2013年9月9日月曜日

宗教について 4

 仏教は大多数の日本人が親しみを感じている(仏教について1 8/19)。
 日常用語にも数多くの仏教用語があるし、身のまわりにも仏教に関連する行事も数多い。
 が、果たして我々は仏教を理解しているといえるだろうか。
仏教を根本とすると称した怪しげな新興宗教が日本中に騒ぎを引き起こしたことは記憶に新しい。その後も怪しげな新興宗教が後を絶たない。
 また日本に入った仏教は、本来の仏教とはいい難く、日本教の一派に過ぎない(仏教について1)。
 日本に入った仏教とは、少々荒っぽくいえば、釈迦が教え賜うた悟りに至るまでの修行の方法である「戒律」を取り払った宗教であり、本来の仏教とはとてもいえない。
 悟りの解釈でも、「釈尊の覚りの解釈は、仏教の中で実に多様なのである。ある意味では、釈尊の覚りとはこれだ、と信じるのが、仏教の各宗派であるとさえいえよう。」(竹村牧夫著 覚りと空 )
 悟りを日本流に解釈して、戒律を取り払う
日本教徒仏教派の面目躍如である。

 仏教には、キリスト教やイスラム教と違い、信じるべき対象や義務としての行為がない。信仰の対象となる神様などいない。神が選んだ預言者もいない。
 仏教思想や仏教哲学は難解であり、お経をはじめ仏教用語もチンプンカンプンだ。
 ここは、原点に立ち返り、インドを起源とする本来の仏教について、考えてみたい。

 仏教とはなにか。一言でいえば、”煩悩を脱却して悟りを開くこと”
 インドでは、すべての生き物は死んではまた別の生き物に生まれ変わると信じられていた。
 この考えを輪廻転生という。そしてあらゆる生き物は生前の行いによって、死後六つの世界に生まれ変わる。
 地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人道・天道である。
これがヒンドゥー教の輪廻転生の思想である。この思想がベースとなり、インドでカーストが5千年以上も続いている。
 生きている間はカースト間の移動はできないが、善行を積めば来世では上位のカーストに生まれ変わることもできる。
 仏教もこの輪廻転生の思想を引き継いでいるが、輪廻転生の主体である、”自我”の存在を否定している。
 何故なら釈迦は、すべてのものは仮のものにすぎず、実体など存在しないと説いたからである。仏教では、自我・心・魂などの実体は存在しないと教えている。
 この考えから、必然的に地獄道から天道に至るまで、どこに属しようと苦しみということでなんらかわらない。
 それが証左に、最上位の天道は、たしかに長寿と快楽に満ちているが、それだけに最後の苦しみは地獄道の16倍にも及び、地獄道との差は、紙一重と説く。
 この輪廻転生の輪から逃れない限り、苦しみの世界を永劫に生きなければならない。
 輪廻転生の輪から脱出しなければならないが、その方法は釈迦のように悟りを開いて仏になることだ。
 輪廻転生の輪からの脱出を解脱といい、仏教用語で”涅槃に入る”という。
 欲望、執着、怒り、蒙昧などの煩悩の火を吹き消した状態をいう。
 この情緒的表現にたいし、論理的に表現したのが”菩提を得る”であり、悟りを開いた状態を意味する。
 因みに、経典によると、釈迦自身は、この輪廻転生を積極的に説いたわけではない。このような形而上的な問題が、現実生活の苦しみを解決するのに役にたたないと考えたからであった。
 しからば、仏教の開祖 釈迦はなにを教え説いたのか。
 特に重要なものが、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三つであり、これを三法印という。

 まず、諸行無常
 「修行僧たちよ、すべては移ろいゆく。怠りなく努め励めよ」 これが釈迦の最後の言葉である。
 これは、鴨長明の方丈記の書き出し「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」と重なる。
 流れの一点をとらえれば同じ水はない。すべては移り変わる。人間とて同じ。昨日の自分と今日の自分は同じではない。細胞は毎日死滅生成を繰り返している。
 釈迦の教えの核心はこれを基点としているといってもいい。

 次に、諸法無我
 一粒の種子を、土壌・水・肥料・太陽により育てれば成長し花となる。種子を直接的な原因(因)、土壌・水・肥料・太陽を間接的な条件(縁)といい、あらゆるものが因縁で成り立つことをいう。
 因も縁も関係なく、それ自体で成り立っているものなどない。
 人間の本質も、因と縁によって常に変化している。
 それ故、永遠不変の絶対的な我などない。したがって、物や自分の心身に対する執着など無意味であると戒めている。諸法無我は、仏教用語でいう、”空”にほとんど同義である。

 最後に、涅槃寂静
 諸行無常、諸法無我の苦しみの世界から脱する。自我・心・魂が存在するなどという迷妄を断ち切り、聖なる涅槃の世界へ渡ることをいう。

 ブレーズ・パスカルは、人間の行動はすべて自己愛からきていると看破した(労働と気晴らし7/15)。
 如何なる利他的行動をとろうとも、これで説明できる、と。
唐突ではあるが、パスカルのいう”自己愛”を、釈迦が教える、自我・心・魂への”執着・我執”に置き換えたとしても、理解できなくはない。

 諸法無我 ”空”の思想では、固定的な実体はないとするも、形ある存在 ”色”は認めていた。
 ところが、形ある存在 ”色”すら幻想であり、心が作りだしている映像にすぎず、あるのは、ただ意識だけ。意識が外界の存在を作り出している、という主張が現れた。
 唯識思想の出現である。
魂の実在を否定する仏教は、自ずから、空と唯識の思想へと深化していき複雑な仏教思想、仏教哲学を形成した。
 このため、仏教の教義は難解極まりない。
難解だが、空の思想が仏教の根幹を形成し、仏教の目的は、「煩悩を断ち切り、悟りを開くこと」 であることに変わりはない。
 煩悩を断ち切り、悟りを開くには、キリスト教やイスラム教のように、神を信じ、あるいは神の命ずるままに行動すれば叶うものではなく、ひたすら本人の修行による他ない。
 釈迦はただ、悟りを開くための修行の方法を教えるだけである。
 ただ教えるだけとはいえ、この「戒律」こそが本来の仏教の根本である。

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