2015年12月14日月曜日

資本主義と自由について 3

 フリードマンは1950年代と1960年代を通じ経済理論の世界で巨星のように聳え立っていたケインズ理論の批判によって俄然注目を浴びた。
 1929年の大恐慌の原因は、ケインズは資本主義の欠陥によるといったが、フリードマンは貨幣政策の失敗であるといった。
 ケインジアンはインフレと失業がトレードオフの関係にあるフィリップス曲線を根拠に政府が財政と金融に積極的に介入すべきであると説いたが、フリードマンはフィリップス曲線を否定した。
 またフリードマンはケインズの貨幣論を否定しマネーサプライと物価に着目し貨幣数量説をとなえ”インフレは貨幣的な現象だ”と主張した。
 マネーサプライはルールによって実施されるべきで政府の裁量によるべきではない、とも。
 この一連のケインズ批判によりフリードマンの名声は確固たるものになった。

 フリードマンは、自由社会における政府の役割を制限すべきであると主張した。そして政府に委ねるべきではない仕事のほんの一部として14項目を挙げている。
① 農産物の買取保証価格制度
② 輸入関税または輸出制限
③ 産出規制
④ 家賃統制、全面的な物価・賃金統制
⑤ 法定の最低賃金や価格上限、法定金利
⑥ 細部にわたる産業規制、銀行に対する詳細な規則 
⑦ 連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制
⑧ 現行の社会保障制度、とくに老齢・退職年金制度
⑨ 事業・職業免許制度
⑩ 公営住宅および住宅建設を奨励するための補助金制度
⑪ 平時の徴兵制
⑫ 国立公園
⑬ 営利目的での郵便事業の法的禁止
⑭ 公有公営の有料道路
(ミルトン・フリードマン著村井章子訳日経BP社『資本主義と自由』から)
 政府の役割を抑えた小さな政府の提言である。
 彼には、自由を守り自由の範囲を広げることは、自由主義に則った制度であれば、国家の強制に比べてたとえ速度は遅くとも、確実に各自の目標を実現できるという固い信念がある。
 彼の提言は、現状を鑑みてもアメリカに止まらずその他の資本主義諸国にも広がった。わが国に対しても例外ではない。
 特筆すべき分野は、財政・金融関連であろう。マネタリストといわれる彼は、この分野で世界を席巻するほどの影響を及ぼしした。
 サッチャー政権やニクソン・レーガン政権の政策に採用されたのだから。
主だったものは

1 貨幣量調整による所得政策 名目GDPにあわせて貨幣量を調整することによって景気を安定させる

2 変動為替相場制の提案 ドルと金の兌換を止め変動相場制にすることによって国際収支は均衡させる

3 負の所得税政策 一定の所得に達していない人には補助金を与え貧困を軽減する


上記提言の結果はどうか。与えた影響の割に成果は心もとない。

1 名目GDPにあわせて貨幣量を調整する方法はインフレ対策にはなったが必ずしも景気を安定させたとは言えない。
 1982年の金融危機時アメリカはフリードマンの提言によらず、大幅な金融緩和という実践的な対処方法で切り抜けた。

2 変動為替相場によって国際収支を均衡させるのが目的であったが、ニクソン政権によるドルと金との兌換禁止後、貿易赤字は解消されなかった。 

3 負の所得税対策は辛うじて所期の目的を達成している。


 このように採用された政策は必ずしも目的を達せず、影響も限られる。
 フリードマンの影響が最も顕著になるのは、彼が名声の絶頂期で死去した後であろう。
 彼の思想と直接的なかかわりはないが、少なくとも影響を受けたと思わせる施策に端を発した諸々の事件が文字通り世界を駆け巡った。


2015年12月7日月曜日

資本主義と自由について 2

 ミルトン・フリードマンが現れるまでの経済学の潮流を大雑把にスケッチしてみよう。

 ”経済はそれ自体の法則で発展する” ということは、経済の発展は国家とは本来関係ないということである。
 これが社会契約説を唱えたジョン・ロックの経済思想である。
この思想を経済学として確立したのがアダム・スミスである。
 古典派経済学とは、カール・マルクスの命名によるといわれているが、アダム・スミスはこの学派の中心人物の一人である。
 古典派経済学の経済理論の本質は、”セイの法則” である。セイの法則とは”作ったものは全て売れる” という理論である。
 ところが1929年アメリカの大恐慌は、作ったものはちっとも売れず、見えざる手によって導かれる筈の自由放任の古典派経済学のマーケットメカニズムはいっこうに作動しない。
 そこでジョン・メイナード・ケインズは古典派経済学の理論とは逆のことを考えた。
 作ったものが売れるのではなく、売れるものが作られる。供給が需要を作るのではなく、需要が供給を作のだ、と。
 このケインズの有効需要の理論がアメリカの政策として現実に採用されるまでには紆余曲折があった。最終的には第二次世界大戦勃発によって途轍もない需要が生まれため大恐慌は収まった。ケインズの有効需要の理論が実証された。
 かくて戦後の一時期、特に60年代はケインズ経済学の全盛時代であり、この時期にフリードマンは現れた。

 フリードマンはケインズ経済学に反旗を翻した代表的な経済学者の一人である。
 ケインズ経済学の本質である公共投資による有効需要政策の効果を否定したのだ。
 サミュエルソンを筆頭にアメリカのケインジアンたちは、インフレと失業との関係について、

 ”失業を低下させるために財政出動などで景気を刺激するとインフレが昂進し、逆にインフレを低下させるために財政出動などを止めて緊縮財政にすれば失業が増える。” 

 これを 『フィリップス曲線』 で説明し、失業とインフレを同時に解決することはできず、いずれかにしなければならないと主張した。
 ところが、1960年代後半からのアメリカはインフレは昂進するは失業は増えるはのダブルパンチを浴び、いわゆるスタグフレーション現象になった。
 フリードマンはこのスタグフレーション現象を指摘し、そもそも『フィリップス曲線』 が失業率を財政出動などで下げようとしていることが前提となっているが、この考え自体が間違っていると主張した。
 彼は自著 『インフレーションと失業』 で失業率がインフレ率に連動しない自然失業率なるものが存在し、これを財政出動などでさらに下げようとしても下がらずインフレだけが昂進すると言っている。
 インフレ政策をとれば、労働者は従来の賃金に甘んずることく、インフレに見合った賃金を要求するだろう。
 そうであれば実質賃金が下がらないため、あらたに雇用する余地が生ぜず失業率を低下させる効果もない。

 さらにフリードマンは、ケインズ経済学の核心の一つでもある消費性向についても批判している。
 国民の消費は、利子率やその他諸々の要因よりも所得の変化に左右される。しかも所得に対する消費性向は変わらない。
 仮に所得500万の人の消費性向が30%と仮定し、この人の所得が1割増加したとしよう。この人は消費を15万(50万x30%)増やすだろう。逆に1割所得が減れば15万円消費を節約するだろう。
 したがって民間が設備投資を控える不況期においては、景気をよくするためには政府が財政出動して国民の所得を増やし消費を刺激し景気をよくするほかない。これがケインズのいう消費性向である。

 これに対しフリードマンは、国民の消費は必ずしも短期的な所得の変化に左右されないことを、実証的研究で発表した。
 そして彼は、消費は、短期的な変動に左右されず、長期的な恒常所得に左右されるという仮説をたて、証明を試みた。
 恒常所得の仮説とは、人々が将来所得が増える見込みがあれば消費を増やすが、逆に将来所得が増える見込みがなければ消費を控えることをいう。
 折りしもフリードマンが、恒常所得仮説を発表したころアメリカはスタグフレーションに苦しみ、ケインズ経済学の理論に疑問符が付され、フリードマンの仮説が注目された。
 1970年代から1980年代はじめにかけてフリードマンの仮説は脚光をあびた。フリードマンの光の部分である。
 だが1980年代が進むにつれてそれが色あせてきた。フリードマンに影がさしてきた。

2015年11月30日月曜日

資本主義と自由について 1

 アダム・スミスは、”見えざる手” によって導かれる市場の自由放任を主張した。
 アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンはこの思想をさらに徹底した。
 彼の主張は1980年代のロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーなど英米の政治家によって支持された。

 彼曰く、個人の自由は最大限に尊重されなければならない。ただし、国防と必要最小限の政府の機能は例外である。
 自由の尊重とは、個人の自由を尊重するとともに他人の自由を侵害しないことが条件である。
 このことは、ある点では平等を、ある点では不平等を支持することになるという。

 「自由と平等を促進するような政策、たとえば独占を排除して市場機能を強化するような政策こそ、自由主義者にとって好もしい。 不運な人々を助けるための慈善活動は、自由の生かし方として自由主義者にとって望ましい。
 貧困をなくすための政府の事業も、多くの市民にとっての共通目標を達成する効率的な手段として、自由主義者は是認するだろう----ただし、自発的な行動ではなく政府による強制に委ねることを残念に思いながら。
 ここまでは、平等主義者も同じであろう。だが、平等主義者はさらに一歩踏み出そうとする。
 彼らが 『誰かから取り上げて別の誰かにあげる』 ことを認めるのは、目標を達成するための効率的な手段だからではなく、 『正義』 だからなのだ。
 この点に立ち至ったとき、平等は自由と真っ向から対立する。ここでは平等か自由のどちらかしか選べない。
 この意味で、平等主義者であると同時に自由主義者であることはできないのである。」
(ミルトン・フリードマン著村井章子訳日経BP社『資本主義と自由』)

 彼は、何事によらず政府が個人に対して干渉したり強制したりすることはよい結果をもたらさないという。

 「政府の施策が持つ重大な欠陥は、公共の利益と称するものを追求するために、市民の直接的な利益に反するような行動を各人に強いることだ。
 利害の衝突や利害を巡る意見対立が起きたようなときにも、衝突の原因を取り除いたり対立する相手を説得するといったことはせずに、相手に利益に反することを強制しようとする。
 政策が依って立つ価値観は、当事者の価値観ではなくて、第三者の価値観なのだ。
 だから 『これこれが諸君のためになる』 と押し付けたり、『誰かから取り上げて別の誰かにあげる』 ようなことになる。
 しかしこのような政策は、反撃を食う。人類が持っている最も強力で創造的な力の一つ、すなわち何百何千万の人々が自己の利益を追求する力、自己の価値観にしたがって生きようとする力の反撃に遭うのである。
 政府の施策がこうもたびたび正反対の結果を招く最大の原因は、ここにある。この力こそは自由社会が持つ大きな強みの一つであり、政府がいくら規制しようとしてもけっして抑えることはできない。
 いま私は利益という言葉を使ったが、これは何も狭量な私利を意味するのではない。その人にとっての尊い価値、財産や命を投げ出しても守りたい価値すべてをこの言葉は意味している。
 ヒトラーに抵抗して大勢のドイツ人が命を失ったのも、そうした気高い利益を追求した結果である。
 莫大な労力と時間を慈善事業や教育活動や宗教活動に注ぐ人々も、そうだ。
 こうした利益を何より大切にする人は、たしかにごく少数であろう。が、それを存分に追求することを認め、大多数の人の心を占める狭い物質的な利益に屈服させないことこそが、自由社会の良さなのである。
 だから資本主義社会は、共産主義的な社会ほど物質至上主義に陥らない。」(前掲書)

 ミルトン・フリードマンの自由に対する信念は筋金入りで揺るぎない。
 彼のこの信念は、レーガノミクスやサッチャリズムとなって結実し、わが国では、橋本内閣や小泉内閣の政策に影響を及ぼしたと言われている。
 これほどの影響をあたえた彼の思想であるが、万事よいことずくめではない。
 全ての他の思想と同じく与えた影響には光もあれば影もある。その評価も分かれ議論百出であるが、あえて今一度考えてみたい。

2015年11月23日月曜日

日本型資本主義 4

 社会の格差をデータで指摘したトマ・ピケティの『21世紀の資本』が西欧世界で脚光を浴び、それが日本にも波及している。
 格差が著しいアメリカでの反響が特に大きいという。
 格差の問題はいかなる社会体制でもまた時代を問わず常に存在してきた。
 わが国も例外ではないが、アメリカの格差と比較すればまだ穏やかであろう。
 資本主義体制の日本にとっては格差も大きな問題ではあるがそれ以前に解決すべき課題がある。
 資本主義に不可欠な自由な社会基盤が真に担保されているのかという疑問である。
 社会科学者も指摘したように最も成功した社会主義国と言われるようなお国柄である。

 それでは資本主義国 日本の実状はどうか。
 日本は民主主義と市場主義経済の国であることに異論はない。だがそれは建前であり、実態は管理された民主主義と市場主義経済の色が濃い。
 真の民主主義と市場主義経済社会にはみられない日本特有のジャーナリズムと官の関与があるからである。
 分かり易い例を一つ。
 日本社会には、”記者クラブ” なるものが存在する。情報は管理され真に国民が知りたいことは知り得ず建前の情報しか流れてこない。
 新聞、テレビなど現時点でメジャーなメディアの情報はこの手のものばかりである。
 記者クラブは政府機関に限らずひろく民間の隅々まで浸透している。この意味において情報管理はわが国全体に行き渡っている。
 国民が真の情報を知るには、雑誌やインターネットなどの真偽織り交ぜた厖大な情報のなかから推測する他なく、国民の多数は管理された情報を知らされるだけである。  
 この傾向は強くなるばかりで、国境なき記者団が発表した、2015年度の『世界報道自由度ランキング』では日本は過去最低の61位にまで成り下がっている。

 また日本社会には官による ”行政指導” なるものがある。
 行政指導は法律に定められているわけではない。まして国会で議決されたものなどでもない。
 所掌の官僚が裁量により判断し当該業界に指示するやり方である。
 業界もまた阿吽の呼吸でこれを受け止める。この暗黙のルールは無言の圧力となって業界を締め付けこれに逆らうことはできない。逆らえばその結果どうなるかが見えているからである。
 何のことはない、日本は官民が一体となった管理社会ではないか。共産党一党独裁の中国を非難してばかりはいられない。
 真の意味で自由と民主主義を母体とする市場主義経済などとは言えない。

 政府の方針にもまして強い影響力をおよぼしかねない行政指導であるが、この指導は官僚に特有な伝統主義で粛々と実行される。
 伝統主義とは伝統を大切にするという意味ではなく、以前に行われたこと、そのこと自体が正しいとするエートスである。
 社会科学者の大塚久雄博士は伝統主義について説明している。

 「先祖や父母たちがやってきた、そして、自分たちも今までずっとやってきた、そういうことがらを、過去にやった、あるいは過去に行われたという、ただそのことだけで、将来における自分たちの行動の基準にしようとする倫理、あるいはエートスです。」
(大塚久雄著岩波新書『社会科学における人間』)

 役人の世界では、あらゆる不正のもまして許されないものがあるという。それは前例を覆すことである。
 前例に逆らえばその役人の前途は途絶えかねない。
それでは一体、役人はいかなる心構えで仕事するのだろうか。
 『仕事せず』 がその答えである。

 「 『仕事せず』 とは一見仕事しているように見せかけながらも、本当の仕事はするな、具体的に言えば、行政官として新規の事業を自分から旗を振ることは避けろ、ということなんですよ。・・・・・・
 たとえば、ある政策が国民のために役立つとわかっていても、ひとりで動きだせば反対者も必ず出てくる。
 押し切って政策を実現させれば、失敗したら当然、責任を取らされる。
 役所は減点主義で勤務評定にはプラスの面はあまり評価の対象にはならないのです。
 いかにマイナスを出さないようにするか。これが役人の真髄なんですよ。」
(宮本政於著 講談社 『お役所の掟』 )

 革新が命である資本主義にはあり得べからざるエートスである。
 課題を解決するには、何が問題かを正しく認識することが前提である。
 革新が命である資本主義、これとベクトルが180度異なる伝統主義。この違いを認識すること。
 この違いが認識できなければ、瑞穂型資本主義といっても所詮それは空虚に響く。

2015年11月16日月曜日

日本型資本主義 3

 ”ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義” と再登板前の安倍首相が語ったようにアングロ・サクソン型資本主義は日本人に対して必ずしもよい印象を与えていない。
 
中国は鄧小平の号令によりそれまでの計画経済から社会主義的市場経済政策を採用し資本主義への道を歩むかと思われたが現状はとても資本主義とは言えない。資本主義の母胎となる自由な社会基盤を欠くからである。
 日本は海外の社会科学者から最も成功した社会主義国だと皮肉を込めて揶揄されるように真の資本主義社会とは言えない。
 資本主義社会ではあり得べからざる度を過ぎた官僚の介入を許しているからである。
 資本主義精神である目的合理的精神と行動的禁欲はアングロ・サクソンのピューリタンの中で芽生え発展した。

 アングロ・サクソン型資本主義こそ資本主義の本家本元である。
 資本主義発祥の地イギリスは、中世時代の海賊の本性を発揮し海外の植民地から富を略奪し資本を蓄積し、その資本で産業を興し資本主義社会を実現した。
 資本を蓄積した社会はイギリス以外にも数多く存在したが、何処にも資本主義は芽生えなかった。
 資本主義の精神を欠いていたからである。
 資本主義社会は革新的な企業家・経営者と資本を提供する資本家・銀行家によって成り立つ。
 企業家・経営者は株主利益を最大化するように目的合理的に経営する。
会社は株主のものであるからである。

 ドナルド・ドーアは自著 『金融が乗っ取る世界経済』 のなかで次のように言っている。
 「資本主義が発達するにつれ経済の中で金融の占める割合が大きくなってきた。企業利益のなかで金融の占める割合がアメリカでは1946年から50年の間に9.5%だった金融業の利益の構成比は、2002年に41%に達した。・・・・・
 新自由主義思想が支配する民主国家では、生存権、発言の自由など様々な権利があるが近年 ”所有権” が他の権利より優勢になってきた。」 と。
 新自由主義的アングロ・サクソン型社会では経済の金融化がすすみ富の分配が不均等になり、格差が拡大する。
 またデリバティブ、サブプライムローンに見られる不確実性、不安の増幅と信用の失墜が見られるがこれらは金融資本主義に伴い発生する特性でいわば金融資本主義の副作用である。
 だが資本主義にはこれら痛みを伴う副作用を補って余りある特性がある。
 イノベーション・革新である。近年のイノベーションはバイオ、インターネット等すべてアングロ・サクソン資本主義社会の中で育った。
 資本主義社会でイノベーションが起きなかったらどうなるか。資本主義は衰退し行き着く先は、限られたパイを奪い合う活力なきゼロサム社会に成り果てるであろう。
 この意味において革新・イノベーションは資本主義の命と言ってもいい。
 アングロ・サクソン型資本主義は、劇薬であり、これを飲むにあたっては副作用も覚悟の上でということになる。
 瑞穂の国はいずれの道を採るべきか。

2015年11月9日月曜日

日本型資本主義 2

 2013年4月安倍首相の肝いりで 『目指すべき市場経済システムに関する専門委員会』 という日本型資本主義を議論する専門調査会を設置した。
 目指すところは、企業の利益配分を株主偏重から家計に払う賃金を増やしやすくする環境整備である。
 そして2015年の春闘を前に安倍首相は自ら率先して主要な経済団体に対し賃上げを要請し、経営者側も首相の要請にそれなりに応えた。
 会社はだれのものかとの問い対し,日本の経営者が答える決まり文句がある。

 「法的には会社は株主のものかもしれないが、株主は儲からないとなればすぐ株を売り払ってしまう。
 会社はそこで汗水流して働く経営者と従業員によって成り立つ。実質上会社は経営者と社員のものだ。」

 わが国には戦前、機能集団である会社とは別に村落共同体があった。
 戦後この村落共同体が機能集団である会社に紛れ込み、会社が機能集団と村落集団を併せ持つ集団と化した。
 本来機能集団である会社にはあるまじき会社主催の運動会、文化祭など村落集団が受け持つべき役割をも果たすようになった。
 終身雇用制度と企業内組合による労使協調によって経営者は短期の業績に振り回されることなく腰を据えて長期計画を建てることができた。
 従業員は会社の発展のためとあれば粉骨砕身、場合によっては無報酬で残業を引き受けた。
 会社、経営者、従業員は運命共同体であり、会社のためとあれば極端な場合、違法行為をも辞さない集団と化した。
 会社の内と外の規範が異なることが、この種の集団の特徴であることは、社会学者が指摘するところである。
 また日本経済の際立った特徴として政治家と官僚の深いかかわりがある。
 彼らは利権や利益配分などで財界と癒着し、政官財トライアングル癒着の ”日本株式会社” と揶揄された。
 この現象は高度経済成長期に頂点に達し、日本型資本主義の成果と内外で喧伝された。

 日本型資本主義の大雑把なスケッチはおおよそこんなものであろうか。
 社会学者によれば、資本主義社会になるには、それに叶う条件が充たされなければならないと言う。
 明日から資本主義になりますと宣言しただけでなれるものではない、と。
 その条件とは、行動的禁欲と目的合理的精神を併せ持つ社会であり、労働は救済であるという社会にのみ資本主義は芽生えると言う。

 日本型資本主義は、果たしてこの定義にあてはまるだろうか。
 日本にはもともと資本主義が芽生える素地があったという学者もいる。
 日本の主神 天照大神ははみずから繭を育て機を織った。天皇陛下は毎年決まって田植えをされ、稲を刈り取られるではないか。
 薪を背負って勉学に勤しんだ二宮金次郎の銅像が日本中の小学校校庭にあったではないか。
 これぞ日本人が資本主義精神を生得持ち合わせている証左ではないのか。

 たしかに日本では勤勉が尊ばれ日本人が資本主義の素養を備えていたことは間違いない。
 資本主義社会においては形式的には会社は株主のものである。
 形式的にというが、契約がすべての資本主義社会ではこの形式が全てであり、これ以外の解釈はない。
 また日本人が資本主義精神を充たしているかと言うと必ずしもそうではない。
 特に目的合理的精神の欠如はいかんともし難い。先の大戦でのこの精神の欠如は眼に余る。
 日本は軍国主義と非難されたが、日本が軍国主義であったのは精神論のみであり、戦争に勝利するという目的に対する合理的精神が欠如していたと戦争史家は指摘している。
 このような観点に立てば日本型資本主義が、資本主義でないこと思い半ばに過ぎよう。
 このことを十分腑に落とし込にでおかないとその後の展開が読めなくなってしまう。
 次にアングロサクソン型資本主義とは如何なるものだろう。

2015年11月2日月曜日

日本型資本主義 1

 自民党の安倍晋三議員が再び首相に返り咲く直前の2012年12月雑誌文芸春秋2013年1月号に ”新しい国へ”  というタイトルで自らの資本主義観を披露している。

 「私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。
 自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります。」 

 だが安倍議員は首相就任後、瑞穂の国の資本主義など忘れたかのごとく、自らドリルとなって規制を打ち砕きわが国の構造を改革すると内外に宣言し、ひたすらアングロサクソン・新自由主義的政策を推進している。


 またイギリス人社会学者で日本研究家として知られるロナルド・ドーアは2001年に日・独とアングロサクソンの資本主義の違いについて言及しその行く末についてこう述べた。

 「日本型およびドイツ型の資本主義が、ゆくゆくは英米型資本主義に同化するのか - つまりイギリスとアメリカの間の違いぐらいしか両国と違わないようになるのか - という問いかけに対しては、今になっても、この本の最終章を書いた時よりも断定的な結論を下す勇気はない。『結論のない結論』で読者には申し訳ないのだが、あと10年ぐらい待っていただきたい。」
(東洋経済新報社ロナルド・ドーア著藤井眞人訳『日本型資本主義と市場主義の衝突』)

 そして12年後の昨年、日本がより一層新自由主義的政策に傾き日本観が変わったと嘆いた。

 「私の対日観を変えたのは、その後の憂うべき右傾化である。その原因は、中曽根や小泉など、我の強い政治家個人の世界観の影響もあっただろうが、12年前に書いた『日本型資本主義と市場主義の衝突』(東洋経済新報社)で述べたように、米国のビジネス・スクールや経済学大学院で教育された日本の 【洗脳世代】 が、、官庁や企業や政党で少しずつ昇級して、影響を増して、新自由主義的アメリカのモデルに沿うべく、 【構造改革】 というインチキなスローガンの下で、日本を作りかえようとしてきたことが大きな原因だったと思う。」
(藤原書店ロナルド・ドーア著『幻滅』)

 安倍議員によって、”瑞穂の国の” と形容され、またロナルド・ドーアによって”日・独形”と形容されて、アングロサクソン型資本主義と対比される日本型資本主義であるが、この日本型資本主義とは何だろう。アングロサクソン型資本主義とどう違うのか。
 そして日本にとってとるべき道とは。
 わが国は今趨勢としてロナルド・ドーアが指摘したように日本型資本主義からアングロサクソン形資本主義により比重が移っている。
 ここで一度立ち止まってこの問題是非につき問うてみたい。