2018年12月31日月曜日

建前社会 日本 4

 日本は一部の政治化と官僚や財界のいわゆる「管理者たち」が支配している。
 国民主権は名のみで権力はこれら管理者たちがほしいままにしている。
 これがカレル・ヴァン・ウォルフレン日本論の骨子である。
 主なところを敷衍してみよう
 戦後の奇跡的な経済発展も「管理者たち」の主導によるものであったがそれは国民生活の犠牲の上に築かれたものでありその結果「富める国の貧しい国民」になった。
 政治的には大多数の国民は「知らしむべからず」にされても特段声を大にして抗議しない。
 一部を除き大多数の国民は政治について「しかたがない」と思い特段の関心を抱かない。
 日本独特の記者クラブ制はこの管理者たちによる「知らしむべからず」政策に寄与してきた。
 この制度によってジャーナリストたちの報道の自主制と独立制を損なわれた。
 情報は統制され国民は事実を知る機会が制限された。この制度は戦時中のかの悪名高い大本営発表の伝統を受け継ぐもので日本がいまだ民主主義でない証である。
 民主主義社会では「管理者たち」は主権者である国民に対し自分たちの行動について「説明責任」を果たさなければならない。
 ところが国民が政治に無関心であることを見透かし彼らは「説明責任」を果たさないでやりたい放題である。
 特に官僚は自分たちの管轄領域では事実上主権をにぎりあたかも小国家のように振舞っている。
 このような官僚の専横がまかり通ったのはアメリカという後ろ盾があったればこそである。
 アメリカの後ろ盾が日本の官僚を増長させ政治的説明責任の不在を招いた。
 外交も経済もアメリカの庇護のおかげで日本はわずらわしい外交から免除され経済だけに集中することができた。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本社会を30年にわたり観察してこのような結論に至った。
 何が真実で何が偽りであるか、その内容の豊富さと正確さは驚嘆に値する。
 彼の日本社会に対する指摘は綿密な調査とデータにもとずき反駁の余地がないほど的確であるが、いくつか疑問点はある。

 第1に、カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本の奇跡的経済発展は中流階級の犠牲のうえに築かれたというがはたしてこれは事実か。

 日本人は家庭生活を犠牲にしてまで会社のために尽くすという一面がある。西欧社会ではあり得ないことであろう。
 問題はなぜそうするかである。カレル・ヴァン・ウォルフレンは、「管理者たち」が従順な中流階級にそれを強いたからであるという。
 だがそれは物事の反面を言い表しているにすぎない。
 会社は利益を目的とした機能集団である。一方村落、宗教、血縁などのつながりを基盤とする組織は共同体である。
 戦前まで日本社会は主に隣組、氏子、檀家、親戚などの共同体から成り立っていた。もちろん機能集団たる会社はあったが共同体とは全く別に存在していた。
 ところが敗戦を機に日本は経済優先から次第に会社を中心とした社会へと変わっていった。このため共同体の存在が希薄になり次第に表向きの社会から消滅していった。
 共同体の機能は社会から全くなくなるわけではなく時代の要請からその行く先を会社に求めた。かくて共同体の機能が機能集団である会社に潜り込んだ。
 この結果日本の会社は、機能集団と共同体の性格を合わせもつ組織になった。
 たとえば会社単位でお祭りや運動会を開催したり、社員の家族に不幸があれば休日返上でみんなが手伝いにいく、などは共同体の特徴でこそあれ利益を目的とした機能集団のそれではない。
 このように社員が家庭を犠牲にしてまで会社のために働くのは決して「管理者たち」の強制だけによるものではなく、会社の共同体化によるものでもある。

 第2に、カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本を最も深く理解したという著名なカナダ人研究者E・H・ノーマンの日本評の結論(下)を引用してノーマンの考えに賛成している。

 「日本の少数の独裁者は、自分たちの最大の資源を理解しなかったーすなわち、日本の人びとを。
 明治の独裁者たちは、社会的階層の低位にいる同胞たちに冷淡だった。
 彼らは人びとを酷使し、残忍に扱った。兵士にする以外に価値はないと思い、生産マシーンのもの言わぬ歯車として使うことしか考えなかった。
 明治の少数の独裁者の第一世代は、普通の人びとの偉大な可能性を見誤ったのだ。
 彼らは、日本を近代国家に転換させるという大事業にとりかかったときでさえ、人びとを偉大で自由な国家に貢献する有能な人びとだとは見なさなかった。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著鈴木主税訳新潮文庫『人間を幸福にしない日本というシステム』) 

 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、この明治維新の経緯から「管理者たち」が国民を歯車の一部と考えて日本の非公式の権力システムをほしいままにしている原因であるという。
 下級武士出身の革命家たちが当時の国民をもの言わぬ歯車と考えていたというがそれは説得力に欠ける。
 福澤諭吉の『学問のすすめ』が300万部も売れたという。当時の人口から推定して0歳児を含めた全国民の10人に1人が読んだことになる。驚嘆すべき数字である。
 国民の教育レベルとモチベーションの高さが当時の社会には既に存在していた。このような国民がもの言わぬ歯車であるはずがない。

 第3に、社会変革期の特殊事情がある。
 20世紀オーストリアの心理学者ジークムント・フロイトは幼児期体験の決定的重要性を強調した。
 幼児期の経験は人格形成に影響しその後の人生に影響し続けるという。
 国家もまた然り。たとえばアメリカは独立戦争の前後に多くの偉人を輩出し彼らの言行がその後のアメリカ国民の慣行を規定した。 イギリス革命やフランス革命にも同じような事がいえる。
 韓国の独立は自ら勝ち取ったのではなく日本がアメリカに敗れたことによりもたらされた。この独立の経緯がいまなお韓国の対日感情を束縛している。
 日本は既存体制の綻びと外国の脅威もあり自らの力で明治維新を成功させた。
 この革命を主導したのは一部の下級武士である。
 この事実は重要である。革命を主導した下級武士がその後支配者として君臨したからである。
 近代日本夜明けのこの幼児期体験がその後の日本の行動を規定した。
 この革命で国民の大半は傍観者か付和雷同者にすぎなかったが教育のレベルは高かった。
 社会が変革する時にはあたかもその時を待っていたかのようにどこからともなく英雄・偉人が雲霞のごとく現れてくる。
 彼らは社会的階層の低位にいる物言わぬ人たちの代弁者であってそれらの人たちを蔑んだり物扱いしているわけではない。
 明治維新後に支配者となった下級武士たちとて例外ではない。

 カレル・ヴァン・ウォルフレンは日本評の最後に "最も書きづらい” と前置きしながら日本に対して提言している。その提言につき考えてみたい。

2018年12月24日月曜日

建前社会 日本 3

 日本には明治になるまで法律といえば律令だけであった。もともと日本人は法についてあまり関心がなくそれで特段不自由を感じなかった。
 法意識が芽生えたのは明治になってからである。それも国民生活のためではなく条約改正がキッカケであった。
 条約改正のためには明治政府が法に則った裁判が実施できることという条件を外国から突きつけられたからである。

 明治維新後の日本は、革命のメインプレイヤーである薩長による寡頭政治から始まった。
 寡頭政治家は、西欧に倣い選挙を実施した。選挙で選ばれたものが国民を代表し権力も掌握するはずであるがそれは建前にすぎなかった。

 「彼ら(寡頭政治家)の採用した方式が、今日の日本でも権力配分を決定している。当時、世襲制の原則がくずれ、能力評価の原則がとってかわろうとしていた。
 維新の後何年も、寡頭政治とその延長である官界に加わるための重要な資格は、クーデター(明治維新)に発展した運動に参加したか、あるいは薩摩と長州の武士階級出身者だった。
 その後、できればヨーロッパかアメリカで吸収した ”西洋の知識” を持つことが、重要視されるようになった。
 しかし、20世紀が始まる前後には、国を管理し、 ”情報を握る” 階級に入りこむもっとも確実でほとんど唯一の方法は、東大(東京帝国大学)法学部を卒業することだった。 すでに見たように、これは今日においても日本の学校教育の特徴を決定付ける伝統である。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著篠原勝訳早川書房『日本権力構造の謎 下』)

 日本の戦前・戦中と戦後は断絶されているというのがこれまでの一般的な見方である。
 だがカレル・ヴァン・ウォルフレンはこの見方に異をとなえている。

 「日本は満州事変のすこし前までは歴史的必然としての ”近代化” 路線をたどっていたのであった。
 狂信的な国粋主義者が日本を脱線させるまで、この国は議会や政党など、立派な近代民主主義社会になるための要素をすべて揃えていたというわけだ。
 この見解は近年、学術研究、特にアメリカの歴史学者の研究によって覆された。
 彼らは日本の帝国建設の努力と抑圧は、明治時代の主だった傾向から育った論理的な発展だとした。
 だが、1945年はそれまで考えられていたような分水嶺ではなく、20世紀前半に遡る権威主義的な制度と手法が、現在の日本を形づくるうえで決定的な要因だったと、一部の学者が指摘したのは1980年代になってからのことであった。
 あと知恵の利をもって、さらにもう一歩進めてこう言える。
 1980年代後期の日本の<システム>は、19世紀末から徐々に形成された官僚的および政治的な勢力の統合強化の産物であり、戦争によって促進された統合物である。」(前掲書)

 わが国の権力の行使が法にもとづかないで一部の有力政治家、官僚、経済界などからなるシステムによっているのは19世紀末から徐々に形成された結果である。
 戦前・戦中の軍部および内務省主導による統制経済と戦後の官僚主導による経済システムは同じであるという。
 もしこの説が正しければ日本の支配システムは政治的責任感の発達した市民を育てる環境を阻害したといえる。
 互いに法によって律する人びとを市民と呼ぶならば19世紀末以降日本には自立した市民はいなかったということになる。日本の支配システムが自立した市民の存在を許さなかったのだ。
 これが法による権利の行使を建前だけに終わらせ、実質的には一部の支配層がシステムとして権利をほしいままにしてきた原因にほかならない。
 カレル・ヴァン・ウォルフレンの主張はデータの裏づけがあり論理も首尾一貫している。
 ここまで彼の主張の骨子を見てきたが最後に彼の主張とそれにいたる根拠の是非につき考えてみたい。

2018年12月17日月曜日

建前社会 日本 2

 日本社会の権力について建前がいかに現実から乖離しているか、このことをしっかりと腑に落とし込み事実を事実として捉えよう。
 すべての出発点はここにある。ここを間違えれば何を問われても見当違いの答えしかでない。
 憲法第9条は第1項の戦争の放棄につづき第2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とある。
 アメリカの軍事力評価機関『Global Firepower』の2018年調査によれば日本の軍事力は世界136カ国中8位である。『戦力不保持』が現実的でないのは明らかでまず事実を誤認することはない。

 しかしこと権力については具体的に目に見えるものではないだけに事実を正しく認識することは容易ではない。
 カレル・ヴァン・ウォルフレンは、日本では憲法をいただき法が支配する民主主義国ではあるまじき方式で権力が行使されているという。

 「理論上は、公式の政府を形成するために選出された政治家たち(すなわち首相率いる内閣の閣僚たち)だけが、官僚を支配する力をもっている。
 しかし、閣僚たちは長いあいだその力を行使していない。彼らは、民主主義国で彼らの役割とされていること、すなわち、政治的説明責任の中枢を形成する努力をしていない。
 国民の代表である政治家がこれほど無力なのは、ほとんど支持されていないからだ。政治家は充分に信頼されていない。そして、頻繁なスキャンダルも政治家が力をもてない原因となっている。
 政治家は本質的に堕落した拝金主義の利己主義者であるという偽りの現実が、スキャンダルのせいで強調されるのだ。 これらの要因がすべてからみあって、日本の現状の原因となっている。
 つまり、日本ほど大規模かつ高度な経済システムがあれば、国民に利益がもたらされるはずなのに、実際の日本の経済システムはそうした利益をもたらしていないのである。
 だが、中流階級は政治勢力から除外されているため、利益を求めて闘うことができない。
 こうして、日本はうわべだけの民主主義国になっている。そうした構造のなかで多くの『民主主義的』儀式が行なわれ、日本の市民を欺く偽りの現実が維持されている。
 うわべだけの民主主義のなかで実際に機能している権力システムは、『官僚独裁主義』と呼ぶべきものだ。
 日本の独裁主義は特異な現象だ。なぜなら、私のよく知っている他の独裁政治体制とちがって、権力が最終的に一人の人間もしくは一つの集団に集中していないからである。
 日本の政治権力は拡散している。政治権力は、官僚と経済界および政界のエリートの上層部というかなり厚い層に分散している。
 そして、この分散した政治権力が日本の政治システムをつくっているのだが、社会が政治化されているために、人びとは権力がどこから行使されているのか感じとれない。実際、権力はいたるところから行使されているように見える。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著鈴木主税訳新潮文庫『人間を幸福にしない日本というシステム』)

 法による支配、法による権力の行使ではなく、人脈や金脈など複雑にからみあったシステム全体が自己の都合で権力を行使している。

 「首相や閣僚は国の正式な責任者でありながら、実際には、憲法に定められた権力を行使することすらできない。
 本物の指導性を熱望する政治的指導者は必ず、不信と絶えざるサボタージュという、とらえどころがなくて乗り越えがたい壁にぶつかる。
 日本では誰も明確な支配権を与えられていない。日本では個人も集団も、だれも国のすることに責任を取りはしない。日本における指導力はつねに不完全だといえる。」
(カレル・ヴァン・ウォルフレン著篠原勝訳早川書房『日本権力構造の謎 下』)

 かって昭和天皇が病に臥されたとき国民はいっせいに自粛した。このためこれに関連する生業の人たちは商売あがったりで悲鳴をあげた。
 当時、政治学者の丸山真男は、この現象はいわば自粛の全体主義とでもいうべきもので太平洋戦争に突入した全体主義になぞらえた。
 だれが命令したのかわからないが目にみえないなんともいえない強制力がある。
 それは、昭和天皇の健康を気遣うのではない内面性に欠けた道徳的退廃であり命令者が特定されない無責任体制であると断じた。
 丸山真男の指摘は権力がどこから行使されているのか感じとれないというウォルフレンのそれと符号する。
 民主主義においては権力は法にもとづき執り行われるのが原則である。
 だが、わが国ではこれは建前にすぎず『法による権力行使』は事実上床の上の飾り物にされている。
 では、わが国の権力が法ではなくシステムによって行使されるようになった原因は何か。

2018年12月10日月曜日

建前社会 日本 1

 われわれはそれと意識することなく本音と建前を器用に使い分ける。それが物事を円滑に運ぶことを知っているからである。
 田舎より洗練された都会、中でも長い都の伝統ある京都にその傾向が強いことはよく知られている。
 本音と建前を使い分ける度合いは同じでなければならないということはない。地方によって使い分けがあるのはごく自然なことである。

 ところが外国が相手となる国家間では話は全く異なる。本音と建前が乖離しすぎるとまず相手に理解されない。理解されたとしてもそれは弱みを糊塗しているにすぎないと見られかねない。
 事実なべて本音と建前の乖離が大きすぎると国家弱体化のシグナルとなる場合が多い。

 このことを権力と責任の視点から鋭く指摘したのがオランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンである。
 彼は30年以上にわたって日本人の生活と政治社会を観察した。その結果にもとづき偽りの真実を暴き一外国人ジャーナリストとして日本に提言している。
 外国人による日本を礼賛する書は多い。が、辛口評のそれは少ない。
 人は自分が見たいものを見るように、心地いい言葉に耳を傾ける。が、棘のある話は聞きたくない。日本人による日本の悪口も当然のごとく歓迎されない。

 本音と建前が乖離しすぎるとどういうことになるか。一番困ったことは、言っている方もこれを聞いている方もどれが真実か分からなくなってくることである。
 事実が事実として捉えられなくなる。すべての処方箋はまず事実を事実として認識することからはじめなければならないが、この最初でつまずくことになってしまう。
 これに関連してカレル・ヴァン・ウォルフレンは日本社会の権力と責任についてどう見ているか。彼の言説を分析し、是非につき考えてみたい。

2018年12月3日月曜日

会社は誰のものか

 カルロス・ゴーン前日産会長の会長解任劇は会社は誰のものかということを改めて考えさせる。
 資本主義においては言うまでもなく「会社は株主のもの」である。このことに一点の曇りもない。
 だがこれに反する見方をする人が少なからずいることも確かだ。
 会社は法律上は株主のものかもしれないが、実質は経営者と従業員のものである。公器という意味では社会のものでさえある。株主は概念上の所有者にすぎない。こう主張してはばからない。そしてこういう主張は多くの日本人に受け入れられやすい。
 それが証拠にかってフジテレビの経営権をめぐるライブドア事件でホリエモンが激しいバッシングを受けたことが挙げられる。
 資本の論理から理はホリエモンにあったが世論と当局にあえなく葬り去られた。

 日本人は金の力だけで会社を乗っ取ることに拒絶反応する。生理的に受け付けない。血が通っていないという。
 資本主義においては、株主は持ち株数に応じて会社の資産を所有する。これが資本主義の前提である。このことは17世紀のオランダ東インド会社以来変わっていない。
 資産を所有するとは自由に使用、収益、処分することができる権利である。
 株主は自分の資産を焼いて食おうと煮て食おうとかまわない。なぜなら資本主義における所有は絶対であるからである。
 これは道徳、社会通念、善悪、好悪の問題ではない。資本主義が成立するための基本的条件である。これなくして資本主義は成立し得ない。
 資本主義社は、株主が自社の利益を最大化するという原則に支えられている。この原則のためには、意欲的な従業員と満足した顧客を生み出し、コミュニティのよき隣人、責任ある社会の一員となることが求められる。

 資本主義に欠点があることは紛れもない事実である。
 目先の利益に汲々とする。従業員を酷使する一方報酬は従業員に少なく役員に過大に与える。利益のためには環境破壊も辞さない。一言でいえば「強欲」が資本主義の欠点である。
 だが資本主義にはこの欠点を社会にあげつらい反映させる余地がある。欠点を是正するよう影響力を及ぼすことができる。
 が、影響を及ぼすことと会社を所有することは別である。会社は株主のものであり、株主は利益の最大化のために取締役を選ぶ。取締役会は株主の意向を受けて経営者を選ぶ。

 日本では実質的にこの原則が守られていない、この意味において日本は資本主義ではない。
 日本で生起する会社にまつわる摩訶不思議なことー欧米人にはそう映るーはここに淵源がある。

2018年11月26日月曜日

アメリカのオデッセウス 3

 人は概して心の平穏が保たれ精神的に安定していれば大衆運動などに参加しない。
 精神的に不安定な状況とはどういうことか。エリック・ホッファーによれば、それは自分が自分であることに耐えられずその境遇から逃れようとする状況であるという。
 自分自身に自信が持てない人間は他に拠りどころを求めるほかない。
 かかる人は、お前は何者かと問われれば個人的属性ではなく自分が所属する組織名を挙げるであろう。
 そういう人にとって個人としての目的や価値は存在しない。所属する集団を離れては如何なる意味も見出せないからである。
 集団に所属すれば、集団としての目的、信条、価値があり、個人はそれらを共有することができる。
 知識人はこららの人びとをやすやすと組織の目的に誘導し、大衆を動かすことができる。

 「私のいう知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。
 知識人であるためには、良い教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育あるエリートの一員だという感情こそが問題なのである」
 「知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。
 知識人にとっては、自由であるよりも、重視されることの方が大切なのであり、無視されるくらいならむしろ迫害を望むのである」(以上『波止場日記』から)

 エリック・ホッファーはファシズムや共産主義などに狂信的な運動を見て、あらゆる大衆運動の本質は、宗教運動にその原型を求めることができると言う。
 欲求不満にさいなまれた人間は、その状態から脱出して、自己存在の不安から脱出しようとする。
 そして大衆運動を定義して曰く
 「運動は言論人によって開拓され、狂信者によって具体化され、活動家によって強化される」と。

 ところがアメリカは欧州や日本と異なりもともとが大衆の国であり知識人が行うことを大衆自身がやってしまう。大衆運動で知識人が機能する余地がない。前衛なき大衆がアメリカの本質である。

 「アメリカという国は、建国以来、いわゆる知識人に社会に関する権力を与えたこともないし、一般の国民が彼らの高説に耳を傾けてその態度や行動を決定したこともないと私は思っています」
(インタビュー「百姓哲学者の反知識人宣言」、エリック・ホッファー・ブック)

 エリック・ホッファーは仕事仲間の沖仲仕たちに本を読むことをすすめるなど優しい眼差しを向ける一方知識人に対しては誠に手厳しい。
 彼らは無視されるくらいならむしろ迫害されることを望む。有能で無為を余儀なくされている知識人はいつの時代にも危うい爆発物である。例えば仲間の多くがノーベル賞を受賞しひとり取り残されたオッペンハイマーは原子爆弾の開発、製造に自己の活路を見出し存在感を見せつけた。

 有能な人間は諸刃の剣である。ギリシャ神話の英雄オデッセウスは腕力ではなく頭を使って味方を勝利に導いた。
 エリック・ホッファーは、「言葉がすべてである」知識人の時代に、彼らが発する華々しい『山を動かす』スローガンに惑わされないよう警告した。
 労働と読書の放浪のすえエリック・ホッファーが得た結論の一つである。

 アメリカは今も昔も大衆の国である。だがその意味するところは変わった。
 かってチャーリー・チャップリンはヒットラーを風刺しアメリカで人気者になった。
 そして今ハリウッドの人気映画監督マイケル・ムーアは現役のトランプ米大統領をヒットラーになぞらえ茶化している。
 アメリカ人も第三帝国のドイツ人と同じように『山を動かす』スローガンに惑わされるようになったのだろうか。
 大衆がその役割を放棄し皮肉にも『型破りな』知識人がリードする時代に変わったのだろうか。そう考えるほかない現象である。
 知識人に惑わされてはいけない。エリック・ホッファーのこの警告は今やアメリカ人にとって他人事ではなくなった。

2018年11月19日月曜日

アメリカのオデッセウス 2

 人生に失敗した、生活設計に失敗した、あるいは自分のキャリアを台無しにされたと思う人間はどういう行動をとるか。
 エリック・ホッファーが古典をみる眼は独特である。

 「ツキュディデスは情熱的な将軍であった。作家になりたいなどとは思っていなかった。戦さで兵士を指揮したかったのである。
 しかし戦さに敗れたあと彼は追放され、他の将軍たちが戦争するのを眺めて切歯扼腕するほかなかった。
 そこで彼はかって書かれた中で最もみごとな歴史の一つ、『ペロポネソス戦争』を書いたのである。
 マキャベリは生まれながらの策士だった。彼の宿望は黒幕になったり、折衝したり、策謀したり、巨頭会談をしたり、使節に立ったりなどすることだった。
 だが彼は二流の外交官としての職を失い、生まれ故郷の村に戻らねばならなくなり、村の宿屋で噂話やトランプ遊びにふけって日々をすごしていた。
 晩になると家に帰り、泥まみれの服を脱ぎ、礼服をまとうと、坐して『君主論』と『リウィウス論』の著作にかかったのである。」
(エリック・ホッファー著柄谷行人訳ちくま学芸文庫『現代という時代の気質』)

 このほかギリシャ、中国、フランスなどの例を挙げ、自ら才能あると自負している有為な人材が無為を余儀なくされそのエネルギーを発散させて歴史に残る仕事をしたという。

 ホッファーは強者だけでなく弱者についても一風変わった見方をしている。

 「権力は腐敗すると、しばしばいわれてきた。しかし、弱さもまた腐敗することを知るのは、ひとしく重要であろう。 
 権力は少数者を腐敗させるが、弱さは多数者を腐敗させる。憎悪、敵意、粗暴、不寛容、猜疑は、弱さの所産である。
 弱者のさかうらみは、かれらに加えられた不正から生まれるのではない。むしろ、かれら自身の無力感と無能力感から生まれる。
 弱者は、邪悪を憎むのではなく、弱さを憎む。弱者は、ひとたびやれる力をもてば、弱みのあるところはどこであれ、それを見つけ次第、破壊する。
 弱者が、弱者をえじきにするときの、あの酷薄さ。弱者の自己憎悪は、かれらの弱さへの憎悪を示す一例にすぎない。」
(エリック・ホッファー著永井陽之助訳平凡社『政治的人間-情熱的な精神状態』)

 エリック・ホッファーは、個人としての弱さ、脆さがひとたび大衆を形成すれば社会全体に影響すると警告した。必然的に彼の目は大衆運動に向けられた。
 敗戦から高度経済成長期にかけ活躍したわが国の推理作家の松本清張は個人に潜む暗部に焦点をあてベストセラー作家となったが、エリック・ホッファーは一歩をすすめ個人に巣食う欲求不満がいかにして大衆運動に結びついていくか、そのからくりを解き明かし米国民の反響を呼んだ。

2018年11月12日月曜日

アメリカのオデッセウス 1

 ドイツ系移民の子エリック・ホッファーは、7歳時、母親と死別し同年に失明、15歳時、突如視力回復、18歳時、父親逝去により係累をすべて失う。誰しもが絶望の淵に沈む境遇である。

 「天涯孤独になったあと、ホッファーはカリフォルニアに行き、さまざまな職につき、とくに1930年代を農業労務者として各地を移動しながらすごした。
 不況時代とはいえ、他に可能性がなかったわけではあるまい。むしろ彼はこういう生活を選んだのである。
 ホッファーが選んだのは、いわばもっとも単純な生存である。
 日雇い労働をすること、金と暇ができれば図書館で本を読むこと、結婚もせず工場にも勤めないこと、おそらくこれは現代において独りの人間が生きていく上でとりうる最も単純な形態である。
 彼の生活史にドラマティックなものは何もない。ただ28歳のとき自殺しようとしたということをのぞけば。」(柄谷行人『エリック・ホッファーについて』)

 エリック・ホッファーは徒手空拳、独学で覇権国へならんとしていたアメリカを内側から観察している。
 彼の見方はおよそわれわれがイメージする哲学者や社会学者のそれとは異なり新鮮に映る。今に照射し考えてみよう。

2018年11月5日月曜日

持続の帝国 中国 5

 中国には独特の人間関係があることは既述した。帮(ホウ)や情誼(チンイー)など人と人のヨコのつながりと血縁関係のタテのつながりである。
 また中国の法律は何千年も前から現在にいたるまで法家の思想が深く人びとに浸透している。
 この人間関係と社会の規範が中国人の価値観を形成し行動様式となって表われている。
 アメリカをはじめとする西側諸国がこのような中国を理解することは容易ではない。西部劇のスターが三国志の英雄のふるまいを理解できるだろうか。それには歴史的、文化的背景があまりにも違い過ぎる。
 一党独裁の中国は今はともかく将来豊かになれば我々と同じような価値観を持つようになるだろうと考えていたがその期待は見事に裏切られた。
 西側諸国は長い間このような淡い期待で中国と経済交流し成長を側面から支援してきた。
 日本もODAで北京空港や地下鉄建設などのインフラ整備に貢献した。
 だが中国はGDPで日本を追い抜きアメリカに迫るほどの経済大国になったが西側諸国と同じ価値観を共有することなく中国独自の価値観を変えなかった。
 それどころか経済が成長するにつれ大国意識が前面に出て居丈高にさえなっている。

 このような中国に対してペンス米副大統領は、去る10月4日米国シンクタンク、ハドソン研究所における演説でとうとう堪忍袋の緒を切らしたかのように中国を非難し彼らが自由で公正な価値観を持ちそれを行動に移すまで米国は一歩も引かないと断言した。
 米中の最近の軋轢は通商問題というより上のような価値観の違いに起因しているように思う。
 一方が騙されたり約束を反古にされたと思っても相手方は騙したつもりも約束を破ったつもりもないから始末におえない。この違いは埋め難い。
 20世紀後半アメリカのポストモダン思想家である哲学者リチャード・ローティは、文化や歴史が異なれば、真理や善悪の判断が違ってくるという、文化相対主義や歴史相対主義を主張した。
 だがこの違いは国家の利害に関わるため紛争の種となり易い。相手の立場に理解を示す余裕などないのが現実の政治である。
 現在の米中の摩擦も政策上一時的に妥協が成立したとしても根本的な解決には至らないであろう。相互の価値観に本質的な違いがあるからである。
 ペンス米副大統領が指摘した米中間の埋め難い溝は21世紀の ”鉄のカーテン” を示唆している。

 「これまでの政権は、中国での自由が経済的だけでなく政治的にも、伝統的な自由主義の原則、私有財産、個人の自由、宗教の自由、全家族に関する人権を新たに尊重する形で、あらゆる形で拡大することを期待してこの選択を行ってきました。
 しかしその希望は達成されませんでした。自由への夢は、中国人にとっては未だ現実的ではありません。
 中国政府はいまだに『改革開放』と口先だけの賛同をしている一方で、鄧小平氏の有名なこの政策はむなしいものとなっています。」
(ハドソン研究所におけるペンス米副大統領演説 海外ニュース翻訳情報局  翻訳:樺島万里子、塩野真比呂)

 米中あるいは中国と日本を含む西側諸国との間でこの基本的価値観を共有することはないであろう。
 中国が西側諸国の価値観にあわせること、それは中国にとって共産党一党独裁の否定を意味する。そんなことはできないし現実的ではない。

 このような前提にたてば、共産党一党独裁体制での市場経済には自ずから限度がある。自由主義社会と同じ自由、公正、人権などを望むべくもない。
 米国に追いつき追い抜くかに見えた中国経済も今やその勢いを失いつつある。
 中国がかっての勢いを取り戻すには解体的出直しをしなければならないだろうが、そんなことを中国に求めるのは ”木に縁りて魚を求む” ようなもの、守銭奴に持金すべて寄付しなさいと言うに等しい。

 真の市場経済なきとことに真の成長なし。一時的または偏在的に成長したとしてもそれは真の成長とはいえない。
 習近平が目指す大中華構想はどうひいき目にみても現代のおとぎばなしにしか見えない。

2018年10月29日月曜日

持続の帝国 中国 4

 自由主義社会では自由と民主主義と法による支配、これが原則である。
 日本の政治家がこの原則をあえて言葉にするときは一党独裁の中国などを念頭においた発言である場合が多い。
 このなかで最も誤解されているのが中国の法による支配であろう。
 民主主義国では法は権力から人民をまもるものであるが、中国では法は権力が人民を統制するためにある。
 このことは共産党一党独裁の今にはじまったのではなく昔からそうである。したがって中国では法は権力者の都合によっていつでも変更される。
 日本を含む自由主義国はこの中国の都合 ”事情変更の原則” に悩まされてきた。

 2015年ホワイトハウスにおいて習近平主席は南シナ海の人工島には軍事施設を作らないと約束したがこれに違反し、また尖閣諸島については鄧小平の見解を覆し領有権を主張した。
 これらは自由主義世界にとっては明らかに約束違反であり不信行為であるが、当の中国にしてみれば当然の主張なのだ。なぜなら法律とか権利は権力者の都合によって変更可能なのだから。
 この原因について小室博士は中国の歴史から分析している。

 「『法律』というものに対する考え方が、日本人と中国人では根本的にちがう。中国人と欧米人とはもっとちがう。ここに問題の根本がある、と。
 つまり法律についての考え方がちがえば、中国人は法律に従ってやっているつもりでも、外国人から見れば大ウソをついているように見えてしまう。
 このことを徹底的に理解することが大事なのである。」
(小室直樹著徳間書房『小室直樹の中国原論』)

 日本にはもともと法という考えがなかったしその必要性も感じなかった。
法律がなくても一向に困らなかった。
 だが、外国から一方的に押しつけられた条約を改正するためには法律がないと相手にされないことがわかり、これを契機に日本人は法律を作り始めた。

 「そもそも日本人には法概念がなかった。別の見方をすれば、かえってそれがよかったとも言えよう。
 日本に法律がなかったおかげで、欧米流の法律をそのまま鵜呑みにできたからである。
 見かけの上であれ何であれ、明治以降は欧米流の法律でやってくることができたのである。
 では、中国の場合はどうかというと、何千年も前から立派な法律があった。これから詳しく触れる『法家の思想』である。」(前掲書)

 中国には伝統的に道徳を重んじる儒教思想と統治を優先する法家の思想がある。
 こと政治に関しては建前上は道徳を掲げるが実際の政治は法家の思想が優先されてきた。
 儒教にしろ法家の思想にしろ対象は個人ではなく社会である。極論すれば、よい政治をすることがすべてでこの目的のためには他のことは犠牲もやむなしという思想である。
 近代法は主権者から人民を守るという考えが基本にあるが、法家の思想はこれと逆で法律は権力者のためにあり、為政者が人民を統治する手段である。
 よい政治をすること、これに優る道徳はない。法家の思想を代表するのは韓非子である。

 「韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。この場合の『役人』というのは、いまでいう行政官僚のこと。
 一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。
 とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。
 こうした考えが法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。
 ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのである。」(前掲書)

 日本においても法律の解釈に疑義が生じたとき裁判所に持ち込まないで行政官僚の裁定で決着することがあるが、中国の場合はこれが徹底している。
 とくに現代は『中国共産党宣伝部の指示があった場合』という ”事情変更の原則” が堂々と契約書などに明記されている。
 ひとたび契約に疑義が生じた場合、中国共産党の指示や内規をもちだされるとそれで決着してしまう。いくら抗議してもはたまた国際法を持ち出しても相手にされない。
 ではこのような中国と付き合うにはどうしたらいいのだろうか、またこのような中国の行く末はどうなるのだろうか。

2018年10月22日月曜日

持続の帝国 中国 3

 中国人の人間関係は『帮(ホウ)』というヨコ糸と『宗族』というタテ糸、この二つが幾重にも折り重なった複雑な二重規範の網から成り立っている。
 中国史を跋渉した小室直樹博士はこう言う。そしてこの複雑な人間関係を解明するには科学的分析によらなければならないとも。
 以下同博士の分析をもとに中国人の行動様式について考えてみよう。

 まずヨコ糸から。
 ヨコ糸は、知り合い→関係→情誼(チンイー)→帮、という順序で人間関係の結合の『輪』が強固になっていく。
 この人間関係の輪に入っていない知り合いでもない人はもはや人間として扱ってもらえない。
 逆に最も強固な帮関係にある人は無条件の信頼関係にある。親兄弟など肉親以上の関係で、金の貸し借りに証文など一切不要、その人のためには命さえ顧みない。

 「輪の内と外では、ちがった規範が行われる。輪の内の規範がはるかに重要であり、外の規範はずっと軽い。いわば化外の地であるから、そんなところに住む人間は死のうが生きようが、所詮どうでもいいのである。(中略)
 帮は、『輪』の一種、特殊場合だ。『輪』のうち、もっとも強固な『輪』が帮である。」
(小室直樹著徳間書房『小室直樹の中国原論』)

 人間関係の輪の内と外では、ちがった規範が適用される。輪の内の規範は絶対的であり、輪の外の規範は相対的である。
 つまりそれぞれの輪に強弱のちがいはあるがともに共同体である。共同体の特徴は、内の規範と外の規範がちがうという二重規範である。

 つぎにタテ糸の宗族について。
 帮、情誼などがヨコの共同体であるのにたいし、タテの共同体を形成するのが『宗族』である。

 「宗族は、父と子という関係を基にした父系集団である。父から子、という形で集団を作り、姓を同じくする。
 劉なら劉、李なら李と、必ず同一姓を名乗る。父系集団にも姓を有する父系集団(中国、韓国など)と有しない父系集団(古代イスラエルなど)とがあるが、宗族は姓を有する父系集団である。
 もう一つの特長は、同一宗族の中では絶対に結婚できないこと。これを部外婚制という。」(前掲書)

 日本では、遠くの親戚より近くの他人、去るもの日々に疎しというように、故郷を離れ何十年も経つと次第に親戚縁者とも疎遠になりがちとなる。
 ところが中国はちがう。全く見ず知らずの人同士がたまたま会って同一宗族であることがわかれば、たちまち意気投合し兄弟のごとく親しくなる。
 同一宗族に優秀な子がいれば見たことも会ったことがなくとも援助する。
 中国では部外婚制はかたく守られている。中国人で夫婦同姓などありえない。中国人にとって同姓というだけで恋愛感情さえ芽生えない。
 日本人はいとこ同士で結婚するが、中国人にとってこれはあり得べからざることである。
 中国共産党は宦官、纏足を止め、文字を略字、横書きにするなど目覚しい改革をしたが人間関係の根幹である部外婚制には一指もふれなかった。それが社会構造に根ざしているからである。
 宗族を否定すること、それは中国人のアイデンティティの喪失を意味する。そんなことはできない。

 このように中国人の人間関係は、帮と宗族に代表されるヨコとタテの網から成り立っている。このつながりがない人は、中国人にとっていわば化外の人である。
 このことを頭に叩きこんでおかないと中国を理解できないし、いつまでたっても中国人にたいして誤解と偏見をもち続けることになる。

2018年10月15日月曜日

持続の帝国 中国 2

 第二次世界大戦時 アメリカは敵国日本について徹底的に分析した。
 「菊と刀」で知られるルース・ベネディクトは日本人の行動パターンについて調査研究しその成果を政府に報告した。 アメリカは戦争相手の物理的戦力だけでなくその他の戦争遂行に必要な要素すべてを目的合理的に分析した。
 一方当時の日本がアメリカの国力や戦力以外に何か有効な分析を行なったという証拠はない。
 大本営は総力戦といったが真の意味で総力戦ではなかった。国の総力を挙げて戦うことを軍国主義というならば当時の日本は軍国主義ではなかった。

 米中貿易戦争は対岸の火事ではなくわが国の利害に直結する。
 中国を知るには国力、経済力、軍事力だけでなく中国人そのもの中国人の行動パターンを知らなければならない。第二次世界大戦の教訓がここにも生きる
 中国人を知るには中国の歴史を知るにしくはない。なぜなら中国の歴史は驚くほど正確に記述されかつよく知られているように反復に反復を繰り返すからである。
 革命は起こるが革命前と革命後の社会にさして変化はない。変わるのは為政者の姓のみ。ゆえに易姓革命といわれる。

 ”共産革命にもかかわらず中国の歴史の法則は不変である” こう断言するのは中国の歴史を跋渉した小室直樹博士である。

 「社会科学に実験はできない。自然科学とはちがって社会科学の進歩がおそい所以である。
 しかし、同型の事象が、続けてはてしなく生起してくれれば、実験をしなくても、実験をしたのときわめて類似性の高い条件が見出されるであろう。
 また、ウェーバー派の比較社会学の座標軸としても、中国史は絶好なのである。
 このように、中国史というサンプルは、歴史家を不幸にするが、科学者をこのうえなく幸福にするのである。
 『類似の事件』が『延々と繰り返し』生起するが故に、そこに法則を発見し得るからである。換言すれば、それはこういうことになる。
 『類似の事件が連続して起こるのは、事件が実は【仕組まれた】もので、偶発的なものでなかったことを示している』(安能努 中華帝国志 上 講談社文庫)『仕組まれたもの』とは、そこに定石があるということである。定型があるということである。
 その『定石』や『定型』を発見することが歴史における社会法則(政治法則、経済法則を含む)の発見にほかならない。
 それであればこそ、われわれは、中国史のなかに中国の本質を発見し得るのである。
 中国史は、如何なる調査よりも有効に、中国人の基本的行動様式を教えてくれるのである。
 このさい、中国人が歴史をどう意識するのかは関係ない。中国人の歴史知識とも関係ないのである。
 社会法則は、人間の意志や意識とは関係なく独立に動く。このことは英国古典派によって発見され、マルクスはこれを人間疎外と呼んだ。」(小室直樹著徳間書店『小室直樹の中国原論』)

 同じようなことが延々と続く、社会制度も社会構造も法律も革命の前と後で変わらない。変わるのは天子の姓のみ。
 このような中国を、ドイツの哲学者ヘーゲルは ”持続の帝国” といった。


 なぜ中国は変わらないのか。それは中国人の行動様式が変わらないからである。
 では中国人の行動様式とはなにか。その鍵は中国人の人間関係にある。
 かって中国の最高実力者 鄧小平は、訪日時に ”中国人は井戸を掘った人を忘れない” といって多忙な日程を割いて日中国交回復に尽力した田中角栄元首相の私邸を訪ねた。いかに恩義を大切にしているかを示すためである
 中国人はなにより人と人との繋がりを重視する。人間関係が中国人の行動パターンを決めるといってもいい。中国の歴史はこの積み重ねによって営々と築かれてきた。
 では中国人の人間関係はどういう仕組みになっているのか。仔細に見てみよう。

2018年10月8日月曜日

持続の帝国 中国 1

 トランプ米大統領は9月24日、知的財産侵害を理由に中国からの輸入品2000億ドル(約22兆円)に10%の関税を上乗せし、中国が交渉に応じない場合来年早々25%に引き上げる制裁に踏み切った。
 一方、中国は年間600億ドル(約6兆7千億円)相当のアメリカ製品に追加関税を米国と同時発動した。
 人民日報系の環球時報は9月25日付社説で、「中国は実力のある大国だ。経済的であろうと軍事的であろうと中国と敵対すれば、膨大な代価を支払うことになる」と米国を強く牽制した。
 世界1位と2位の経済大国の貿易戦争はますますエスカレートしている。

 この両国の争いについて多くの学者、政治家、あるいは専門家、識者などが今後の展開を予想している。
 曰く、両者の貿易量から米国が勝つに決まっている。中国は間もなく白旗をあげるだろう。
 一方、誇り高い中国人の性格からして決して譲歩しないだろう。両国とも引かない場合、軍事衝突もありうる。
 もっとうがった見方として、この貿易戦争は、覇権国アメリカが、その地位を脅かそうとする中国への逆襲である、などなど。

 日本は同盟国アメリカと戦後70年以上の付き合いがあり、たとえトランプ氏のような特異な大統領が現れ暴走してもアメリカ議会が制動装置となり歯止めをかけるであろうことを知っている。
 しかし共産党一党独裁の中国は、チベット、南シナ海、東シナ海とその膨張政策は止まるところを知らず、将来どうなるのか予想さえつかない。
 中国については、わが国との歴史的な絆、地理的近さにもかかわらずアメリカほど理解がすすんでいるとは言えない。否、理解していないというより誤解しているといったほうがより正確かもしれない。

 今度の米中貿易戦争に関連して、中国との関係を専門とする学者、政治家、ビジネスマン、識者などが頻繁にメディアに登場し論評している。
 見解は、予想通りというかご多分にもれずというか楽観論と悲観論が入り混じり定まっていない。
 これらの体験談は個別には正しい。それぞれが体験したことに嘘があるはずはないからである。
 が、結局この問題はどう決着がつくのかという問いに説得力ある答えを見出すことは困難である。個人の体験談は科学的知見を欠き社会学的判断のデータとはなり得ないからである。
 この問いに答えるためには、まず、中国の真の姿、表面を見ただけでは分からない部分を照射しなければならない。さもなくば何事も分からないし何事もすすまない。

2018年10月1日月曜日

ガブリエルの新実在論 5

 わたしたちが考えていること、理解していること、認識していることは精神の働きによるものである。
 考え、理解し、認識する主体であるわたしたちの精神が存在しなければそれらもまた存在しない。
 精神の働きがすべてなのでそれらが実在しているかどうかは証明できない。このような観念論を支持する人はおそらく少数派であろう。
 一方、存在するのは物質のみ、精神の働きといってもそれは単に物質の働きによるものにすぎないと考える人が大多数に違いない唯物論的考えは常識に反することがないので改めて説明するまでもなく受け入れられやすい。

 すでに見てきたようにガブリエルの哲学はこの意味においては常識に反している。
 存在するということはどこかに存在する筈である。つまり存在には場所の規定が含まれる。
 世界があるとすればどこかになければならないがそのような場所はどこにもない。したがって世界は存在しない。
 にもかかわらず自然科学は、およそ現実いっさいの基層ーほかならぬ世界それ自体ーを認識する立場である。
 世界が存在するという認識の立場で自然科学は間違っている。
 自然科学は巨大な幻想にもかかわらず自然科学以外のいっさいの認識は、自然科学の認識に還元されなければならない。あるいは、いずれにせよ自然科学の認識を尺度にしなければならないとする立場である。
 このようにすべての現象を自然科学のみで説明しようとする立場を自然主義というが、これは間違っていてかつ危険極まりない思想である。
 ガブリエルがもっとも反対し攻撃の対象としているのは唯物論とともにこの自然主義である。
 現代の革新的技術であるIT、バイオ、AIなどにしても無数にある存在の一つにすぎない。
 第二次大戦後、ソ連の唯物論とアメリカの自然主義は軍国主義へとひた走った。
 冷戦に勝利し唯一の超大国となったアメリカでは経済のグローバル化が進み強者の論理がすべてに優先するようになり弱者の論理は排除された。
 その結果、環境は破壊され人びとの間に格差が生じ民主主義が危機に瀕している。

 ガブリエルが特に力説していることは哲学に人間を呼びもどし危機に陥った民主主義を救うことである。
 彼の民主主義擁護論は人間主義の精神が根底にある。権力はつねに暴走する危険を孕んでいる。
 これらを防ぐためには民主主義の基盤に倫理をおかなければならない。
 ドイツ憲法第一条第一項に「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。」とある。
 この条文はドイツ観念論の創始者カントの精神が反映されたものであり二度の世界大戦を通じたドイツの苦い体験から生まれたものであるという。
 
 この民主主義についての考え方は、同じ第二次世界大戦の苦い体験をしたわが国の丸山真男教授の民主主義観と軌を一にしている。

 「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化ー物神化ーを不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。
 それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。
 つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。
 民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。」
(丸山真男著岩波新書『日本の思想』)

 民主主義は民主主義を求める日々の努力のうちにある。これを怠れば民主主義はいつでも危険にさらされる。

 ヘーゲルの「ミネルバのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」というたとえのように哲学はもともと過ぎ去った時代の精神を思想として形成したものである。哲学者は預言者ではない。
 だがルソーやカント、あるいはマルクスなどに見られるように彼らの思想はあたかも預言者のように後世に影響を与えた。
 歴史的には哲学は同時代というよりむしろ後の時代に大きな影響を与えてきた。

 ガブリエルは、ドイツ観念論の後継者の一人である。同じドイツ観念論であっても絶対的なものは存在しないという点でヘーゲルとは対極にある。 
 彼の著作はドイツ国内では広く読まれているが英米など英語圏ではそれほどでもないという。

 すべての動物のなかで人間ほど危険な動物はいない。
罪もない600万人ものユダヤ人を虐殺したり、非戦闘員の頭上に平然と原爆を落とす。
 このようなことは時代や文明の発展度合いに関係なく行われてきた。そしてこれからも起こりうる。少なくともそういうことが行われないという保障はどこにもない。
 権力は自然主義と親和性がある。権力者はほっておけば自然主義者になりがちである。
 権力の暴走を食い止めるためには民主主義の土台に倫理がなければならないというガブリエルの哲学はこのことを踏まえた主張であり説得的である。
 彼の哲学はいずれドイツ以外にも浸透するであろうしそのことを願って止まない。

2018年9月24日月曜日

ガブリエルの新実在論 4

 ガブリエル哲学の立ち位置を知るために近代以降の西洋哲学の潮流を俯瞰してみよう。

 近代哲学は中世までのキリスト教的神中心の世界観から人間中心のそれへと移った。
 神から解き放たれたことにより人びとに自由がよみがえり社会も変革されていった。
 近代哲学は、まず「知は力なり」で知られるイギリスのフランシス・ベーコンの帰納的経験論とこれと相対する手法により「我思う、故に我あり」で有名なフランスのルネ・デカルトの演繹的合理論の二大潮流が形成された。

 1 18世紀にドイツのエマニュエル・カントは17世紀の経験論と合理論の二大潮流はともに認識が正しいことが前提になっているが人の認識はいつも正しいとは限らず、例えば人間は見たいものを見、見たくないものは見ようとしない習性があるなど、信頼性に乏しいと異を唱えこの二大潮流の哲学体系を統合した。
 カントの認識論はものがあるのを見て認識したからこそものがあるというそれまでの見方から180度転回した。いわゆるコペルニクス的転回である。
 カントの認識論を発展させたのがフリードリッヒ・ヘーゲルである。
 カントは個人の心のありように目をむけたがそれだけでは片手落ちである。
 ヘーゲルは人間を個人として捉えるのではなく社会や国家としてとらえた。
 世界の歴史は「絶対精神」によって導かれこれにより自由も実現される。
 彼はこれを弁証法によって理論付けカント以降のドイツ観念論を集大成した。

 2 19世紀末までの西洋哲学は意識を分析するのが主なテーマであったが20世紀以降は言語を分析することが主要なテーマとなった。いわゆる言語論的転回である
 20世紀にはドイツが発祥のマルクス主義、フランスにおける実存主義、英米での分析哲学が主な哲学の潮流となった。
 だが20世紀も後半になると分析哲学が勢力を保ったのに対しマルクス主義や実存主義が次第に勢力を失っていった。
 そのキッカケとなったのがポストモダン思想である。フランスの哲学者リオタールによるもので「大きな物語に対する不信」である。大きな物語とはたとえば共産主義とか資本主義などである。
 このポストモダン思想を言語論的転回とむすびつけたのがアメリカの哲学者ローティで、彼は言語によって世界が構築されるという言語構築主義と、異なる言語ゲームは共約不可能であり現実も違うのでその主張に優劣つけられないという相対主義を提唱した。
 文化や歴史が異なれば真理や善悪の基準も異なるというのがこの主張の骨子である。
 だが21世紀に入るとポストモダン思想もやがて退潮していった。

(以下岡本祐一朗著ダイアモンド社『いま世界の哲学者が考えていること』から)

 3 21世紀になって新たな潮流が生まれた。それまでの言語論的転回にかわって自然主義的転回、メディア・技術論的転回、実在論的転回の三大潮流である。

 ・ 自然主義的転回とは、心を認知科学、脳科学、生命科学などから自然科学的に捉え研究することである。

 ・ メディア・技術論的転回とは、コミュニケーションの土台となる媒体・技術から考えることである。哲学は従来技術に目をむけなかったが言語も記憶技術であり技術の考察なくして人間を理解できないという。

 ・ 実在論的転回とは、思考から独立した存在を考えることである。思弁的実在論と新実在論がある。

 ガブリエルが唱えているのは後者の新実在論である。同じ実在論的転回でもガブリエルの新実在論は思弁的実在論と明らかにに異なる。

 「人生の意味とは、生きることにほかなりません。つまり、尽きることのない意味に取り組む続けるということです。
 幸いなことに、尽きることのない意味に参与することが、わたしたちには許されています。
 そのさい、わたしたちが必ずしも幸福に恵まれているわけではないことは、おのずからわかります。必要のない苦しみや不幸が存在することも事実です。
 しかし、そのようなことは、人間という存在を新たに考え直し、わたしたち自身を倫理的に向上させていくきっかけとすべきものなのだろうと思います。
 こうしたことを背景として大切なのは、わたしたちの存在論的状況を明らかにすることです。
 人間は、この現実の基本構造にたいする自らの考えに関しても、つねに変化し続けるからです。
 これに続くべき次の一歩は、すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること、その代わりに、現に見られる数多くの構造をもっとよく、もっと先入観なく、もっと創造的に理解するべく共同で取り組むことです。
 わたしたちは何を維持すべきで、何を変えるべきなのかを、いっそうよく判断できるようにならなければなりません。
 あらゆるものが存在しているからといって、あらゆるものがよいというわけにはならないからです。
 わたしたちは、皆でともに途方もない探検のさなかにいるーどこでもない場所からここに到達し、ともに無限なものへとさらに歩みを進めているさなかにいるのです。」
マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)
 
 思弁的実在論が人間と関わりのない思想を試みているのにたいし、ガブリエルの実在論はその対極にある。

 以上がガブリエル哲学の概略の立ち位置でありこれを念頭に彼の哲学が及ぼす影響について考えて見たい。

2018年9月17日月曜日

ガブリエルの新実在論 3

 自然主義者や無神論者は宇宙を存在する唯一の対象領域と見なし、すべてはこの中で自然法則にしたがって素粒子が移動したり、影響を与えあっているにすぎずそれ以外のことは存在しないと主張する。
 いわゆる唯物論的一元論である。ガブリエルは宇宙というひとつの超対象を要請するという点でこの論理は既に破綻しているという。なぜなら超対象とする世界像は存在しないのだから。

 「わたしたちには、世界を外から眺めることができませんし、したがって、わたしたちの作った世界像が妥当なものかどうかを問うこともできません。
 それは、まるですべての写真をー写真機それ自身の写真を含めてー撮ろうとするようなもので、およそ不可能です。
 写真機それ自身が写真に撮られて現像されたとしても、その写真に撮られた写真機は、当の写真を撮った写真機と完全に同一ではないからです。」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 ガブリエルはなぜ存在の対象を広げたのだろうか。そのわけは上に述べたように唯一の超対象が存在しないかわりに無数の対象が存在しているからであるという。


 「自然科学は、それ自身にとっての対象領域を研究しているのであって、正しいこともあれば間違うこともあります。(中略)
 これにたいして哲学は、古代ギリシアでも、古代インドや古代中国でも、そもそも人間とは何かということを当の人間が自問することから始まりました。
 哲学は、わたしたちが何であるのかを認識しようとするものです。
 つまり哲学は、自己認識の欲求に発しているのであって、世界を記述する公式から人間を抹消したいという欲求に発しているのではありません。」(前掲書)

 ガブリエルは科学優先の風潮にも懐疑的である。

 「科学的世界像がうまくいかないのは、科学それ自体のせいではありません。
 科学を神格化するような非科学的な考え方がよくないのです。
 こうなると科学は、同様に間違って理解された宗教に似た、疑わしいものになってしまいます。
 どのような科学も、世界それ自体を明らかにするわけではありません。(中略)
 世界は存在しないという洞察は、わたしたちが再び現実に近づくのを助け、わたしたちがほかならぬ人間であることを認識させてくれます。
 そして人間は、ともかく精神のなかを生きています。精神を無視して宇宙だけを考察すれば、いっさいの人間的な意味が消失してしまうのは自明なことです。」(前掲書)

 存在もしない唯一絶対の超対象。これに捉われている限り議論は空まわりする。われわれは多様な存在に眼を向けるべきである。

 「ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。
 この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。
 じっさい、がからこそ民主制は全体主義に対立するのです。
 すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない ー この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。
 民主制の基本思想としての万人の平等とは、物ごとにたいしてじつにさまざまな見方ができるという点でこそわたしたちは平等である、ということにほかなりません。
 わたしたちに思想の自由という権利があるのも、そのためにほかなりません。」(前掲書)

 これでガブリエルの意図が見てとれる。それは人間を排除した哲学から人間を取り戻すことおよび唯一絶対を信奉する全体主義から多様な民主主義を志向することにある。

 つぎにガブリエルの新実在論が人びと与える影響を考えるにあたりまず彼の哲学上の立ち位置がどの辺りにあるのか見てみよう。

2018年9月10日月曜日

ガブリエルの新実在論 2

 ガブリエルの新実在論は、物理的な対象だけでなく、思想、信念、感情、さらには妄想や空想までも存在すると考える。
 それまでの実在論から対象を広げたものになっている。
存在することとは、何らかの意味の場に現象することである。意味の場こそが存在論の基本であるといいこれについて例を挙げ説明している。

 「草原にいる一頭のサイを考えてみましょう。このサイは、たしかに存在しています。要するに草原に立っているわけです。
 このサイが草原に立っているという状態、このサイが草原という意味の場に属しているという状態、この状態こそ、当のサイが存在しているということにほかなりません。
 したがって、存在するとは、たんにごく一般的に世界のなかに現れていることではありません。
 世界をなすさまざまな領域のひとつのなかに現れていること、存在するとはそういうことです。」

 「何らかの意味の場に何かが現象することがありうるためには、その何かがそもそも何らかの意味の場に属していなければなりません。
 たとえば、水はガラス壜のなかにあることがありえますし、何らかの着想はわたしの世界観に属するものでありえます。同じように、ひとは国民として何らかの国家に所属していることがありえます。3という数は自然数に属しています。分子は宇宙の一部をなしています。
 このように何かが何らかの意味の場に属しているわけですが、その属し方こそが、その何かの現象する仕方にほかなりません。
 決定的なのは、何かの現象する仕方がいつでも同じではないということです。
 すべてが同じ仕方で現象するわけではありませんし、すべてが同じ仕方で何らかの意味の場に属するわけではありません。」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 存在は意味によって棲み分けがなされる。たとえばわたしの左手は自分に対して芸術作品として現象することもあるし、食事するための道具として現象することもあるとガブリエルは言う。

 「存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。
 わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。
 だとすると、次のような問題が生じないでしょうか。
意味の場もまた対象である。意味の場についても、真偽に関わりうる思考によって考えることができるからだ。
 そこに何かが現象していること、これが意味の場の性質だとすると、やはり存在は対象の性質であるということになるのではないか。
 だが、意味の場もやはり意味の場のなかに現象する(さもなければ存在するとは言えない)となると、これは矛盾しているのではないか、と。
 しかし、そのような矛盾は生じません。それはー逆説的にもーそもそも世界が存在しないからです。存在しているのは、無限に数多くの意味の場だけです。」(前掲書)

 意味の場の意味の場は存在するがすべてを包摂する意味の場は存在しえない。これがなぜ世界が存在しないかの答えである。
 ガブリエルは、存在の対象を広げたり、なぜ世界は存在しないのかと問いかけている。彼の意図するところは一体何か。

2018年9月3日月曜日

ガブリエルの新実在論 1

 古代ギリシャの若い政治家カリクレスがソクラテスと哲学談義して言う。
 「かくて、ものごとの実相は以上述べたとおりであるが、あなたもいいかげんにもう哲学から足を洗って、もっと人間の重大事に向かうならば、この真相がわかるようになるだろう。というのは、哲学は・・・人間をだめにしてしまうものだ。
 ほかでもない、せっかくすぐれた素質にめぐまれていたとしても、その年ごろをすぎてもなお哲学をやっていると、ひとかどの立派な人物となって名をあげるためにぜひ心得ておかねばならないことがらを何ひとつ知らぬ人間になりはてること必定だからだ。」

 「いい年をしてまだ哲学にうつつを抜かしていて、いっこうそこから足を洗わぬような男を見ると、そんな男は、ソクラテス、ぶんなぐってやらねばならないと思うのだ。」
              (プラトン『ゴルギアス』)


 若い時ならまだしもいい年して哲学に熱中するなどバカげている。処世術とか儲け術など役にたつことを考えるべきだということだろう。
 至極もっともなことで、これは古代ギリシャに限らず現代にも通用する言葉であろう。なぜなら人は若いとき、人生の意味など哲学的なことを考えるが年とともにそれらのことに無関心になるのだから。

 だが関心の有無にかかわらず哲学はいつの時代も社会の指針となってきた。哲学はわれわれがそれと気づかないところで大げさにいえばわれわれの運命を左右している。
 ドイツの新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは、哲学は常識などすべてのことを疑うことから始めるのが基本であると言い、自らそれを実践し新しい実在論を提唱した
 ガブリエルは新しい実在論を理解するために簡単な例を挙げ説明している。

 「アストリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、わたしたち(この話しをしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、同じヴェズーヴィオ山をみているとします。
 とすると、このシナリオに存在しているのは、ヴェズーヴィオ山、アストリートさんから(ソレントから)見られているヴェズーヴィオ山、わたしたち(ナポリから)見られているヴェズーヴィオ山ということになります。
 形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たったひとつだけです。すなわち、ヴェズーヴィオ山です。
 ヴェズーヴィオ山は一方でソレントから、他方でナポリから見られているが、これはまったくの偶然であって、ヴェズーヴィオ山にとっては(願わくは)ほとんどどうでもよいことである。ヴェズーヴィオ山に関心を寄せているのが誰かなど、ヴェズーヴィオ山それ自身にとっては問題ではない。これが形而上学です。
 これにたいして構築主義の想定によれば、このシナリオには三つの対象が存在しています。すなわち、アストリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、わたしにとってのヴェズーヴィオ山、あなたにとってのヴェズーヴィオ山です。
 これらの背後に、現実の対象など存在していない。あるいは、そのような対象をいずれ認識することは、わたしたちには期待できないというわけです。
 これにたいして新しい実在論の想定によれば、このシナリオには、少なくとも以下四つの対象が存在しています。
 1 ヴェズーヴィオ山
 2 ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)
 3 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)
 4 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 新しい実在論が想定するのは上の四つの対象が存在しているだけでなくそれと同じ権利でそれらの事実についてのわたしたちの思考も存在している。
 たとえばヴェズーヴィオ山を見るさい、感じていながら表にださないさまざまな感情、あるいは妄想さえ現実に存在している。

 ガルリエルによると古い実在論である形而上学は現実を観察者のいない世界として捉え、一方構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として捉えている。
 ところが世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない。これが新しい実在論であるという。
 以下ガブリエルの新実在論の意味するところとその及ぼす影響などについて順次考えてみたい。

2018年8月27日月曜日

判官びいき

 弱い立場の人への理屈抜きの同情は人類共通の感情であろう。わが国ではそれが判官びいきとなってしばしば集団心理を形成することがある。
 規律ある集団心理はややもすると規律を欠いた群集心理に変わることがあるからやっかいである。
 フランスの社会心理学者ル・ボンは群集心理には4つの法則があるという。
  ① 道徳性の低下 
  ② 暗示にかかりやすくなる 
  ③ 思考が単純になる 
  ④ 感情的な動揺が激しくなる

 今夏甲子園における高校野球では例年以上に判官びいきが見られた。
 秋田の公立高校・金足農業への応援がそれである。この応援は自然な感情であろうが、これが昂じて同校の対戦相手へのヤジとなった。
 対戦相手校からすれば何でわが校が敵役となりアウエーの気分で試合に望まなければならないのかと思うだろう。
 厳しい練習を積み重ねて正々堂々と難関を突破して甲子園出場を果たしたことに何ら変わりはない。ひいきをされない側にとって判官びいきは理不尽な仕打ちとなる。

 判官びいき、この言葉の由来から理非曲直を冷静に分析すればそれがいかに一方的であるかがわかる。

 九郎判官と呼ばれた源義経は異母兄の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれに馳せ参じ一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で勝利し平氏討伐の最大の功労者となった。
 この華々しい戦果にもかかわらずその後の一連の行動によって義経は頼朝の反感を買い最終的に追い詰められ東北の地・平泉で自刃した。
 この悲劇は兄弟間の恨みとか確執に起因するという説もあるがそれ以上に二人には決定的な違いがあった。
 義経は平氏を打倒してその座に平氏に替わり源氏が座ることを考えていた。
 一方頼朝は平氏を打倒してそれまでの公家中心から武家中心による政治を築こうと考えていた。
 義経が考えていたことを中国歴代王朝の交替である易姓革命にたとえれば、頼朝のそれは社会を根底から変える武家革命といえる。
 兄弟の目指すところは全く異なっていた。悲劇の淵源はこの同床異夢に根ざしていると考えられる。
 しかし史実とはおかまいなしに悲劇の主人公義経伝説は独り歩きし800年以上もの間日本中をかけめぐり今後も続くことだろう。
 華々しい功績にもかかわらず兄・頼朝によって滅ぼされたかわいそうな弟・九郎判官。
 人びとは兄を悪役に仕立て弟に同情した。判官びいきはこのような背景から生まれた。

 われわれはメディアにあおられてどうしても同情される側にだけ目がいきその反対側にいる人たちのことに想いが至らない。一方的でいいはずがない。

2018年8月20日月曜日

ボランティア

 先週山口県で行方不明になった2歳の男の子が3日ぶりに保護されたという明るいニュースが話題になった。
 保護したのは大分県の78歳ボランティア尾畠春夫さん。男の子を手渡したとき母親のうれしそうな顔をみて涙が出たという。
 尾畠さんはいう「何も求めないのが私は真のボランティアだと思うんですよ」と。
 中国の儒家 孟子は人にはみな他者の苦境を見過ごせない『忍びざるの心』があるという。
 ボランティアの原点はこの『忍びざるの心』にあるのではなかろうか。
 ところでこのニュースにコメントを求められた社会学者の古市憲寿氏は

 「日本中で60歳とか65歳で会社定年して、やる気あるけど時間をもてあましている人ってたくさんいるわけじゃないですか。
 そういう人にとっても、すごい一個のモデルになるというか、すごい素敵な生き方だなと思うんですけど。
 ただ、誰も彼もが尾畠さんになれるわけじゃないから、真似して逆に迷惑をかける人が多そうですよね。」(フジテレビ系『とくダネ!』)

 と言ってのけこの話題に水を差した。人の行動を素直に信用できない疑心暗鬼の世相を反映している。

 真似することは必ずしも悪くない。吉田兼好も言っている。
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」(徒然草85段)

 偽善は悪いことばかりではない善になることもある、というヤボなコメントをつけ加えておこう。

 たしかに尾畠さんのような強い信念を持った人はまれだろう。だからこそ尾畠さんの生き方が人びとに感動を与えたのだ。
 この救出劇は万事カネが幅を利かす世の中に一石を投じた。肝心なことは真似するかしないかではなく『人は何のために生きるか』であろう。

2018年8月13日月曜日

日本の核

 戦後73年間平和裡に過した今どき、日本も核を持つべきだと日本人が言ったら総スカンを食らうだろう。
 だがこれを外国人が言ったら反応はいささか異なるようだ。
 フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッド氏は雑誌記者のインタビューに応じ「日本は核を持つべきだ」と発言した。
 日本人はこれを冷静に受け止めているようだ。少なくともヒステリックな反応は見られない。
 エマニュエル・トッド氏は米国の核の傘はフィクションにすぎず存在しないと言う。

 「私の母国フランスは、核兵器を保有し、抑止論を突き詰めた国ですが、抑止論では、究極、核は純粋に個別的な自己防衛のためにある、ということになります。つまり、自国を保護する以外には用途がないのです。
 核は例外的な兵器で、これを使用する場合のリスクは極大です。ゆえに、核を自国防衛以外のために使うことはあり得ません。
 例えば、中国や北朝鮮に米国本土を核攻撃できる能力があるかぎりは、米国が、自国の核を使って日本を護ることは絶対にあり得ない。
 米国本土を狙う能力を相手が持っている場合には、残念ながらそのようにしかならないのです。
 フランスも、極大のリスクを伴う核を、例えばドイツのために使うことはあり得ません。」(『文藝春秋』2018年7月号)

 同氏は、日本が核保有しなければ東アジアはますます不安定化するので日本が核保有を検討しないということはあり得ないと思う、と言いその根拠は挙げている。

 「ヒロシマとナガサキの悲劇は、世界で米国だけが唯一の核保有国であった時に起こりました。
 核の不均衡は、それ自体、国際関係の不安定化を招くのです。このままいけば、東アジアにおいて、既存の核保有国である中国に加えて、北朝鮮までが核保有国になってしまう。これはあまりにおかしい。」(前掲書)

 日本は唯一の被爆国にして、憲法九条を持つ国だ、核を持たなければ核攻撃を受けることもない。
 これが核不保持の願望に近い論理であり、核に対する日本人ならではの特別な感情が込められている。
 だが、これは国際社会の論理からは乖離している。
 台風は甚大な被害をもたらすので憲法で『台風の日本上陸禁止』と明記すれば台風の被害を免れるというのと同じだ。ひとりよがりとはこのことだろう。

 それではエマニュエル・トッド氏がいうように日本は核を持つべきなのだろうか?
 日本は中国、北朝鮮の核の脅威にさらされている。同氏が指摘するように、アメリカの核の傘が機能しなければ東アジアの核の均衡が保たれていないことになるから、核を持つべきであろう。
 だが、日本の核武装は中国だけでなくアメリカをはじめ全世界が反対するだろう。
 日本が核武装するためには世界190か国が参加するNPT(核拡散防止条約)から脱退しなければならない。
 これは1933年日本が満州国に関するリットン調査団の報告書を無視し国際連盟を脱退した歴史を想起させる。当時日本は満州国を生命線だと言った。
 いま核を生命線といってNPTから脱退すれば日本は全世界から孤立するリスクがある。
 そのようなリスクを冒して核を保有することがはたして日本の利益になるか疑問である。
 ただエマニュエル・トッド氏の進言はこのようなリスクがなければ説得的であることに変わりはない。
 東アジアにおけるアメリカの覇権とプレゼンスが以前ほどではなくなりこの傾向は今後も進むだろう。
 そうすれば日本にとってリスクであったものがリスクでなくなることも想定されるー同盟国が日本の核保有に理解を示すなど。
 戦後73年が経過し若い世代の価値観は変わりそう遠くない将来日本の外交と安全保障政策が以前とは全く異なることが考えられる。
 数十年後日本が核を保有していることもそのうちの一つに数えられよう。

2018年8月6日月曜日

カントの哲学

 普段はそうでもないが時代の転換点には俄然注目されるものがある。哲学もそういうものの一つであろう。
 18世紀末から19世紀にかけて欧州は大きな転機を迎えていた。
 プロイセン王国の哲学者カントはそうした転換点でドイツ観念論の議論を惹起し起爆剤的役割を果たした。
 哲学門外漢にはカント哲学について詳しく語ることなどできない。ただ彼の業績のなかで二つのことが強く脳裏に残っている。

 その一つは認識論のコペルニクス的転回である。
 従来、われわれは物が存在するのを見て物があると認識するが、カントはわれわれが物が存在するのを見て物があると認識したからこそ物が存在するという。
 人間が対象を客観的に見てもそれは物自体を認識したことにはならず、認識はわれわれの主観に依拠するという。これは従来の形而上学的認識論からすれば180度の転回である。
 このカントの認識論はドイツ観念論をはじめその後の哲学界に大きな影響を及ぼしたといわれる。

 もう一つは永久平和論である。
 カントは善については結果よりも動機を重視した。人生の目的は人格の完成にあり国家も一つの人格である。
 すべての国家が人格を尊重しあい永久平和状態を目指す努力こそ道徳的であり善であると。
 カントの永久平和構想の思想が反映したものには第一次世界大戦後の国際連盟の設立がある。
 だが現実には善の動機を優先した彼の永久平和構想にもとづく国際連盟は機能せずナチスの台頭から第二次世界大戦へ突入した。泉下のカントはこれをどう批判するだろうか。

 21世紀のいまAI,バイオテクンロジー、グローバリズムそして核兵器による大規模戦争が事実上不可能となるなど時代は大きく展開している。
 いずれこれらの問題に対処する指針となる哲学の出番がくるに違いない。既に実在論について議論が高まるなどその兆候が現れている。

2018年7月30日月曜日

AI時代の格差問題 8

 汎用AIが開発されれば大量の失業者が街にあふれる。汎用AIは人間に代わって仕事するから人間は不要となる。
 そういう時代がいずれ訪れると予想する人が欧米を中心に多く、わが国にも少なからずいる。
 汎用AIが人の代替をするなど天地がひっくり返るような事件である。それがあたりまえのように語られしかもその時は約30年後だという。
 もしそうなれば政府は失業者救済および経済をまわすために有無を言わさずベーシックインカムを導入するだろう。
 生産は消費を前提としているが汎用AIに仕事を奪われた失業者は消費するための資力がないからである。
 このような時代が訪れれば国民は一握りの汎用AIを所有する資本家と大多数のベーシックインカムだけで生活する人の二極に分かれる。
 前者は強大な権力を握るが後者は消費するだけの存在と化す。
 このような大きな格差は埋めようがない。格差を緩和するはずのベーシックインカムも焼け石に水である。

 本当にこういう時代が訪れるのだろうか。改めて汎用AIについて考えてみたい。
 汎用AIとは、特定のものに限定しないであらゆるものに対して自律的に考え、学習し、判断して行動するAIである。
 シンギュラリティ仮説をとなえる未来学者レイ・カーツワイルは、AIが自らのプログラムを自分自身で改良するようになると指数関数的に進化を遂げある時点で人間の知能を超えるようになり2045年にはAIが人類の全知能を超える特異点を迎えると予言している。
 グーグルを始めとするグローバル企業は汎用AI開発に全力で取り組んでいるという。わが国にもシンギュラリティ仮説を信じている人が少なくはない。
 この仮説が成り立つには機械が生命体を超えることが前提である。
 素朴に考えてそんなことが可能だろうか。AIといってもしょせんは機械にすぎない。しかも人間がつくったプログラムによって作動している。
 他律的な機械がどうやって生命体である人間が持つ自律性を獲得できるのだろう。疑問は尽きない。

 「AIに関して、最大の問題点の一つは、『自律性』の概念である。自律ロボットといった言葉がマスコミを飾ることも少なくない。
 しかし、もしAIロボットが真に自律的に作動しているなら、その判断の結果については社会的な責任をとることができるはずである。
 このあたりを曖昧にしてはならない。正確にいうと、自律性をもつためには『自ら行動のルールを定めることができる』という前提がある。
 コンピュータに限らず、あらゆる機械は、その作動ルールを人間の設計者によって厳密に規定されているから、他律系に他ならない。
 したがってAIは機械である以上、正確には自律性をもたないのである。」
(西垣通著講談社選書メチェ『AI原論』)

 シンギュラリティ仮説を支持する人はなぜか欧米に多い。キリスト教文化にそのようなものを育む土壌があるのだろう。
 ユダヤの青年イエスは貧しい人のため危険をかえりみずユダヤ教の改革に身を投じて殉じた。
 イエス没後キリスト教はローマ帝国による長い間の弾圧を経て公認宗教となり紀元325年ニケーア公会議ではイエスの神性が決定した。
 そして21世紀の今も聖書に書いてあることはそのまま事実であると信じるキリスト教ファンダメンタリストは多い。 なかには高名な科学者もいる。彼らはイエスの神性を信じ彼が起こした奇跡についても当然のごとく信じている。

 「『奇跡なんて科学的に起こりえない』と反論する人に、ファンダメンタリストは答えていう。『自然法則なんていったところで、やはり神が作りたまいしものにすぎない。人間が水の上を歩いたとて、神が重力の法則を一時停止させたとすれば、少しもおかしくないではないか』」(小室直樹著徳間書店『日本人のための宗教原論』)

 日本人なら屁理屈と思うかもしれないが彼らは大真面目である。
 人々の心を深くとらえ動かすのは知的合理性だけでなく情念に働きかける物語である。

 「『キリスト教の推進力は感情的なものだった。キリスト教は、正統なる哲学をもってではなく、より強力な神話をもって、力の弱まった支配的神話を打ち倒したのである。
 概念よりも神話の方が、素早く、そしてより強烈に打撃を与えるのだ。
 人々を動かそうとするのなら、定理を示すのではなく物語を語るべきなのだ』 とドブレは述べている。
 神秘的な物語の筆頭は、すでに述べてきたように、十字架刑にかけられたイエスの受難と復活の物語に他ならない。
 しかしここで、21世紀の今日、新たな物語が出現していることに注目する必要がある。
 端的に言えば、トランス・ヒューマニズム、とくにシンギュラリティ仮説こそ、その一つと見なされるのだ。
 AIに通暁したフランスの現代哲学者ジャン=ガブリエル・ガナシアは、シンギュラリティ仮説を『現代のグノーシス神話』だと断じている。」
(西垣通著講談社選書メチェ『AI原論』)

 ガナシアが指摘するシンギユラリティ仮説とグノーシス神話の類似点のなかで最も注目すべきことは正確な論理ではなく物語によって人々を説得しようとしている点である。

 カルヴァンの予定説によれば救われる人とそうでない人は予め決まっている。
 この世の成功者は成功こそ救いが予定されている証に他ならないと考える。特にこの考えは自由の国アメリカではアメリカン・ドリームとして成就した。
 この考えに従えば貧しい人は救済を予定されていないことになる。
 貧しい人に手をさし伸べ虐げられた人を救うために生まれた宗教が金持ち、成功者のための宗教となってしまった。

 だが今やアメリカン・ドリームなど夢幻にすぎず成功者はごく一部に限られる。その他の人は何を信じ何に頼ればよいのか。

 「自分たちを救ってくれる『新たな神秘的物語』である。 そして、トランス・ヒューマニストが喧伝するシンギュラリティ仮説は、まさにそういう新たな神話として機能し始めているのである。
 『人間より賢いAIがすべてを決めてくれ、効率よく公平な正義をもたらしてくれる』のだから。
 シンギュラリティ仮説は表面上、論理実証的な科学論の装いをしているが、実はガナシアが批判するように、人々の情念にはたらきかける物語以外のものではないのだ。
 ガナシアは、巨大な予算をつぎこんで汎用AI実現の研究を進めているグローバルなハイテクIT企業に、国家にかわる世界支配の意図を読み取ろうとしている。
 それらの国際企業は、『シンギュラリティが到来し、情報技術は自律的に進歩して世界を支配する。がだそれは歴史的必然なのだ』と述べて自らの責任を回避しつつ、ひそかに政治的な支配をもくろんでいる ー そうガナシアは警告するのだ。」(前掲書)

 ガナシアはグローバルなハイテクIT企業に悲観的である。 キリスト教文明がヘレニズムと融合し近代文明を創り上げた一方虐げられた人を救うはずの宗教が富めるものを救っているように見えるのは確かだ。
 このようにシンギュラリティ仮説は数々の奇跡が語られる聖書と同じく神秘的物語でありこれに惑わされることはない。
 AI技術が進むにつれ特定目的の仕事は人からAIに移り、この恩恵に与れる人とそうでない人の間に格差は生ずる。
 ラッダイト運動が起きない限り時代とともにベーシックインカムの要請は高くなるはずである。これだけグローバル化した情報化社会ではラッダイト運動は有効な手段とはなり得ない。
 ベーシックインカムは、SFの汎用AI社会では焼け石に水であろうが、近未来のAI時代には勤労意欲と格差緩和をもたらす呼び水の役割を果たすであろう。
 ガイ・スタンディング教授はじめベーシックインカムに真摯に向きあっている研究者はこのように考えている。
 格差縮小のためベーシックインカムを導入するに躊躇する理由はない。消費税増税には山ほどあるが。

2018年7月23日月曜日

AI時代の格差問題 7

 わが国のベーシックインカムに対する注目度は欧米に比べて遅れているがこの制度を推奨する研究者はいる。
 井上智洋氏はその一人でベーシックインカムの優位性を説いている。

 「BI(ベーシックインカム)を社会保障制度の一種として見た場合、それは『普遍主義的社会保障』として位置づけられます。生活保護が『選別主義的社会保障』であるのとは対照的です。
 生活保護の諸々の問題点は、それが『選別主義的』であることから生じています。
 それに対し、BIは『普遍主義的』であるがゆえに、生活保護の問題点を克服することができます。
 BIの給付にあたっては、労働しているかどうか病気であるかどうかは問われません。
 金持ちであるか貧乏であるかも関係ありません。
 全国民があまねく受給するものだから取りこぼしが無く、誰も屈辱を味わうことがありません。
 また、労働しても受給額は減額されないので労働意欲を損ねにくいと考えられます。
 BIではまた、貧困の理由が問われることがありません。」(井上智洋著文春新書『人口知能と経済の未来』)

 財源は国全体として捉えれば問題はない。コストに関しては生活保護は労働コストがかかるがBIはほとんどかからないという。

 「まず、一人あたり月7万円の給付に必要な100兆円は実質的なコストではありません。
 というのも、お金は使ってもなくならないからです。私の使ったお金は、他の誰かの所有物となります。
 国が使ったお金も誰かの所有物になります。この世から消えてなくなるわけではありません。
 この場合、全国民の納めた100兆円が全国民に戻ってくるだけのことです。
 一国を一個人や一企業に置き換えて考えないように注意してください。
 一個人が使ったお金はその個人から消えてなくなりますが、国全体から消えてなくなるわけではありません。
 その点を踏まえないと、BIの持つ効率性を理解することができません。
 生活保護のような再分配の場合、選別のための行政コストが掛かります。これは実質的なコストであり、前述したとり、貧困者とそうでない者を選り分けるコストは馬鹿になりません。
 一国の経済にとって実質的なコストというのは、お金を使うことではなく労力を費やすことなのです。」(前掲書)

 ベーシックインカムは現金を一律に給付するため行政裁量の余地がない。
 自動振込みにすれば行政コストもかからない。
 富裕層、貧困層を問わず一律に支給するため不公平との指摘もあるがこれは税率によって調整することができる。税率調整は所得が高くなるほど税率を高くする。
 もっとも危惧されるのが財源の問題であるが、上のように国全体としては問題がなくかつわが国には事実上財政問題は存在しないのでこの制度施行に何ら支障はない筈である。(わが国に財政問題がないことはこの小論でも幾度か言及してきた)
 にもかかわらずわが国ではベーシックインカムの議論が一向に盛りあがらない。
 小池百合子都知事が立ち上げた『希望の党』はベーシックインカムを政策公約の一つに掲げたが注目されることもなかった。有権者はこの政策を奇抜で単なる人気取りと見立てまじめに受けとらなかったのだろう。

 なぜこういうことになるのか。その答えの一つは現代日本が抱える重篤な病にある。
 たとえば消費税増税である。デフレ下にもかかわらず、ここ20年間で3%→5%、5%→8%と2回増税された。
 その都度当然のごとくGDPの6割を占める消費が伸びなやみ景気は冷え込みGDPは停滞した。未だにデフレから脱却できず格差も拡大した。
 消費税増税のたびに景気が低迷しても与野党を問わず増税を支持するというこの不思議さ。
 背後に財務省がいることは心ある識者が指摘するところである。
 このような理不尽がまかり通っているのがわが国の消費税増税である。
 このような国情ではベーシックインカムについていくら行政コストが省けるとか財政問題はないと叫んだところでこれの実現は ”百年河清をまつ” がごとしであろう。
 根本原因は政策にあるのではなく社会的強者が政策を選択する権限を有し、その行使にあたって自分たちの都合を優先しているからである。
 明治維新は当時の列強に飲み込まれる危機感が原動力となって歴史的偉業が成し遂げられた。
 この時に匹敵する危機が訪れれば事態は変わるであろう。逆にこのような危機が訪れなければベーシックインカムについてまじめに議論されることもないであろう。
 危機はいつ訪れるか? そのときは汎用AIが開発され失業者が大量に街にあふれる時であると予想する研究者は多い

2018年7月16日月曜日

AI時代の格差問題 6

 わが国はバブル崩壊からデフレとなり20年もの長きにわたり未だそこから脱却できないでいる。
 デフレは経済的強者をさらに強くし弱者を一段と弱くする。当然の帰結としてわが国は格差社会になった。
 今からおよそ20年前、小渕内閣の諮問に対し経済戦略会議は【日本経済再生への戦略】と題して答申した。
 この答申の基本路線を歴代内閣も踏襲したためこれがその後の日本の針路を決定した。
 それゆえこの答申の内容を検証すれば自ずから格差縮小への道筋が見えてくるであろう。
 なお当時の諮問会議の中心メンバーの一人であった竹中平蔵氏はいまも内閣府の国家戦略特区民間議員として影響力を行使するなど現内閣も基本的に20年前の路線を踏襲している。
 同答申のなかで結果的に格差拡大を招くことになった象徴的な一節がある。

 「21世紀の日本経済が活力を取り戻すためには、過度に結果の平等を重視する日本型の社会システムを変革し、個々人が創意工夫やチャレンジ精神を最大限に発揮できるような【健全で創造的な競争社会】に再構築する必要がある。
 競争社会という言葉は、弱者切り捨てや厳しい生存競争をイメージしがちだが、むしろ結果としては社会全体をより豊かにする手段と解釈する必要がある。
 競争を恐れて互いに切磋琢磨することを忘れれば、社会全体が停滞し、弱者救済は不可能になる。
 社会全体が豊かさの恩恵に浴するためには、参入機会の平等が確保され、透明かつ適切なルールの下で個人や企業など民間の経済主体が新しいアイデアや独創的な商品・サービスの開発にしのぎを削る「創造性の競争」を促進する環境を作り上げることが重要である。
 これまでの日本社会にみられた【頑張っても、頑張らなくても、結果はそれほ ど変わらない】護送船団的な状況が続くならば、いわゆる【モラル・ハザード】(生活保 障があるために怠惰になったり、資源を浪費する行動)が社会全体に蔓延し、経済活力の停滞が続くことは避けられない。
 現在の日本経済の低迷の原因の一つはモラルハザードによるものと理解すべきである。 
 もしそうであるなら、日本人が本来持っている活力、意欲と革新能力を最大限に発揮 させるため、いまこそ過度な規制・保護をベースとした行き過ぎた平等社会に決別し、個々人の自己責任と自助努力をベースとし、民間の自由な発想と活動を喚起することこそが極めて重要である。
 しかし、懸命に努力したけれども不運にも競争に勝ち残れなかった人や事業に失敗し た人には、【敗者復活】の道が用意されなければならない。
 あるいは、ナショナル・ミニ マム(健康にして文化的な生活)をすべての人に保障することは、【健全で創造的な競争 社会】がうまく機能するための前提条件である。
 このようなセーフティ・ネットを充実 することなくして、競争原理のみを振りかざすことに対しては、決して多くの支持は得 られないであろう。
  経済戦略会議は、こうした観点から、アングロ・アメリカン・モデルでもヨーロピア ン・モデルでもない、日本独自の【第三の道】ともいうべき活力のある新しい日本社会 の構築を目指すべきであると考える。」
(平成11年2月26日経済戦略会議答申 日本経済再生への戦略第2章『健全で創造的な競争社会』の構築とセーフティ・ネットの整備)

 平等より、競争優先。競争によって社会全体が富めばトリクルダウン理論によって弱者も救済される。
 規制を撤廃し努力した人が報われる社会を実現する。
 自己責任を原則とするが不運にも競争から脱落した人には敗者復活とセ-フティ・ネットを用意する。
 このように競争力を強化し全体として繁栄を目指しながらも弱者を置き去りにしないという格調高い目標を掲げている。
 当時支配的であった新自由主義的発想である。掲げた目標は理想に近いが現実はこうならなかった。

・トリクルダウン理論は機能せず、弱者は放置された。
・規制緩和により参入障壁が撤廃されデフレが進行した。
・折からグローバル化の波をうけ従業員の賃金はが上がらず安いまま放置された。
・格差が拡大し階級化したため、努力した人が必ず報われる社会ではなくなった。
・生活保護を受けるに値する世帯全体のうち受給できている人は15%にすぎない。これでは健康で文化的な生活をうける権利が満たされているとはいい難くセーフティ・ネットは充実しなかった。

 バランスを欠き格差が拡大した社会は全体としても繁栄ぜず成長は頓挫した。およそこの答申が目指すところと逆の結果になった。

 なぜこういうことになったのか。様々な要因が考えられるが一つだけ確かなことがある。
 それは社会の弱い立場にある人びとの声が届かないで強者の論理が優先されたからである。現実の政策に社会的強者の意向は反映されたが社会的弱者のそれは反映されることが少なかった。
 格差縮小は社会的弱者をいかにして救済するかにかかっている。
 過去弱者救済はかけ声だけにおわった。社会的強者の論理がこれを押しつぶしてきたからである。
 これを避けるためには弱者を救済するための制度的な裏づけが必要である。それも行政による恣意的な裁量の余地のない制度的な裏づけである。
 これに関連しては消費税と生活保護を例にとれば分かりやすい。 
 日本の消費税は一律に課される。毎月の消費額が収入のごく一部にすぎない富裕層にとっては消費税率が10%になろうが20%になろうが痛痒を感じない。
 ところが毎月の消費額が収入の大部分を占める貧困層にとってはたとえ1%や2%の消費税率アップでも家計に大きな負担となる。
 ベーシックインカムは消費税と対極にあり上に挙げた理由が真逆になり格差を和らげるように働く。
 わが国の消費税に相当する欧州の付加価値税は高率だが贅沢品などが主で食料や日用品などは免除あるいは低率に抑えられているものが多い。
結果的に税全体に占める割合に大きな差はない。
 弱者に対しわが国の消費税は厳しく欧州の付加価値税はやさしく設計されている。
 生活保護については、これを適用するに当たって【資力調査】によって選別されるがこれには多額の行政コストがかかる。さらに選別にあたっては裁量の余地が生まれる。
 この結果不正受給者がいる一方で生活保護の受給額以下で放置されたままの人が現れる。
 ベーシックインカムは行政コストが殆んどかからず裁量の余地もない。無条件で現金を配るなど一見突飛に見えるがこのように救済弱者の要請に応える制度でもある。

2018年7月9日月曜日

AI時代の格差問題 5

 1970年代以降主要国の格差は拡大傾向にある。わが国の格差の度合いは主要国のなかで英米より小さく大陸欧州諸国より大きい。(下図)
 かって戦前の日本は、先進国のどの国よりも格差が大きい社会であった。ところが戦後高度成長期には一転して「一億総中流」といわれるほどどの国よりも格差が小さい社会となった。
 だがその後新自由主義の台頭とともに格差は再び拡大した。
 日本の格差は、戦前は一部富裕層、現在は一部貧困層がそれぞれ突出しているのがその特徴である。
 格差が社会に悪影響をおよぼすのは自明の理である。格差の主な原因は自然発生的に生じたものではなく社会的強者による人為的なものである。
 来るべき本格的AI時代にそなえるためにも格差を克服すべく必要な対策をとらなければならない。

 長い間日本の格差問題に取り組んでいる社会学者の橋本健二氏は、日本は「格差社会」などという生ぬるいものではなく今や「階級社会」としての性格を強めているという。
 同氏は、現代日本を、資本家階級、新中間階級、正規労働者、旧中間階級、アンダークラスの5つの階級に分類し、SSM調査データ(社会学者の研究グループが1955年から10年ごとに行う社会階層と社会移動全国調査)と2016年首都圏調査データ(橋本氏中心の研究グループによる調査)を分析してこのような結論に至った。

 「格差拡大はさまざまな弊害をもたらすがとりわけ深刻なことは、アンダークラスを中心とする厖大な数の貧困層を生み出すこと、社会的コストが増大すること、そして格差の固定化からさらに多くの社会的損失がうまれることである。
① アンダークラスと貧困層の問題
 アンダークラスと貧困層は生存権を保障されないばかりか、主に経済的理由から結婚して家族を形成する機会さえ得られない。
 こういう人権を十分に保障されないこと自体が問題である。
② 社会的コストの増大
 格差が大きい社会は人びとの連帯感を失くした病んだ社会となる。病んだ社会では犯罪が増加し安全が脅かされる。
 アンダークラスの人たちは税を払うことないばかりか逆にこの人たちのために要する社会保障費が増大する。
③ 格差の固定化と社会的損失
 格差が拡大すると固定化しやすくなる。格差が固定化すると一部の子どもたちが教育を受ける機会が奪われるという人権上の問題がある。
 さらに教育を受ける機会が奪われる子どもたちがいるということは、適切な教育さえ受ければ花開いたはずの多くの才能が、貧困のために埋もれていくということである。
 これは、莫大な人的資源の損失である。」
(橋本健二著講談社現代新書『新・日本の階級社会』から)

 弊害をもたらす格差は是正しなければならない。だがこれには大きな障害がありその最たるものは自己責任論である。 これには二つの問題があるという。

 「第一に、人が自己責任を問われるのは、自分に選択する余地があり、またその選択と結果の間に明確な因果関係がある場合に限られるべきだということである。」(前掲書)

 たとえば死別した多くの女性が非正規雇用の働き口しかなくアンダークラスに陥ったり、会社が倒産したため失業したなどはその典型で本人にとっては不可抗力で自己責任とはいい難い。
 自己責任論は格差社会の克服を妨げる強力なイデオロギーであり、社会的強者だけでなく貧困に陥った社会的弱者までもがこれに縛られ声を発しにくい状況になっていることが上の調査データから読み取れる。

 「第二に、こうした自己責任論は、貧困を生みやすい社会のしくみと、こうような社会のしくみを作り出し、また放置してきた人々を免罪しようとするものである。
 貧困を自己責任に帰すことによって、非正規雇用を拡大させ、低賃金の労働者を増加させてきた企業の責任、低賃金労働者の増大を防ぎ、貧困の増大を食い止めるための対策を怠ってきた政府の責任は不問に付されることになる。
 自己責任論は、本来は責任をとるべき人々を責任から解放し、これを責任のない人々に押しつけるものである。」(前掲書)

 ”格差を解消するには正規社員をなくしすべて非正規社員にすればいい” などという暴論の背景にはこのような責任のすり替えがある。
 問題の本筋は責任を転嫁することではなく主にアンダークラスと貧困層対策により格差をいかにして縮小するかである。日本型格差の特徴が貧困層の突出にあるからである。

2018年7月2日月曜日

AI時代の格差問題 4

 政府がすべての国民一人一人に無条件で一定の時期に一定の現金を生涯にわたって支給するというベーシックインカムがAI時代の有力な格差対策として議論されている。
 ベーシックインカムは格差を是正するように働くため本格的なAI時代に先駆けてすでに導入を試みている国がある。
 フィンランド、インド、オランダ、アメリカ、カナダ、イタリア、ケニア、ウガンダなどではすでに対象を限定したベーシックインカムの実験が行われている。
 ベーシックインカムにも当然のごとく立場の違いなどから賛否両論がある。多くの議論があるが重要なことは限られる。
 反対する人たちが最も心配するのは財源と勤労意欲の問題(何もしなくてもお金が貰えるので人びとが働かなくなるのではないか)である。
 賛成する人たちが熱心に推奨している根拠はこの制度が格差を是正し人びとを経済的制約から開放して自由にすることにあるという。
 それぞれについて検証してみよう。

1 財源の問題
 この制度は混乱をさけるために小額からスタートして順次様子をみながら増額するという方法が有力である。
 それにしても仮に生活のために必要最低限と思われる月7万円としても100兆円もの予算が必要との試算がある。政府にはそんな金額は捻出できないという。
 だがこれは他の予算は現状のままというのが議論の前提となっている。 
 税制、補助金、不労所得の見直しなど財源を捻出できるか否かは結局のところ政治判断の問題であろう。

2 勤労意欲
 ベーシックインカムによって勤労意欲はむしろ高まると推進派の代表的論客ロンドン大学のガイ・スタンディング教授は言う。

 「2016年6月にスイスでベーシックインカム導入の是非をめぐる国民投票が実施される前、ある世論調査で、もし給付金を受け取れるようになったら経済活動をやめるかと尋ねた。
 そのとき俎上に上がっていた給付額は、1人あたり月額2500スイスフラン。ほとんどの人が『快適』に生活できると感じる金額だ。
 この世論調査に対し、経済活動をやめると答えた人はわずか2%だった。【回答者の3人に1人は、ほかの人たちはやめるだろうと答えた】。
 半分以上の人は、ベーシックインカムの支給が始まれば、スキルを身につけるためのトレーニングを受けたいと答えた。
 独立して自分のビジネスを始めたいと答えた人も2割以上いた。
 40%は、ボランティア活動を始めたい、あるいは増やしたいと言い、53%は、家族と過ごす時間を増やすつもりだと述べた。
 ベーシックインカムは、人々が何もせずに怠惰に過ごすためのお金を配る制度ではなく、『やりたいこと』と『できること』をする自由を与えるための制度なのだ。」
(ガイ・スタンディング著池村千秋訳プレジデント社『ベーシック・インカムへの道』)

 この調査で興味深いのは、ベーシックインカムの支給が始まれば自分自身は経済活動は止めないがほかの人は止めるだろう回答していることである。みんなは怠け者だが自分は違うと思っているようだ。
 このことから勤労意欲減退説は思惑が優先し実態と乖離している可能性がある。

3 経済的制約からの開放
 ガイ・スタンディング教授はベーシックインカムは人びとから経済的不安を取り除き以下の現実的自由を与えるという。
・ 困難だったり、退屈だったり、薄給だったり、不快だったりする仕事に就かない自由
・ 経済的に困窮している状況では選べないような仕事に就く自由
・ 賃金が減ったり、不安定したりしても、いまの仕事を続ける自由
・ ハイリスク・ハイリターンの小規模ベンチャーを始める自由
・ 経済的事情で長時間の有給労働をせざるをえない場合には難しい、家族や友人のためのケアワークやコミュニティのボランティア活動に携わる自由
・ 創造的な活動や仕事に取り組む自由
・ 新しいスキルや技能を学ぶことに時間を費やすというリスクを負う自由
・ 官僚機構から干渉、監視、強制されない自由
・ 経済的な安定を欠く相手と交際し、その人と『家族』を築く自由
・ 愛情を感じられなくなったり、虐待されたりする相手との関係を終わらせる自由
・ 子どもを持つ自由
・ ときどき怠惰に過ごす自由

 お金の心配がなければこのような自由が得られる。お金の制約があるからこれらの自由を拘束されている。 
 これはあたかも現在の富裕層が謳歌しているような自由である。すべての人がこうなるとは思えないがベーシックインカムがこのような自由により近づく働きをすることは確かだろう。

 格差の原因が社会的強者による政治主導に由来するものであればこれの是正もまた政治主導でなされなければならない。
 ガイ・スタンディング教授は力説する。「よい社会は最も弱い人の立場から考えなければならない。ベーシックインカムが人びとを開放する価値は経済的価値よりも高い」(2018年ダボス会議)
 行過ぎた格差社会への警鐘でもある。
 次にわが国の現状と今後について考えてみたい。

2018年6月25日月曜日

AI時代の格差問題 3

 超富裕層は地球を脱出して理想の人工居住地に移住するが貧しい人たちは地球に取り残されたまま。SF映画「エリジウム」は遠い将来の出来事のように思えるが類似のことが既にこの地上で起きている。
 驚くことにアメリカでは富裕層が自分たちだけ合法的に脱出ー貧困層と離脱ーを試みている。
 メディアにも採りあげられたアメリカ南東部のジョージア州フルトン郡のサンディスプリングス市がその先駆けである。これに続く市も誕生し今後も増える傾向にあるという。
 その経緯はこうだ。アメリカ50州の下に郡という約3000の行政単位がある。郡の住民は郡の中に新たに市をつくる法案を州議会に提出することができる。州議会の承認が得られれば住民投票にかけ賛成多数で新しい市が誕生する。
 この制度を利用して富裕層は自分たちが住んでいる地区の独立を目指す。
 新しい市をつくる動機は税金の使途が不公平であるからと言う。
 一つの例として警察官の配置が貧困地域に偏っていて富裕層が住んでいる地域の治安が悪くなっていることをあげている。
 こういうことがまかり通るのもいかにも自由の国アメリカらしい。
 AI時代にはこの傾向はますます強くなるだろう。格差の拡大は不公平であるだけでなくトータルとして力を弱める。それゆえ格差拡大には歯止めをかけなければならない。
 それにはまず格差を生む根本的な原因を分析しなければならない。
 コロンビア大学のスティグリッツ教授は格差の原因について注目すべき見方をしている。

 「アメリカ国内の不平等は偶然の産物ではない。人為的に創り出されたものである。
 これを証明するのはたやすい。経済原則は万国共通なのに、現在のような不平等ーとりわけ上位1パーセントに集中する富の量ーは、アメリカ特有の ”偉業” だからだ。
 このとほうもない不平等は、希望を生み出すような道をたどることはなく、実際のところ、状況はさらに悪化していく可能性が高い。
 不平等を創り出してきた力には、自己増幅の機能がそなわっているのだ。不平等の源を理解しておけば、不平等解消のコストと利益をより良く理解できる。
 『レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方』の論題は、たとえ市場の力が不平等の形成に手を貸しているとしても、その市場の力を形成するのは政府の政策であるという点だ。
 いまの不平等の多くは、政府の作為もしくは不作為の結果と言っていい。
 政府の権力をもってすれば、上層から中下層へ金を移動させることも、その逆も可能なのである。」
 (ジョセフ・E・スティグリッツ著楡井浩一+峯村利哉訳徳間書店『世界の99%を貧困にする経済』)

 ”不平等を生む源は経済よりも政治にある” スティグリッツ教授はこう断言している。
 そしてこのことによって民主主義が危機にさらされていると言う。

 「アメリカをふくむ多くの国々で見られる現行の不平等は、抽象的な市場の力から自然に発生したものではなく、政治によって形成されて強化されたものである。
 国家経済のパイをどう配分するかをめぐって、政治という戦場では戦いが繰り広げられているが、勝利を収めてきたのは上位1パーセントの人々だ。
 本来、民主主義はこんなふうに機能するはずがない。1人1票の制度のもとでは、100パーセントの人々に配慮がなされるはずなのだ。
 現代の政治経済理論が予想するところによれば、1人1票の選挙から生み出される結果には、エリートではなく平均的市民の意見が反映される。
 もっと正確に言うと、明確な嗜好を持つ個人が自己利益にもとづいて投票する場合、民主的選挙の結果には ”中位” 投票者ーちょうど真ん中の投票者ーの意見が反映される。」(前掲書)

 だが現実は政治経済理論と大きく乖離している。

 「なぜ中流層の人々は、理論が予測するような政治的影響力を持てなかったのだろうか?
 そして、なぜアメリカの現行制度は、1人1票制ではなく、1ドル1票制のように見えるのだろうか?
 本書がこれまで述べてきたとおり、市場を形作っているのは政治である。政治が経済ゲームのルールを決め、上位1パーセントに有利な舞台がつくり出される。
 そして、このような現状の一因として挙げられるのは、政治ゲームのルールが上位1パーセントによって形成されていることだ。」(前掲書)

 政治が経済ゲームのルールを決めている。1人1票制ではなく、1ドル1票制であればそれは民主主義の死を意味する。
 格差の原因がこのようなルールによるものであれば対策もこれにそってなされなければならない。
 AI時代にふさわしい格差対策とは何か。すでに有力な対策案が俎上に上がり議論されている。

2018年6月18日月曜日

AI時代の格差問題 2

 2154年地球は人口爆発により生活環境が悪化した。超富裕層は地球を脱出し衛星軌道上に建造した人工居住地「エリジウム」に移住した。
 このようなストーリーのSF映画「エリジウム」は格差問題がテーマとなっている。
 たとえば難病の白血病も「エルジウム」では簡単に治せる。だがそれを享受できるのは「エルジウム」の市民権を持つ人だけ。しかし「エルジウム」市民権は固く閉ざされている。
 AIが進化すればこのSF映画も夢物語ではなくなるかもしれない。バラ色の夢ではなく悪夢として。

 AIが進化すればなぜこのような格差が生まれるのか。原因は究極の技術革新にある。
 技術革新は人類の歴史と共に進化してきた。蒸気機関、オートメーション、コンピュータそしていまIOT(Internet of Things)が現在進行形である。
 格差の原因は技術革新によってもたらされる雇用にある。
過去新しい技術が発明されるたびに失業した労働者たちが機械を打ち壊すラッダイト運動が発生した。
 だが機械を打ち壊したその失業者たちもやがて技術革新によって生まれた新しい仕事につくことができた。
 現在までの技術革新の歴史はこの繰り返しであった。ところが現在のIOT時代の先にある本格的なAI時代が到来すれば様相は一変するであろう。
 本格的なAI時代とは汎用AI時代である。将棋、囲碁、翻訳などある分野に特化したAIは既に開発されたものもあり今後もますます進むであろう。
 この特化型AIは従来の技術革新の延長線上にある。問題となるのは汎用AIである。汎用AIの開発が完了すればそれは次元の異なる技術革新となる。
 汎用AIは人と同等またはこれを超える能力を持ちかつ汎用AIが汎用AIを造るという増殖能力を持つ。
 こういう汎用AIを人がコントロールできるか否かは研究者によって見解が分かれる。だが雇用面から見れば人と同等以上の仕事をする汎用AIが殆んどの人の仕事を奪うであろうことは確かである。
 汎用AIに仕事を奪われた人はこの技術革新によって新しい仕事ができたとしても増殖された汎用AIがこれを担うため仕事がなくなる。この意味において汎用AIは従来と次元が異なる技術革新である。

 そうなればどのような社会となるか。殆んどの人は失業する。汎用AIが生産の殆んどを担うからである。
 ところで生産は消費する人がいなければ意味がない。しかし失業者は消費するために必要な所得がない。所得がないからこれを政府が給付するほかない。これは正義とか公正以前にAI時代の経済を回転させるために必要な制度である。AI時代のベーシックインカムの発想の原点がここにある。
 これで万事うまくいくかというとそうではないから厄介である。汎用AIで生産する資本家とベーシックインカムの給付をうける消費者の関係である。
 ここには想像を絶する格差が生じる。 資本家は汎用AI投資がもたらすその厖大な資力をもとに政治力を発揮し理想の生活を追求することができるであろうが政府から給付を受けるだけの消費者は生産物を消費するだけの資力しかなく政治力など発揮しようがない。まさに「エリジウム」の世界である。来るべきAI時代の悲観的なストーリーの一つである。