2016年2月8日月曜日

英語公用語化論 3

 政治学者 施光恒氏は英語公用語化に反対する学者の一人である。
 まず、施氏は英語公用語化推進の基盤をなすグローバル化史観に疑問を呈している。
 ヨーロッパは近代以前、ラテン語がヨーロッパ社会の ”普遍語” であったがこれが英語、フランス語、ドイツ語などの ”土着語” へ翻訳、土着化された。
 この翻訳・土着化の過程を通じてはじめてヨーロッパは近代化されたという。

 「人類の進歩の最も大きな段階と言ってもよいヨーロッパの近代社会の成立を振り返れば、むしろ『普遍語』 でよそよそしい知を、各国・各地域の日常生活の言葉に翻訳し、それぞれの生活の文脈に位置付けていく過程、言わば 『普遍から複数の土着へ』 という過程こそが、近代社会の成立を可能にしたものだと描けるからだ。
 『翻訳』 と 『土着化』 のプロセスを通じて、それぞれの国の一般の人々がなじみやすく参加しやすい、また自信を持って活力や創造力を発揮しやすい各国独自の社会空間を作り出す。
 近代化のカギとはそこにあったと見るべきなのだ。
 そうだとすれば、現在の 『グローバル化史観』、つまり 『グローバル化・ボーダレス化こそ時代の必然的流れ』 であり、進歩であるという見方はまったく正しくないのである。
 また、グローバル化の流れのなかで日本のような非英語圏で 『国語』 の 『現地語化』 が進めば、宗教改革以前の社会のように 『普遍語』(現在は英語)を話す特権階級と、各地の 『現地語』 を話す一般の人々との間の知的格差が復活し拡大することになる。
 『グローバル化史観』 『英語化史観』 の行き着く先とは、ごく一握りのエリートが経済的にも知的にも特権を握り、それ以外の大多数の人々は、社会の中心から締め出され、自信を喪失してしまう世界にほかならない。
 グローバル化の果てにあるのは、たとえばアメリカの 『ウオール街を占拠せよ』 の抗議運動で主張されたように、超富裕層が一国の富の大部分を手に入れ、残りの圧倒的多数が貧困や不自由にあえぐ格差社会である。
 現在のグローバル化・ボーダレス化の流れは、近代化どころか 『中世化』、つまり反動と見るほうが適切だと言える。
 『グローバル化・ボーダレス化こそ進歩だ』 『日本でも英語使用が増えていくのは必然的な時代の流れだから仕方がない』 と思い込んできた人々には、ぜひもう一度、その妥当性や是非を考え直してみてほしい。」
(施光恒著集英社新書『英語化は愚民化』)

 次に、施氏は英語は単なる ”ツール(道具)” ではないという。

 「言語は、単なる 『ツール』 以上のものである。言語は、使う人の自我のあり方(自己認識)に影響を及ぼす。
 それだけではなく、言語の使い手の世のなかの見方全体を変えてしまう可能性がある。
 また、文化や社会のあり方にも言語が大きな影響を与えている。
 重要なのは、我々の知性が言語を作ったのではないということだ。言語が我々の知性を、いや知性だけでなく感性や世界観を、形作ってきたのだ。
 日本であれば、日本語が日本人の考え方や感じ方、日本社会のあり方にまで影響を与えている。
 ゆえに、日本社会の英語化を進めてしまうことは、我々が想像する以上に、日本社会に与えるダメージは大きい。究極的には、『日本らしさ』 や日本の 『良さ』 『強み』
を根底から破壊する危険性をはらんでいる。」
(前掲書)

 楽天とファーストリテイリングの社長宛社内英語公用語化に抗議文を出した言語学者の津田幸男氏も、自著で言葉は単なるツールではなく、心であり、魂であると言う。

 「日本語を護らなければならない第一の理由は、ことばと民族は切り離せないからです。
 つまり、私たちのことばは私たち日本人と強くつながっているからです。
 日本人とはつまりは 『日本語人』 だからです。その日本語が消滅したら、日本人は日本人でなくなります。
 日本語を話さない、使わない、大切にしない、愛さない日本人は日本人ではありません。
 それほどことばと民族性、つまり、日本人であることはつながっているのです。
 日本語は日本文化の中核であり、心であり、魂です。日本語は日本の精神的支柱なのです。
 それなくしては日本も日本文化もありえません。
 『ことばと自分は何者か』 というのは切っても切れない関係なのです。
 海外滞在経験のある方はきっとすぐわかると思いますが、日本語を話せない環境にくらしていてストレスがたまっているときに、ふと日本語が聞こえてくるとホッとするという感覚があります。
 それは日本人だからです。
 (中略)
 現在 『道具としてのことば』 という言語観が支配的です。『ことばは所詮道具なんだから、使いこなせればよい。英語に影響なんかされない』 という人が結構多いのですが、そういう人たちは一度ケニアやフィリピンやインドといった旧イギリス植民地国に行って今なお続く 『英語支配』 により、今でも文化的、言語的、精神的独立が果たせていない現実を目の当たりにするといいでしょう。
 ことばは単なる道具ではありません。ことばと私たちの存在は一体であり、日本語なくして日本も日本人もありえないにです。
 日本語が英語に置き換わってしまったら、日本は日本でなくなります。」
(津田幸男著小学館『日本語防衛論』)

 津田氏はグローバル化にも反対し、むしろ江戸時代の ”鎖国” を再評価すべきと言っている。

 「日本の近代史は 『自己否定』 の歴史といってもいいでしょう。日本は 『自己否定』 しながら、欧米を模倣し、近代国家をつくりました。その過程で江戸時代までの日本を全否定してしまったのです。
 徳川幕府の 『鎖国』 政策も、否定されたものの一つです。
いわく 『鎖国』 が日本の近代化を遅らせたという非難です。この非難は欧米人の歴史観をそのまま受け入れたものです。
 日本は17世紀初頭に徳川幕府が成立したことにより、『日本型近代国家』 をつくり出したのです。
 歴史家のアーノルド・トインビーもサミュエル・ハンチントンも日本は独自の 『日本文明』 であることを認めています。
 そして、『鎖国』 は日本の近代化を遅らせたどころか、『日本型近代国家』 を発展させる原動力になっています。外国の影響力をなくすことにより、日本は自らの社会の発展と充実に集中することができたのです。日本が江戸時代に 『開国』 していたら、間違いなく外国の植民地になっていたでしょう。
 キリスト教を排除したことも江戸時代の日本を平和な国家にした一因です。
 さらに 『鎖国』 は日本人の精神にも良い影響を与えました。『鎖国』 により、情報量は少なくなりましたので、皮肉なことに、日本人の想像力や集中力が高まったのです。それが江戸時代の美術など文化の独自性につながったといえます。情報が多すぎては、人間は気が散ってしまい、集中できません。するとほんとうに良い芸術には到達しないものです。情報があふれる現代において、芸術のレベルが決して高くないのはこのことが関係しています。(前掲書)

 英語公用語化に反対する人は、グローバル化とツールとしての英語に否定的である。賛成論者とは正反対である。
 わが国は外国から入ってきた文化に対しこれを受け入れ・拒絶または修正した歴史がある。英語についても例外ではない。またわが国同様、外国の中にはことばの問題を抱えている国がある。

 英語公用語化は歴史をさかのぼりまた外国の言語事情をしらべ・検証されてはじめてその問題の所在がわかる類のものであろう。
 然らば解を求め、川をさかのぼり海を渡ってみよう。

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