島で英語公用語化が完全実施され、殆んどの日本人が日本語を理解し話せなくなった世界と、日本列島は外国人で埋めつくされるがこれら外国人は日本語しか理解し話せない世界があったとしよう。
 どちらの世界の住人が日本人といえるか。

 答えは、前者は日本人とは言えず、後者こそ日本人である。これまでの推論でそうなる。

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