2015年4月13日月曜日

核兵器と戦争 2

 クラウゼヴィッツの戦争についての古典的定義 『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない』 についてクラウゼヴィッツは次のように敷衍している。

 「戦争は政治的やりとりの一部分にすぎず、したがって決してそれ自身独立したものではない。
 もちろん、戦争が政府や国民間の政治的やりとりのなかからだけ発生するということは、誰でも知っていることである。
 しかし、このことは普通、次のように考えられている。すなわち、戦争がはじまるとともに政治的なやりとりは中絶し、独特の法則にしたがう全然ちがった状態が成立するというのである。
 これにたいしてわれわれは次のように主張する。戦争は、他の手段を用いる、政治的やりとりの継続にすぎない。
 ここにわれわれは、『他の手段を用いる』といったが、これは、この政治的やりとりが戦争によって中絶するものでも、全然異なった他のものに転化するものでもなく、用いられる手段が何であれ、政治的やりとりは本質において継続しており、軍事的事件の流れは、戦争から講和にいたるまでつづいている政治の姿にすぎないことを言い表わそうとするためであった。
 またそれ以外に考えようがあろうか? 外交文書の往来がとだえたからといって、政府間や国民間の政治関係もとだえてしまうものだろうか? 戦争とは政治的関係の内容を他の表現法で発表したものにすぎないのではないか? 
 なるほどそこには特別な文法はある。しかし特別な論理はないのである。
 要するに戦争は、決して政治的やりとりから切り離すことはできない。観察にあたって、これを切り離すようなことをすれば、関係のあらゆる糸は切断され、意味も目的もないものができあがる。
 この考え方は、戦争が完全に戦争であり、敵対精神の無制限な発揮であるような場合でさえ、不可欠である。
 というのは、戦争の基礎となり、その主要な方向を規定する諸事物、たとえば、自軍の兵力、敵の兵力、両国の同盟者、両国の国民及び政府の性質等は、いずれも政治的性質をもっていないだろうか?
  それらものは、全政治的関係と密接に結びつき、それから切り離せないのではなかろうか? - さらに次のことを考慮にいれるならば、この考え方は、二重に不可欠となる。
 すなわち、現実の戦争というものは、戦争の本質通りに、首尾一貫して最極端まで行われるものでは決してなく、常に中途半端で、矛盾を含んでいる。
 したがってそれは、その独自の法則に従うことができず、他の全体の一部分とみなされねばならないということである。そしてこの全体が政治なのである。」
(クライゼヴィッツ著淡徳三郎訳徳間書店『戦争論』)

 このクラウゼヴィッツの説を、言い方を変えれば ”戦争とは国際紛争を解決するための政治の枠組みの最終手段” といえる。 政治の枠組みであるからそれはれっきとした制度である。
 この説が成り立つためには、戦争はあくまでも政治の従属物でなければならないという前提がある。

 クラウゼヴィッツは『敵対精神の無制限な発揮であるような場合』でさえ政治的やりとりから切り離せない、としながらも 『現実の戦争というものは、戦争の本質通りに、首尾一貫して最極端まで行われるものでは決してなく、常に中途半端で、矛盾を含んでいる』 といっている。

 ところが第一次世界大戦、第二次世界大戦とすすむにつれ大量破壊兵器が開発され、戦争の様相が変わってきた。
 敵を打倒するという目標が戦争の目的そのもの - 戦争の自己目的化に陥り入り易くなっている。
 そうなれば戦争が政治のやりとりから切り離されクラウゼヴィッツが懸念したように意味も目的もないものになってくる。
 まして核兵器を使った戦争ともなればその懸念はより一層強くなる。

 第二次世界大戦で米軍は広島、長崎に原子爆弾を投下し、非戦闘員20万人以上が犠牲となったが、これは『戦争の本質通りに、首尾一貫して最極端まで行われた』 戦争でありクラウゼヴィッツが現実に予測していなかった戦争である。
 だがこのことが彼の命題 『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない』 と矛盾するものではない。
 彼が予測しえなかったことが起きて、彼の命題に疑問が生じたにはたしかだが戦争の本質は変わることはない。
 アメリカは原子爆弾投下の理由の一つに戦争の早期終結を挙げている。政治的やりとりにほかならない。
 核兵器による全面戦争は、勝者も敗者もない戦争となるといわれて久しい。

 「核兵器などという最終的武器が登場したのだから、戦争はもう不可能になったのだろうか。
 みんながそう言っている。本当にそうなんだろうか。もし戦争が技術的にか政治的にか不可能になったとすれば、国際紛争の解決はどうなるのだろう。
 深刻な紛争でも未解決のまま放っておくのか。いやいや、そんなはずはない。紛争は解決されねばならぬはずだ。
 もし、戦争が不可能となったのであるならば、戦争以上の手段を大急ぎで開発せねばならない。
 オルテガ(20世紀のスペインの哲学者)は、こうして自らの当惑を残しながらも、戦争は国際紛争解決の最終手段であり、戦争の超克は戦争以上に合理的な手段を創造するほかに方法はない、とする命題を放棄するわけにはいかないと考える。
 しかし、そのような明確な表現は遠慮する。そして、ただ、この章の最初のほうで紹介したエピソード、(17世紀スペイン王国の)ボルハ枢機卿の言葉を引用して、講演を終わるのである。
 『陛下、戦争とは、つける薬のないものにつける薬であります』 」
(小室直樹著光文社『新戦争論』)

 ”つける薬のないものにつける薬” とは、散文的に言い換えると ”国際紛争解決の最終手段である” と小室博士は解説している。
 
 次稿でこれに関連しわが国と中国との尖閣諸島問題を具体例として考えてみよう。
 

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