2017年5月28日日曜日

自殺について 4

 デュルケームは『自殺論』で研究成果をもとに自殺対策を提案している。彼の提案はわが国の自殺対策に参考となるのか否かが次の課題となる。
 下図はわが国の自殺率推移である。


総死亡率及び自殺死亡率の年次推移
注:昭和19~21年は資料不備のため省略した。     厚生労働省人口動態統計

 上のグラフで自殺死亡率変化が目立つ時期が4回ある。
①1937~1943 急減期 ②1947~1957 急増期 ③1958~1966 急減期 ④90年代後半 急増期 でありいづれも社会の連帯の有無が関連している。

① 戦争中の時代で国民が戦争という目的で一致団結していた。
② 敗戦後、権威の崩壊、村落共同体の崩壊によりアノミーとなった。
③ 高度経済成長の真ただ中で社会のベクトルが一致していた。
④ バブル景気の終焉で社会規律が緩みアノミーとなった。

 注目すべきは 第④項で1973年から続いた長期にわたる経済成長がその最終期に地価暴騰・バブル景気となり90年代に入ってまもなくこれが弾けた。
 この結果土地神話崩壊とともに経済は混乱し、銀行の貸し渋り・貸し剥がしなど信じられないようなことが次々と起った。
 膨らみすぎた欲望の行く先が突然なくなり、人びとは茫然自失、社会の連帯は喪失しアノミーとなった。
 驚くべきことに自殺死亡率は終戦後の大混乱期とほぼ同程度に急増していることである。
 経済が失速したとはいえ終戦後の混乱期とは比較にならないほど国民の暮らし向きはよかった。ただ当時と異なり人びとの欲望水準が高くなり、少しの逆境にも耐えられなくなっていた。

 日本の自殺率の特徴として高齢者の自殺者が多いことおよび都市部より農村部の自殺者が多い点が挙げられる。
 高齢者の自殺率が高いのはは高齢化社会の反映だし、農村部の自殺者が多いのは過疎化がすすみ地域の連帯が失われたことによる。

 なお2003年の自殺者は27人(人口10万人当たり)と統計上日本の自殺死亡率のピークでありこれ以降2016年の17.3人となだらかに減少傾向が続いている。
 それでも2015年時点で世界保健機構の自殺率統計で世界第12位と先進国で最も高いことに変わりない。
 何が原因でこうなるのか。対策のためにはその原因を特定しなければならない。

2017年5月22日月曜日

自殺について 3

 人が自殺に追い込まれる要因は個別的に調べても千差万別で答えは見つからない。
 自殺は異常な個人的事情であるにもかかわらず社会全体で見れば一定の比率で発生する正常な現象である。
 これに着目したデュルケームは自殺を統計によって可視化し分析した。
 その結果、結束力が強くベクトルが一致する社会では自殺率が低く、反対に結束力が弱く個人の帰属意識が薄い社会では自殺率が高い。
 平穏な日常の生活を破壊する戦争時には自殺率は上がるだろうと思われているがむしろ自殺率は下がっている。社会のベクトルが合っているからである。
 個人を拘束する規制が緩み個人の欲望に歯止めがかからない社会は自殺者が高い。生きていくのに厳しい不況期には自殺率は上がるだろう見られているが、逆に自殺率が上がるのは不況期ではなく好況期である。好況期には欲望が際限もなく膨らみやすいからである。

 これらの研究結果からデュルケームは無連帯社会に起因する無秩序・アノミーこそ人を自殺に追い込む正体であることを発見した。

 デュルケームは自殺を自己本位的、集団本位的およびアノミー的に分類した。
 このうち集団本位的自殺は、集団の中に個人が拘束され義務的にあるいは随意的に追い込まれる自殺である。
 これが支配的な社会はいつでも生命を放棄する用意がある反面他の生命も尊重しない。
 特殊な軍隊または個人の地位が未発達な社会でみられる。太平洋戦争終戦末期の神風特攻隊や殉教・殉死など。
 個人主義が発達した現代社会では次第に少なくなっている。
 現代社会で問題となるのは自己本位的自殺とアノミー的自殺である。
 自己本位的自殺は個人化がすすみ社会との連帯が断ち切られたときに生じやすい自殺であり、アノミー的自殺は、欲求を規制する社会の権威や規範が弱体化して無秩序状態となったとき起きやすい自殺である。
 デュルケームは自己本位的自殺とアノミー的自殺に分けて論じているがこの両者はともに社会との連帯が断ち切られ無連帯・アノミー状態になった時に発生するという意味では同じである。

 アノミーがどうして自殺につながるのか?人は優れて社会的存在である。
 「全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない」(シェイクスピア 福田恒存訳『お気に召すまま』)

 誰もいない舞台で一人で演技したいという役者はいない。人間にとって一番大切なものは連帯である。これを断たれれば正常な人間も狂者になる。
 デュルケームは生活水準が急激に上がっても急激に下がっても同じように自殺率が高くなることを発見した。
 生活水準の急落は誰しも納得できる。が生活水準の急上昇による自殺率の激増は画期的な発見である。これを後述の急性アノミーと区別して単純アノミーという。
 なぜか、生活水準の急上昇によりそれまで付き合っていた人との連帯が断たれる。一方生活水準の急上昇によりそれに見合う社会の人たちと付き合おうとしても成り上がりものとして見下され連帯をつくれない。
 自分の居場所を見出せず途方にくれてしまう。高額な宝くじ当選者などが陥りやすい陥穽である。
 デュルケーム後に発見されたものに急性アノミーがある。絶対的な権威が崩壊したとき、また信じきっていた人や愛していた人に裏切られたとき、このようなとき正常な人が狂者以上に狂者になる。
 太平洋戦争終戦後、日本中の権威という権威がズタズタに崩れ急性アノミーになったが、その惨状はいまさら説明不要。
 信じきった人、愛した人に対する絶望から急性アノミーになる心理をシェイクスピアは『ハムレット』で描写している。
 父王の急死とあまりにも早い母と父の弟との再婚という衝撃でハムレットは自殺の誘惑に駆られる。
 「ああ、この穢らわしい体、どろどろに溶 けて露になってしまえばいいのに。せめて、自 殺を大罪とする神の掟さえなければ。
 ああ、ど うしたらいいのだ、この世の営みいっさいが、 つくづく厭になった。わずらわしい、味気ない、 すべてかいなしだ!ええい、どうともなれ。」
(シェイクスピア 福田恒存訳 『ハムレット』)

 がん細胞が人の体を蝕むようにアノミーは人の精神を蝕んでしまう。
 連帯喪失はもともと社会の病気であるが、社会的存在である個人はこの病気から逃れることはできない。
 デュルケームが自殺の研究を通じて発見したアノミーは一大発見であり社会学への貢献は計り知れない。

2017年5月15日月曜日

自殺について 2

 人が自殺すればまずは遺書の有無、次に本人の家族、友人、勤務先関係者などの証言をもとに病気、経済的破綻、失恋、いじめなど自殺の動機が調べられ、そのうえで自殺の原因が特定される。
 だがデュルケームはこのような個人の動機解明は心理学的アプローチであり、真の解明にはこれだけに着目するのではなく社会学的アプローチが欠かせないという。なぜなら自殺は社会的要因によって大きく左右されるからである。
 カトリックよりプロテスタント、農民より商工業、女より男、軍人より民間人、既婚者より独身者といずれも連帯がより薄いほうが自殺率が高い。
 これらはすべて社会的要因によるものである。したがって同じように病気や借金で首がまわらなくなっても自殺する人もいれば自殺しない人もいる。
 自殺の動機は病気、借金、失恋など個人的説明だけでは説明できず社会的説明が不可欠である。
 なぜ自殺したのか本人でさえ知らないことがある。
 芥川龍之介は遺書となった友人宛手記で自殺の心境を綴っている

 「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。
 僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。
 尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。
 この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。
 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。
 しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。
 自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。
 が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。(中略)
 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。
 (僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の『阿呆の一生』の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)」
(昭和2年7月芥川龍之介『或旧友へ送る手記』遺稿)

 新聞記事の生活苦、病苦、精神的苦痛などの自殺の動機は、動機の全部などではなく動機にいたる道程にすぎない。
 僕の場合は将来に対するぼんやりした不安であり、これについて解剖したつもりであるが、社会的条件の中にいる僕には社会的条件が見えるかどうか確信がもてないと芥川龍之介はいう。
 自殺の真の動機は本人にも分からない。社会的要因が隠されているかもしれない。デュルケームの社会学的説明と符号する。
 自殺者本人にも分からないことがある自殺動機、まして第三者が推定する自殺動機などあてにはならない。
 新聞などで公表される自殺動機を鵜呑みしてはいけない。公表される動機は表向きのものであり真の動機は他にあるかもしれない。
 このことをしっかり腑に落とし込む、これが自殺研究の前提となる。

2017年5月8日月曜日

自殺について 1

 自殺という痛ましい事件は後を絶たない。人はなぜ自殺するのか?
 一般的には、借金、病気、失恋などがその理由に挙げられるが本当にそうか?
 自殺の原因は、個人的理由だけでなくそれ以上に強力なものがあるのではないか?
 この観点から19世紀フランスの社会学者エミール・デュルケームは生命の放棄という自殺行為について研究し、古典的名著『自殺論』を1897年に上梓した。
 デュルケームのこの著作は、社会学研究の基礎の書でありこれに先立つ2年前の1895年に同じくデュルケームが上梓した社会学の方法論である『社会学的方法の規準』を実践した書でもある。
 その骨子は自然科学が自然現象をあつかうように社会現象を社会的事実として捉えこれを物のように考察することである。
 社会的事実を決定するものは個人の意思ではなく先行した社会的事実である。
 「社会的事実とは、固定化されていると否とは問わず、個人のうえで外部的な拘束をおよぼすことができ、さらにいえば、固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的にひろがり、その個人的な表現物からは独立しているいっさいの行動様式のことである。」(デュルケーム著宮島喬訳岩波文庫『社会学的方法の規準』)

 敷衍すれば、社会的事実とは、個人の外にあって個人を拘束する集団や社会のしきたりや慣習など一切の思考・行動様式である。
 例えば、われわれは初対面の人に挨拶をする、日本に生まれたゆえに日本語を話し、日本円を使う。
 初対面の人に挨拶をせず、日本語を話さず、日本円を使わなくても自由だか困難をきわめる。個人ではいかんともし難いことが個人を規制する。
 デュルケームはこの方法で自殺を個人的事由ではなく社会的原因に根ざしていると主張する。一般的に自殺は冒頭に記したように個人的理由と考えられているがそれは違うと言う。
 この方法でデュルケームはフランスだけでなくヨーロッパ全体の自殺者データを微に入り細にわたり検証して『自殺論』を上梓した。
 自殺という言葉は日常的に使われているが学問的には厳密でなければならないとし、自殺を
 「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。」と定義した。
 H27年世界保健機構(WHO)の各国自殺率順リストによると日本は12位、自殺率が高い高齢者を考慮した年齢調整自殺率でも17位と先進国で一番自殺率が高い。
 日本がなぜ自殺率が高いのか。デュルケームの研究はこの疑問に答えてくれるかもしれない。
 彼の研究成果をもとに自殺について考えてみたい。

2017年5月1日月曜日

道元と予定説

 鎌倉時代初期、道元は貴族の名門に生まれるも幼くして両親をなくし無常を感じ14歳で比叡山に入り出家した。
 若い道元はある疑問を抱いた。人間はもともと仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏であると教えているはずだ。
 それなのに、われわれはなぜ仏になるための修行をせねばならないのか?
 道元はこの疑問を比叡山の僧侶に投げかけたが答えは得られない。そこで山をおりて寺々を訪ねるが結果は同じ。
 やむなく彼は答えを求め宗に渡った。宗でも結果は同じと諦めかけ日本に帰ろうとした矢先、意図する僧、如浄禅師と巡り会えた。
 如浄の言葉『心身脱落』をヒントにして道元が得た結論は「悟りを得るために修行するのではなく悟りの世界の中にいるからこそ修行できる」であった。

 仏教思想家のひろさちや氏はこれを敷衍・解説している。
 「わたしたちはついつい、これはいけないことだと知っていながら、でもこれぐらいのことはしてもいいだろうと思ってしまいます。
 それは自分を甘やかしているのです。その背後には、自分は仏ではなしに凡夫なんだという気持ちがあります。
 しかし、自分が仏だと自覚すればどうでしょうか? もちろん、仏といっても、悟りの世界に飛び込んだばかりの新参の仏、赤ん坊の仏です。
 しかし、仏だという自覚があれば、〈自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない〉と考えて、悪から遠ざかることができます。それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。」

 人はもともと仏の性質を持っている。このことを寝ても覚めても自覚していれば仏にふさわしい修行ができる、という。
 このことはキリスト教の予定説に通じるものがある。
 予定説の教えるところによれば、
 人間が救われるか否かは予め神によって決められている。にもかかわらずそのことを誰も知ることはできない。
 だが、救いが約束されている人はきっとそれにふさわしい生き方をするにちがいない。
 マックス・ヴェーバーは、この予定説の神によって救いが約束されている人にふさわしい生き方こそが資本主義の精神につながると説いた。
 片や、道元の『正法眼蔵』の思想は、哲学者の和辻哲郎やドイツのハイデガー、さらにアップル創始者スティーブ・ジョブスなどにも影響を及ぼしたと云われている。
 小さい存在である人間の意思は、神や仏を前にしては無に等しい。人の意思で運命を変えることなど出来ない。大きい存在である神仏に溶け込み、救いを約束された人あるいは仏のようにそれらしく精進・修行すること。この点両者に相通じるものがある。
 道元の思想が800年後の今も、仏門に帰依した人のみならず凡夫にも影響を与えている。坐禅修行の希望者がひきもきらないという。
 かねて行ってみたいと思っていた永平寺、見事な杉の大木群とともに脳裏に残る。