2018年9月24日月曜日

ガブリエルの新実在論 4

 ガブリエル哲学の立ち位置を知るために近代以降の西洋哲学の潮流を俯瞰してみよう。

 近代哲学は中世までのキリスト教的神中心の世界観から人間中心のそれへと移った。
 神から解き放たれたことにより人びとに自由がよみがえり社会も変革されていった。
 近代哲学は、まず「知は力なり」で知られるイギリスのフランシス・ベーコンの帰納的経験論とこれと相対する手法により「我思う、故に我あり」で有名なフランスのルネ・デカルトの演繹的合理論の二大潮流が形成された。

 1 18世紀にドイツのエマニュエル・カントは17世紀の経験論と合理論の二大潮流はともに認識が正しいことが前提になっているが人の認識はいつも正しいとは限らず、例えば人間は見たいものを見、見たくないものは見ようとしない習性があるなど、信頼性に乏しいと異を唱えこの二大潮流の哲学体系を統合した。
 カントの認識論はものがあるのを見て認識したからこそものがあるというそれまでの見方から180度転回した。いわゆるコペルニクス的転回である。
 カントの認識論を発展させたのがフリードリッヒ・ヘーゲルである。
 カントは個人の心のありように目をむけたがそれだけでは片手落ちである。
 ヘーゲルは人間を個人として捉えるのではなく社会や国家としてとらえた。
 世界の歴史は「絶対精神」によって導かれこれにより自由も実現される。
 彼はこれを弁証法によって理論付けカント以降のドイツ観念論を集大成した。

 2 19世紀末までの西洋哲学は意識を分析するのが主なテーマであったが20世紀以降は言語を分析することが主要なテーマとなった。いわゆる言語論的転回である
 20世紀にはドイツが発祥のマルクス主義、フランスにおける実存主義、英米での分析哲学が主な哲学の潮流となった。
 だが20世紀も後半になると分析哲学が勢力を保ったのに対しマルクス主義や実存主義が次第に勢力を失っていった。
 そのキッカケとなったのがポストモダン思想である。フランスの哲学者リオタールによるもので「大きな物語に対する不信」である。大きな物語とはたとえば共産主義とか資本主義などである。
 このポストモダン思想を言語論的転回とむすびつけたのがアメリカの哲学者ローティで、彼は言語によって世界が構築されるという言語構築主義と、異なる言語ゲームは共約不可能であり現実も違うのでその主張に優劣つけられないという相対主義を提唱した。
 文化や歴史が異なれば真理や善悪の基準も異なるというのがこの主張の骨子である。
 だが21世紀に入るとポストモダン思想もやがて退潮していった。

(以下岡本祐一朗著ダイアモンド社『いま世界の哲学者が考えていること』から)

 3 21世紀になって新たな潮流が生まれた。それまでの言語論的転回にかわって自然主義的転回、メディア・技術論的転回、実在論的転回の三大潮流である。

 ・ 自然主義的転回とは、心を認知科学、脳科学、生命科学などから自然科学的に捉え研究することである。

 ・ メディア・技術論的転回とは、コミュニケーションの土台となる媒体・技術から考えることである。哲学は従来技術に目をむけなかったが言語も記憶技術であり技術の考察なくして人間を理解できないという。

 ・ 実在論的転回とは、思考から独立した存在を考えることである。思弁的実在論と新実在論がある。

 ガブリエルが唱えているのは後者の新実在論である。同じ実在論的転回でもガブリエルの新実在論は思弁的実在論と明らかにに異なる。

 「人生の意味とは、生きることにほかなりません。つまり、尽きることのない意味に取り組む続けるということです。
 幸いなことに、尽きることのない意味に参与することが、わたしたちには許されています。
 そのさい、わたしたちが必ずしも幸福に恵まれているわけではないことは、おのずからわかります。必要のない苦しみや不幸が存在することも事実です。
 しかし、そのようなことは、人間という存在を新たに考え直し、わたしたち自身を倫理的に向上させていくきっかけとすべきものなのだろうと思います。
 こうしたことを背景として大切なのは、わたしたちの存在論的状況を明らかにすることです。
 人間は、この現実の基本構造にたいする自らの考えに関しても、つねに変化し続けるからです。
 これに続くべき次の一歩は、すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること、その代わりに、現に見られる数多くの構造をもっとよく、もっと先入観なく、もっと創造的に理解するべく共同で取り組むことです。
 わたしたちは何を維持すべきで、何を変えるべきなのかを、いっそうよく判断できるようにならなければなりません。
 あらゆるものが存在しているからといって、あらゆるものがよいというわけにはならないからです。
 わたしたちは、皆でともに途方もない探検のさなかにいるーどこでもない場所からここに到達し、ともに無限なものへとさらに歩みを進めているさなかにいるのです。」
マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)
 
 思弁的実在論が人間と関わりのない思想を試みているのにたいし、ガブリエルの実在論はその対極にある。

 以上がガブリエル哲学の概略の立ち位置でありこれを念頭に彼の哲学が及ぼす影響について考えて見たい。

2018年9月17日月曜日

ガブリエルの新実在論 3

 自然主義者や無神論者は宇宙を存在する唯一の対象領域と見なし、すべてはこの中で自然法則にしたがって素粒子が移動したり、影響を与えあっているにすぎずそれ以外のことは存在しないと主張する。
 いわゆる唯物論的一元論である。ガブリエルは宇宙というひとつの超対象を要請するという点でこの論理は既に破綻しているという。なぜなら超対象とする世界像は存在しないのだから。

 「わたしたちには、世界を外から眺めることができませんし、したがって、わたしたちの作った世界像が妥当なものかどうかを問うこともできません。
 それは、まるですべての写真をー写真機それ自身の写真を含めてー撮ろうとするようなもので、およそ不可能です。
 写真機それ自身が写真に撮られて現像されたとしても、その写真に撮られた写真機は、当の写真を撮った写真機と完全に同一ではないからです。」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 ガブリエルはなぜ存在の対象を広げたのだろうか。そのわけは上に述べたように唯一の超対象が存在しないかわりに無数の対象が存在しているからであるという。


 「自然科学は、それ自身にとっての対象領域を研究しているのであって、正しいこともあれば間違うこともあります。(中略)
 これにたいして哲学は、古代ギリシアでも、古代インドや古代中国でも、そもそも人間とは何かということを当の人間が自問することから始まりました。
 哲学は、わたしたちが何であるのかを認識しようとするものです。
 つまり哲学は、自己認識の欲求に発しているのであって、世界を記述する公式から人間を抹消したいという欲求に発しているのではありません。」(前掲書)

 ガブリエルは科学優先の風潮にも懐疑的である。

 「科学的世界像がうまくいかないのは、科学それ自体のせいではありません。
 科学を神格化するような非科学的な考え方がよくないのです。
 こうなると科学は、同様に間違って理解された宗教に似た、疑わしいものになってしまいます。
 どのような科学も、世界それ自体を明らかにするわけではありません。(中略)
 世界は存在しないという洞察は、わたしたちが再び現実に近づくのを助け、わたしたちがほかならぬ人間であることを認識させてくれます。
 そして人間は、ともかく精神のなかを生きています。精神を無視して宇宙だけを考察すれば、いっさいの人間的な意味が消失してしまうのは自明なことです。」(前掲書)

 存在もしない唯一絶対の超対象。これに捉われている限り議論は空まわりする。われわれは多様な存在に眼を向けるべきである。

 「ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている。
 この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。
 じっさい、がからこそ民主制は全体主義に対立するのです。
 すべてを包摂する自己完結した真理など存在せず、むしろ、さまざまな見方のあいだを取り持つマネージメントだけが存在するのであって、そのような見方のマネージメントに誰もが政治的に加わらざるをえない ー この事実を認めるところにこそ、民主制はあるからです。
 民主制の基本思想としての万人の平等とは、物ごとにたいしてじつにさまざまな見方ができるという点でこそわたしたちは平等である、ということにほかなりません。
 わたしたちに思想の自由という権利があるのも、そのためにほかなりません。」(前掲書)

 これでガブリエルの意図が見てとれる。それは人間を排除した哲学から人間を取り戻すことおよび唯一絶対を信奉する全体主義から多様な民主主義を志向することにある。

 つぎにガブリエルの新実在論が人びと与える影響を考えるにあたりまず彼の哲学上の立ち位置がどの辺りにあるのか見てみよう。

2018年9月10日月曜日

ガブリエルの新実在論 2

 ガブリエルの新実在論は、物理的な対象だけでなく、思想、信念、感情、さらには妄想や空想までも存在すると考える。
 それまでの実在論から対象を広げたものになっている。
存在することとは、何らかの意味の場に現象することである。意味の場こそが存在論の基本であるといいこれについて例を挙げ説明している。

 「草原にいる一頭のサイを考えてみましょう。このサイは、たしかに存在しています。要するに草原に立っているわけです。
 このサイが草原に立っているという状態、このサイが草原という意味の場に属しているという状態、この状態こそ、当のサイが存在しているということにほかなりません。
 したがって、存在するとは、たんにごく一般的に世界のなかに現れていることではありません。
 世界をなすさまざまな領域のひとつのなかに現れていること、存在するとはそういうことです。」

 「何らかの意味の場に何かが現象することがありうるためには、その何かがそもそも何らかの意味の場に属していなければなりません。
 たとえば、水はガラス壜のなかにあることがありえますし、何らかの着想はわたしの世界観に属するものでありえます。同じように、ひとは国民として何らかの国家に所属していることがありえます。3という数は自然数に属しています。分子は宇宙の一部をなしています。
 このように何かが何らかの意味の場に属しているわけですが、その属し方こそが、その何かの現象する仕方にほかなりません。
 決定的なのは、何かの現象する仕方がいつでも同じではないということです。
 すべてが同じ仕方で現象するわけではありませんし、すべてが同じ仕方で何らかの意味の場に属するわけではありません。」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 存在は意味によって棲み分けがなされる。たとえばわたしの左手は自分に対して芸術作品として現象することもあるし、食事するための道具として現象することもあるとガブリエルは言う。

 「存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。
 わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。
 だとすると、次のような問題が生じないでしょうか。
意味の場もまた対象である。意味の場についても、真偽に関わりうる思考によって考えることができるからだ。
 そこに何かが現象していること、これが意味の場の性質だとすると、やはり存在は対象の性質であるということになるのではないか。
 だが、意味の場もやはり意味の場のなかに現象する(さもなければ存在するとは言えない)となると、これは矛盾しているのではないか、と。
 しかし、そのような矛盾は生じません。それはー逆説的にもーそもそも世界が存在しないからです。存在しているのは、無限に数多くの意味の場だけです。」(前掲書)

 意味の場の意味の場は存在するがすべてを包摂する意味の場は存在しえない。これがなぜ世界が存在しないかの答えである。
 ガブリエルは、存在の対象を広げたり、なぜ世界は存在しないのかと問いかけている。彼の意図するところは一体何か。

2018年9月3日月曜日

ガブリエルの新実在論 1

 古代ギリシャの若い政治家カリクレスがソクラテスと哲学談義して言う。
 「かくて、ものごとの実相は以上述べたとおりであるが、あなたもいいかげんにもう哲学から足を洗って、もっと人間の重大事に向かうならば、この真相がわかるようになるだろう。というのは、哲学は・・・人間をだめにしてしまうものだ。
 ほかでもない、せっかくすぐれた素質にめぐまれていたとしても、その年ごろをすぎてもなお哲学をやっていると、ひとかどの立派な人物となって名をあげるためにぜひ心得ておかねばならないことがらを何ひとつ知らぬ人間になりはてること必定だからだ。」

 「いい年をしてまだ哲学にうつつを抜かしていて、いっこうそこから足を洗わぬような男を見ると、そんな男は、ソクラテス、ぶんなぐってやらねばならないと思うのだ。」
              (プラトン『ゴルギアス』)


 若い時ならまだしもいい年して哲学に熱中するなどバカげている。処世術とか儲け術など役にたつことを考えるべきだということだろう。
 至極もっともなことで、これは古代ギリシャに限らず現代にも通用する言葉であろう。なぜなら人は若いとき、人生の意味など哲学的なことを考えるが年とともにそれらのことに無関心になるのだから。

 だが関心の有無にかかわらず哲学はいつの時代も社会の指針となってきた。哲学はわれわれがそれと気づかないところで大げさにいえばわれわれの運命を左右している。
 ドイツの新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは、哲学は常識などすべてのことを疑うことから始めるのが基本であると言い、自らそれを実践し新しい実在論を提唱した
 ガブリエルは新しい実在論を理解するために簡単な例を挙げ説明している。

 「アストリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、わたしたち(この話しをしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、同じヴェズーヴィオ山をみているとします。
 とすると、このシナリオに存在しているのは、ヴェズーヴィオ山、アストリートさんから(ソレントから)見られているヴェズーヴィオ山、わたしたち(ナポリから)見られているヴェズーヴィオ山ということになります。
 形而上学の主張によれば、このシナリオに存在している現実の対象は、たったひとつだけです。すなわち、ヴェズーヴィオ山です。
 ヴェズーヴィオ山は一方でソレントから、他方でナポリから見られているが、これはまったくの偶然であって、ヴェズーヴィオ山にとっては(願わくは)ほとんどどうでもよいことである。ヴェズーヴィオ山に関心を寄せているのが誰かなど、ヴェズーヴィオ山それ自身にとっては問題ではない。これが形而上学です。
 これにたいして構築主義の想定によれば、このシナリオには三つの対象が存在しています。すなわち、アストリートさんにとってのヴェズーヴィオ山、わたしにとってのヴェズーヴィオ山、あなたにとってのヴェズーヴィオ山です。
 これらの背後に、現実の対象など存在していない。あるいは、そのような対象をいずれ認識することは、わたしたちには期待できないというわけです。
 これにたいして新しい実在論の想定によれば、このシナリオには、少なくとも以下四つの対象が存在しています。
 1 ヴェズーヴィオ山
 2 ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)
 3 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)
 4 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」
(マルクス・ガブリエル著清水一浩訳講談社『なぜ世界は存在しないのか』)

 新しい実在論が想定するのは上の四つの対象が存在しているだけでなくそれと同じ権利でそれらの事実についてのわたしたちの思考も存在している。
 たとえばヴェズーヴィオ山を見るさい、感じていながら表にださないさまざまな感情、あるいは妄想さえ現実に存在している。

 ガルリエルによると古い実在論である形而上学は現実を観察者のいない世界として捉え、一方構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として捉えている。
 ところが世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない。これが新しい実在論であるという。
 以下ガブリエルの新実在論の意味するところとその及ぼす影響などについて順次考えてみたい。