丸山真男は、敗戦の翌年 雑誌”世界”に寄稿した論文「超国家主義の論理と心理」で、日本のファシズムを鮮やかに分析した。
民主主義を実現するためには、まずこれを阻害していた要因を解明することからはじめなければならないが、この論文はその目的を果たすに余りある。
敗戦後の約半年後、国内の、それも自ら軍隊生活を経験した新進気鋭のこの政治学者の論文は新鮮な驚きをもって受けとめられたという。
同論文で日本の戦争責任について論じている。
「ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。
然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。
何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。
我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事態の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。」
このように、誰もはっきりとした戦争責任を負わないという無責任体制であったことを指摘している。
さらに同論文で、きわめて暗示的として、東條英樹首相の発言を紹介している。
衆議院戦時行政特例法委員会で、首相の指示権の問題について、喜多壮一郎氏から、それは独裁と解してよいかと質問されたのに対し、
”独裁政治といふことがよく言はれるがこれを明確にして置きたい。(中略)東條といふものは一個の草奔の臣である。
あなた方と一つも変わりはない。ただ私は総理大臣といふ職責を与えられている。
ここで違ふ。これは陛下の御光を受けてはじめて光る。陛下の御光がなかったら石ころにも等しいものだ。
陛下の御信任があり、この位置についているが故に光っている。そこが全然所謂独裁者と称するヨーロッパの諸公とは趣を異にしている。”
と東條英樹首相の独裁についての見解を紹介し
「こうした自由なる主体的意識が存在せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。
上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。」
と分析している。
究極的権威である天皇に近ければ近いほど権威が増し、遠ければ逆となる。
各階層ごとに、上からの圧迫感を自分より下のものに捌け口をもとめてバランスを保つというシステムがなりたっていた。
このシステムの故に、外地での残虐な行為は、責任の所在はともかく、直接の下手人は、二等兵によってなされていたという。
隊内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として、日ごろの圧迫感の捌け口を求めたとしても不思議ではない。
このように日本のファシズムは、恰もはっきりした司令塔不在の自動機械のようにずるずると戦争に突入していったが、その中で個人は、巨大な機械の部品として埋没し、そこには主体的自由意思のかけらも見出すことはできない。
個人の自由なる主体意識の確立。これなくして民主主義は成り立ちようがない。
丸山真男は、自らも身をもって体験した、日本のファシズムを分析することにより、まず、民主主義実現のための糸口を求めた。
次に、以前より取り組んできた日本政治思想史の研究を深め、如何にして日本に民主主義を根づかせるかにつき数々の論文を発表した。
丸山真男の研究の影響は大きく、戦後民主主義の理論的リーダの役割を担った。
次稿で、研究の核心について触れて見たい。
2013年9月30日月曜日
2013年9月23日月曜日
民主主義考 1
民主主義とは、人民主権を実現する政治体制であり、権力分立、人権保障、法の支配、国民主権から成り立っている。
民主主義は、歴史的には、社会契約説でホッブズのリヴァイアサンが嚆矢をなし、ロックが市民政府二論で議会と国王の二権分立で間接民主主義をとなえ、これに対し、 ルソーが社会契約論で直接民主主義をとなえた。モンテスキューは法の精神で立法から司法を独立させ三権分立をとなえた。
現代の日本人は、民主主義など、水や空気などと同じくそれがある日突然無くなるなど想像だにしない、天与のおくりものだと思っているかのようだ。
西欧人の場合は、そうは考えない。死闘をくりかえして、やっとのことで民主主義を勝ち取った苦い歴史に裏打ちされていているからである。
民主主義は、いつ何時危機にさらされ、他の政体に取って代わられるかもしれないと肌で感じている。
従って民主主義とは、完成されたものを、床の間に飾っておくものではなく、絶えずそれを探し求めていくものであるとの認識である。
日本にも、聖徳太子の17条憲法、明治の五箇条のご誓文、明治欽定憲法に民主主義を見出すことができる。
そして民主主義が危機にさらされたという点では、日本も同じ苦しみを味わっている。
が、残念ながら、これを市民革命で勝ち取ったという歴史はない。
日本は敗戦により、ポツダム宣言第十項で屈辱的な一文をいれられた。
「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」
軍部という官僚組織の肥大化を抑えられなかった結果の悲劇を繰り返すなと念を押されたにもひとしい。
そして現在、この反省が生かされているのだろうか。
官僚組織はかたちを変え、深く静かに肥大化の一途を辿っていないか。
もしそうであれば、それをくいとめる方法があるのか。
ここは、民主主義の原点にたちかえり、戦後日本の政治学の泰斗 丸山真男教授と小室直樹博士の著作からその糸口を見出していきたい。
”民主主義は最悪の政治形態であるといえる。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば”ウィンストン・チャーチルが皮肉をこめて逆説的に言ったように、民主主義こそ人類が辿りついた最良の政治制度であることは、政治学者の一致するところ。
民主主義は、歴史的には、社会契約説でホッブズのリヴァイアサンが嚆矢をなし、ロックが市民政府二論で議会と国王の二権分立で間接民主主義をとなえ、これに対し、 ルソーが社会契約論で直接民主主義をとなえた。モンテスキューは法の精神で立法から司法を独立させ三権分立をとなえた。
そんなデモクラシーの起源なんぞとっくの昔にわかっていますわいな、とすぐ我々日本人は深く掘り下げようとしない。
西欧人の場合は、そうは考えない。死闘をくりかえして、やっとのことで民主主義を勝ち取った苦い歴史に裏打ちされていているからである。
民主主義は、いつ何時危機にさらされ、他の政体に取って代わられるかもしれないと肌で感じている。
従って民主主義とは、完成されたものを、床の間に飾っておくものではなく、絶えずそれを探し求めていくものであるとの認識である。
日本にも、聖徳太子の17条憲法、明治の五箇条のご誓文、明治欽定憲法に民主主義を見出すことができる。
そして民主主義が危機にさらされたという点では、日本も同じ苦しみを味わっている。
が、残念ながら、これを市民革命で勝ち取ったという歴史はない。
日本は敗戦により、ポツダム宣言第十項で屈辱的な一文をいれられた。
「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」
軍部という官僚組織の肥大化を抑えられなかった結果の悲劇を繰り返すなと念を押されたにもひとしい。
そして現在、この反省が生かされているのだろうか。
官僚組織はかたちを変え、深く静かに肥大化の一途を辿っていないか。
もしそうであれば、それをくいとめる方法があるのか。
ここは、民主主義の原点にたちかえり、戦後日本の政治学の泰斗 丸山真男教授と小室直樹博士の著作からその糸口を見出していきたい。
2013年9月16日月曜日
消費税増税 再
消費税増税については、10月1日に安倍首相が決断するという。
報道でみるかぎり、来年4月から3%アップし8%になることは既定事実化されつつある。
政界、官界、財界、マスコミ、学界その他、”一般国民を除いた”すべてがこの空気に呪縛されているとの印象をうける。
「あのときの流れから他の選択肢はなかった」
「それに逆らえるような雰囲気ではなかった」
「ことここに至っては賛成せざるを得なかった」
これらの言葉は、近代日本が、決定的な分岐点で決断をせまられたとき、幾度となく聞かされてきた。
何人たりとも、この空気に抗うことはできなかった。時の為政者でさえ例外ではなかった。
いま争点となっている消費税増税が正しい施策であればともかく、そうでなければ、この空気に水をさすのが、日本の利益に叶う。この観点から改めて見直してみたい。
去る9月3日ニュース番組で、興味ある討論が行われた。自民党税制調査会長 野田毅氏と内閣官房参与 本田悦朗氏の討論である。
本田内閣官房参与は、
「税収減の主原因はデフレであり、このデフレ脱却を阻害する要因はできるだけ避けなければならない。名目3%実質2%成長を実現するのが目標だが、肝心なことは現在の状況は需要不足からきているデフレだ。
これを是正するには、賃金が上がり需要を喚起するデマンド・プル・インフレを実現すべきだ。名目GDPが成長すれば、税収弾性値も期待できる。
仮に名目3%成長すれば、弾性値が2.5位は見込めるので、税収は7.5%UP期待できる。消費税増税により物価は上がるが、これはコスト・プッシュ・インフレだ。コスト・プッシュ・インフレはデマンド・プル・インフレを阻害する。
結果的にデフレから脱却できない。国民は絆を大切にしている。消費税増税は已む無しとも思っている。
ただ、一気に3%は過激すぎる。諸外国でもあまり例がない。導入すれば反動が大きすぎる。しかも3%につぎ翌年2%と2回にもわたる。ここはマイルドなインフレ期待を醸成する毎年1%増税が妥当と考える。」
デフレとデフレ脱却についての本田内閣官房参与の認識は、経済学的にも、実務的にも背理とは思えない。
これに対し野田自民党税調会長は、驚くような発言を連発した。
「そもそも名目3%実質2%成長は、消費税増税の前提条件ではない。
増税した分、そっくりそのまま歳出にまわすので、デフレにはならない。
毎年1%増税など、机上の空論で経済活動の現場が混乱する。デフレ脱却とはいうけれど、要は、賃金が上がりさえすればいいこと。
消費税増税すれば、企業にとって、賃金を上げるまたとないチャンスだ。われわれは、そのための手をすでに打っている。
賃金を上げた企業には1割減税する。
消費税が3%上がれば、物価も3%上がる、従って賃金も当然3%上げなければならない。また、そのようにわれわれも指導する。
名目GDPが上がれば、税収弾性値により税収が上がるというが、そんなことは断じてない。
繰越欠損金が約80兆円あり、これが補填後の利益は少ない。ために景気がよくなっても税収増をそれほど期待できない
税収減の原因はデフレというがそれは間違っている。
税収減の主因は社会保障給付費の増大である。社会保障給付費をまかなうためにも、消費税増税は不可欠だ。
そもそも日本の税率は、欧州諸国に比し低すぎる。
予定通り実施しなければ、マーケットが混乱し、国家や首相の信認も揺らぐ」
税率3%上げたら、企業に賃金を3%上げさせる。
中国の李克強首相も、これを聞いたらビックリ仰天するのではないか。
日本はいつから計画経済国家になったのか、と。
ナヌ、繰越欠損があるから税収増は見込めない。
日本中の会社が繰越欠損をかかえているように聞こえる。
繰越欠損の横綱であったメガバンクなど、殆ど終了している。
百歩譲って、繰越欠損を早期に補填してこそ税収増の展望が開けないのでは。
予定通り実施しなければ首相の信認が揺らぐ。
これは脅しに近い。
欧州諸国の付加価値税率は高い。
政府と民間の福祉を負担する割合が、日本と欧州諸国では違う。
税収減の原因はデフレではない。
もはやコメントの要ナシ。
自民党税調会長には、かって税調のドンといわれた山中貞則がいた。
彼は、税制のことに関しては、政府や中曽根首相の関与を一切認めない態度を貫いた。
曰く
「政府税調は軽視はしない、無視するだけだ」
「首相に口をはさむ能力などない、まだ懲りないのか、このおしゃべり野郎」
野田氏は当時、税調の中堅議員として、山中会長を弁護した。
税制など議論したらきりがない、税制のプロに任せるにしくはない、と。
そして、いま自ら、自民党税調会長となって、山中路線をひた走っている。税制はプロである俺たちに任せろ。素人はそこのけ。
税制は民主主義国家の基本である。
官僚と自民党税調は、こと税制に関して、「よらしむべし知らしむべからず」
それが証左に、国民の7~8割が消費税増税を予定どおり上げることに反対しているにもかかわらず、これを押し通そうとしている。
税制とは何か、民主主義とはなにか。消費税増税論戦は、はからずも、それを考えるきっかけを与えてくれた。
報道でみるかぎり、来年4月から3%アップし8%になることは既定事実化されつつある。
政界、官界、財界、マスコミ、学界その他、”一般国民を除いた”すべてがこの空気に呪縛されているとの印象をうける。
「あのときの流れから他の選択肢はなかった」
「それに逆らえるような雰囲気ではなかった」
「ことここに至っては賛成せざるを得なかった」
これらの言葉は、近代日本が、決定的な分岐点で決断をせまられたとき、幾度となく聞かされてきた。
何人たりとも、この空気に抗うことはできなかった。時の為政者でさえ例外ではなかった。
いま争点となっている消費税増税が正しい施策であればともかく、そうでなければ、この空気に水をさすのが、日本の利益に叶う。この観点から改めて見直してみたい。
去る9月3日ニュース番組で、興味ある討論が行われた。自民党税制調査会長 野田毅氏と内閣官房参与 本田悦朗氏の討論である。
本田内閣官房参与は、
「税収減の主原因はデフレであり、このデフレ脱却を阻害する要因はできるだけ避けなければならない。名目3%実質2%成長を実現するのが目標だが、肝心なことは現在の状況は需要不足からきているデフレだ。
これを是正するには、賃金が上がり需要を喚起するデマンド・プル・インフレを実現すべきだ。名目GDPが成長すれば、税収弾性値も期待できる。
仮に名目3%成長すれば、弾性値が2.5位は見込めるので、税収は7.5%UP期待できる。消費税増税により物価は上がるが、これはコスト・プッシュ・インフレだ。コスト・プッシュ・インフレはデマンド・プル・インフレを阻害する。
結果的にデフレから脱却できない。国民は絆を大切にしている。消費税増税は已む無しとも思っている。
ただ、一気に3%は過激すぎる。諸外国でもあまり例がない。導入すれば反動が大きすぎる。しかも3%につぎ翌年2%と2回にもわたる。ここはマイルドなインフレ期待を醸成する毎年1%増税が妥当と考える。」
デフレとデフレ脱却についての本田内閣官房参与の認識は、経済学的にも、実務的にも背理とは思えない。
これに対し野田自民党税調会長は、驚くような発言を連発した。
「そもそも名目3%実質2%成長は、消費税増税の前提条件ではない。
増税した分、そっくりそのまま歳出にまわすので、デフレにはならない。
毎年1%増税など、机上の空論で経済活動の現場が混乱する。デフレ脱却とはいうけれど、要は、賃金が上がりさえすればいいこと。
消費税増税すれば、企業にとって、賃金を上げるまたとないチャンスだ。われわれは、そのための手をすでに打っている。
賃金を上げた企業には1割減税する。
消費税が3%上がれば、物価も3%上がる、従って賃金も当然3%上げなければならない。また、そのようにわれわれも指導する。
名目GDPが上がれば、税収弾性値により税収が上がるというが、そんなことは断じてない。
繰越欠損金が約80兆円あり、これが補填後の利益は少ない。ために景気がよくなっても税収増をそれほど期待できない
税収減の原因はデフレというがそれは間違っている。
税収減の主因は社会保障給付費の増大である。社会保障給付費をまかなうためにも、消費税増税は不可欠だ。
そもそも日本の税率は、欧州諸国に比し低すぎる。
予定通り実施しなければ、マーケットが混乱し、国家や首相の信認も揺らぐ」
税率3%上げたら、企業に賃金を3%上げさせる。
中国の李克強首相も、これを聞いたらビックリ仰天するのではないか。
日本はいつから計画経済国家になったのか、と。
ナヌ、繰越欠損があるから税収増は見込めない。
日本中の会社が繰越欠損をかかえているように聞こえる。
繰越欠損の横綱であったメガバンクなど、殆ど終了している。
百歩譲って、繰越欠損を早期に補填してこそ税収増の展望が開けないのでは。
予定通り実施しなければ首相の信認が揺らぐ。
これは脅しに近い。
欧州諸国の付加価値税率は高い。
政府と民間の福祉を負担する割合が、日本と欧州諸国では違う。
税収減の原因はデフレではない。
もはやコメントの要ナシ。
自民党税調会長には、かって税調のドンといわれた山中貞則がいた。
彼は、税制のことに関しては、政府や中曽根首相の関与を一切認めない態度を貫いた。
曰く
「政府税調は軽視はしない、無視するだけだ」
「首相に口をはさむ能力などない、まだ懲りないのか、このおしゃべり野郎」
野田氏は当時、税調の中堅議員として、山中会長を弁護した。
税制など議論したらきりがない、税制のプロに任せるにしくはない、と。
そして、いま自ら、自民党税調会長となって、山中路線をひた走っている。税制はプロである俺たちに任せろ。素人はそこのけ。
税制は民主主義国家の基本である。
官僚と自民党税調は、こと税制に関して、「よらしむべし知らしむべからず」
それが証左に、国民の7~8割が消費税増税を予定どおり上げることに反対しているにもかかわらず、これを押し通そうとしている。
税制とは何か、民主主義とはなにか。消費税増税論戦は、はからずも、それを考えるきっかけを与えてくれた。
2013年9月9日月曜日
宗教について 4
仏教は大多数の日本人が親しみを感じている(仏教について1 8/19)。
日常用語にも数多くの仏教用語があるし、身のまわりにも仏教に関連する行事も数多い。
が、果たして我々は仏教を理解しているといえるだろうか。
仏教を根本とすると称した怪しげな新興宗教が日本中に騒ぎを引き起こしたことは記憶に新しい。その後も怪しげな新興宗教が後を絶たない。
また日本に入った仏教は、本来の仏教とはいい難く、日本教の一派に過ぎない(仏教について1)。
日本に入った仏教とは、少々荒っぽくいえば、釈迦が教え賜うた悟りに至るまでの修行の方法である「戒律」を取り払った宗教であり、本来の仏教とはとてもいえない。
悟りの解釈でも、「釈尊の覚りの解釈は、仏教の中で実に多様なのである。ある意味では、釈尊の覚りとはこれだ、と信じるのが、仏教の各宗派であるとさえいえよう。」(竹村牧夫著 覚りと空 )
悟りを日本流に解釈して、戒律を取り払う。
日本教徒仏教派の面目躍如である。
仏教には、キリスト教やイスラム教と違い、信じるべき対象や義務としての行為がない。信仰の対象となる神様などいない。神が選んだ預言者もいない。
仏教思想や仏教哲学は難解であり、お経をはじめ仏教用語もチンプンカンプンだ。
ここは、原点に立ち返り、インドを起源とする本来の仏教について、考えてみたい。
仏教とはなにか。一言でいえば、”煩悩を脱却して悟りを開くこと”
インドでは、すべての生き物は死んではまた別の生き物に生まれ変わると信じられていた。
この考えを輪廻転生という。そしてあらゆる生き物は生前の行いによって、死後六つの世界に生まれ変わる。
地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人道・天道である。
これがヒンドゥー教の輪廻転生の思想である。この思想がベースとなり、インドでカーストが5千年以上も続いている。
生きている間はカースト間の移動はできないが、善行を積めば来世では上位のカーストに生まれ変わることもできる。
仏教もこの輪廻転生の思想を引き継いでいるが、輪廻転生の主体である、”自我”の存在を否定している。
何故なら釈迦は、すべてのものは仮のものにすぎず、実体など存在しないと説いたからである。仏教では、自我・心・魂などの実体は存在しないと教えている。
この考えから、必然的に地獄道から天道に至るまで、どこに属しようと苦しみということでなんらかわらない。
それが証左に、最上位の天道は、たしかに長寿と快楽に満ちているが、それだけに最後の苦しみは地獄道の16倍にも及び、地獄道との差は、紙一重と説く。
この輪廻転生の輪から逃れない限り、苦しみの世界を永劫に生きなければならない。
輪廻転生の輪から脱出しなければならないが、その方法は釈迦のように悟りを開いて仏になることだ。
輪廻転生の輪からの脱出を解脱といい、仏教用語で”涅槃に入る”という。
欲望、執着、怒り、蒙昧などの煩悩の火を吹き消した状態をいう。
この情緒的表現にたいし、論理的に表現したのが”菩提を得る”であり、悟りを開いた状態を意味する。
因みに、経典によると、釈迦自身は、この輪廻転生を積極的に説いたわけではない。このような形而上的な問題が、現実生活の苦しみを解決するのに役にたたないと考えたからであった。
しからば、仏教の開祖 釈迦はなにを教え説いたのか。
特に重要なものが、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三つであり、これを三法印という。
まず、諸行無常
「修行僧たちよ、すべては移ろいゆく。怠りなく努め励めよ」 これが釈迦の最後の言葉である。
これは、鴨長明の方丈記の書き出し「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」と重なる。
流れの一点をとらえれば同じ水はない。すべては移り変わる。人間とて同じ。昨日の自分と今日の自分は同じではない。細胞は毎日死滅生成を繰り返している。
釈迦の教えの核心はこれを基点としているといってもいい。
次に、諸法無我
一粒の種子を、土壌・水・肥料・太陽により育てれば成長し花となる。種子を直接的な原因(因)、土壌・水・肥料・太陽を間接的な条件(縁)といい、あらゆるものが因縁で成り立つことをいう。
因も縁も関係なく、それ自体で成り立っているものなどない。
人間の本質も、因と縁によって常に変化している。
それ故、永遠不変の絶対的な我などない。したがって、物や自分の心身に対する執着など無意味であると戒めている。諸法無我は、仏教用語でいう、”空”にほとんど同義である。
最後に、涅槃寂静
諸行無常、諸法無我の苦しみの世界から脱する。自我・心・魂が存在するなどという迷妄を断ち切り、聖なる涅槃の世界へ渡ることをいう。
ブレーズ・パスカルは、人間の行動はすべて自己愛からきていると看破した(労働と気晴らし7/15)。
如何なる利他的行動をとろうとも、これで説明できる、と。
唐突ではあるが、パスカルのいう”自己愛”を、釈迦が教える、自我・心・魂への”執着・我執”に置き換えたとしても、理解できなくはない。
諸法無我 ”空”の思想では、固定的な実体はないとするも、形ある存在 ”色”は認めていた。
ところが、形ある存在 ”色”すら幻想であり、心が作りだしている映像にすぎず、あるのは、ただ意識だけ。意識が外界の存在を作り出している、という主張が現れた。
唯識思想の出現である。
魂の実在を否定する仏教は、自ずから、空と唯識の思想へと深化していき複雑な仏教思想、仏教哲学を形成した。
このため、仏教の教義は難解極まりない。
難解だが、空の思想が仏教の根幹を形成し、仏教の目的は、「煩悩を断ち切り、悟りを開くこと」 であることに変わりはない。
煩悩を断ち切り、悟りを開くには、キリスト教やイスラム教のように、神を信じ、あるいは神の命ずるままに行動すれば叶うものではなく、ひたすら本人の修行による他ない。
釈迦はただ、悟りを開くための修行の方法を教えるだけである。
ただ教えるだけとはいえ、この「戒律」こそが本来の仏教の根本である。
日常用語にも数多くの仏教用語があるし、身のまわりにも仏教に関連する行事も数多い。
が、果たして我々は仏教を理解しているといえるだろうか。
仏教を根本とすると称した怪しげな新興宗教が日本中に騒ぎを引き起こしたことは記憶に新しい。その後も怪しげな新興宗教が後を絶たない。
また日本に入った仏教は、本来の仏教とはいい難く、日本教の一派に過ぎない(仏教について1)。
日本に入った仏教とは、少々荒っぽくいえば、釈迦が教え賜うた悟りに至るまでの修行の方法である「戒律」を取り払った宗教であり、本来の仏教とはとてもいえない。
悟りの解釈でも、「釈尊の覚りの解釈は、仏教の中で実に多様なのである。ある意味では、釈尊の覚りとはこれだ、と信じるのが、仏教の各宗派であるとさえいえよう。」(竹村牧夫著 覚りと空 )
悟りを日本流に解釈して、戒律を取り払う。
日本教徒仏教派の面目躍如である。
仏教思想や仏教哲学は難解であり、お経をはじめ仏教用語もチンプンカンプンだ。
ここは、原点に立ち返り、インドを起源とする本来の仏教について、考えてみたい。
仏教とはなにか。一言でいえば、”煩悩を脱却して悟りを開くこと”
インドでは、すべての生き物は死んではまた別の生き物に生まれ変わると信じられていた。
この考えを輪廻転生という。そしてあらゆる生き物は生前の行いによって、死後六つの世界に生まれ変わる。
地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人道・天道である。
これがヒンドゥー教の輪廻転生の思想である。この思想がベースとなり、インドでカーストが5千年以上も続いている。
生きている間はカースト間の移動はできないが、善行を積めば来世では上位のカーストに生まれ変わることもできる。
仏教もこの輪廻転生の思想を引き継いでいるが、輪廻転生の主体である、”自我”の存在を否定している。
何故なら釈迦は、すべてのものは仮のものにすぎず、実体など存在しないと説いたからである。仏教では、自我・心・魂などの実体は存在しないと教えている。
この考えから、必然的に地獄道から天道に至るまで、どこに属しようと苦しみということでなんらかわらない。
それが証左に、最上位の天道は、たしかに長寿と快楽に満ちているが、それだけに最後の苦しみは地獄道の16倍にも及び、地獄道との差は、紙一重と説く。
この輪廻転生の輪から逃れない限り、苦しみの世界を永劫に生きなければならない。
輪廻転生の輪から脱出しなければならないが、その方法は釈迦のように悟りを開いて仏になることだ。
輪廻転生の輪からの脱出を解脱といい、仏教用語で”涅槃に入る”という。
欲望、執着、怒り、蒙昧などの煩悩の火を吹き消した状態をいう。
この情緒的表現にたいし、論理的に表現したのが”菩提を得る”であり、悟りを開いた状態を意味する。
因みに、経典によると、釈迦自身は、この輪廻転生を積極的に説いたわけではない。このような形而上的な問題が、現実生活の苦しみを解決するのに役にたたないと考えたからであった。
しからば、仏教の開祖 釈迦はなにを教え説いたのか。
特に重要なものが、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三つであり、これを三法印という。
まず、諸行無常
「修行僧たちよ、すべては移ろいゆく。怠りなく努め励めよ」 これが釈迦の最後の言葉である。
これは、鴨長明の方丈記の書き出し「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」と重なる。
流れの一点をとらえれば同じ水はない。すべては移り変わる。人間とて同じ。昨日の自分と今日の自分は同じではない。細胞は毎日死滅生成を繰り返している。
釈迦の教えの核心はこれを基点としているといってもいい。
次に、諸法無我
一粒の種子を、土壌・水・肥料・太陽により育てれば成長し花となる。種子を直接的な原因(因)、土壌・水・肥料・太陽を間接的な条件(縁)といい、あらゆるものが因縁で成り立つことをいう。
因も縁も関係なく、それ自体で成り立っているものなどない。
人間の本質も、因と縁によって常に変化している。
それ故、永遠不変の絶対的な我などない。したがって、物や自分の心身に対する執着など無意味であると戒めている。諸法無我は、仏教用語でいう、”空”にほとんど同義である。
最後に、涅槃寂静
諸行無常、諸法無我の苦しみの世界から脱する。自我・心・魂が存在するなどという迷妄を断ち切り、聖なる涅槃の世界へ渡ることをいう。
ブレーズ・パスカルは、人間の行動はすべて自己愛からきていると看破した(労働と気晴らし7/15)。
如何なる利他的行動をとろうとも、これで説明できる、と。
唐突ではあるが、パスカルのいう”自己愛”を、釈迦が教える、自我・心・魂への”執着・我執”に置き換えたとしても、理解できなくはない。
諸法無我 ”空”の思想では、固定的な実体はないとするも、形ある存在 ”色”は認めていた。
ところが、形ある存在 ”色”すら幻想であり、心が作りだしている映像にすぎず、あるのは、ただ意識だけ。意識が外界の存在を作り出している、という主張が現れた。
唯識思想の出現である。
魂の実在を否定する仏教は、自ずから、空と唯識の思想へと深化していき複雑な仏教思想、仏教哲学を形成した。
このため、仏教の教義は難解極まりない。
難解だが、空の思想が仏教の根幹を形成し、仏教の目的は、「煩悩を断ち切り、悟りを開くこと」 であることに変わりはない。
煩悩を断ち切り、悟りを開くには、キリスト教やイスラム教のように、神を信じ、あるいは神の命ずるままに行動すれば叶うものではなく、ひたすら本人の修行による他ない。
釈迦はただ、悟りを開くための修行の方法を教えるだけである。
ただ教えるだけとはいえ、この「戒律」こそが本来の仏教の根本である。
2013年9月2日月曜日
宗教について 3
イスラム教の教典コーランはキリスト教との相違点についてにつぎのようにのべている。
「これ啓典の民よ、宗教のことで矩を超えてはならぬ。神について真理以外を口にしてはならぬ。
マリアの子救世主イエスは、ただ神の使徒に過ぎぬ。マリアに託された神のお言葉であり、神の霊力である。
だから神を信じなさい。”三”などと言ってはならぬ。控えるがよい、身のためだ。アッラーこそ唯一の神、讃えあれ。
神が子を持つなどありえない。天にあり地にあるあらゆるものが神の管理の下。いかようにもしてくれよう。
救世主とて、神の僕であることを軽んじはしない。近侍する天使たちとてそう。神に伺候することを軽んじ、偉ぶる者たちは、終末の日に神がひとまとめにして喚びつけてくれよう」 池内恵訳ブルース・ローレンス著コーラン第4章婦人第171~172節
イエスは神ではなく人にすぎない、イエスもムハンマド(マホメット)と同じく一人の預言者だ。父と子と精霊が一体となる三位一体説などを否定し、神はただアッラー1人と断じている。
コーランに従えばユダヤ教とキリスト教の関係は時系列的にも次の順序を辿る。
① ユダヤ教 旧約聖書 預言者 アブラハム・モーゼ
② キリスト教 新訳聖書 預言者 イエス・キリスト
③ イスラム教 コーラン 預言者ムハンマド
イスラム教は、古い教えのユダヤ教やキリスト教を大事にし高く評価するが、コーランこそが最終的に辿りついた正しい教えであり、ムハンマドが最後の預言者である。
以後の預言者の出現は有り得ない。
キリスト教の予定説などと異なり、イスラム教では、善行を積めば来世で救済されると教える。
イ スラム教の善行とはなにか。その前にイスラム教徒として次の六信五行をはじめコーランに従う行動をとってはじめて信者たり得る。
六信
1 神 2 天使 3 啓典 4 使徒 5 来世 6 定命
五行
1 信仰告白 2 礼拝 3 喜捨 4 断食 5 巡礼
このうち社会学的に注目すべきは”巡礼”だ。この巡礼では、恵まれたものも、恵まれないものも、同じ格好をし全てが平等である。
人種、国境その他全てをのりこえアッラーのために祈る。イスラム社会の連帯感の源泉はこの巡礼にあるのだろう。そこにはわれわれを苦しめるアノミーなど無縁の世界がある。
イスラム教徒に求められる善行とは、イスラム法に従った行動をとること。
イスラム法の骨子は
① コーラン
② 預言者の言行録
である。
コーランを憲法にたとえれば、預言者の言行録は、さしずめ細則や判例といったところか。
預言者の言行録は、言葉だけでなく、振るまいや様子などの状況も詳細に述べられている。
イスラム教ではイスラム法に従ったものだけが天国にいける。そうでないものは地獄いき。
天国行きか、地獄行きかはキリスト教と同じく最後の審判できまる。
天国は具体的に描写されている。
男性は天国で永遠の処女72人と関係をもつことができる。けして悪酔いすることのない酒や、果物、肉などを好きなだけ楽しむことができる。
このようにイスラム教は、キリスト教などとくらべ、分かりやすく具体的な宗教である。
ムハンマドを最後の預言者とし、アッラーを唯一絶対の神と崇め、宗教戒律、倫理規範、国家の法律との一致、これこそイスラム教という宗教の強みである。
が、民主主義も資本主義も近代法も、すべて西欧のキリスト教に遅れをとった。それは、この宗教のもつ強みがそのまま弱みとなったからであった。
小室直樹博士はこの点を鋭く分析している。
「ムハンマドは最後の預言者であるので、新しい預言者が出てきて、ムハンマドが決めたことを改定するわけにはいかない。つまり、神との契約の更改・新約はありえない。
未決事項の細目補充は可能だが、変更は不可能。このような教義から、イスラムにおいては、法は発見すべきものとなり、新しい立法という考えは出にくくなった。
必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成され、そこを脱却できる論拠を持ち得なかった。」
また資本主義については
「資本主義を成立させるための、法律、規範、人々の行動様式は、すべてこの外面的行動だけを規制している。
例えば、資本主義の憲法は、"良心の自由”を確実に保証し、国家権力や、それ以外の権力が人間の内面に侵入することを絶対に拒否している。
このゆえ、宗教の自由は確保されている。しかし、イスラム教のように人間の内面と外面が密接に絡みあっているよう宗教ではこうはいかない。イスラム法が資本主義と矛盾したときはどうなる。 イスラム法が優先されれば、資本主義の法律は機能しなくなるかもしれない。”イン・シャー・アッラー(アラーの思し召しによって)”という思想は、資本主義的約束不履行のための慣用句のように、資本主義諸国ビジネスマンにはおもわれているだろう。
人間の間の契約が絶対でなければ、資本主義は機能しえない。
このように、資本主義とデモクラシーと近代法とが成立し、機能するためには、パウロ的な、人間の外面と内面、行動と内心とを峻別する二分法がどうしても必要だったのである」
イスラム教は分かりやすい宗教であり、最も宗教らしい宗教といえるかもしれない。ただひたすら来世のために善行を積む。
イスラム教五行に一つ加えジハード(聖戦)がある。
若者を自爆テロに勧誘するにあたり、殉教すれば天国にいけると説得しているともいはれている。
不幸なことに、これもまた宗教の一面であることに違いはない。
「これ啓典の民よ、宗教のことで矩を超えてはならぬ。神について真理以外を口にしてはならぬ。
マリアの子救世主イエスは、ただ神の使徒に過ぎぬ。マリアに託された神のお言葉であり、神の霊力である。
だから神を信じなさい。”三”などと言ってはならぬ。控えるがよい、身のためだ。アッラーこそ唯一の神、讃えあれ。
神が子を持つなどありえない。天にあり地にあるあらゆるものが神の管理の下。いかようにもしてくれよう。
救世主とて、神の僕であることを軽んじはしない。近侍する天使たちとてそう。神に伺候することを軽んじ、偉ぶる者たちは、終末の日に神がひとまとめにして喚びつけてくれよう」 池内恵訳ブルース・ローレンス著コーラン第4章婦人第171~172節
イエスは神ではなく人にすぎない、イエスもムハンマド(マホメット)と同じく一人の預言者だ。父と子と精霊が一体となる三位一体説などを否定し、神はただアッラー1人と断じている。
コーランに従えばユダヤ教とキリスト教の関係は時系列的にも次の順序を辿る。
① ユダヤ教 旧約聖書 預言者 アブラハム・モーゼ
② キリスト教 新訳聖書 預言者 イエス・キリスト
③ イスラム教 コーラン 預言者ムハンマド
イスラム教は、古い教えのユダヤ教やキリスト教を大事にし高く評価するが、コーランこそが最終的に辿りついた正しい教えであり、ムハンマドが最後の預言者である。
以後の預言者の出現は有り得ない。
キリスト教の予定説などと異なり、イスラム教では、善行を積めば来世で救済されると教える。
イ スラム教の善行とはなにか。その前にイスラム教徒として次の六信五行をはじめコーランに従う行動をとってはじめて信者たり得る。
六信
1 神 2 天使 3 啓典 4 使徒 5 来世 6 定命
五行
1 信仰告白 2 礼拝 3 喜捨 4 断食 5 巡礼
このうち社会学的に注目すべきは”巡礼”だ。この巡礼では、恵まれたものも、恵まれないものも、同じ格好をし全てが平等である。
人種、国境その他全てをのりこえアッラーのために祈る。イスラム社会の連帯感の源泉はこの巡礼にあるのだろう。そこにはわれわれを苦しめるアノミーなど無縁の世界がある。
イスラム教徒に求められる善行とは、イスラム法に従った行動をとること。
イスラム法の骨子は
① コーラン
② 預言者の言行録
である。
コーランを憲法にたとえれば、預言者の言行録は、さしずめ細則や判例といったところか。
預言者の言行録は、言葉だけでなく、振るまいや様子などの状況も詳細に述べられている。
イスラム教ではイスラム法に従ったものだけが天国にいける。そうでないものは地獄いき。
天国行きか、地獄行きかはキリスト教と同じく最後の審判できまる。
天国は具体的に描写されている。
男性は天国で永遠の処女72人と関係をもつことができる。けして悪酔いすることのない酒や、果物、肉などを好きなだけ楽しむことができる。
このようにイスラム教は、キリスト教などとくらべ、分かりやすく具体的な宗教である。
ムハンマドを最後の預言者とし、アッラーを唯一絶対の神と崇め、宗教戒律、倫理規範、国家の法律との一致、これこそイスラム教という宗教の強みである。
が、民主主義も資本主義も近代法も、すべて西欧のキリスト教に遅れをとった。それは、この宗教のもつ強みがそのまま弱みとなったからであった。
小室直樹博士はこの点を鋭く分析している。
「ムハンマドは最後の預言者であるので、新しい預言者が出てきて、ムハンマドが決めたことを改定するわけにはいかない。つまり、神との契約の更改・新約はありえない。
未決事項の細目補充は可能だが、変更は不可能。このような教義から、イスラムにおいては、法は発見すべきものとなり、新しい立法という考えは出にくくなった。
必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成され、そこを脱却できる論拠を持ち得なかった。」
また資本主義については
「資本主義を成立させるための、法律、規範、人々の行動様式は、すべてこの外面的行動だけを規制している。
例えば、資本主義の憲法は、"良心の自由”を確実に保証し、国家権力や、それ以外の権力が人間の内面に侵入することを絶対に拒否している。
このゆえ、宗教の自由は確保されている。しかし、イスラム教のように人間の内面と外面が密接に絡みあっているよう宗教ではこうはいかない。イスラム法が資本主義と矛盾したときはどうなる。 イスラム法が優先されれば、資本主義の法律は機能しなくなるかもしれない。”イン・シャー・アッラー(アラーの思し召しによって)”という思想は、資本主義的約束不履行のための慣用句のように、資本主義諸国ビジネスマンにはおもわれているだろう。
人間の間の契約が絶対でなければ、資本主義は機能しえない。
このように、資本主義とデモクラシーと近代法とが成立し、機能するためには、パウロ的な、人間の外面と内面、行動と内心とを峻別する二分法がどうしても必要だったのである」
イスラム教は分かりやすい宗教であり、最も宗教らしい宗教といえるかもしれない。ただひたすら来世のために善行を積む。
イスラム教五行に一つ加えジハード(聖戦)がある。
若者を自爆テロに勧誘するにあたり、殉教すれば天国にいけると説得しているともいはれている。
不幸なことに、これもまた宗教の一面であることに違いはない。
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