2018年9月3日月曜日

ガブリエルの新実在論 1

 古代ギリシャの若い政治家カリクレスがソクラテスと哲学談義して言う。
 「かくて、ものごとの実相は以上述べたとおりであるが、あなたもいいかげんにもう哲学から足を洗って、もっと人間の重大事に向かうならば、この真相がわかるようになるだろう。というのは、哲学は・・・人間をだめにしてしまうものだ。
 ほかでもない、せっかくすぐれた素質にめぐまれていたとしても、その年ごろをすぎてもなお哲学をやっていると、ひとかどの立派な人物となって名をあげるためにぜひ心得ておかねばならないことがらを何ひとつ知らぬ人間になりはてること必定だからだ。」

 「いい年をしてまだ哲学にうつつを抜かしていて、いっこうそこから足を洗わぬような男を見ると、そんな男は、ソクラテス、ぶんなぐってやらねばならないと思うのだ。」
              (プラトン『ゴルギアス』)


 若い時ならまだしもいい年して哲学に熱中するなどバカげている。処世術とか儲け術など役にたつことを考えるべきだということだろう。
 至極もっともなことで、これは古代ギリシャに限らず現代にも通用する言葉であろう。なぜなら人は若いとき、人生の意味など哲学的なことを考えるが年とともにそれらのことに無関心になるのだから。

 だが関心の有無にかかわらず哲学はいつの時代も社会の指針となってきた。哲学はわれわれがそれと気づかないところで大げさにいえばわれわれの運命を左右している。
 ドイツの新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは、哲学は常識などすべてのことを疑うことから始めるのが基本であると言い、自らそれを実践し新しい実在論を提唱した
 ガブリエルは新しい実在論を理解するために簡単な例を挙げ説明している。

 「アストリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、わたしたち(この話しをしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、同じヴェズーヴィオ山をみているとします。
 とすると、このシナリオに存在しているのは、ヴェズーヴィオ山、アストリートさんから(ソレントから)見られているヴェズーヴィオ山、わたしたち(ナポリから)見られているヴェズーヴィオ山ということになります。
 形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たったひとつだけです。すなわち、ヴェズーヴィオ山です。
 ヴェズーヴィオ山は一方でソレントから、他方でナポリから見られているが、これはまったくの偶然であって、ヴェズーヴィオ山にとっては(願わくは)ほとんどどうでもよいことである。ヴェズーヴィオ山に関心を寄せているのが誰かなど、ヴェズーヴィオ山それ自身にとっては問題ではない。これが形而上学です。
 これにたいして構築主義の想定によれば、このシナリオには三つの対象が存在しています。すなわち、アストリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、わたしにとってのヴェズーヴィオ山、あなたにとってのヴェズーヴィオ山です。
 これらの背後に、現実の対象など存在していない。あるいは、そのような対象をいずれ認識することは、わたしたちには期待できないというわけです。
 これにたいして新しい実在論の想定によれば、このシナリオには、少なくとも以下四つの対象が存在しています。
 1 ヴェズーヴィオ山
 2 ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)
 3 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)
 4 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 新しい実在論が想定するのは上の四つの対象が存在しているだけでなくそれと同じ権利でそれらの事実についてのわたしたちの思考も存在している。
 たとえばヴェズーヴィオ山を見るさい、感じていながら表にださないさまざまな感情、あるいは妄想さえ現実に存在している。

 ガルリエルによると古い実在論である形而上学は現実を観察者のいない世界として捉え、一方構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として捉えている。
 ところが世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない。これが新しい実在論であるという。
 以下ガブリエルの新実在論の意味するところとその及ぼす影響などについて順次考えてみたい。

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