2016年2月15日月曜日

英語公用語化論 4

 激動の時代には人は物事を根本に立ち返って考える習性がある。特に従来の価値観に疑問を抱いた時にそうである。
 近世において国語としての日本語が危機に瀕した時が2度あった。明治維新の初頭と太平洋戦争敗戦直後である。

 まず明治維新初頭の国語について

 明治維新の初期、日本は西洋に比し何もかも遅れている、早急に追いつかねばならぬとの思いが人びとの頭を支配した。
 国語としての日本語もその槍玉にあがった一つである。
 西洋に追いつくためには国語としての日本語を思い切って捨て去り英語を国語化したほうが手っ取り早いという主張がなされた。
 こう主張する人の中で最も有名な人は後に初代文部大臣となった森有礼であろう。
 アメリカで外交官として勤務していた時 日本の教育(Education in Japan)というタイトルで英語で出版した。
 その中の序文で国語英語化論を展開している。

 「日本における近代文明の歩みはすでに国民の内奥に達している。
 その歩みにつきしたがう英語は、日本語と中国語の両方の使用を抑えつつある。
 このような状況で、けっしてわれわれの列島の外では用いられることのない、われわれの貧しい言語は、英語の支配に服すべき運命を定められている。
 とりわけ、蒸気や電気の力がこの国にあまねくひろがりつつある時代にはそうである。
 知識の追求に余念のないわれわれ知的民族は、西洋の学問、芸術、宗教という貴重な宝庫から主要な真理を獲得しようと努力するにあたって、コミュニケーションの脆弱で不確実な媒体にたよることはできない。
 日本の言語によっては国家の法律をけっして保持することができない。
 あらゆる理由が、その使用の廃棄の道を示唆している。」
(文泉堂書店森有礼全集第5巻から)

 Education in Japan 出版に先立って森有礼はアメリカの言語学者ウイリアム・ドワイト・ホイットニーあて英語国語化について見解を問うている。
 ホイットニーの返事は森の主張に否定的で、これをたしなめるものであった。

 「一国の文化の発達は、必ずその国語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多数の者は、たゞ外国語を学ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。
 さうなると、その国には少数の学者社会と多数の無学者社会とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が欠けるやうになるから、その国の開化を進めることが望まれなくなります。」
(前掲書から)

 次に太平洋戦争敗戦直後の国語について

 アメリカの占領軍によって英語公用語や日本語のローマ字表記の提案がなされたが、前者はポツダム宣言の内容に反しているとの日本側の主張によって、後者は識字率調査の結果その利点なしとしていずれも実現しなかった。
 ところが思わぬところから日本語廃止提案があった。
小説の神様ともいわれた志賀直哉からである。

太平洋戦争敗戦の翌年、作家の志賀直哉は雑誌『改造』に国語問題を論じている。曰く

 「 私は六十年前、森有禮が英語を
語に採用しようとした事を此戰爭中、度々想起した。若しそれが實現してゐたら、どうであつたらうと考へた。
 日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像出來る。そして、恐らく今度のやうな戰爭は起つてゐなかつたらうと思つた。
 吾々の學業も、もつと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返す事が出來たらうと、そんな事まで思つた。
 吾々は尺貫法を知らない子供達のやうに、古い國語を知らず、外國語の意識なしに英語を話し、英文を書いてゐたらう。
 英語辭書にない日本獨特の言葉も澤山出來てゐたらうし、萬葉集や源氏物語も今より遙か多くの人々に讀まれてゐたらうといふやうな事までが考へられる。 
 若し六十年前、國語に英語を採用してゐたとして、その利益を考へると無數にある。
 私の年になつて今までの國語と別れるのは感情的には堪へられない淋しい事であるが、六十年前にそれが切換へられてゐた場合を想像すると、その方が遙かによかつたと思はないではゐられない。
 國語を改革する必要は皆認めてゐるところで、最近その研究會が出來、私は發起人になつたが、今までの國語を殘し、それを造り變へて完全なものにするといふ事には私は悲觀的である。
 自分にいい案がないから、さう思ふのかも知れないが、兔に角この事には甚だ悲觀的である。不徹底なものしか出來ないと思ふ。
 名案があるのだらうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに餘り期待を持つ事が出來ない。
 そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。
 それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。
 不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。森有禮の時代には實現は困難であつたらうが、今ならば、實現出來ない事ではない。
 反對の意見も色々あると思ふ。今の國語を完全なものに造りかへる事が出來ればそれに越した事はないが、それが出來ないとすれば、過去に執着せず、現在の吾々の感情を捨てて、百年二百年後の子孫の爲めに、思ひ切つた事をする時だと思ふ。 」
(志賀直哉投稿雑誌改造1946年4月号『国語問題』から)

 このような提案がなされること自体、当時の世相の一端を垣間見る思いがする。

 このように明治維新初頭と太平洋戦争直後の日本語についての代表的な廃止論はいずれも陽の目を見ることはなく今日に至っている。
 そうだからといって、国語としての日本語が全く安泰と言うわけではない。小学校低学年からの英語教育とか英語特区創設などかって日本の歴史で試みられなかったことが試みられようとしているからである。
 最後に、言語問題について外国の事例を見てみよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿