2018年9月10日月曜日

ガブリエルの新実在論 2

 ガブリエルの新実在論は、物理的な対象だけでなく、思想、信念、感情、さらには妄想や空想までも存在すると考える。
 それまでの実在論から対象を広げたものになっている。
存在することとは、何らかの意味の場に現象することである。意味の場こそが存在論の基本であるといいこれについて例を挙げ説明している。

 「草原にいる一頭のサイを考えてみましょう。このサイは、たしかに存在しています。要するに草原に立っているわけです。
 このサイが草原に立っているという状態、このサイが草原という意味の場に属しているという状態、この状態こそ、当のサイが存在しているということにほかなりません。
 したがって、存在するとは、たんにごく一般的に世界のなかに現れていることではありません。
 世界をなすさまざまな領域のひとつのなかに現れていること、存在するとはそういうことです。」

 「何らかの意味の場に何かが現象することがありうるためには、その何かがそもそも何らかの意味の場に属していなければなりません。
 たとえば、水はガラス壜のなかにあることがありえますし、何らかの着想はわたしの世界観に属するものでありえます。同じように、ひとは国民として何らかの国家に所属していることがありえます。3という数は自然数に属しています。分子は宇宙の一部をなしています。
 このように何かが何らかの意味の場に属しているわけですが、その属し方こそが、その何かの現象する仕方にほかなりません。
 決定的なのは、何かの現象する仕方がいつでも同じではないということです。
 すべてが同じ仕方で現象するわけではありませんし、すべてが同じ仕方で何らかの意味の場に属するわけではありません。」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 存在は意味によって棲み分けがなされる。たとえばわたしの左手は自分に対して芸術作品として現象することもあるし、食事するための道具として現象することもあるとガブリエルは言う。

 「存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。
 わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。
 だとすると、次のような問題が生じないでしょうか。
意味の場もまた対象である。意味の場についても、真偽に関わりうる思考によって考えることができるからだ。
 そこに何かが現象していること、これが意味の場の性質だとすると、やはり存在は対象の性質であるということになるのではないか。
 だが、意味の場もやはり意味の場のなかに現象する(さもなければ存在するとは言えない)となると、これは矛盾しているのではないか、と。
 しかし、そのような矛盾は生じません。それはー逆説的にもーそもそも世界が存在しないからです。存在しているのは、無限に数多くの意味の場だけです。」(前掲書)

 意味の場の意味の場は存在するがすべてを包摂する意味の場は存在しえない。これがなぜ世界が存在しないかの答えである。
 ガブリエルは、存在の対象を広げたり、なぜ世界は存在しないのかと問いかけている。彼の意図するところは一体何か。

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