2012年12月17日月曜日

台湾雑感

 台湾ツアーに参加した。ほんの駆け足で台湾を一周した。南国台湾は陽気で親切、端々に親日的な表情がよみとれる。
 もちろん陽気なばかりではないだろう。台湾の人の陽気な表情の影にはかなしみもあるだろう。
 それをよみとるとすれば、台湾の歴史に遡らなければならない。歴史的には大陸中国は、長らく台湾を中華文明の及ばない「化外の地」として領有に関心を示さなかった。
 それが日本の敗戦を機に突如、外省人(大陸中国人)として、台湾に乗り込んできた。
 「犬去りて、豚来たる」と評されたように、日本の絶対君主制が終わったら、国民党による一党独裁が始まった。
 本省人(台湾人)は、外省人による汚職、差別などに悩まされるあまり、日本統治時代を懐かしんだ。
 また台湾人が、「アメリカは日本に原爆を落としただけだが、台湾には蒋介石を落とした」というように、独裁がもたらす災厄に強い警戒心をもっている。
 現地のガイドさんはいう 「我々は民主主義国だ、日本と同じ、中華人民共和国とは違う、彼らは僅か7人で政治を行う」 と。
 中国本土との経済的な結びつきが益々強くなり、いずれ統合もと考えられるかもしれないが、この台湾人の民主主義を求める精神は、経済的な絆だけでそう簡単に妥協するとは考え難い。
 日清戦争に勝利した日本は、1895年4月下関講和条約によって清国より台湾の割譲を受けた。この割譲について第三代台湾総督の乃木希典は言った 「貧乏人が馬をもらったようなものだ」 と。
 この乃木の言葉から、当時の日本の国力では台湾を統治すのは容易ではなかったことがうかがえる。しかし日本は領土獲得後、日本国内と同じように扱うという内地延長主義をとり、インフラ整備、教育の普及、産業育成、アヘン撲滅等、西洋列強の搾取する植民地政策とは異なる政策で台湾人の支持を得た。
 一方的に搾取する西洋式植民地政策ではなく、開化して統治する内地延長主義が、台湾人の心を惹きつける原因の一つとなったことは間違いなかろう。
 台湾近代化の父と呼ばれる後藤新平は、アヘン対策で、アヘンを専売制にし常習者のみ販売するが、新たに吸引するものは厳罰に処した。
 「ヒラメの目を鯛の目に付け替えることはできない」の喩えで、悪習といえども他民族の習慣を尊重しながら、時間をかけ無理なく目的を達するという目覚しい手腕を発揮した。
 その他後藤は数々の台湾近代化の基礎を築いた。台湾南部に烏山頭ダムを建設し治水と灌漑に貢献した八田興一、日月漂の水力発電事業を完成させた明石元次郎などはいまだに台湾人から深い敬意をもって評価されている。
 海外、特に中国、朝鮮半島における日本人の所業のマイナス面ばかりが取りざたされる昨今だが、この地、台湾での先人の業績は、救いとなり、我々に希望と勇気を与えてくれる。
 かって、尾張からやってきて肥後藩主となった加藤清正は、道路、治水の整備など土木建設で領内の基盤を築いた。他の殆どの大名とちがって、単に統治しただけでなく、農業、土木技術で功績をあげた。人々は、彼を清正公(せいしょこ)さんと呼び今なお人気が高い。
 良いものを良いとして素直に受け入れる柔軟な心のありよう。
 この心は台湾と日本に共通しているようだ。これが親日台湾の基礎になっているとすれば、我々の励みにもなり、将来への自信へと繋がる。
 もっとも台湾との関係は、順風満帆ばかりではなかった。1972年9月日中共同声明第三項
中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」
 この声明に田中角栄首相と周恩来首相が署名した。日中国交回復のために、台湾との日華平和条約を終了させた。世界で最も親日的な台湾を、日本政府は切り捨てたのである。
 この非情な仕打ちに台湾は、当然ながら怒ったが、大事に至らなかった。長い日台関係の歴史に救われたともいえる。
 現地のガイドさんの説明はつづく 「いま台湾は26ヶ国と国交を結んでいます。グアテマラ、パラグアイ、ハイチ、ドミニカ、・・・・・・・・」 日本とは国交がありませんとは言はないし、まして1972年に国交断絶しましたなどとは言わない。
 それに触れないだけに、より一層、後ろめたい気分になる。

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