アベノミクス第一の矢、大胆な金融政策の効果を全て否定する人がいる。誰あろう否定論者は、外国からではなく、国内からであり、理論経済学者 伊東光晴京都大学名誉教授がその人である。
雑誌『世界』2013年8月号に寄稿した論文「安倍・黒田氏は、何もしていない」で綿密にデータを駆使し理路整然と異を唱えている。
当該論文の要点を整理してみよう
アベノミクス関連イベント
2012・11・16 野田首相の衆議院解散決定
2012・12・16 政権交代
2013・03・20 黒田日銀総裁就任
2013・04・04 黒田総裁のもと最初の日銀金融政策決定会合
アベノミクスは大胆な金融政策によって通貨供給量を大幅に増加させたが、その結果は、その大部分が日銀にある各銀行の当座預金の増加となっているだけで、それが引き出され企業に融資されて設備投資となるなど、実体経済の活性化をもたらすものにはほとんどなっていない。
白川前日銀総裁時代と質的に何ら変化はなく、当座預金勘定が量的に増大しただけである。
にもかかわらず、株価が上昇し、円安が進行したのはつぎの理由による。
株価の上昇について
日本の株式市場は特異で、主に外国人によって売買され、日本は証券市場という場所を貸すだけのウィンブルドン現象を呈している。外国人の日本株保有比率は約25%であるが、彼らは高速売買を繰り返し、日本の個人株主がそれに便乗しようとする。このため株価を決定するのは実質上外国人という特殊性がある。 この外国人の投資行動は背後にいる投資ファンドによって左右される。投資ファンドは、米国株、ヨーロッパ株、アジア株に分散投資しており投資比率の大枠もそれぞれ決まっている。
米国株とヨーロッパ株は2012年前半にはリーマンショック以前に戻していたために、買い増しする余地がなくなりかけていた。
2012年6月にはアジア株、その中心の日本株に向かわざるを得ないと予想されていた。2012年10月から外国人はそれまでの売り越しから買い越しに転じた。このように、2013年11月からの株価上昇は政権交代とは関係ない要因で起こったものである。
円安を解剖する
財務省の為替介入によって円安はもたらされた。円安のための円売り、ドル等の買い、そのドル等は外国国債、ほとんどがアメリカの長短の国債に換えられる。これは、アメリカ政府の望むところである。日本の円高是正のための円売りドル買いがアメリカ国債購入となるならば、アメリカも日本の為替介入を黙認してゆくことになる。
為替介入は現財務官が行うことであって、黒田日銀総裁とは何の関係もない。為替介入のための短期国債の大量発行とこれをセットオフするための大幅金融緩和。こうした一連の政策の輪は、安倍首相があずかり知らぬところで進行し、円高から円安への急速な移行もアベノミクスとは無関係の動きである。
アベ・クロノミクスの評価
第一に為替安定のための正攻法である、投機資金のいたずらなる動きを抑えるト-ピングタックスである。わずかな税率でも取引回数が多いと投機を抑制できる制度であるが、アメリカの反対で実現せず、金融市場の混乱だけが残った。
第二に期待は多様であるが、アベノミクスでは株価上昇や円安という期待は一様であると考えるところに誤りがある。現実はそうならない。
第三に金融政策の非対称性を知らない愚論が横行している。金融政策はインフレ対策には有効であるが不況対策には無効である。
有名とされる「紐のたとえ」によると、紐を引っ張ると同様に中央銀行の緊縮政策によって銀行貸し出し量を減らし、それによって貨幣供給量を減らすことはできる。しかし、紐を押しても効果がないのと同様に、銀行貸し出し及び貨幣供給量を増やすことはできない。
複合不況
トヨタの五月の決算発表時 豊田社長は「日本の国内市場は縮小している」と発言した。日本市場の縮小、これに鋭くメスをいれているのは藻谷浩介氏であり、かれは日本の生産年齢人口の減少が問題であると指摘している。これが円高とあわせた現在の不況の複合要因である。
伊東教授の論旨は明快である。ここまで理路整然と自説を展開されるから宗教指導者よろしく多くの弟子を惹きつけて止まないのかもしれない。
だが、しかしである。データそのものに問題はないにしても、これの扱いには疑問なしとはしない。
順を追って検討してみよう。
伊東教授が指摘しているように大量に供給された通貨は日銀の当座預金に積みあがったままである。それにもかかわらず、株価は上がった。
その原因は外国人投資家自身の内なる理由によって日本株を買ったのであって、それは民主党政権であろうが自民党政権であろうが変わりはないと断言している。
が、株価ほど気まぐれのものはない。政権政党変更と株価の関連性無視は極論にすぎよう。
たとえば時の政権が資本主義に親和的であるのか否かによって投資家の投資行動も変わるだろう。政治は運命であると古人もいっている。
円安は為替介入の結果であると伊東教授は言う。本当にそうなのだろうか。基軸通貨でない円は、日本国内でないと通用しない。ドルに交換しようが、米国債を購入しようが、交換または支払われた円は国内に止まる。国内における円の流通量は変わらない。
為替は物品と同じくその他の条件を捨象すれば当然ながら希少性があれば高騰し、そうでなければ下落する。特に為替取引をするヘッジファンドのジョージ・ソロスなどはこの考えの下に取引しているといわれている。
また、為替は2国間の交換レートであるからそれぞれの通貨国の経済状況にも左右されるという複雑な面がある。
為替介入は一時的には影響するかもしれないが持続するものではない。
長期的には一方の通貨の増刷によりもたらされる相手国通貨に対する相対的希薄化および2国間の経常収支等の経済状況にこそ為替レートの決定となる要素が多いと考えるのが妥当ではないか。
アベ・クロノミクスの評価で、有名な「紐のたとえ」は指摘の通りであり金融政策に並行し財政政策の必要性はつとにいわれている。
伊東教授は、トヨタの2013年3月期の決算を引用して複合不況について述べている。
営業利益1兆3288億 主な内訳
販売増 6500億(49%)
コスト削減 4500億(34%)
円安効果 1500億(11%)
円高の是正の影響は全体の11%に過ぎない。利益の大部分は自己努力で、政策と何の関係もないと断言している。
最も貢献している販売増は、確かに自己努力に違いないが、円高の是正があってはじめて達成されたのではないか。
伊東教授は、豊田社長のコメントを引用したあとで、現在の不況は生産年齢人口の減少にありと説く、藻谷浩介氏を高く評価している。
藻谷氏は、「いま起きているのは、車や家電、住宅など、主として現役世代にしか消費されない商品の、生産年齢人口=消費者の頭数の減少に伴う値崩れだ。これはマクロ経済学上のデフレではなくて、ミクロ経済学上の現象である。」と主張している。
生産年齢人口の減少は、成長の阻害要因ではあるが、世界にはドイツなど生産年齢人口減少国でなおかつ成長している国があるのも事実である。
伊東教授は理路整然と自説を展開されているが、なぜかその論調には素直に首肯できないものがある。論理そのものではなくその基となる素材の扱い方に疑念がある。いかなる場合も批判精神は健全に保ちたい。
アベニミクス第二の矢、機動的な財政政策と第三の矢、成長戦略については様子を見別途検証したい。
2013年12月30日月曜日
2013年12月23日月曜日
アベノミクス検証 1
”死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。”
吉田松陰は、高杉晋作の ”男子たるもの死すべきところはどこなのか” の問いにこう応えた。
安倍晋三首相が、同郷の先達のこの教えを意識しているか否か知る由もないが、ジムに通い、座禅を組み、懸命にアベノミクスに邁進している姿は松陰の教えに重なる。
アベノミクスは政策遂行途上で評価も時期尚早かもしれないが、今年も残りわずか、あえてこれを検証してみたい。
まず、肯定論者から。
アメリカのプリンストン大学のポール・クルーグマン教授、コロンビア大学のジョセフ・E・スティグリッツ教授およびエール大学のロバート・シラー教授以上3人のノーベル経済学受賞者がそろって、ニュアンスは微妙に異なるが概ね肯定的に評価していることが挙げられる。
クルーグマン教授は、小泉政権発足時から、日本は流動性の罠に陥り、デフレが進むと警告していた。
アベノミクスは、20年も続いたデフレの罠から脱却するための必要な政策であると、アベノミクスのスタートの時点からこれを高く評価した。
そして5月24日のニューヨーク・タイムズのコラムで23日東京の株式市場が暴落したものの、長期金利と株価が同時に上昇してきたことは楽観論の表れだと分析。日本の財政問題への懸念を反映したものではないとの見方も示しその主張を変えていない。 ただ、消費税増税は時期尚早でデフレ脱却後にすべきであって、この増税決定には落胆したとのべている。
スティグリッツ教授は、第一の矢である大胆な金融政策と第二の矢の機動的な財政政策に対しては全面的に支持し、第三の矢の民間投資を喚起する成長戦略については懐疑的であり、特に規制緩和と雇用の流動化には警戒心を抱いている。
同教授は、2013年10月30日の『日立イノベーションフォーラム2013』で注目すべき発言をしている。
「多くの場合、規制は経済を押さえ込むと言われているが、米国では十分な規制がなかったために、多くの富が失われた。
赤信号を守る必要があるように、どんな社会や経済においても、規制の重要性を理解しなければならない。一連のルールであり、それによってお互いがどのように協調し合うかを示してくれる。1人の人間の失敗が、別の多くの人々に打撃を与えないようにしなければならない。
しかし、米国には十分な規制はなかった。その結果、米国は間違った資源の配分が行われ、不平等が生まれた。不平等が当たり前な状況は、企業が利益を独占あるいは寡占化するために行うロビー活動、いわゆるレントシーキングを誘発する。実際に多くの企業がリッチになり、独禁法に反対するような動きをしている。」
吉田松陰は、高杉晋作の ”男子たるもの死すべきところはどこなのか” の問いにこう応えた。
安倍晋三首相が、同郷の先達のこの教えを意識しているか否か知る由もないが、ジムに通い、座禅を組み、懸命にアベノミクスに邁進している姿は松陰の教えに重なる。
アベノミクスは政策遂行途上で評価も時期尚早かもしれないが、今年も残りわずか、あえてこれを検証してみたい。
まず、肯定論者から。
アメリカのプリンストン大学のポール・クルーグマン教授、コロンビア大学のジョセフ・E・スティグリッツ教授およびエール大学のロバート・シラー教授以上3人のノーベル経済学受賞者がそろって、ニュアンスは微妙に異なるが概ね肯定的に評価していることが挙げられる。
クルーグマン教授は、小泉政権発足時から、日本は流動性の罠に陥り、デフレが進むと警告していた。
アベノミクスは、20年も続いたデフレの罠から脱却するための必要な政策であると、アベノミクスのスタートの時点からこれを高く評価した。
そして5月24日のニューヨーク・タイムズのコラムで23日東京の株式市場が暴落したものの、長期金利と株価が同時に上昇してきたことは楽観論の表れだと分析。日本の財政問題への懸念を反映したものではないとの見方も示しその主張を変えていない。 ただ、消費税増税は時期尚早でデフレ脱却後にすべきであって、この増税決定には落胆したとのべている。
スティグリッツ教授は、第一の矢である大胆な金融政策と第二の矢の機動的な財政政策に対しては全面的に支持し、第三の矢の民間投資を喚起する成長戦略については懐疑的であり、特に規制緩和と雇用の流動化には警戒心を抱いている。
同教授は、2013年10月30日の『日立イノベーションフォーラム2013』で注目すべき発言をしている。
「多くの場合、規制は経済を押さえ込むと言われているが、米国では十分な規制がなかったために、多くの富が失われた。
赤信号を守る必要があるように、どんな社会や経済においても、規制の重要性を理解しなければならない。一連のルールであり、それによってお互いがどのように協調し合うかを示してくれる。1人の人間の失敗が、別の多くの人々に打撃を与えないようにしなければならない。
しかし、米国には十分な規制はなかった。その結果、米国は間違った資源の配分が行われ、不平等が生まれた。不平等が当たり前な状況は、企業が利益を独占あるいは寡占化するために行うロビー活動、いわゆるレントシーキングを誘発する。実際に多くの企業がリッチになり、独禁法に反対するような動きをしている。」
規制改革は成長戦略の一丁目一番地、米国に倣って規制緩和を!と声高に叫ぶわが国の産業競争力会議のメンバーは、この発言をどう受け止めるのだろうか。 なお消費税についてはこれを悪税と決めつけ、むしろ投資を促す環境税にすべきであるとし、消費税増税には、クルーグマン教授と同様否定的である。
シラー教授は、
「最も劇的だったのは、明確な形で拡張的な財政政策を打ち出し、かつ、増税にも着手すると表明したことだ。
日本政府は対GDP(国内総生産)比で世界最大の債務を負っているので財政支出を批判する人が多いが、ケインズ政策によって最悪の事態が避けられてきた面もあるのではないか。
一方で、安倍晋三首相は消費増税も行うと明言しており、財政均衡を目指した刺激策といえる。私は、このような債務に優しい刺激策を欧米も採用すべきだ、と主張している。
現在、米国では拡張的な財政政策を提案しても政治的に阻止され、困難な状況にある。増税という言葉は忌み嫌われている。
世界中で財政緊縮策が広がる中で、日本の積極策がどういう結果になるか注目している。」(東洋経済オンライン2013年10月17日)
と期待をこめて財政積極策を評価するとともに、3者の中でただ一人消費税増税を評価している。
これほど長い期間、日本の株価や地価が下がり続けたことのほうがむしろ驚きで、何もしなくても起業家精神が自律的回復の時期にきているとの、同教授の認識に基づいた消費税増税評価であるのかもしれない。
シラー教授は、
「最も劇的だったのは、明確な形で拡張的な財政政策を打ち出し、かつ、増税にも着手すると表明したことだ。
日本政府は対GDP(国内総生産)比で世界最大の債務を負っているので財政支出を批判する人が多いが、ケインズ政策によって最悪の事態が避けられてきた面もあるのではないか。
一方で、安倍晋三首相は消費増税も行うと明言しており、財政均衡を目指した刺激策といえる。私は、このような債務に優しい刺激策を欧米も採用すべきだ、と主張している。
現在、米国では拡張的な財政政策を提案しても政治的に阻止され、困難な状況にある。増税という言葉は忌み嫌われている。
世界中で財政緊縮策が広がる中で、日本の積極策がどういう結果になるか注目している。」(東洋経済オンライン2013年10月17日)
と期待をこめて財政積極策を評価するとともに、3者の中でただ一人消費税増税を評価している。
これほど長い期間、日本の株価や地価が下がり続けたことのほうがむしろ驚きで、何もしなくても起業家精神が自律的回復の時期にきているとの、同教授の認識に基づいた消費税増税評価であるのかもしれない。
このように、権威ある学者がそろってアベノミクスを肯定的に見ているのを知ると、景気回復はすぐそこにでもくるような錯覚に陥りがちである。
が、アベノミクスを評価するシラー教授自身が言うように
「期待は、経済のダイナミクスへの影響という点で非常に重要だ。ただ、日本で期待を変えるには長い年月が必要だ。
期待は実現しないとその効果が持続しない。ある程度短期間で期待の一部が現実のものになれば、効果が出てくるのではないか。
期待は実現しないとその効果が持続しない。ある程度短期間で期待の一部が現実のものになれば、効果が出てくるのではないか。
かつて1929年の大恐慌時にハーバート・フーヴァー大統領は景気回復はそこまで来ていると言い続けたが、彼の任期中には回復せず、後に楽観主義に取りつかれていたという評価になり、さらに失望感が広がった。結局、10年経っても恐慌は続き、残念ながらこれを脱したのは戦争によってだった。」(前掲)
当然ながら、肯定的見解のみならず否定的見解にも耳を傾けなければ片手落ちになり、判断を誤る。
まして、景気回復を目指そうと言う緒についたばかりの病み上がりの日本経済に消費税増税が決定されたのだ。無条件の楽観論が通用する筈もない。
まして、景気回復を目指そうと言う緒についたばかりの病み上がりの日本経済に消費税増税が決定されたのだ。無条件の楽観論が通用する筈もない。
2013年12月16日月曜日
マキャヴェリ 4
政治とカネの関連で、過去の問題として田中角栄元首相のロッキード事件の5億円受託収賄罪と、現在進行形の東京都猪瀬知事の徳州会からの5千万円授受事件をとりあげてみよう。
前者は、首相経験者の犯罪として話題となった。一審有罪、控訴棄却後上告、本人の死去により上告審の審理途中で公訴棄却となった。
この事件は雑誌 文芸春秋に寄稿したジャーナリスト 立花隆の金脈研究が発端となり、田中角栄の金権体質がことさら問題とされた。
同事件では犯罪とされた証拠採用の法律論争よりも専ら元首相のスキャンダル暴露合戦に明け暮れた。
後者の猪瀬現東京都知事の徳州会から渡った5千万円であるが、都議会で議論されているのは、金銭授受に関連する法律論争よりも猪瀬知事の道義的責任に多くの時間を費やされているようみ見える。
両事件に共通するのは、わが国では小市民的道徳が優先され、マキャヴェリズムあるいは政治の持つ悪魔的性格はとても受け入れられるものではないことを証明している。
丸山真男は、論壇のデビュー作で両事件を予言したかの如く指摘している。
「しかもこうして倫理が権力化されると同時に、権力もまた絶えず倫理的なるものによって中和されつつ現れる。
公然たるマキャヴェリズムの宣言、小市民的道徳の大胆な蹂躙の言葉は未だかってこの国の政治化の口から洩れたためしはなかった。
政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されえないのである。
この点でも東と西は鋭く分かれる。政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだという考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンが指摘しているが、こういうつきつめた認識は日本人には出来ない。
ここには真理と正義に飽くまで忠実な理想主義的政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。
すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。
この意味に於て、東条英機氏は日本政治のシンボルと言い得る。そうしてかくの如き権力のいわば矮小化は政治的権力にとどまらず、凡そ国家を背景とした一切の権力的支配を特質づけている。」(未来社『超国家主義の論理と心理』)
日本社会は有力学者に指摘されようがされまいがなにも変わっていないようだ。
法案が通過してもなお議論がやまない、国民の知る権利が問題となる特定秘密保護法に関連して、前掲論文に指摘されている権力の矮小化をはからずも実証するような事件が過去にあった。
当時毎日新聞の記者であった西山太吉が外務省の女性事務官から極秘資料を入手したいわゆる外務省機密漏洩事件である。
検察は起訴状に、”ひそかに情を通じ” と書いた。これが発端で世論が大きく傾いた。国民の知る権利の法律論争はどこかに吹き飛んでしまった。当該事件の最大の被害者は政府に嘘をつかれた国民であるが、その国民は検察が仕掛けたスキャンダルによって目を欺かれてしまった。これを検察権力の矮小化といわずして何と言おう。
政治の目的は、国民の安全を守り、国民を幸せにすることにあり、政治家に求められる資質もこれに対応できる能力である。
政治家の徳性だけが問題ではない。したがってよくいわれる”出たい人より出したい人” などは本来お門違いである。
例えば、戦前、戦中 3次に亘り内閣を組閣した近衛文麿は家柄がよく、押出しもよく、清廉潔白でいわゆる、”出したい人”の典型であった。が、政治家としては優柔不断で、無責任で結果的に日本を不幸にした。乗り気であった蒋介石との日中首脳会談を直前になって取り消すなど彼の優柔不断が原因で幾度となく決定的なチャンスを逃した。
実弟の秀麿からも ”兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最後を迎えることはなかったのに” という逸話が残っているほどである。
近代デモクラシー社会において、政治的倫理と個人的倫理は峻別されるべきものであるが、この概念はどうにも日本人の腑に落ちないようだ。
日本人はどうやら個人的倫理の腐敗は直ちに社会全体の腐敗につながるとでも考えているようだ。そうでなければ、あの田中角栄元首相への異常な金権追及、そして猪瀬現東京都知事への都議会とマスコミの異常な道義的責任の追求を説明することが出来ない。
勿論、カネに汚いことはいいことではない。また、清廉潔白は悪いことでもない。が、問われるべきは政治家としての政治倫理であって、これに個人的倫理の感情を移入し過ぎるところに問題があるのである。
敗戦後いち早く、丸山真男が指摘した国家を背景とした権力の矮小化は無くなるどころかますます進んでいる。
前者は、首相経験者の犯罪として話題となった。一審有罪、控訴棄却後上告、本人の死去により上告審の審理途中で公訴棄却となった。
この事件は雑誌 文芸春秋に寄稿したジャーナリスト 立花隆の金脈研究が発端となり、田中角栄の金権体質がことさら問題とされた。
同事件では犯罪とされた証拠採用の法律論争よりも専ら元首相のスキャンダル暴露合戦に明け暮れた。
後者の猪瀬現東京都知事の徳州会から渡った5千万円であるが、都議会で議論されているのは、金銭授受に関連する法律論争よりも猪瀬知事の道義的責任に多くの時間を費やされているようみ見える。
両事件に共通するのは、わが国では小市民的道徳が優先され、マキャヴェリズムあるいは政治の持つ悪魔的性格はとても受け入れられるものではないことを証明している。
丸山真男は、論壇のデビュー作で両事件を予言したかの如く指摘している。
「しかもこうして倫理が権力化されると同時に、権力もまた絶えず倫理的なるものによって中和されつつ現れる。
公然たるマキャヴェリズムの宣言、小市民的道徳の大胆な蹂躙の言葉は未だかってこの国の政治化の口から洩れたためしはなかった。
政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されえないのである。
この点でも東と西は鋭く分かれる。政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだという考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンが指摘しているが、こういうつきつめた認識は日本人には出来ない。
ここには真理と正義に飽くまで忠実な理想主義的政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。
すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。
この意味に於て、東条英機氏は日本政治のシンボルと言い得る。そうしてかくの如き権力のいわば矮小化は政治的権力にとどまらず、凡そ国家を背景とした一切の権力的支配を特質づけている。」(未来社『超国家主義の論理と心理』)
日本社会は有力学者に指摘されようがされまいがなにも変わっていないようだ。
法案が通過してもなお議論がやまない、国民の知る権利が問題となる特定秘密保護法に関連して、前掲論文に指摘されている権力の矮小化をはからずも実証するような事件が過去にあった。
当時毎日新聞の記者であった西山太吉が外務省の女性事務官から極秘資料を入手したいわゆる外務省機密漏洩事件である。
検察は起訴状に、”ひそかに情を通じ” と書いた。これが発端で世論が大きく傾いた。国民の知る権利の法律論争はどこかに吹き飛んでしまった。当該事件の最大の被害者は政府に嘘をつかれた国民であるが、その国民は検察が仕掛けたスキャンダルによって目を欺かれてしまった。これを検察権力の矮小化といわずして何と言おう。
政治の目的は、国民の安全を守り、国民を幸せにすることにあり、政治家に求められる資質もこれに対応できる能力である。
政治家の徳性だけが問題ではない。したがってよくいわれる”出たい人より出したい人” などは本来お門違いである。
例えば、戦前、戦中 3次に亘り内閣を組閣した近衛文麿は家柄がよく、押出しもよく、清廉潔白でいわゆる、”出したい人”の典型であった。が、政治家としては優柔不断で、無責任で結果的に日本を不幸にした。乗り気であった蒋介石との日中首脳会談を直前になって取り消すなど彼の優柔不断が原因で幾度となく決定的なチャンスを逃した。
実弟の秀麿からも ”兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最後を迎えることはなかったのに” という逸話が残っているほどである。
近代デモクラシー社会において、政治的倫理と個人的倫理は峻別されるべきものであるが、この概念はどうにも日本人の腑に落ちないようだ。
日本人はどうやら個人的倫理の腐敗は直ちに社会全体の腐敗につながるとでも考えているようだ。そうでなければ、あの田中角栄元首相への異常な金権追及、そして猪瀬現東京都知事への都議会とマスコミの異常な道義的責任の追求を説明することが出来ない。
勿論、カネに汚いことはいいことではない。また、清廉潔白は悪いことでもない。が、問われるべきは政治家としての政治倫理であって、これに個人的倫理の感情を移入し過ぎるところに問題があるのである。
敗戦後いち早く、丸山真男が指摘した国家を背景とした権力の矮小化は無くなるどころかますます進んでいる。
2013年12月9日月曜日
マキャヴェリ 3
丸山真男は人間と政治の関係について次のように述べている。
「政治を真正面から問題にして来た思想家は古来必ず人間論をとりあげた。プラトン、アリストテレス、マキャヴェリ、ホッブス、ロック、ベンタム、ルソー、ヘーゲル、ニーチェ これらのひとびとはみな、人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた。
そしてこれには深い理由がある。政治の本質的な契機は人間の人間に対する統制を組織化することである。統制といい、組織化といい、いずれも人間を現実に動かすことであり、人間の外部的に実現された行為を媒介として初めて政治が成り立つ。
従って政治は否応なく人間存在のメカニズムを全体的に知悉していなければならぬ。
たとえば道徳や宗教はもっぱら人間の内面に働きかける。従ってその働きの結果が外部的に実現されるかどうかということは、むろん無関心とはいえないけれども、宗教や道徳の本質上決定的重要性は持たない。
内面性あるいは動機性がその生命であるがゆえに、たとえ人が外部的に望ましい行為をやったとしても、偽善や祟りへの恐怖心からやったのでは何にもならぬ。
ところが、政治の働きかけは、必ず現実に対象となった人間が政治主体の目的通りに動くということが生命である。
(未来社新装版『現代政治の思想と行動』)
ところが、政治の働きかけは、必ず現実に対象となった人間が政治主体の目的通りに動くということが生命である。
(未来社新装版『現代政治の思想と行動』)
丸山真男は、政治を宗教や道徳と区別し、カール・シュミットの言を引用し”真の政治理論は必ず性悪説をとる”と言っている。
「こういう性悪説は昔からあまり評判がよくない。道学先生からは眼の仇にされる。しかしそれはひとつには、マキャヴェリやホッブスの方が道学先生よりも、人間の、従って政治の現実をごまかしたりヴェールをかけたりしないで、直視する勇気をもっていたというだけのことであり、もう一つは、性悪説の意味を誤解しているためである。
ホッブスは性悪というとすぐ憤慨する手合いにこう答えている。 ”自分自身のことを考えて見るがいい。旅行に出るときは武器を携え、なるべく道ずれで行きたがる、寝るときにはドアに鍵をかけ、自分の家にあってさえ箱に鍵をかけるではないか。
しかもちゃんと法律があり自分に加えられる一切の侵害を罰してくれる武装したお役人がいることを知っていてさえこれである。”
しかもちゃんと法律があり自分に加えられる一切の侵害を罰してくれる武装したお役人がいることを知っていてさえこれである。”
(中略)
しかしそういうことを別としても、政治が前提とする性悪という意味をもっと正しく理解しなければならない。
性悪というのは、厳密にいうと正確な表現でないので、じつはシュミット自身もいっているように、人間が問題的な存在だということにほかならぬ。
前にもいった通り、効果的に人間を支配し組織化するということ、それをあくまで外部的結果として確保して行くことに政治の生命があるならば、政治は一応その対象とする人間を『取扱注意』品として、これにアプローチしてゆくのは当然である。
性悪というのは、この取扱注意の赤札である。もし人間がいかなる状況でも必ず悪い行動をとると決っているとすれば、むしろ事は簡単で本来の政治の介入する余地はない。
善い方にも悪い方にも転び、状況によって天使になったり悪魔になったりするところに、技術としての政治が発生する地盤があるわけである。」(同上)
丸山真男はマキャヴェリのジレンマについても指摘している。
「それでは近世の国家権力はもはやあらゆる倫理的規範と無関係になったかというと、それは二重の意味においてそうではなかった。
第一に、国家理性のイデオロギーはしばしば、無制限かつ盲目的な権力拡張の肯定と同視されるが、そうした理解はその最初の大胆な告知者たるマキャヴェリにおいて、既に全くちがっている。 それは具体的には教皇の世俗的支配権の武器として機能していたようなクリスト教倫理に対するアンチテーゼであり、彼はその批判を通じて政治権力に特有な行動規範を見出そうとしたのである。
いわば政治に対する外からの制約の代りにこれを内側から規律する倫理を打ち立てようというのが彼の真意であった。
むろん彼はアンチテーゼを主張する点であまりにラジカルで、その反面積極的な体系の建設においては必ずしも成功していないけれども、いわゆるマキャヴェリズムが凡そ彼の本質から遠いことは確かである。
この点、カール・シュミットが、
”若しマキャヴェリがマキャヴェリストであったとするならば、彼はかれの悪名高い『君主論』などの代りに、むしろ一般的には人間の、特殊的には君主たちの善性について、人を感動させるようなセンテンスを寄せあつめた本を書いたことであろう”
といっているのは、よく問題の焦点を衝いた言葉である。
政治に内在的な行動規範とはどのようなものかということはいずれ別個に論ずるとして、ここではただ近世の国家理性のイデオロギーが単なる権力衝動の肯定ではないことだけを指摘して置こう。」(同上)
難解な文である。この前後の文脈から敷衍してみよう。
国家権力は本来人間に対して外面的な影響に止まるべきものであり、内面性に影響を及ぼすべきではない。
然るに宗教指導者の教皇はクリスト教倫理を利用し外面にまでも影響を及ぼしているとして、マキャヴェリは、これのアンチテーゼとして政治を内面から規範を打ち立てようとした。
マキャヴェリズムは、本来外面の変革を目指した筈である。従って彼の意図から遠ざかってしまった。
ただ政治においては、権力衝動は肯定されるべきものでなければならないが、それには政治倫理を伴っていなければならない。
マキャヴェリの思想にはジレンマがあったかもしれないが、丸山真男はこれを高く評価していたことは間違いない。
この政治学の泰斗 丸山真男の、”政治と人間” あるいは ”政治と道徳” などはどう受けとめられたか。
この政治学の泰斗 丸山真男の、”政治と人間” あるいは ”政治と道徳” などはどう受けとめられたか。
現実の政治にどう反映されたか、あるいは反映されなかったのか検証してみよう
2013年12月2日月曜日
マキャヴェリ 2
解剖学者によると、人の脳神経は解剖学の教科書どうりの配列になっている人は殆どいない。必ずどこか乱れている。
ただ、極々希に、天才といわれた人の神経だけは例外的に教科書どうりの神経配列になっている、という主旨の内容をどこかで読んだことがある。
ルネッサンス期イタリア フィレンツェのニコロ・マキャヴェリの脳神経も解剖学の教科書どうりの配列になっていたのだろうか。
「ニコロ・マキャヴェリは、眼をあけて生まれてきた。ソクラテスのように、ヴォルテールのように、ガリレオのように、カントのように・・・・・」
(塩野七生著わが友マキャヴェリ 中公文庫)
と、イタリア フィレンツェ在住の塩野七生氏は、イタリアの作家ジュセッペ・プレッツォリーニの言葉を引用しながら、マキャヴェリを高く評価した。
マキャヴェリは、特段名門でもなく、特段裕福でもない、ごく普通の家庭に生まれた。
彼自身も成人後、普通に結婚し、子供にも恵まれ、フィレンツェ共和国の一外交官、正確には第二書記局の書記官であった。
塩野七生氏によると、この役職を強いて今日の日本にあてはめると、中央省庁の課長クラスであったらしい。
マキャヴェリはいはゆる”大学出”ではなく、官僚としてはノンキャリアであった。
友人からも
「”どちらかといえば、学問のあまりない男”と評された。
だが、マキャヴェリよりは17歳年上であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、マキャヴェリが青年であった頃はまだフィレンツェに住んでいたのだが、こんなことを自ら書き残している。
”わたしは、学問のない男である”」(同上)
これらルネッサンス期 フィレンツェ人の言葉の裏に、沸々と湧きあがる自信を読み取ることができる。
ただ、芸術家と違い、マキャヴェリはフィレンツェ共和国の書記官であったから、ノンキャリアとしての制約を受けた。
が、そのことが彼の仕事に対する情熱を妨げることは一切なかった。
彼は、メディチ家の影響が大きいフィレンツェ共和国の書記官に任命され、かつ解職の憂き目にもあっているが、解職されても幾度か復帰し、フィレンツェのために働いた。
それは、ナポレオンに任命と解職を繰り返された、フランスの警察長官ジョセフ・フーシェのように有能なるが故のめぐり合わせを連想させる。
彼は、様々な困難に直面しても、官職にこだわり、それは死の直前までつづいた。
彼の政治思想については、バートランド・ラッセルが、君主論を引き合いに出し次のように論評している。
「君主論でのマキャヴェリは、慈愛に満ち徳の高い行為を、政治の世界にもとめていない。
それどころか、政治権力を獲得するには、悪しき行為も有効であるとさえ断言している。
ためにマキャヴェリズムという言葉は、いまわしくも不吉な印象をひきずることになってしまったのであった。
しかし、マキャヴェリを弁護して言えば、まずもって彼が、人間は基本的に悪しき存在であるとは、信じていなかったことを思い起こすべきである。
彼の探求分野は、善悪の彼岸にあった。原子物理学者の行う実験にも似て。
もしも権力を獲得したかったら、方法はひとつしかない。冷徹こそそれである、と。
その手段が善であろうと、それとも悪になろうと、問題は別なのである。
この別の問題については、マキャヴェリは興味を示さない。だから、この別の問題について関心を払わなかったとして、マキャヴェリを非難することは可能である。
しかし、現実において政治権力が、どのような姿であらわれているかを論じたからといって彼を糾弾するのは、まったくの無意味でしかない。」(同上)
恰もこれに呼応したかのように、マキャヴェリの”政略論”の一節を紹介している。これは、とりもなおさず、君主論の背景そのものであろう。
「ことが祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞賛されるものかそれとも恥ずべきものかなどは、いっさい考慮する必要はない。
何にも増して優先されるべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである。」(同上)
ゲーテがナポレオンを評したように、こと政治的なることに関してだけではあるが、マキャヴェリの眼前には、些細なことは一切消え去り、ひとり大洋と大陸だけが浮かび上がっていた。
マキャヴェリは、フィレンツェ共和国の書記官として、足が地についた経験をもとに、政治論、戦略論を展開した。
曇りない眼、過去とのしがらみを断ち切ったルネッサンス期特有の自由で、大胆で、率直な政治論が誕生した。
かくして、マキャヴェリは、フィレンツェ共和国書記官としてではなく、彼の著述により広く影響を及ぼし歴史に名を止めた。
彼の思想が、現代の我々の時代にいかなる意味を持ち、いかなる影響を及ぼしているか分析してみたい。
ただ、極々希に、天才といわれた人の神経だけは例外的に教科書どうりの神経配列になっている、という主旨の内容をどこかで読んだことがある。
ルネッサンス期イタリア フィレンツェのニコロ・マキャヴェリの脳神経も解剖学の教科書どうりの配列になっていたのだろうか。
「ニコロ・マキャヴェリは、眼をあけて生まれてきた。ソクラテスのように、ヴォルテールのように、ガリレオのように、カントのように・・・・・」
(塩野七生著わが友マキャヴェリ 中公文庫)
と、イタリア フィレンツェ在住の塩野七生氏は、イタリアの作家ジュセッペ・プレッツォリーニの言葉を引用しながら、マキャヴェリを高く評価した。
マキャヴェリは、特段名門でもなく、特段裕福でもない、ごく普通の家庭に生まれた。
彼自身も成人後、普通に結婚し、子供にも恵まれ、フィレンツェ共和国の一外交官、正確には第二書記局の書記官であった。
塩野七生氏によると、この役職を強いて今日の日本にあてはめると、中央省庁の課長クラスであったらしい。
マキャヴェリはいはゆる”大学出”ではなく、官僚としてはノンキャリアであった。
友人からも
「”どちらかといえば、学問のあまりない男”と評された。
だが、マキャヴェリよりは17歳年上であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、マキャヴェリが青年であった頃はまだフィレンツェに住んでいたのだが、こんなことを自ら書き残している。
”わたしは、学問のない男である”」(同上)
これらルネッサンス期 フィレンツェ人の言葉の裏に、沸々と湧きあがる自信を読み取ることができる。
ただ、芸術家と違い、マキャヴェリはフィレンツェ共和国の書記官であったから、ノンキャリアとしての制約を受けた。
が、そのことが彼の仕事に対する情熱を妨げることは一切なかった。
彼は、メディチ家の影響が大きいフィレンツェ共和国の書記官に任命され、かつ解職の憂き目にもあっているが、解職されても幾度か復帰し、フィレンツェのために働いた。
それは、ナポレオンに任命と解職を繰り返された、フランスの警察長官ジョセフ・フーシェのように有能なるが故のめぐり合わせを連想させる。
彼は、様々な困難に直面しても、官職にこだわり、それは死の直前までつづいた。
彼の政治思想については、バートランド・ラッセルが、君主論を引き合いに出し次のように論評している。
「君主論でのマキャヴェリは、慈愛に満ち徳の高い行為を、政治の世界にもとめていない。
それどころか、政治権力を獲得するには、悪しき行為も有効であるとさえ断言している。
ためにマキャヴェリズムという言葉は、いまわしくも不吉な印象をひきずることになってしまったのであった。
しかし、マキャヴェリを弁護して言えば、まずもって彼が、人間は基本的に悪しき存在であるとは、信じていなかったことを思い起こすべきである。
彼の探求分野は、善悪の彼岸にあった。原子物理学者の行う実験にも似て。
もしも権力を獲得したかったら、方法はひとつしかない。冷徹こそそれである、と。
その手段が善であろうと、それとも悪になろうと、問題は別なのである。
この別の問題については、マキャヴェリは興味を示さない。だから、この別の問題について関心を払わなかったとして、マキャヴェリを非難することは可能である。
しかし、現実において政治権力が、どのような姿であらわれているかを論じたからといって彼を糾弾するのは、まったくの無意味でしかない。」(同上)
恰もこれに呼応したかのように、マキャヴェリの”政略論”の一節を紹介している。これは、とりもなおさず、君主論の背景そのものであろう。
「ことが祖国の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞賛されるものかそれとも恥ずべきものかなどは、いっさい考慮する必要はない。
何にも増して優先されるべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである。」(同上)
ゲーテがナポレオンを評したように、こと政治的なることに関してだけではあるが、マキャヴェリの眼前には、些細なことは一切消え去り、ひとり大洋と大陸だけが浮かび上がっていた。
マキャヴェリは、フィレンツェ共和国の書記官として、足が地についた経験をもとに、政治論、戦略論を展開した。
曇りない眼、過去とのしがらみを断ち切ったルネッサンス期特有の自由で、大胆で、率直な政治論が誕生した。
かくして、マキャヴェリは、フィレンツェ共和国書記官としてではなく、彼の著述により広く影響を及ぼし歴史に名を止めた。
彼の思想が、現代の我々の時代にいかなる意味を持ち、いかなる影響を及ぼしているか分析してみたい。
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