2019年2月18日月曜日

日本語考 2

 古来わが国では言葉には魂が宿っている意の「ことだま」が信じられていた聖ヨハネ福音書の冒頭には「はじめに言葉ありき」とある。ことばが人間社会の最も深奥の部分にかかわっていることの証であろう。
 ところが日本語に疑問を抱きこれに誇りを持てず他の言語に変えたいという人が少なからずいる。
 言葉のプロ、小説の神様とまで言われた大作家の志賀直哉はその代表格であろう。
 最近の傾向ではグローバル化に遅れてはならじと小学校低学年から英語教育を行い、公用語を英語にする会社が現れてきた。
 なぜこういうことになるのか。志賀直哉が雑誌『改造』1946年4月号に投稿したエッセー「国語問題」はそのヒントとなろう。

 「吾々は子供から今の国語に慣らされ、それ程に感じてはゐないが、日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ。
 その結果、如何に文化の進展が阻害されてゐたかを考へると、これは是非とも此機会に解決しなければならぬ大きな問題である。此事なくしては将来の日本が本当の文化国になれる希望はないと云つても誇張ではない。
 日本の国語が如何に不完全であり、不便であるかをここで具体的に例証することは煩はし過ぎて私には出来ないが、四十年近い自身の文筆生活で、この事は常に痛感して来た。
 それなら、どうしたらいいか。仮名書きとか、ローマ字書きとか、さういふ運動は大分昔からあるが、却々ものにならない。
 殊にローマ字運動は知名の人々がずいぶん熱心にそれを続けてゐるにもかかはらず、どうしても普及しないのは矢張りそれに致命的な欠陥があるのではないかと思はれる。
 私は六十年前、森有礼が英語を国語に採用しようとした事を此戦争中、度々想起した。
 若しそれが実現してゐたら、どうであつたらうと考へた。日本の文化が今よりも遙かに進んでゐたであらう事は想像できる。そして、恐らく今度のやうな戦争は起つてゐなかつたろうと思つた。
 吾々の学業も、もつと楽に進んでゐたらうし、学校生活も楽しいものに憶ひ返すことが出来たらうと、そんな事まで思つた。
 吾々は尺貫法を知らない子供達のやうに、古い国語を知らず、外国語の意識なしに英語を話し、英文を書いてゐたろう。
 英語辞書にない日本語独特の言葉も沢山出来てゐたらうし、万葉集も源氏物語もその言葉によつて今より遙か多くの人々に読まれてゐたらうといふやうな事までが考へられる。
 もし六十年前、国語に英語をさいようしてゐたとして、その利益を考へると無数にある。
 私の年になつて今までの国語と別れるのは感傷的に堪へられない淋しい事であるが、六十年前にそれが切換へられてゐた場合を想像すると、その方が遙かによかつたとは思はないではゐられない。
 国語を改革する必要は皆認めてゐるところで、最近その研究会が出来、私は発起人になつたが、今までの国語を残し、それを造り変へて完全なものにするといふ事には私は悲観的である。
 自分にいい案がないから、さう思ふのかも知れないが、兎に角この事には甚だ悲観的である。不徹底なものしか出来ないと思ふ。
 名案があるのだろうか。よく知らずに云ふのは無責任のやうだが、私はそれに余り期待を持つ事は出来ない。
 そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。
 六十年前に森有礼が考へた事を今こそ実現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。
 森有礼の時代には実現は困難であつたろうが、今ならば実現出来ない事ではない。
 反対の意見も色々あると思ふ。今の国語を完全なものに造りかへる事が出来ればそれに越した事はないが、それが出来ないとすれば、過去に執着せず、現在の吾々の感情を捨てて、百年二百年後の子孫の為めに、思ひ切つた事をする時だと思ふ。」(『資料日本英文学史② 英語教育論争史』大修館書店)

 このエッセーは当時世間の注目を浴びた。志賀直哉に影響を受けた文人たちは驚きかつ当惑した。そのあまりの奇抜さゆえに反論する人も少なかったという。
 志賀直哉の息子(日本古典文学大系の編集を担当していた)はエッセーの真意を問われて「日本の文学が読まれない、わかってもらえないのは日本語が特殊なせいと考えていたのではないか」と答えたという。
 日本語が不完全で不便であるため文化の進展が阻害されひいては戦争の原因にもなったとまで言われると唖然とするほかない。志賀直哉は日本語が不完全で不便である具体例を示していない。40年近い文筆活動でそう痛感したと言っているだけである。
 この影響力ある大作家のエッセーは過激ではあるが日本語に懐疑的な人たちの気持ちを代弁している。 
 以下志賀直哉がいう日本語ほど「不完全で不便」なものはないことに焦点をあて検証してみたい。

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