2019年3月18日月曜日

日本語考 6

 三上章の主語抹殺論は斬新な改革が常にそうであるように決して好意をもって受け取られなかった。
 次の一文がそれを端的に言い表わしている。

 「『一介の高校数学教師の奇説』として、国語学界はまともに相手にしなかったのである。『一介の』という表現が三上文法を語る際に、枕詞のように使われた。
 ふたたび山口光(三上文法研究会世話人)の言葉を借りれば、『主語抹殺論以下の数多くの問題提起が、結局は黙殺された』。三上の『土着主義』は、英文法追随で保守的な国語学界を批判するものであったから、その歯に衣を着せない批判に学界は不快感を抱き、感情的に反応したのである。
 彼らの最大の作戦は何も言わず、答えないことであった。大学で国語学や言語学を教えてもいない素人が何を言う、と冷ややかに黙殺したのである。」
(金谷武洋著講談社『主語を抹殺した男』)

 日本特有の閥、ここでは国語学界という旧態依然たる学閥に無視されたのだ。
 黙殺された結果、現在の学校文法はいまだに英文法をそのまま日本語にあてはめた解釈、「文には主語と述語がある、日本語ではしばしば主語が省略される」が正しい文法とされている。が、現場で教えていえる日本語教師はこれに違和感を抱いていることは既に述べた。
 何が正しく何が正しくないのか。三上章の主語抹殺論に対しては正面から反論らしい反論がなされていない。
 学者の思惑とは別に現場は混乱している。金谷武洋氏はその実態を例をあげ説明している。
 関西の小学校5,6年生を対象とした国語の試験で主語と述語を当てさせる問題で正答率は89年の調査では33.3%、今年は15.9%であった。(『論座』2002年6月号)
 今の日本語文法は英文法に倣っているから英語をよく知らない小学生のこの試験結果は当然ともいえる。

 時の洗礼を受ければいつの日か文法論争に決着する時がくるであろう。
 教科書文法が教育現場を混乱させている現状を鑑みれば三上文法に理がある。三上文法が他の言語に追随するのではなく独自に構築している点も評価されて然るべきだろう。

 決定的に重要なことなので繰り返して言おう。三上文法が受け入れられなかったのはその理論の正当性ではなく三上が国語学界に所属せず一介の街の語学者であったからである。
 言語学者、庵功雄のつぎの言葉は言語学界というムラ社会のウチとソトに差別体質があることを示している。庵は学界の内部の人であり掟破りともいえる発言である。

 「もし、『主語廃止論』を、橋本(橋本進吉国語学会会長)や時枝(時枝誠記国語学会代表理事)が述べていれば三上が受けたような抵抗を受けることはほとんどなかったのではないかと思われる。
 つまり、三上の『主語廃止論』が普及しなかった最も大きな理由は、その内容が突飛だったとか、用語が難解すぎたとかいうことではなく、三上が一介の高校の数学教師だったためであると言えるのではなかろうか。」
(金谷武洋著講談社『英語にも主語はなかった』)

 いづれ日本語の教科書が書き換えられて主語という概念がなくなる日がくると期待したい。教育現場の混乱が正常である筈がない。日本語文法は一つであるべきである。

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