2012年12月31日月曜日

空気による呪縛 続々

 キリスト教、イスラム教など啓典宗教(神の啓示を記した書がある宗教)には教義(ドグマ)がある、啓典宗教でない仏教には、厳しい戒律がある。

 しかし、これらの宗教が日本に入ってきた途端、異質なものとなった。

 教義(ドグマ)や戒律は、日本流に変質し、有って無きが如きものになった。

 規範無き宗教の誕生である。否、規範のない宗教などありえないから、それに変わるものが要求されるのは必然。

 代替として空気が登場した。というより代替として空気に求めざるを得なかったというのが正確な表現だろう。

 徳川幕府はキリスト教を弾圧した。弾圧しなければならないほどキリスト教の影響が強かったことの証左でもある。

 キリスト教が、日本人になじみやすい宗教の一つであったことは間違いない。キリスト教は内面と外面を峻別し、信仰上、内面だけが問題であり、外面的なことは問題にされない。

 ところが日本に入ってきたキリスト教は、そうではなかった。日本のクリスチャンは、単なる被造物にすぎない踏み絵を、命にかけて踏まなかった。

 なぜそうなったか。当時の宣教師が、信仰上、内面だけが重要であり、外面的なことは問題ではないと正確に教えなかったせいもあるかもしれないが、日本人特有の物に感情を移入するという行動様式があったのではないか。

 そして、このことがただ神の存在のみを信じることによって信仰が成り立つというキリスト教本来の信仰から遠ざかった。

 イスラム教は日本になじみのない宗教のようだ。日本に入ってきた形跡もないし、現に日本人のイスラム教徒を見かけることもない。

 イスラム教は、宗教と社会あるいは国家さえ別々に捉えることはできないほど人々の中に組み込まれている。

 反イスラムの映画「イノセンス・オブ・ムスリム」がイスラム教を侮辱するものだとして、2012年9月11日のエジプトのカイロでの米国大使館の襲撃と、リビアのベンガジの米国領事館の大使館職員の車に対するロケット弾攻撃など、2012年アメリカ在外公館襲撃事件の引き金となったが、これなど宗教が個人とも社会、国家とも一体となっていることの裏返しである。

 この内外両面にわたり厳格な教義に拘束されるイスラム教ほど、教義を反古にし、戒律を反古にする日本という風土にあわないものはない。日本にイスラム教が入らないのも宣なるかな。

 最も日本になじんでいるとおもわれる仏教はどうか。仏教の戒律は、本来厳格であるというのが仏教学者の一致した見解である。

 にも拘わらず仏教が日本に入ってきた途端、次々に戒律が解かれ本来の仏教とは似ても似つかぬものになった。

 肉食、妻帯などその典型である。自らの都合のいいように宗教を解釈し、神仏はあたかも自分の御利益のために存在するかの如くである。

 神仏を並べて崇拝するなど、本来仏教徒にとってあるまじき行為を平気で行っているのも、また日本人なのである。

 このように日本社会には、厳密な意味での宗教は根付かないで、日本流に解釈された宗教になり、いはば日本教徒キリスト派、日本教徒仏教派なるものが誕生した。

 教義や戒律がなきに等しい社会、国家は、支えとなる確かなものがない。そのような社会、国家は不安定である。

 したがって、これらに替わるものが要求されるのは必然。歴史的にも、独裁的なるものになじまない国民性から、漠然としたその場の空気のようなものが入り込んできて、これが逆に、人々を拘束するようになった。

 空気は社会の連帯感を醸成し、安定をもたらす意味では宗教の役割の一端を担うことができる。反面、空気は身近な居ごごちよさ、安定を求めるあまり、これに反する分子には拒絶反応する。  そのやり方は、時として、教義や戒律を破ったものに対する懲罰にも匹敵するものになる。

 その意味では極めて宗教的といえる。山本七平氏は日本人の宗教を日本教といったが、この表現は日本人の宗教に対する行動様式を考えれば思い半ばに過ぎよう。

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