2013年1月21日月曜日

ジャーナリズム


 かって新聞は「社会の木鐸」といわれ、真実を伝えることにより社会に警鐘をならし、権力の暴走を監視する役割を期待され、自ら自負もしていた。
 そのような時代もあったかもしれないが昨今の新聞の論調は社会の木鐸から、およそ程遠い。
 例えば、全国紙各社は、時の政権が推し進めた財政再建の名のもとの消費税増税にこぞって賛成のキャンペーンを張ってきた。
 そして今、新聞は公器であるとの理由で、自らに対して消費税の軽減税率適用を訴えるている。
 その同じ新聞社が天下り反対を叫びながら、自らは、消費税増税を推進している財務省からの天下りを受け入れている。
 社会の木鐸たるには、少なくとも李下に冠を正さずの心構えが求められるが、大手新聞社のやっていることは、そんなことを通り越している。
 これではなりふり構わず自己保身に走っているといはれても仕方ない。
 もっとも、ジャーナリズムの事大主義は今に始まった訳ではない。
 19世紀ナポレオン一世がエルバ島脱出後の新聞記事はあまりにも有名である。
 以下は、 1815年2月 元フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが流刑地エルバ島脱出後、約1ヶ月間の新聞の見出しである

1 怪物、流刑地を脱出
2 コルシカの狼、カンヌに上陸
3 猛虎ガップに現れ、討伐軍が派遣さる
4 悲惨な冒険家、山中で最期を遂げる(デマ)
5 食人鬼、グラッスへ
6 王位簒奪者、グルノーブルを占拠
7 専制皇帝リヨンに入る。恐怖の為市民の抵抗はマヒ
8 僭主、パリより50マイルの地点に迫る
9 ボナパルト、北方へ進撃中。進撃の速度増すも、パリ入場は不可能か
10 ナポレオン、明朝を期してパリへ
11 皇帝陛下、フォンテーヌブローへ入らせらる

 フランスの新聞のこの節操の無さを、21世紀の我々は、笑っていられるだろうか。
 露骨なまでの、この事大主義は、現代のジャーナリズムにも、その伝統は生きている。
 むしろ現代では、姿形をかえ、より潜在し見え難くなっているだけにやっかいである。
 表向き権力に抗する主張をしながら、実質、権力に阿るなど手のこんだ芸当を見せている。
 意図的か否かは別にしても、これが現代のジャーナリズムの実情に近いといっても過言ではないだろう。
 ジャーナリズムの受け手である一般国民にとっては頭が混乱するばかりである。
 権力に対する諂いは19世紀のスランスの新聞社とどこが違うのか、嘲笑するなどお門違いといえる。
 我々はジャーナリズムを単に面白い読みものとして見る分については毒にも薬にもならないが、こと民主主義の観点からは無視できないものがある。否、ジャーナリズムこそ深く民主主義の根底に係わっている。
 いうまでもなく民主主義国家においては、国民が主権者である。
 いいかえれば国民が自分たちのことは自分たちで決めるという権利をもっている。自分たちのことは自分たちで決めるというが、何に基づいて決めるのだろうか。
 メディアがなければ判断の基となる知識は自分の狭い行動半径に限られ情報が無いに等しい。
 如何に技術が発達した現代であってもメディアがなければ羅針盤なしで荒海を航海するに等しい。
 正しい判断をするためにはメディアは不可欠だ。ところがマスメディアが発達した現代においては、情報が溢れ情報の洪水に溺れんばかりである。困ったことに情報は溢れるばかりでなく偏ってもいる。
 民主主義の根幹は、国民が自ら意思決定するに際し、正確な情報を国民に広く平等にいきわたらせることであろう。これなくして民主主義とは呼べない。
 現実には、どうしても権力にある側に正確な情報が集中しがちとなり、その他一般国民に対しては情報は加工され、不正確かつ偏向したものとなり易い。
 この傾向が放置され何もしなければ、民主主義は危機に瀕する。権力サイドが国民を支配し、国民主権は名のみとなる。
 このため憲法上も国民の権利として、憲法21条1項(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する)があり、憲法前文では、高らかに国民主権がうたわれており、当然国民の知る権利も含まれていると解釈できる。
 国民の知る権利を担保するものとして、行政の情報公開とともに、ジャーナリズム活動がある。むしろジャーナリズム活動が情報の受け手にあたえる影響度としてはより重要であろう。
 ジャーナリズムを考える上で、民主主義と権力との関係は切っても切り離せない。
 次稿で考えてみたい。

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