2017年3月5日日曜日

皇位継承について 9

 明治維新後の近代日本の方針である「我国に在て機軸とすべきは独り皇室にあるのみ」の重要性はいくら強調してもしきれない。
 伊藤博文が大日本帝国憲法草案の大意説明で述べたこのフレーズはその後の日本の運命を決定した。
 幕末の京都は志士たちによる尊王攘夷の大合唱で熱気を帯びていた。伊藤博文はこの空気を捉え、西欧の機軸であるキリスト教にかわるものとして、仏教や神道は宗教として微弱であり機軸とはなり得ないので尊王思想を明治政府の宗教・機軸とした。
 この方針があったがため、他のアジア諸国が近代化にことごとく失敗したにもかかわらず、ひとり日本だけがデモクラシー化・資本主義化して近代化に成功した。
 井上毅は、伊藤博文の命を受け近代日本の大枠を作り上げた。大日本帝国憲法・旧皇室典範を起草し、教育勅語も実質的に起草した。
 このうち旧皇室典範の草案作成の過程で皇位継承に関連して、”女系天皇”と”譲位”について伊藤博文と井上毅の間に必ずしも考えが一致しなかった。特に譲位については両者の意見が対立した。
 明治20年3月伊藤博文は高輪会議と呼ばれる会議を開き、草案の検討作業を行い、皇室典範草案としてまとめた。
 その記録は「皇室典範・皇族令草案談話要録」として残されている。
 出席者は、伊藤博文、井上毅、柳原前光、伊東巳代治。草案は翌明治21年3月に修正作業が終了した。

 女系天皇については、伊藤博文は必ずしも否定的ではなかったが、最終的に井上案の庶子容認を前提に男系男子に限るに与し、女系天皇を否定した。

 譲位については
 「天皇は終身大位に当る但し精神又は身体に於て不治の重患ある時は元老院に諮詢し皇位継承の順序に依り其位を譲ることを得」

 譲位を容認するこの井上案に伊藤博文は反対しその理由をこう述べた。
 「天皇の終身大位に当るは勿論なり。また一たび践祚し玉ひたる以上は随意に其位をのがれ玉ふの理なし。
 そもそも継承の義務は法律 の定むる所に由る。精神又は身体に不治の重患あるも尚ほ其君を位より去らしめず。摂政を置きて百政を摂行するにあらずや。
 昔時譲位の例なきにあらずと雖も是れ仏教の流弊より来由するものなり。
 余は将に天子の犯冒すべからずと均しく天子は位を避くべからずと云はんとす。前上の理由に依り寧ろ本条は削除すべし」

 天皇に対する恣意的な力を排除し安定的な存在として守り抜く姿勢がうかがえる。
 井上毅が天皇に絶対君主としての役割を期待しているのとは明らかに違う。
 井上毅が天皇がその役割を担うことが出来なくなった場合は譲位やむなしとしたのに対し、伊藤博文は譲位を認めず、いざとなれば摂政を置けばよしとした。
 井上毅は、当時彼が傾倒したプロイセンのウィルヘルム1世のような君主像を天皇に期待していたのかもしれない。
 質素倹約で質実剛健、軍隊をこよなく愛したウィルヘルム1世。そういう君主像であればたしかに女系天皇とは相容れない。
 新生日本のグランドデザイナーとまで言われた彼は、女性を政治から徹底排除した。
 その理由は依然として謎であるが、理由の一端を彼のプロイセン傾倒に垣間見ることができる。
 かかる経緯で成立した明治皇室典範の”男系男子限定”および”譲位不可”は現皇室典範に引き継がれている。
 今上陛下の”お気持ち表明”は国民へのメーセージであり皇室典範とは無関係ではあり得ない。

0 件のコメント:

コメントを投稿