2014年6月16日月曜日

「目覚めた獅子」中国 7

 去る6月1日シンガポールで開かれたアジア安全保障会議で、インドの出席者が、中国が南シナ海の大半に独自に9本の境界線を引き自国領と主張しているのは国際法とは相いれないと批判した。
 これに対し中国人民解放軍の王冠中副総参謀長は、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島やパラセル(西沙)諸島は2千年以上前に中国が発見し管轄下に置いたと答えた。
 日本政府はことあるごとに、東シナ海、南シナ海の問題解決には力による現状変更ではなく法の支配による解決をと、暗に中国を念頭に発言している。
 軍事力や経済力を背景とした力任せの秩序破りをやめ法に従い問題を解決しましょうといわけだ。
 至極まっとうな要求である。が、中国は言う、ケチをつけられる謂れはなにもない、我々は法に従って行動している、と。
 なぜこうも見解が異なるのか。中国の法について分析してみたい。

 まず、中国の司法の現状から。
中国の裁判制度は最高人民法院を頂点として二審制を採用している。
 中国の憲法は裁判の独立を謳っているが下図に示すごとく最高人民法院は独立していない。
 人事的にも予算的にも共産党の影響下にあり、実質上中国の裁判制度は共産党の意向が反映される仕組みになっている。

中国の国家機構構成図(Record China. 中国基本情報資料)
 次に法概念について。
 明治に至るまで、日本には法の概念はなかった。律令はあったが、とても近代法概念とは程遠い。
 日本人は法律がなくてもさして困らなかった。外国と殆ど交流のなかった明治期までは法律が生活に役立つなど考えもしなかった。
 ただ明治になってはじめて法律の必要性を感じた。条約改正である。これを嚆矢として近代法を導入した。何もないところに欧米流の近代法を導入した。
 近代法を導入したはいいがそこは日本流、現代に至るも、法制局長官による憲法第九条解釈が大きな影響力を及ぼしているように、官僚の恣意的解釈がはばをきかせている。欧米ではあり得べからざることである。
 建前はともかく、日本が無条件に欧米流近代法になじんでいない証左でもある。
 サッカーJ1 元名古屋グランパスのアーセン・ベンゲル監督はかって言った。

 「日本人はヨーロッパを美しく誤解している。日本では当たり前に通用する善意や思いやりは、ヨーロッパでは全く通じない。
 隙あらばだまそうとする奴ばかりだ。日本が東京のような大都会とすれば、ヨーロッパはアフリカのサバンナのようなところだ。」

 リップサービスと割り引いて考えても現代のヨーロッパ人の感想だ。近世のヨーロッパの社会秩序は現代よりよかったとは思えない。
 サバンナで生活するには厳格な法概念は不可欠だ。ヨーロッパで近代法が誕生したのは自然な成り行きであった。
 中国はどうか。
 中国には既に二千数百年前に富国強兵と官僚体制を根本とする法家の思想があった。
 これは非常に発達したもので改革の度ごとに法律をつくっている。
 ところが中国の法律は儒教を背景とした法家の思想によって立法されているため、欧米流の近代法とは全く違う。
 日本と違って高度に発達した二千年来の法家の思想を持つ中国は欧米流の近代法を受け入れることはしなかった。
 これが法についての考えが、中国と日本および中国と欧米の間で天と地ほどの開きがある原因となっている。
 ただ、中国は、1997年に刑法についてそれまでになかった欧米流近代法の罪刑法定主義を採用したように一部変化の兆しはある。

 小室博士は中国の道徳の背景には儒教があると言う。

 「仏教、イスラム教、キリスト教は、個人救済の宗教である。
 ところが、儒教は個人救済なんて一切関係ない、集団救済の宗教である。中国の本質の一つは、ここに見てとることができる。
 欧米近代社会のルールでは、個人でも集団でも、いったん契約を交わしたら相手が国家であれ何であれ、一方的な都合でその契約を破ることは許されない。
 ところが、『よい政治を行うことが大事』だとする中国においては、政策が変われば個人と結んだ契約などどうでもいい。
 個々人がどんな迷惑を被ったところで『よい政治』のためならばそんなこと知ったことではない、と考えるのである。
 これを要約すれば、中国人が信用できるか否かの問題ではなく、道徳の根本の前提がちがうのだということなのである。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)

 小室博士は、中国と日本および欧米は、道徳だけでなく法概念も前提がちがっているという。

 「近代法がイギリス、アメリカといった国々で進歩してきたのは、いくつかの革命を通してである。そして欧米諸国に定着した。
 ではそのテーマは何かというと、一言で言えば、法律というのは政治権力から国民の権利を守るものである、ということ。
 近代法はそういう立場に立っている。
 清教徒革命(1642~1660年)、名誉革命(1688年)、それからアメリカ独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)、これらに一貫して流れている精神は、法律とは権力に対する人民の抵抗であるという思想なのだ。
 人民が主権者から自分たちを守る盾、それが法律であると。
 ところが、このような精神がまったく欠落しているのが法家の思想(法教)、中国の法概念なのである。
 立法だとか、法の行使だとか、そういう点についてはとても進んでいるが、『法律とは政治権力から国民の権利を守るものである』という考え方がまるでない。
 考えてみれば、それも当然のことであろう。法家の思想において法律とは、統治のための方法なのだから、法律はつまり為政者、権力者のものなのである。
 韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。
 この場合の『役人』というのは、いまでいう行政官僚のこと。
 一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。
 とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。
 こうした考え方が法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。
 ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのである。」(前掲書)


 日本政府がいくら力による現状変更ではなく法の支配による問題解決といったところで、中国と日本および欧米との法に対する考えがまるでちがっているから話がかみ合わない。
 冒頭の人民解放軍 副総参謀長をはじめ、中国側の発言は、法概念の前提がちがっているため理解しようにも理解できるものではない。中国もまた日本および欧米の法を理解できない。
 法解釈に限っていえば、双方にとって猿の惑星に来て議論しているようなものだ。
 目覚めた獅子の行く末やいかに。

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