2013年6月17日月曜日

日本維新の会

 日本維新の会の橋下共同代表の慰安婦発言がきっかけとなり、日本維新の会の凋落が止まらない。
 党勢は今年3月ごろから陰りがみえていたが、5月24~25日に実施した日本経済新聞社の世論調査では参院選投票先では前月比6ポイント減の3%と急落し、民主党に抜かれた。(日本経済新聞)
 大阪維新の会の旗揚げで彗星の如く政界に新風を吹き込み一時は民主党の支持を上回り自民党にも迫る勢いであったことを思うに、昭和の政治家 川島正次郎の名言 ”政界一寸先は闇” がいまさらながら新鮮味を帯びる。
 日本維新の会の興隆は、橋下氏個人の人気が発端で、その後橋下氏の元に自薦他薦を含め、政界、官界、言論界、その他当代の人気者が馳せ参じ橋下氏自身もこれを積極的に受け入れた。
 民主党政権時の閉塞感も相俟って、国民の支持も広がり、いよいよ平成の維新到来かと思わせた。
 が、日本経済新聞社の指摘にあるように今年3月ごろから徐々に党勢に陰りが見えた。
 周囲の期待とは裏腹に、肝心の橋下氏自身の行動が煮え切らなかったところが大きい。
 言葉は歯切れよくとも行動が伴わない。大阪市長職に留まるのか、それともこれを辞して、国政選挙に打って出るのか。
 彼は、この何れでもなく、大阪市長のままで、国政選挙に打って出る可能性を模索した。
 彼は、これで大阪市民にも、国民にも支持が得られると考えたのだろうか。
 このような中途半端な決断は、波風たたない世相では、あるいは有効かもしれないが、激動の時代には通用しないし、人々の期待を裏切りかねない。

 19世紀フランスの第3共和政治下で、フランスを孤立させる外交方針展開していたドイツのビスマルクに対抗すべく反議会主義的・反共和主義的運動の主役を演じた、ジョルジュ・ブーランジェ将軍の悲劇はそのことを如実に物語っている。
 当時のフランスはドイツへの復讐に燃え、国民的英雄を待望する気運に充ちていた。
 そこに登場したのがブーランジェ将軍である。ブーランジェは当初、時勢が共和派に傾いていると見るや、共和制に加担する演説を行い共和派の支持をえた。
 が、内閣交代を機に、ブーランジェの人気に恐れをなした政府は彼を更迭した。このことがかえって彼の人気に拍車をかけ政府の権威は失墜した。
 これ以降ブーランジェは、これまでの方針を一転、反共和主義勢力に接近した。ついには反議会・反共和主義運動の主役にまで祭りあげられた。
 熱狂した群衆は彼を全盛期のナポレオン一世の姿に重ね合わせた。
 これでフランスが再びヨーロッパの支配者になる日がくるかもしれないと。
 そして彼にクーデターの実行を促すまでに立ち至った。
 彼の側近は、ついにブーランジェを指導者とするクーデター計画を練った。
 ブーランジェを熱狂的に支持する押し寄せる群衆を前に、彼がただ一言命令を発すれば、群衆は雪崩を打ってエリゼ宮に突入しただろう。政府も半ばクーデターを覚悟した。
 が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらった。彼は、彼のルビコン河を渡るのをためらい岸辺に立ったまま動かなかった。
 クーデター計画は瓦解し、新しく内相になったコンスタンがブーランジェ一派の壊滅に乗り出した。
 政府は、ブーランジェに反逆罪容疑で逮捕状を発した。危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、その後悲惨な結末を迎えた。
 ブーランジェがクーデター計画の実行をためらったのは、自分にはこれ程の人気があるから、何もクーデターに頼らずとも、正当の手続きで権力の座につける筈であると読んだからであった。
 これを日和見主義・自己過信が生んだ悲劇と言わずして何と言おう。

 日本維新の会は、党勢挽回のため米軍のオスプレイの八尾空港受け入れ提案など必死の努力をしているように見える。
 が、逆回転した激流を食い止めるのは至難の技だ。
 日本維新の会の ”太陽の季節” ははたして終わったのだろうか。
結果はいずれ判明する。

        ローマの太陽は没した。
        われわれの日は去った。
        雲が、露が、そして危険が訪れる。
        われわれの仕事は終わったのだ。
                  シェークスピア「ジュリアス・シーザ」

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