2018年12月10日月曜日

建前社会 日本 1

 われわれはそれと意識することなく本音と建前を器用に使い分ける。それが物事を円滑に運ぶことを知っているからである。
 田舎より洗練された都会、中でも長い都の伝統ある京都にその傾向が強いことはよく知られている。
 本音と建前を使い分ける度合いは同じでなければならないということはない。地方によって使い分けがあるのはごく自然なことである。

 ところが外国が相手となる国家間では話は全く異なる。本音と建前が乖離しすぎるとまず相手に理解されない。理解されたとしてもそれは弱みを糊塗しているにすぎないと見られかねない。
 事実なべて本音と建前の乖離が大きすぎると国家弱体化のシグナルとなる場合が多い。

 このことを権力と責任の視点から鋭く指摘したのがオランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンである。
 彼は30年以上にわたって日本人の生活と政治社会を観察した。その結果にもとづき偽りの真実を暴き一外国人ジャーナリストとして日本に提言している。
 外国人による日本を礼賛する書は多い。が、辛口評のそれは少ない。
 人は自分が見たいものを見るように、心地いい言葉に耳を傾ける。が、棘のある話は聞きたくない。日本人による日本の悪口も当然のごとく歓迎されない。

 本音と建前が乖離しすぎるとどういうことになるか。一番困ったことは、言っている方もこれを聞いている方もどれが真実か分からなくなってくることである。
 事実が事実として捉えられなくなる。すべての処方箋はまず事実を事実として認識することからはじめなければならないが、この最初でつまずくことになってしまう。
 これに関連してカレル・ヴァン・ウォルフレンは日本社会の権力と責任についてどう見ているか。彼の言説を分析し、是非につき考えてみたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿