2016年3月28日月曜日

トランプ旋風 1

 次期アメリカ大統領の共和党予備選挙でトランプ旋風が巻き起こっている。 予備選の初期ドナルド・トランプ氏は泡沫候補とみられていた。だが予備選が進むにつれあれよあれよと勝利をかさねいまや共和党の本命候補になった。
 出馬当初トランプ氏の問題発言を、トーク番組のコメディアンは ”ジョークのネタができた” とよろこんだ。
 なにせトランプ氏は 「メキシコ人は強姦魔」、「国境に壁を築き、費用はメキシコに負担させる」、 「イスラム教徒の入国禁止」など暴言を連発したのだから。
 これら暴言に対し、”イギリスでは、トランプ氏のヘイトスピーチを理由に英国への入国禁止を求める請願運動がおこり英下院はこれを討議した”、ローマ法王は、 ”彼はキリスト教徒に値しない” 、オバマ大統領は、”トランプ氏に資格はない” と反応した。
 ジャーナリズムは例によってトランプ氏の扱いが時とともに変化した。
 彼はジョーカーだ泡沫候補にすぎない → 消え去るのは時間の問題だ → 下馬評は高いが、いざ投票になれば有権者は賢い選択をするだろう → 緒戦で勝ってもスーパーチューズデーは乗り越えられないさ。 → そしていま、予備選で過半は取れないだろうから7月の共和党大会で阻止されるかもしれないし、よしんば正式候補に選ばれても、、本選挙は身体検査が厳しいから、民主党の候補になるであろうヒラリー・クリントンには勝てないだろう。現に世論調査でもそういう結果になっている、と。

 もしトランプ氏がアメリカ大統領になったとしたらこのように論評してきたジャーナリズムは何というのだろうか。
 ”アメリカ歴史の必然、なるべき人がなった” とでもいうのだろうか。
 このトランプ現象ともいうべき事態をどう解釈したらいいのか。このことについて考えてみたい。
 近世史に詳しい識者のなかには、これはファシズムだ、国民に憎悪をうえつけるネオ・ファシズムであり、そのやりかたもヒットラーに酷似していると警告する。
 現象的にはそういう一面もたしかにある。だがトランプ氏自身をヒットラーになぞらえるには無理がある。
 彼の発言を忠実にたどれば、ヒットラーの、 ”狂信的な信念” をもちあわせていないことがわかる。彼の主張は変化しその場その場の ”受け” を狙った発言に終始しているからである。
 各種調査によれば彼の支持者の多くは、じゅうぶんな教育をうけていない低所得の白人層であり、支持する最大の理由は、彼が差別的な発言をするからである、という。
 そこにはアメリカという高度知識社会についていけなかった、または脱落した人びとの不満をトランプ氏が吸収している構図が見える。
 このことは学費を無料にすると公約している民主党のバーニー・サンダース候補についてもいえる。
 いまやアメリカの名門大学はいくら頭脳優秀であっても資金がなければ入れない富裕層の指定席と化している。
 コロンビア大学のスティグリッツ教授がいう1%の富裕層と99%の貧困層の問題だ。
 1%の富裕層がアメリカの富の30%を占め、残りの70%をアメリカ人の99%が分かち合っているという異常な構図になっている。
 富裕層はアメリカ税制を自己に有利にすべく政治家に働きかけそれに成功している。
 特にきわだつのは相続税(アメリカでは遺産税という)。アメリカの相続税は生まれながらにして経済格差を定着化させるような税制となっている。
 アメリカの相続税は2015年現在5.42百万ドル、夫婦では通算され10.84百万ドルまで非課税。一般家庭で約12億円までは非課税となっている。
 主要国の相続税の負担率は下図のとおりでアメリカがダントツに軽い。
 このような税率ではいやおうなく格差は拡大する。トランプ現象にはこのようなアメリカの格差容認の税制が一役かっていることはまちがいない。

主要国の相続税の負担率  2015年1月現在 財務省ホームページから

主要国の相続税の負担率

 トランプ旋風は直接的にはこのような白人ブルーカラーの不満の捌け口で説明できるが、彼らがなぜそこまでトランプ氏を支持するのか。
 支持する理由の第一がトランプ氏が差別的な発言をするからだという。
 にわかには信じられないがトランプ人気はこれに支えられているのだ。

2016年3月21日月曜日

タージ・マハル

 インドのイスラム建築の至宝といわれるタージ・マハルを再訪した。インド観光の目玉の一つでもあるこの聖廟は3年前とおなじく観光客が引きも切らない。
 楼門をくぐりぬけ目の前に広がる景観は、周囲から遊離した異次元の景観だ。
 今の景観は19世紀にイギリス人よって西欧風に改造されたものであるが往時は種々の草花や果樹が整然と植え込まれており、コーランにいうイスラム教の天国である緑園をイメージしたものとなっていたという。
 この景観とは裏腹にタージ・マハルは血ぬられた手で造られた。
渡辺建夫著「タージ・マハル物語」はその陰惨な歴史を地道な現地取材と手堅い手法で描いている。
 遊牧民の血をひくムガル帝国の王家には、皇位継承をめぐって皇子兄弟間での争いが絶えず ”王冠か死棺か” と形容されるほど残酷で凄惨な物語が連綿と続く。
 タージ・マハルを建造したムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンも例外ではない。
 彼は第4代皇帝の第3皇子であったが第1皇子のホスロウを殺害した。さらに先帝が死んで自分が皇帝となろうとしたとき自分の子を除いて皇位継承の可能性のあるムガル王家の男子5人を全て殺害した。
 わが国の戦国時代、秀吉が嫡男 秀頼誕生によって一旦は後継者に決めたはずの甥の秀次を一族ともども三条河原で惨殺した事件を想起させる。
 独裁権力者の行動様式は宗教、洋の東西を問わず同じということか。
 シャー・ジャハーン自身は後に第6代皇帝となる息子の3男オーラングゼーブによって幽閉され悲惨な晩年を送った。その第6代皇帝オーラングゼーブも皇位継承争いで兄弟3人を殺害している。
 ムガル王家は初代から6代まで兄弟間、父子間で争わなかった皇帝はいない。骨肉の愛憎が激しい一族であった。

 タージ・マハルは完成までに常時2万人の職人と22年間の歳月が費やされたという。なぜこれほどのものが造られるに至ったか、一つの伝承があり観光ガイドの定番となっている。
 曰く
 ”ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの后妃ムムターズ・マハルは、17年におよぶ結婚生活で14人の子供を生んだが最後は産褥で死ぬ。
 死の間際后妃ムムターズは皇帝に二つのことを依頼する。一つは自分が死んだ後新たに后妃を迎えないこと、もう一つは自分の死後いつまでも自分の名を残すお墓るつくることであった。
 皇帝シャー・ジャハーンはこれを忠実に実行した。” と。

 物語としては面白くロマンチックではあるが真相や如何に。
渡辺建夫氏の解説はいささか異なりイスラム社会の背景から解説を試みている。
 氏によれば聖廟がつくられた理由の一つはこうだ。イスラム教シーア派であるペルシャ独特の殉教者の聖廟崇拝の習慣をインドにもちこみ、自分の妻を殉教者として祀りあげ、その霊廟をムガル帝国最大のイスラム聖地に仕立て上げようとしたのだろうと。
 男の聖戦での戦死はイスラム教では殉教者であるが女性の産褥死もまた殉教者とみなされたからである。
 もう一つはシャー・ジャハーン自身の血ぬられた過去を浄化したいという願いが込められていたのではないか。その証左に完成したタージ・マハルを見てシャー・ジャハーンがよんだという詩を挙げている。

 「罪ある者、ここに避難所を求むれば、罪業から解き放たれ、許されん。  罪ある者、この聖所を訪えば、犯せし罪のすべては洗い清められん。  この聖所の気高き姿こそは、罪ある者に悔恨の情をよびさまし、陽の光、月の光に、罪ある者は眼より涙あふれさせん。  この地上に、かくも典雅なる高殿、神の栄光とともにいま姿をあらわせり。」 (渡辺建夫著朝日新聞社『タージ・マハル物語』から)

 狂ったように権力を求め、血ぬられた過去におののく第5代皇帝シャー・ジャハーン。
 彼は晩年息子によっ て幽閉されたヤムナー河対岸にあるアーグラ城からどんな想いでこの聖廟をみていたのだろうか。

 インドの近世史は略奪された歴史でもある。16世紀から18世紀まではムガル王家によって、19世紀から20世紀まではイギリスによって略奪された。
 砂漠の遊牧民の血を引くムガル王家を山賊になぞらえれば、イギリスはさしずめ海賊ということになる。タージ・マハルの金箔や宝石類はイギリス人によって剥ぎ取られた。
 タージ・マハルはインド観光の目玉であるとともに悲惨な近世史の象徴でもある。そこにインドのかなしい現実を見る想いがする。

 だが渡辺建夫氏は前掲書でこう結んでいる。
「これほどの人がなぜタージ・マハルを訪れ、愛してやまないのか。
 ただ単にその姿の美しさ故にだけではないだろう。
そこに葬られているのが、皇帝でも、英雄でも、高名な聖者でもなく、ただ夫を愛し、夫に愛され、14人もの子を産み、子を産む苦しみの中で死んでいった一人の女性であることを、誰もが知っているからだ。」

2016年3月7日月曜日

英語公用語化論 7

 ここまでの考察で、言葉は人間が介在する社会科学分野に広く深くかかわりその行動に影響を及ぼすことが分かった。
 このことをしっかりと腑に落としこまなければならない。それなくして公用語の議論はナンセンスだ。
 従って、” 言葉は単なるツールに過ぎない、ビジネス世界の公用語は英語だから日本語禁止の英語特区を創設する。 ” などがいかに暴論であるかが分かる。

 英語普及推進派の急先鋒で産業競争力会議の民間議員でもある楽天社長 三木谷氏は、

 ” 日本人は勤勉であり、技術力もデザイン力もあるが決定的に欠けているものがある。それはグローバルなコミュニケーション能力、特に英語力である。英語能力の欠如さえなければ今日の経済的凋落を招くことはなかった。”
と述べている。
 これこそドナルド・ドーアが名付けた 戦後アメリカのビジネス・スクール等で教育された日本の”洗脳世代” が陥り易い陥穽ではないか。
 英語ができないからビジネスに遅れをとる、英語ができないから最先端の情報が得られないなど時代錯誤も甚だしい。
 今やあらゆる情報は日本語に翻訳され、日本語で読めないものは殆んどないといってもさしつかえない。
 今日英語能力の必要性を認めない人はまずいない。だが自国の言葉を犠牲にしてまで英語能力向上を図るのは明らかに行き過ぎである。

 いかに時代錯誤であるか。それは夏目漱石が既に明治時代に語ったことでも明らかだ。
 漱石は明治44年に語学養成法というタイトルで談話をしている。その談話で漱石は自国語と外国語の関係を鮮やかに説いている。

 「    語学の力の有った原因
  一般に学生の語学の力が減じたということは、余程久しい前から聞いて居るが、私も 亦実際教へて見て爾う感じた事がある。
 果して爾うだとすれば、それは何う云ふ原因から 起こったか。その原因を調べなければ、学習の方針も、教授の方針も立つものでないが、専門的 にそれを調べるには、その道の人が幾何もある。
 私は別に纏まった考がある訳では ないが、気附いた事だけを極くざっと話して、一般の教育者と学生の参考にしやうと思ふ。
 ---私の思ふ所に由ると、英語の力の衰へた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達し た結果で、一方から云ふと当然の事である。
 何故かと云ふに、吾々の学問をした時代は、 総ての普通学は皆英語で遣らせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他如何なる学科も皆外 国語の教科書で学んだが、吾々より少し以前の人に成ると、答案まで英語で書いたものが多 い。
 吾々の時代に成っても、日本人の教師が英語で数学を教へた例がある。
 恁る時代に は、伊達にー金時計をぶら下げたり、洋服を着たり、髯を生やしたりするやうにー英語 を使うて、日本語を用ふる場合にも、英語を用ゆると云うのが一種の流行でもあったが、同時に 日本の教育を日本語でやる丈の余裕と設備とが整はなかったからでも有る。
 従って、単に 英語を何時間習はると云ふよりも、英語で総ての学問を習ふといった方が事実に近い位であった。
 即ち英語の時間以外に、大きな意味に於ての英語の時間が非常沢山 あったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然と出来ねばならぬ訳である。 

     語学の力の衰へた原因 
 処が、『日本』 と云ふ頭を持って、独立した国家といふ点から考へると、恁る教育は一種の屈辱で、恰度、英国の属国印度と云ったやうな感じが起る。
 日本の Nationarity は誰が見ても大切である。英語の知識位と交換の出来る筈のものではない。
 従って国家生存の基礎が堅固になるに伴れて、以上の様な教育は、自然勢いを失ふべきが至当で、又事実として漸々其地歩を奪はれたのである。
 実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、 日本では学問をした人がないから巳むを得ないと云ふ事に帰着する。
 学問は普遍的なものだか ら、日本に学者さへあれば、必ずしも外国製の書物を用ゐないでも、日本人の頭と日本の言語で 教へられぬと云ふ筈はない。
 又学問普及といふ点から考へると、 (ある局部は英語で教授 しても可いが) 矢張り生まれてから使ひ慣れてゐる日本語を用ゐるに越した事はない。
 たとひ 翻訳でも、西洋語その儘よりは可いに極ってゐる。  是が自然の大勢であるが、余の見る所では、過去の日本に於いて最も著るしく人工 的に英語の力を衰へしめた原因がある。
 それは確か故井上毅氏が文相時代の事であったと思 ふが、英語の教授以外には、出来る丈日本語を用ゐて、日本の Language に重きを措かしむると同時に、国語漢文を復興せしめた事がある。
 故井上氏は、教育の大勢より見た前述の意味 で、教授上の用語の刷新を図ったものか、或は唯だ 『日本』 に対する一種の愛国心から遣ったものか、その辺は何れとも分らないけれども、要するに此の人為的に外国語を抑圧したことが、現今の語学の力の減退に与って力ある事は、余の親しく目賭した所である。」
(夏目漱石著岩波書店『漱石全集第二十五巻』語学養成法)

 漱石は日本のNationarityは英語の知識ぐらいと交換できる筈がないと言ったが、英語教育を否定しているわけではない。むしろもっと工夫ここらして英語教育を推進すべしと言っている。
 当時の新興国日本の留学生としてイギリスのロンドンで病気になるほど悩みぬいた文豪の言葉である。

 言葉の本質は、そのまま公用語についても言える。公用語を変更するとはいかなることを意味するのか。
 分かり易くするため奇想天外なケースを想定して小論を終わりにしたい。

 仮に、来世紀の日本列島で英語公用語化が完全実施され、殆んどの日本人が日本語を理解し話せなくなった世界と、日本列島は外国人で埋めつくされるがこれら外国人は日本語しか理解し話せない世界があったとしよう。
 どちらの世界の住人が日本人といえるか。

 答えは、前者は日本人とは言えず、後者こそ日本人である。これまでの推論でそうなる。