マレーシアのマラッカとボルネオ島コタ・キナバルに旅行した。
海上交通の要衝マラッカ海峡をのぞむマレーシアは16世紀初頭ポルトガルによる占領にはじまり宗主国が時代を隔てオランダ、イギリスと交替し長らく植民地として虐げられてきた。
ところが1941年第二次世界大戦初頭 日本軍による北部のコタ・バル上陸を機にマレーシアの運命は一変する。
戦後イギリスは宗主国として一旦復帰するも流れは止まらずマレーシアは1957年ついに念願の独立を勝ち取った。
独立後の発展は目覚しい。なかんずくマハティールは1981年首相に就任するや直ちに西洋に見習うのではなく短期間に経済成長を成し遂げた日本を見習うべきだとして”ルックイースト政策”を推進しマレーシア発展の原動力となった。
そして今やマレーシアは、2020年までに先進国の仲間入りを目指すまでに成長した。
”ルックイースト政策”のせいかマレーシアは親日的である。
日本軍はマレー戦線で戦禍を及ぼしたにも拘らずそのことで恨みつらみを言うマレーシア人の話は聞いたことがない。
マレーシア国定の中学校歴史教科書は、日本軍のコタ・バル上陸から書き起こされているという。
日本軍上陸が独立のきっかけを作ったと受け取れる教科書書き起こしである。
中韓の歴史認識に悩まされ、自虐史観にとらわれる日本にとってマレーシアの親日は一服の清涼剤である。
イスラム教国マレーシアのモスクを見学した。礼拝所で祈るイスラム教徒を身近に見る機会に恵まれた。
女性と子供の様子は印象的である。女性は礼拝所の廊下の覆いに隠された場所で礼拝する。イスラム教ならではの儀礼である。
子供の礼拝は万国共通、仲間とふざけ合いながら礼拝している。敬虔なイスラム教徒も子供の時はみなこうであったのだろう。
マレーシア旅行中に邦人2人がシリアで拘束され人質になったという衝撃的なニュースが流れた。
敬虔なイスラム教徒にとってこれら凶悪なテロリストは無縁であろう。が、これらテロリストもまたイスラム教徒を名乗る。
イスラム教は理解し難いと改めて思い知らされる。
明治政府は欧米列強の圧力に対抗するため近代国家づくりを急いだ。
近代国家のためには近代官僚制度を創設する必要があった。まず土地と人民を管理するため内務省と警察を創設した。近代官僚制のスタートである。
草創期の官僚は井上毅、川路利良などに代表されるように高い能力と高邁な志をもった官僚が国家の基礎つくりに貢献した。
彼らはひたすら国家国民のために努力した。ために国民は官僚に対し厚い信頼を寄せた。
ところが近代的官僚制になって1世紀強、早くも制度疲労を来たし官僚のエトスががらりと変わった。国家国民のためというより自ら所属する省益・私益優先する集団に成り果てた。
官僚に対する日本人の信頼が揺らいでいる。省益とあらば民主主義の大権である立法権をも簒奪しほしいままにしている。
かかる官僚のエトスの変化を国民も薄々感じるようになった。
何か変だ。いつまでたっても景気はよくならない。いつまでたってもデフレから脱却できない。政策が間違っているかもしれない、と。
簒奪された立法権を官僚から奪還するにはいかなる手段があるか。官僚の自浄作用を待つのは求むべくもない。
政治家の意識が変わらねばならない。政治家の意識が変わるためには国民の意識が変わらなければならない。政治家のレベルとは国民のレベルに他ならない。
ここでいう意識とは何か。官僚に対する意識であり、民主主義に対する意識である。
選挙を経ない官僚が実質的に立法・政策を決定している現状は民主主義とはいえない。選挙のとき国民が投票した一票が何ら反映されないからである。
省益・私益に走る官僚から国益を守るにはまず官僚のエトスを知らなければならない。
古今東西の官僚制を徹底的に研究したマックス・ウエーバーは公私混同する家産官僚のエトスについて明らかにした。
英国の歴史・政治学者パーキンソンは家産官僚、依法官僚を問わず、官僚は放っておけば自分の権力を肥大化させると指摘した。
一旦腐敗した権力は朽ちるまで止まることを知らない。
公の仕事をするゆえ、官僚は本来、善であると考えるのは空想にすぎない。
官僚の害は必ずおこるものという前提で対策を考えなければならない。
そのためには、このような官僚本来のエトスを正しく認識する必要がある。
すべての官僚対策の一丁目一番地はここから始まる。
具体策の一つとして官僚組織の監視がある。
長年いわれながら殆んど日の目を見ない命題である。言うは易し行うは難し。
ここで参考になるのが官僚腐敗対策の大先輩・中国である。
「中国の王朝は巨大な官僚組織を持ちながら、どうして長続きしたのか。その最大の理由は、つねに官僚グループに対抗する勢力があったからです。その対抗勢力がつねに官僚組織を監視し、それが腐敗、堕落してくると糾弾した。だからこそ、官僚組織が制度疲労を起こさず、長持ちした。」
(小室直樹著集英社『日本人のための憲法言論』)
当初対抗勢力として貴族や宦官がいたがそれでも抑えきれないため中国の歴代王朝は御史台という官僚の汚職を捜査する機関をつくった。
「御史台の力たるや今日の警察や検事の比にあらず。
なぜなら、この御史台の長官である御史大夫に告発されると、自動的に有罪と推定される。
つまり、『疑わしきは罰せず』ではなく『疑わしきは罰す』という原則が適用される。(中略)
今の人間から見れば、何という恐怖政治かと思ってしまうでしょうが、そのくらい強大な権力で牽制していないと、官僚組織はかぎりなく肥大し、腐敗していく。
そうなると、もはや皇帝でさえどうにもならないというわけです。この講義で私は何度も『国家権力はリヴァイアサンである』と述べましたが、高級官僚とはそのリヴァイアサンをも食い殺してしまう、恐るべき怪獣、いや寄生虫です。
この寄生虫がはびこれば、皇帝でさえ権力を失いかねない。
だからこそ、中国の皇帝たちは知恵の限りを絞って、御史台という制度を作った。」(前掲書)
御史台は現代日本では非現実的である。が現代日本に最も欠けているのが御史台制度を作ったその精神であることは間違いない。
日本人は伝統的に官僚を信頼してきた。が今やそれを見直すべき時にきている。国民とその代理人の政治家が主権を甦えらせることができるか否かがかかっているからである。
これに失敗し、このまま日本の政治が偏差値ロボットのベスト・アンド・ブライテスト集団に壟断され、官僚主導の政策が続けば、失われた20年がやがて失われた30年とか40年になるだろう。
そしてその結果、国際社会から ”かって先進国であった日本” という有難くない称号を与えられる羽目になるだろう。
財務省OBの高橋氏と榊原氏の相反する見解を検証した結果、財務省が実質日本の政治を左右する力を持っているという共通点が見出せた。
日本人は、伝統的に”お上”とか”官尊民卑”という言葉があるように、役人に対し一定の尊敬と信頼を寄せてきた。
ところが汚職および経済停滞を機に役人に対して多少疑問を抱くようになった。
そして2度にわたる消費税増税と景気後退でその疑問は増した。
日本の近代的官僚制度発足からわずか1世紀強で早くも制度疲労を心配しなければならない事態となった。
弊害の最たるものは、官僚による立法権の簒奪である。
選挙を経ない官僚が国権の最高機関である立法府・国会の立法権を簒奪するという異常事態になっている。
国会議員に立法能力がないからというのがその簒奪の理由であるが、理屈になっていない。
戸締りしてないから泥棒に入ったというのと同じだ。
ここで改めて官僚制について考えてみたい。
「官僚制における構造的腐蝕とは何か。トップは責任を取らない。どんな失敗をしても犯罪を犯しても、トップに責任が及ぶことはない。恐るべき無責任地帯がゆきわたる。
その由って来るところは何か。『トップ・エリートの共同体には、その他の人びと(普通の人びと)とは違った規範が適用される』からである。
たとえば、『捕虜になった者は死ね』という規範が、下士官、兵には厳重に適用された。しかし、連合艦隊参謀長や高級参謀には適用されなかったのであった。(中略)
これと同じ構造的腐蝕が、今の日本にも現れてきたのである。
この構造的腐蝕は、現在日本の官僚制全般に見られるところではある。
が、特に甚だしいのが大蔵省。大蔵省は、役所中の役所、官庁中の官庁と言われ、日本の権力中枢をがっちりと握っている。(中略)
これほどまでのトップ・エリートであるがゆえに、特に腐蝕しやすい。
腐蝕の構造も、戦前の陸海軍とそっくりなのである。特に、その無責任システムが!
大蔵官僚が腐蝕するとどうなる。経済と財政が分からなくなってしまうのである。
腐蝕した軍人が『戦争が分からなくなってしまった』ように。
(小室直樹著クレスト社『これでも国家と呼べるのか』)
7年前平成8年の著作であるが、2度に亘る消費税増税と景気低迷の無責任システムを予言しているかのような一節だ。
権限を持てば持つほど無責任になるという官僚制の構造的腐蝕には淵源がある。
マックス・ウエーバが定義した家産官僚がそれである。ウエーバは家産官僚の特徴は公私の混同であるという。
財務省のキャリア官僚が扱う金額は桁外れだ。主計局の一部局だけで何十兆円も扱う。10億円など30代前半の係長一人の裁量で、簡単に増減額できる。
ひと頃、元官房長官の野中氏や武村氏による官房機密費 年間約15億円の使途証言で話題騒然となったが、これと比較してもその額の凄さがわかる。
これは今だけの話ではない。戦前も同じである。エピソードを一つ。
「東條英機といえば『カミソリ東條』の異名で知られた陸軍随一の強面です。その東條が関東軍参謀長という、泣く子も黙る地位にいた時の話です。(昭和12年3月から翌年5月頃の話と推定されます)。この時、満州に出張に来た大蔵省の主計官が釣りを趣味にしていると聞き、東條は『お楽しみください』と湖の真ん中で列車を止めようとしたというのです。
この時の主計官は、32歳の福田赳夫(後の総理大臣)です。
東條は20歳以上年が若い福田に揉み手で官官接待をしたというのです。」(倉山満著光文社新書『検証 財務省の近現代史』)
若いときからこのような境遇に馴らされれば、どういう性格になるか想像に難くない。
青雲の志を抱き国家公務員になった当初から省益や天下りを考える人など誰一人いないだろう。だが境遇が彼らを変えてしまう。
特に、財務官僚はベスト・アンド・ブライテスト(The Best and the Brightest)、彼らが最もその罠に陥りやすい。
「いかにエリート教育を受けたとはいえ、しょせん官僚は優秀な『マシーン』にすぎません。偏差値ロボットです。
彼らは過去の前例や既存の法律はよく記憶しているかもしれないが、今までに経験したことのない事態に遭遇したときには、何の役にも立たない。
学校教育は知識を教えてくれるけれども、発想力や創造力までは与えてくれない。
マックス・ウエーバーは『最高の官僚は最悪の政治家である』と述べています。
どれだけ優秀な官僚であっても、彼らには政治家たる資格、指導者たる資格はない。
官僚に政治を行わせるのは、サルに小説を書かせるよりもむずかしい。
政治家たちが上手にコントロールして、はじめて官僚の力を活かすことができる。」
(小室直樹著集英社『日本人のための憲法言論』)
ベスト・アンド・ブライテストは 『今までに経験したことのない事態に遭遇したとき』 を除いたときという条件付なのだ。
その意味で極論すれば、官僚に政治を行わせるのは、将棋の名人に政治を行わせるようなものだ。
倒錯した日本の政治を民主主義本来の姿に甦えらせる手段とは何か。原点に立ち返り検討したい。
榊原氏の公務員論について以下順を追って検証してみよう。
① 日本の公務員は緒外国と比べ少ない、従って民主党が公務員の総人件費を2割削減するというのは間違いであると榊原氏はいう。
比較少数の公務員人件費削減に反対する彼の主張には一理あるが、日本の公務員が少数精鋭でどの国の公務員よりも働いているとの主張はそのまま鵜呑みにはできない。
公務員は国民を相手に仕事をしている。仕事の量は国民の民度とかエトスおよび福祉に大きく左右され、人口あたりの公務員数で単純に割り切れない。消費税率の高低が福祉を切り離して割り切れないように。
彼が示したデータから彼の説に従えば北欧諸国の公務員は日本の約5分の1の効率ということになる。乱暴な説である。
② 榊原氏は自らの経験で日本の発展にはエリートが必要であるという。そしてフランスのようなエリートシステムに羨望の眼差しを向けている。
先進国・発展途上国を問わずエリートは存在する。彼らは国家を代表しより高みに引き上げる牽引力になることもあるし、破滅へ導くこともある。
問われるのはエリートの資質である。
榊原氏は
「政治が劣化する一方、今でも日本のThe Best and the Brightest は官僚達、とりわけ財務省等の経済官僚達であることは変わりありません」
という。
では彼が言う財務省等の経済官僚達とはどんな人か。
有名大学を優秀な成績で卒業し公務員試験で序列上位のThe Best and the Brightestな人物である。
この条件で財務省に採用されるのは東大法学部出身が殆んどでその他が僅か。
そして入省時の成績がその後の昇進にも影響するという異常な世界である。
人間の能力はもともと多様で早熟もいれば晩成もいる。入省後の努力で才能を開花させる人もいるだろう。
これらを無視し何の疑問も感じない。このような閉鎖的なシステムに落とし穴がない筈がない。
もし民間企業でこのようなシステムを採用すればその会社は間違いなく競争から脱落すること受けあいである。
③ 現在の立法府たる議会は事実上官僚に簒奪されている。
議員は殆んど立法作業に携わらず官僚がこれを受け持っているからである。
議員の役割はロビイストにすぎないという。
かかる重要な立法作業を負託している官僚はもっとエリートの誇りをもって仕事をしてほしいと榊原氏はいう。
開いた口がふさがらないとはこのことか。官僚が立法を受け持つのをあたりまえと考えそれを異常な状態と考えない。真っ向から三権分立を否定しているといわれても仕方ない。現実はどうあれ三権分立を否定すれば如何なる結果を招くのか少しでも考えたことがあるのだろうか。
生涯33件の議員立法、間接的に関与した法案をあわせれば100件を超えた田中角栄元首相が例外中の例外扱いと受け止められている。この例外扱いの呪縛からの開放こそ立法府を機能せしめる一歩ではないか。
④ 官庁が公益法人や社団法人などへ出向し人事を回転させるのは、民間の大企業が人事を回転させるため子会社をつくりそこへ出向させるのと同じだと榊原氏はいう。
こんなことを大企業の社長が聞いたら唖然とするだろう。
結果としてそういうこともあるかもしれないが、利益を捻出するための子会社設立であって、人事回転のためでは断じたないと言うであろう。
これに比し官庁の場合はどうか、榊原氏も認めているように、事務次官などトップになる人は面倒見がよくなければならない。面倒見とは、天下り先をしっかりと確保・拡大させることである。
目が向いている先は国民ではなく自分の所属する省庁である。
官庁と大企業の目が向いている先を同じと決め付けるのは乱暴すぎる。
榊原氏は財務省寄りに財務省を論じたが、彼の主張は、彼の意図とは裏腹に、財務省と日本の官僚機構の宿痾を映し出す結果となっている。