2013年8月26日月曜日

宗教について 2

 キリスト教は、イエス・キリストの教えであり、福音書が啓典である。
 福音書は神との契約である。この神との契約は上下関係の契約であり(神の人間に対する一方的な命令)これがこの宗教の根本である。
 この福音書には、人間の行動について具体的な命令が書かれててない。いはば規範なき宗教であり、信仰のみが救済の条件となっている。
 人間の行動ではなく、信仰のみが全てである、という点で他のすべての宗教と異なっている。
 キリスト教を理解するには、まず実質的に開祖ともいうべきパウロを知らなければならない。
 パウロは当初、熱心なパリサイ派ユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害する側にいた。
 ダマスカス街道で「パウロなぜ、わたしを迫害するのか」と復活したイエスに呼びかけられ、その後、パウロは目が見えなくなった。
 ところがアナニアというキリスト教徒が神のお告げによってパウロのために祈ると、パウロの目から鱗のようなものが落ち目が見えるようになった。
 こうしてパウロは回心しキリスト教徒になった。
ローマ市民権を有するパウロはキリスト教の教義を事実上再定義するとともに熱心に布教活動をし、その伝道は異邦人にも及んだ。
 彼はピリピ人への手紙で「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み目標を目指して一心に走っているのです。」
 またテサロニケの信徒への手紙で「落ち着いた暮らしをし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。神様から委ねられた働きを人任せにすることなく、主から委ねられたと喜んで献身してゆくことが信仰の成長、成熟につながります。」
 幾世紀も経て後に資本主義の精神として結実した行動的禁欲 「祈り、かつ働け」 の原型がこのパウロの手紙に見出すことができる。
 恰もオリンピックのマラソンランナーの如く、あらゆるものにわき目をふらず、ひたすら神を信じ、教会においても社会においても神様からの賜物を持ち寄り、主のために働くときに、私たちはキリストのからだになる、と。
 パウロによってキリスト教は単なるユダヤ教の分派から後の世界宗教へと進みはじめた。
 が、パウロの時代から中世に至るまで、キリスト教は少数であり、真の世界宗教になるには、16世紀の宗教改革まで待たなければならなかった。
 中世ヨーロッパの教会は、善行を積まなくても金を積めば救われる、と信徒に免罪符を売りつけ金儲けに走るなど、腐敗が横行していた。
 マルティン・ルターはこの免罪符(贖宥状)を批判し、この批判が宗教改革のきっかけとなった。
 マルティン・ルターが公表したローマ教会に対する95ヶ条の論題は大きな反響を呼び、宗教改革は各地に拡大していった。
 マルティン・ルターの影響も大きかったが、宗教改革の極めつけは、フランス人 ジャン・カルヴァンの思想であろう。
 ジャン・カルヴァンは聖書を研究し尽くし、辿りついた結論が、彼の著書「キリスト教綱要」でとなえられた”予定説”である。
 この予定説こそカトリックから分離したプロテスタントの神学思想の骨格をなした。
 予定説とは、神によって救済される者と、救済されない者は予め決められていて人間にはどうすることもできないという説である。
 善行を積もうが積むまいが、教会に寄進しようがしまいが、その他一切の人間の行動に関係なく、救われるものと、救われないものは予め決まっていて変えようがない。
 しかも、自分が救われているか否かを知ることさえできない。
このような教義であれば、日本人の平均的な反応は、「救済されるかどうかが予め決められているのであれば、努力のしがいがない。せいぜい生きているうちに信仰などにかかわらず、自由に楽しく過したほうがましだ。」 となるだろう。
 が、熱心な予定説を信じるキリスト教徒はそうは考えない。
 小室直樹博士の分析はこうだ。
 「神様の考えていることは理解不能で、誰が救われるかと言っても、全体を考えてみればそこには共通点がある。
 神様から救われるほどの人だったら、きっとキリスト教を信仰し、予定説を信じている筈、と。
 これは、神様に救われるための必要条件にすぎず十分条件ではない。
 が、この必要条件をみたすことによって、自分はひょっとしたら神から選ばれた人間なのかもしれない、と考えるとあまりの光栄に体も震えてくる。
 しかし、はたして神に選ばれたかどうかは結局のところ分からない、分からないからこそ、さらに一生懸命に信仰する。
 かくして、カルヴァンの予定説を信じた人にとって、信仰心に終着点はなく、どこまでもどこまでも信仰心を募らせていく無限運動に入る。」
 救済されるための必要条件は充たしたが、十分条件は充たされていないという不安定な情況におかれればおかれる程、なおいっそう人々は心の安定を求め信仰へと向かうのだろう。
 さらに小室博士はこのカルヴァンの予定説が社会に与えた影響について述べている。
 「プロテスタントの登場こそが近代への扉を開いた。カルヴァンの予定説は単に絶対王権を覆しただけではない。近代民主主義も近代資本主義も、予定説がなければ生まれなかった。カルヴァンは歴史を変えた大天才だ」 と。

 キリスト教の論理は予定説であるが、この予定説は、因果応報、信賞必罰を否定する。このため人は神の存在に疑問を抱きかねない。
 このような疑念を払拭し、神は義(正しい)であることが証明されなければならない。これがキリスト教の神義論である。

 アメリカ合衆国の全ての紙幣とコインの裏面には、
 ”IN  GOD  WE  TRUST”
 という文字が刻印されている。信仰のみが救済の条件であるキリスト教社会の面目躍如たるものがある。
 民主主義、資本主義、近代法という輝かしい近代文明の基礎となるものは殆どキリスト教を媒体として生まれた。
 キリスト教は、隣人にたいする自己犠牲愛と無条件の奉仕を教える。
 歴史上のキリスト教徒の異教徒に対する残酷さはこの教えと矛盾するようだが、これもまたキリスト教の教えである。
 神の命令は絶対で、敬虔なキリスト教徒であればあるほど神の命令にしたがう。
 近代文明を理解するにはキリスト教の理解は必須であり、キリスト教について、もっと学ばなければならないという想いは募る。

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